S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第5話: 神殿崩壊の序曲

第1アーク · 4,650文字 · draft

——朝、大神殿から聖女が消えた。

扉を開けた瞬間、空気が軽すぎると感じた。

聖女の部屋は、いつも甘い香と薬草の匂いが混じり、窓は二重に閉じられ、祈りのための静けさが張り詰めている。
それが神殿の秩序であり、私が作った“正しい形”でございました。

なのに今朝の空気は、ただの空気だった。

寝台の上に、人影がない。
枕は整い、シーツは乱れていない。人が起き上がった気配すら薄い。

私は一歩、部屋に入る。
足音が、やけに大きく響いた。

「……」

喉の奥で、言葉が固まった。
名を呼ぶ必要はない。あれは“聖女”であり、役割であり、神殿と王国の要でございます。
だから――名ではなく、機能として捉えるべきだ。

そう自分に言い聞かせた瞬間、背筋に冷たい汗が浮いた。

聖女がいない。

それは、神殿の中心が空洞になったという意味だ。
祈りの言葉では埋められない空洞だ。

「マティルダ」

廊下へ向けて声を出す。平静な声。いつも通りの音量。いつも通りの抑揚。
私が乱れれば、下はもっと乱れる。

すぐに、硬い足音が近づき、侍女長が姿を現した。
背筋の伸びた女でございます。管理が生きがいで、管理こそが信仰に近い。

「大神官様。朝の支度は――」

彼女の視線が寝台へ滑り、そこで止まった。
瞬きが一度、二度。喉が鳴る。

「……聖女様が……いない」

その言葉は祈りではなく、報告だった。
管理対象が消えた、と告げる声。

「昨夜の見張りは」

「交代は規定通りに。鍵は――鍵は、私が管理しております。窓も、封印も……」

封印。
私は部屋の隅、祈祷具が置かれた台へ視線をやった。
護符は破れていない。燭台は燃え尽きているだけ。異物の痕跡もない。

理屈が合わない。
しかし現実は、ここにある。

「……神殿内の捜索を。まずは外部への連絡を遮断しなさい」

命令を口にした瞬間、胸の奥が焼ける。
外部へ漏れれば終わりだ。
貴族の“治癒依頼”が止まる。王都の衛生が崩れる。民心が揺れる。王太子殿下の権威が――

「すぐに」

私は言葉を重ねる。落ち着け。今は“指示”だ。

マティルダが頷きかけて、ふと唇を噛んだ。

「……あの娘は、どこへ」

呼び方が、自然にそうなっていることに、彼女自身も気づかなかっただろう。
聖女を“聖女様”と呼ぶのは儀礼だ。だが本心では、あれは人ではなく、管理すべき資産でしかない。

――結局、誰も名など必要としていない。

私も。

胸の奥が、嫌な音を立てた。

「祈りの間へ。治癒が始まる時刻でございます」

それだけ言い、私は踵を返した。
その瞬間に、遠くから聞こえた。

叫び声。
怒号。
泣き声。

神殿が、朝から鳴いている。


祈りの間の扉を開けると、臭気が押し寄せた。

血の匂い、膿の匂い、汗の匂い。消毒の薬草は、とうに負けている。
担架が壁沿いに並び、床に座り込む者がいて、柱にもたれて呻く者がいて、母親の腕の中で熱に浮かされる子どもがいる。

本来なら、聖女の光が一度流れれば、ここは“奇跡の場”になるはずだった。
傷は塞がり、熱は引き、呻きは感謝の祈りへ変わる。

――本来なら。

神官たちが、祭壇の前で祈っている。
汗を流し、声を枯らし、手を震わせて。

しかし、光は生まれない。
暖かな翡翠色も、眩い白も、どれも。
聖水の器はただの水で、聖布はただの布。祈りはただの音。

「なぜだ……!」

若い神官が叫んだ。祭壇を叩き、指を痛めても気づかない。

「いつもは……いつもは、聖女様が……!」

患者の一人が吐き捨てるように言った。
恨みだ。誰に向けた恨みか。神か。神官か。あるいは――消えた聖女か。

私は、祭壇へ向かう足を止めない。
平静に歩き、平静に壇上へ上がる。上に立つ者は、嵐の中でも揺れてはならない。

「静粛に」

低い声で言う。
一瞬、空気が止まる。

止まるだけで、すぐにまた崩れる。

「大神官様! 治癒が――治癒が出ません!」

「病棟が溢れます! もう、廊下にも寝かせられません!」

「貴族方の使者が外で――『今すぐ奇跡を』と……!」

言葉が刺さる。
奇跡が商品になっている世界で、供給が止まった。
神殿が売ってきたのは信仰だけではない。治癒という確実な成果だ。

成果のない神殿は、ただの石の箱でございます。

患者の呻きが大きくなる。
そのうちの一人が、床に這い、私の靴先へ縋りついた。

「大神官様……! 助けて……! 息子が……!」

本気の目だった。
祈りではなく、必死の目。人間の目。

私は、その手を見下ろした。
爪の間に血。手首の腫れ。熱の匂い。
この者を救う光は――ここにはない。

救えない現実を、私は表情に出さない。

「治癒は必ず再開いたします」

慰めではない。宣言だ。約束だ。脅迫だ。
再開しなければ、私は終わる。神殿が終わる。王国が終わる。

床の男が、涙で顔を濡らしながら笑いかけようとした。
――信じた。信じさせてしまった。

その時、廊下側で更に大きな騒ぎが起こった。

「誰か! ここで倒れた!」

「熱が……呼吸が止まりそうだ!」

「聖女様はどこだ!」

誰かが叫ぶ。誰も答えられない。
答えは一つだ。いない。

その言葉を、誰も言わない。
言った瞬間に、世界が割れるからだ。

マティルダが、青い顔で駆け込んできた。
髪は乱れ、手袋を片方なくしていた。規律の女が、規律を失っている。

「大神官様……神殿内、全棟……おりません。侍女も、護衛も、誰も……」

消えた、という報告だった。
管理の網の目から、抜け落ちた。

私は、笑いそうになった。
あれだけ縛り、あれだけ教え、あれだけ囲い込んで――結局、逃げる穴は一つで足りた。

ざまぁ、という言葉が喉の奥に浮かぶ。
だがそれは私の言葉ではない。今、ここで漏らすべき言葉ではない。

「門を閉じなさい」

私は冷静に命じる。

「王都の各門。通行証の再確認。馬車の検問を強化。巡回騎士に伝令を。今すぐ」

マティルダが目を見開く。
彼女は気づいたのだ。聖女の不在が、神殿の問題ではなく、都市の問題になることに。

「……追手を?」

「当然でございます」

私は息を吸う。香の匂いが薄い。ここはもう奇跡の場ではない。
それでも私は大神官として、言わなければならない。

「すぐに連れ戻せ!」

名を呼ばずに、そう言った。
呼べないのではない。呼ぶ必要がないのだ。
必要なのは、機能の回収。

「聖女を」

その一言が、神官たちの背中に火を入れた。
火は、信仰ではなく恐怖から生まれている。

誰かが走り出す。
誰かが泣き出す。
誰かが患者を押しのける。

神殿は崩れていく。
私が築いた秩序が、私の足元から崩れていく。

――あの娘の不在ひとつで。


追手の手配を終えた頃には、神殿の空は昼の色に変わっていた。
しかし中の空気は夜のように重い。

神殿の外にまで、患者の列が伸び始めている。
治癒を求める者は増える一方で、治癒は供給されない。
均衡が崩れた社会は、腐敗のように早い。

私は私室へ戻り、机の上の報告書を一瞥した。
数字の列。病棟の収容数。薬草の在庫。貴族からの要請。

どれも、聖女がいることを前提に組まれている。
前提が崩れた瞬間に、紙の城は崩壊する。

マティルダが扉の前で立ち尽くしていた。
彼女は今も、あの部屋が空であることを受け入れられていない顔だ。

「侍女長」

私が呼ぶと、彼女は反射的に背筋を伸ばした。
秩序を失ってなお、反射は残る。

「申し訳ございません。私の管理が……」

謝罪は、責任の所在を作るための儀式でございます。
責任を作れば、処罰で終わらせられる。
終わらせてはいけない。今は、回収だ。

「責任の話ではありません」

私は冷たく言う。

「王太子殿下へ報告します。あなたは神殿内をまとめなさい。患者を減らすのではなく、暴動を防ぐのです」

マティルダが唇を震わせた。

「……殿下に知られれば、あの娘は……」

最後まで、名は出ない。
彼女の中でも、名は“不要”なのだ。

「殿下は理解されます」

理解――損失を理解する、の意味で。

私は外套を羽織り、王城へ向かう準備をした。
神殿の権威だけでは、この混乱は抑えきれない。
政治の力が必要だ。

そして政治は、常に代償を求める。


王城の執務室は静かだった。
静かすぎるほど整えられている。音が吸われ、匂いが消され、感情が存在しない空間。

王太子セドリック・レイ・ガルディアは、机の向こうで書類に目を通していた。
私が入っても顔を上げない。

「大神官。報告は簡潔に」

声は穏やかで、冷たい。
怒りでもなく、驚きでもない。既に計算が始まっている声。

私は一礼する。

「聖女が、大神殿から消えました」

言い切った瞬間、胸の奥が痛んだ。
その痛みもまた、個人のものではない。制度が軋む音でございます。

セドリックは、ペンを置いた。
ようやく目を上げ、私を見る。
瞳の奥は澄んでいる。澄みすぎて、何も映さない。

「治癒は」

「停止しております。神官の祈りでは代替できません」

「……当然だ。神殿は“あれ”の出力に依存して最適化してきた」

“あれ”。
呼び方が、最後までそうだった。
国の宝でありながら、人として扱われない。
私も同じ。セドリックも同じ。神殿も同じ。

「追手は?」

「すでに放っております。王都の門も封鎖を――」

セドリックは指を軽く鳴らした。
侍従が無言で近づき、別の書類を置いて去る。

「門の封鎖は許可する。ただし噂の制御が先だ」

彼は書類に視線を落としたまま言う。

「『聖女が消えた』は民に毒だ。暴動が起きる。疫病が広がる。貴族が騒ぐ。隣国が嗅ぎつける」

淡々と、因果関係が並べられる。
人の命ではなく、盤面の崩れを数える声。

「……では、どう発表を」

セドリックは、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑みの形だが、温度がない。

「国の宝が消えた」

その一言で、空気が決まる。
人ではない。宝だ。損失だ。回収対象だ。

「発表は『聖女は神託により静養と巡礼に出た』。治癒の停滞は『大規模祈祷の準備』だ」

嘘が、まるで行政手続きのように整えられていく。

「回収できなかった場合は?」

私が問うと、セドリックは一瞬も迷わない。

「その場合は、代替を用意する。神殿は“次”を育てていなかったのか?」

責める口調ではない。
純粋な確認。冷徹な照合。

私は喉が乾くのを感じた。
育てていない。育てる必要がないと思っていた。
一輪の花を使い潰し、次の花を探すだけでよいと。

「……現状、即時の代替は困難でございます」

「なら取り戻すしかない」

セドリックは結論だけを落とす。
そして、ようやくペンを置いた。

「護衛騎士の出自は把握しているか」

「……騎士団の登録では、流浪の剣士に拾われた孤児、とだけ。出身地の記載はございません」

「記録すらない男に、聖女を預けていたわけだ」

刺だった。返す言葉がない。
確かに、レオン・アッシュフォードの経歴は騎士団入団以降しかなかった。出自も家名も持たぬ男——それゆえに忠実だと、私は判断していた。
その判断ごと、裏切られた。

「足取りを追え。騎士団時代の交友、任務の記録、立ち寄った土地——すべてだ」

セドリックの声が、再び事務に戻る。

「大神官。君の仕事は信仰ではない。供給だ。治癒という供給を、止めるな」

供給。
その言葉が、私の胸に針のように刺さった。

「はい」

返事は、敬虔でも忠誠でもない。
ただの制度の歯車としての返答だった。

私は再び一礼し、執務室を出る。
背中に、王太子の視線はもうない。

廊下に出ると、城の窓から冬の光が差していた。
その光は冷たく、どこまでも公平で、誰も救わない。

神殿に戻れば、患者が溢れている。
祈りの言葉が尽き、秩序が尽き、神官たちの顔色が尽きる。

そして私は――名を呼ばれない聖女を、名を呼ばずに連れ戻そうとしている。

それが、この国の“正しさ”でございました。

——次話「名前で呼んで」――次の一手が、運命を動かす。

文字数: 4,650