S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第6話: 名前で呼んで

第1アーク · 3,336文字 · draft

——エルザと村を散歩する凛。

戸を開けた瞬間、外の空気が頬に触れた。

冷たい、というより、澄んでいる。
肺の奥まで入ってきて、胸の痛みをいったん洗っていくみたいだった。

リンデン村の朝は、音が近い。
鶏が鳴いて、桶の水が揺れて、誰かが薪を割る乾いた音がする。
遠くで子どもが笑って、犬が短く吠える。

大神殿(だいしんでん)の鐘の音は、ここにはない。
でも私は、無意識に耳の奥を探してしまう。
来ないはずの号令を。

「散歩、行くかい?」

エルザさんが、外套を私の肩にかけながら言った。
毛織りの匂い。少しだけ煙の匂い。パンの香ばしさの残り香。
全部、生活の匂いだった。

「……私、外に出ても……」

“いいんですか”と言いそうになって、飲み込む。
許可を求める癖は、舌の根に染みついている。

エルザさんは、私の顔を覗き込み、いつものように軽く笑った。

「いいに決まってるさね。ここは神殿じゃない。凛ちゃんは、歩きたいなら歩く。疲れたなら戻る。それだけ」

“凛ちゃん”。
その呼び方が、胸の奥に小さな火を灯す。
優しく呼ばれると、熱くなって、怖くなる。
熱は、いつか奪われるものだと思っているから。

私は頷いて、エルザさんの隣へ並んだ。
家の前の道は土で、昨夜の霜がまだ白く残っている。
踏むと、しゃり、と小さな音がした。

道の脇には、低い木柵。
その向こうは畑で、黒い土が朝日に光っている。
土の匂いは濃い。湿っていて、生き物の匂いがする。
少しだけ、糞の匂いも混じっている。
神殿の消毒と香の匂いとは、正反対の匂いだ。
でも、嫌じゃなかった。
嫌じゃないことに、驚いた。

「エルザさん、おはよう」

畑の向こうから声が飛んだ。
鍬を肩にかけた男の人が、手を振っている。
日に焼けた頬。笑うと目尻が深くなる。

「おはようさね、ハンス。今朝は畑の土がいい顔してるね」

エルザさんが返す。挨拶が、歌みたいに自然だ。
神殿の挨拶は、型があった。順番があった。立ち位置があった。
ここは、息の出入りと同じに、言葉が出ていく。

男の人の視線が、私に止まった。
悪意のない、ただの好奇心。
それが分かっているのに、心臓が跳ねる。

「その子、エルザさんの家に泊まってる子かい?」

泊まってる。
“匿われている”ではなく、“泊まってる”。
その言い方が、胸の奥をくすぐった。

エルザさんは、私の背中をぽん、と軽く叩いた。

「そうだよ。凛ちゃんっていうんだよ」

(りん)ちゃん。

私の中で、その二音が鈴みたいに鳴った。
音が、転がって、落ちて、胸の底に触れる。

「凛ちゃん、か」

男の人が笑った。
その笑い方は、治癒の光を見る人たちの顔と違う。
期待と欲の混じった顔じゃない。
ただ、初めて会った子にする顔だった。

「よろしくね、凛ちゃん。困ったことがあったら言いな。村のこと、分からないだろ」

“凛ちゃん”が、もう一度。
今度は私に向かって、真っすぐ飛んできた。

喉が、きゅ、と細くなる。

私は口を開こうとして、言葉が出てこない。
出てくるのはいつもの台詞ばかりだ。
大丈夫です。すみません。ありがとうございます。
それしか持っていないみたいに。

でも今、ここで求められているのは、祈りでも報告でもなくて——挨拶だ。
名前を返すための、挨拶。

「……よ、よろしく……」

声が震えた。
それだけなのに、目の奥が熱くなる。

どうして。
たったそれだけなのに。

今まで、何百回も「聖女様」と呼ばれた。
何千回も、役割として呼ばれた。
呼ばれるたびに、私は“私じゃないもの”になっていった。

“聖女様”は、倒れても代わりを探される。
“聖女様”は、笑っていなくてもいい。
“聖女様”は、泣いたらいけない。

でも今、この人は——私を、私の名前で呼んだ。
機能じゃなく、人として。

「……あれ?」

頬に、冷たいものが落ちた。
触れた指先が濡れて、私はそこでやっと自分が泣いていると気づく。

慌てて拭こうとして、逆に涙が溢れた。
止め方を忘れてしまったみたいに。

「ご、ごめんなさい……」

謝るのは違う、と頭のどこかで分かっているのに、口が勝手にそう言う。
謝ることでしか、この場に居られない癖。

エルザさんが、私の肩を抱いた。
腕があたたかい。服越しに体温が伝わる。

「謝らなくていいよ」

言い切られて、胸がさらに苦しくなる。
その“言い切り”が、許しじゃなくて、当たり前としての肯定だから。

男の人は、少し困ったように頭を掻いた。

「ああ、驚かせたかい。悪かった。……でも、いい名前だな。凛ちゃん」

いい名前。
それは私の努力でも、役割でもない。
いちばん最初に、誰かが私のために選んでくれた音。
神殿に奪われかけた、私の最初の持ち物。

その“持ち物”を、今の私は、目の前の人に渡されている。
返してもらっている。

胸の奥の何かが、ぱき、と音を立てて割れた。
固い殻が割れて、その内側の柔らかいところが、空気に触れる。

痛いのに、息ができる。

「……凛ちゃん、泣き虫だねえ」

エルザさんが、わざと軽く言ってくれる。
軽い言い方に救われて、私は泣きながら、少しだけ笑ってしまった。

笑ってしまって。
自分でも、驚いた。

笑ったら、涙がさらに溢れて、私は顔を両手で隠した。
手のひらが冷たい。涙が温かい。

畑の土の匂いがする。
薪の煙の匂いがする。
遠くで煮込みの匂いがする。
村の音が、途切れずに続いている。
私が泣いても、世界は壊れない。

「おやおや、泣かせちまったか」

別の声が混じった。
籠を抱えたおばさんが、こちらへ歩いてくる。
籠の中には、赤いリンゴと、まだ土のついた根菜。

「エルザ、こっちの子?」

「うん。凛ちゃん」

エルザさんが、もう一度、当然みたいに言う。

「凛ちゃん、ね。かわいい子だねえ。今度、うちの干しリンゴ持ってきな。甘いよ」

“凛ちゃん”。
また、私のほうへ。

涙の向こうで、言葉がふわりと浮かぶ。
聖女様じゃない。
リーネ様でもない。
凛ちゃん。

私は、頷いた。
頷けた。

「……ありがとう、ございます」

言った瞬間、自分の声がちゃんと“今”の場所に落ちた気がした。
神殿の礼じゃない。
役割の礼じゃない。
人としての、礼。

エルザさんが、私の背中をさすった。

「ほら。歩こう。村の端まで行って、川でも見てくかい」

私は、袖で涙を拭きながら、もう一度頷いた。
頷き方が少しだけ、軽くなっている。

村の道を歩く。
道の両側で、誰かが手を振る。
誰かが「おはよう」と言う。
そのたびに、エルザさんが返す。
私も、小さく返す。

「凛ちゃん、風邪ひくなよ」
「凛ちゃん、その外套似合うね」
「凛ちゃん、あとでスープ飲みにおいで」

名前が、何度も耳に届く。
届くたびに、胸の奥が熱くなって、でも今度は怖さより先に、嬉しさが来る。

私は、名前で呼ばれている。
私は、ここにいる。

道の先、柵の影に黒い影があった。
畑と道の境目、ちょうど見通しのいい場所。
村人から少し離れたところで、腕を組んで立っている。

レオンさんだ。

彼は、こちらを見ている。
でも、近づいてこない。
護る距離、というものがあるみたいに。

私は、泣いて腫れた目で、そっと彼のほうを見返した。
目が合った。

……合ったのに、彼はすぐに視線を逸らした。
逸らし方が、いつもより遅い。
ほんの一瞬、驚いたみたいに、瞼が上がっていた気がした。

私が、笑ったからだろうか。
泣きながら、笑ってしまったから。

レオンさんの口元が、ほんの少しだけ緩む。
緩んだのに、本人はそれを隠すみたいに、顎に力を入れて、遠くを見る。

でも隠しきれていない。
風に揺れる前髪の隙間から、目元がやわらかいのが見える。

その仕草が、妙に人間くさくて。
私の胸の奥が、また熱くなった。

歩きながら、私は息を吸う。
冷たい空気が肺に入って、涙の跡を乾かしていく。

「……私」

声に出したら、消えてしまいそうで、小さくしか言えなかった。

「私、名前があるんだ……」

自分に言い聞かせるみたいに。
確かめるみたいに。

エルザさんが、歩きながら、こちらを見ないで言った。

「あるよ。最初からずっと」

その言葉は、慰めじゃなくて、事実だった。
私はそれを、やっと受け取れた。

川の音が少し近づく。
水の匂いが混ざって、風が頬を撫でた。

私はもう一度、涙を拭く。
今度の涙は、悲しい涙じゃない。
胸の奥に溜まっていたものが、外へ出ていくだけの涙だ。

そして私は、少しだけ顔を上げた。

——次話「騎士の不器用」――二人の距離が、もう一段近づく。

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