——エルザと村を散歩する凛。
戸を開けた瞬間、外の空気が頬に触れた。
冷たい、というより、澄んでいる。
肺の奥まで入ってきて、胸の痛みをいったん洗っていくみたいだった。
リンデン村の朝は、音が近い。
鶏が鳴いて、桶の水が揺れて、誰かが薪を割る乾いた音がする。
遠くで子どもが笑って、犬が短く吠える。
大神殿の鐘の音は、ここにはない。
でも私は、無意識に耳の奥を探してしまう。
来ないはずの号令を。
「散歩、行くかい?」
エルザさんが、外套を私の肩にかけながら言った。
毛織りの匂い。少しだけ煙の匂い。パンの香ばしさの残り香。
全部、生活の匂いだった。
「……私、外に出ても……」
“いいんですか”と言いそうになって、飲み込む。
許可を求める癖は、舌の根に染みついている。
エルザさんは、私の顔を覗き込み、いつものように軽く笑った。
「いいに決まってるさね。ここは神殿じゃない。凛ちゃんは、歩きたいなら歩く。疲れたなら戻る。それだけ」
“凛ちゃん”。
その呼び方が、胸の奥に小さな火を灯す。
優しく呼ばれると、熱くなって、怖くなる。
熱は、いつか奪われるものだと思っているから。
私は頷いて、エルザさんの隣へ並んだ。
家の前の道は土で、昨夜の霜がまだ白く残っている。
踏むと、しゃり、と小さな音がした。
道の脇には、低い木柵。
その向こうは畑で、黒い土が朝日に光っている。
土の匂いは濃い。湿っていて、生き物の匂いがする。
少しだけ、糞の匂いも混じっている。
神殿の消毒と香の匂いとは、正反対の匂いだ。
でも、嫌じゃなかった。
嫌じゃないことに、驚いた。
「エルザさん、おはよう」
畑の向こうから声が飛んだ。
鍬を肩にかけた男の人が、手を振っている。
日に焼けた頬。笑うと目尻が深くなる。
「おはようさね、ハンス。今朝は畑の土がいい顔してるね」
エルザさんが返す。挨拶が、歌みたいに自然だ。
神殿の挨拶は、型があった。順番があった。立ち位置があった。
ここは、息の出入りと同じに、言葉が出ていく。
男の人の視線が、私に止まった。
悪意のない、ただの好奇心。
それが分かっているのに、心臓が跳ねる。
「その子、エルザさんの家に泊まってる子かい?」
泊まってる。
“匿われている”ではなく、“泊まってる”。
その言い方が、胸の奥をくすぐった。
エルザさんは、私の背中をぽん、と軽く叩いた。
「そうだよ。凛ちゃんっていうんだよ」
凛ちゃん。
私の中で、その二音が鈴みたいに鳴った。
音が、転がって、落ちて、胸の底に触れる。
「凛ちゃん、か」
男の人が笑った。
その笑い方は、治癒の光を見る人たちの顔と違う。
期待と欲の混じった顔じゃない。
ただ、初めて会った子にする顔だった。
「よろしくね、凛ちゃん。困ったことがあったら言いな。村のこと、分からないだろ」
“凛ちゃん”が、もう一度。
今度は私に向かって、真っすぐ飛んできた。
喉が、きゅ、と細くなる。
私は口を開こうとして、言葉が出てこない。
出てくるのはいつもの台詞ばかりだ。
大丈夫です。すみません。ありがとうございます。
それしか持っていないみたいに。
でも今、ここで求められているのは、祈りでも報告でもなくて——挨拶だ。
名前を返すための、挨拶。
「……よ、よろしく……」
声が震えた。
それだけなのに、目の奥が熱くなる。
どうして。
たったそれだけなのに。
今まで、何百回も「聖女様」と呼ばれた。
何千回も、役割として呼ばれた。
呼ばれるたびに、私は“私じゃないもの”になっていった。
“聖女様”は、倒れても代わりを探される。
“聖女様”は、笑っていなくてもいい。
“聖女様”は、泣いたらいけない。
でも今、この人は——私を、私の名前で呼んだ。
機能じゃなく、人として。
「……あれ?」
頬に、冷たいものが落ちた。
触れた指先が濡れて、私はそこでやっと自分が泣いていると気づく。
慌てて拭こうとして、逆に涙が溢れた。
止め方を忘れてしまったみたいに。
「ご、ごめんなさい……」
謝るのは違う、と頭のどこかで分かっているのに、口が勝手にそう言う。
謝ることでしか、この場に居られない癖。
エルザさんが、私の肩を抱いた。
腕があたたかい。服越しに体温が伝わる。
「謝らなくていいよ」
言い切られて、胸がさらに苦しくなる。
その“言い切り”が、許しじゃなくて、当たり前としての肯定だから。
男の人は、少し困ったように頭を掻いた。
「ああ、驚かせたかい。悪かった。……でも、いい名前だな。凛ちゃん」
いい名前。
それは私の努力でも、役割でもない。
いちばん最初に、誰かが私のために選んでくれた音。
神殿に奪われかけた、私の最初の持ち物。
その“持ち物”を、今の私は、目の前の人に渡されている。
返してもらっている。
胸の奥の何かが、ぱき、と音を立てて割れた。
固い殻が割れて、その内側の柔らかいところが、空気に触れる。
痛いのに、息ができる。
「……凛ちゃん、泣き虫だねえ」
エルザさんが、わざと軽く言ってくれる。
軽い言い方に救われて、私は泣きながら、少しだけ笑ってしまった。
笑ってしまって。
自分でも、驚いた。
笑ったら、涙がさらに溢れて、私は顔を両手で隠した。
手のひらが冷たい。涙が温かい。
畑の土の匂いがする。
薪の煙の匂いがする。
遠くで煮込みの匂いがする。
村の音が、途切れずに続いている。
私が泣いても、世界は壊れない。
「おやおや、泣かせちまったか」
別の声が混じった。
籠を抱えたおばさんが、こちらへ歩いてくる。
籠の中には、赤いリンゴと、まだ土のついた根菜。
「エルザ、こっちの子?」
「うん。凛ちゃん」
エルザさんが、もう一度、当然みたいに言う。
「凛ちゃん、ね。かわいい子だねえ。今度、うちの干しリンゴ持ってきな。甘いよ」
“凛ちゃん”。
また、私のほうへ。
涙の向こうで、言葉がふわりと浮かぶ。
聖女様じゃない。
リーネ様でもない。
凛ちゃん。
私は、頷いた。
頷けた。
「……ありがとう、ございます」
言った瞬間、自分の声がちゃんと“今”の場所に落ちた気がした。
神殿の礼じゃない。
役割の礼じゃない。
人としての、礼。
エルザさんが、私の背中をさすった。
「ほら。歩こう。村の端まで行って、川でも見てくかい」
私は、袖で涙を拭きながら、もう一度頷いた。
頷き方が少しだけ、軽くなっている。
村の道を歩く。
道の両側で、誰かが手を振る。
誰かが「おはよう」と言う。
そのたびに、エルザさんが返す。
私も、小さく返す。
「凛ちゃん、風邪ひくなよ」
「凛ちゃん、その外套似合うね」
「凛ちゃん、あとでスープ飲みにおいで」
名前が、何度も耳に届く。
届くたびに、胸の奥が熱くなって、でも今度は怖さより先に、嬉しさが来る。
私は、名前で呼ばれている。
私は、ここにいる。
道の先、柵の影に黒い影があった。
畑と道の境目、ちょうど見通しのいい場所。
村人から少し離れたところで、腕を組んで立っている。
レオンさんだ。
彼は、こちらを見ている。
でも、近づいてこない。
護る距離、というものがあるみたいに。
私は、泣いて腫れた目で、そっと彼のほうを見返した。
目が合った。
……合ったのに、彼はすぐに視線を逸らした。
逸らし方が、いつもより遅い。
ほんの一瞬、驚いたみたいに、瞼が上がっていた気がした。
私が、笑ったからだろうか。
泣きながら、笑ってしまったから。
レオンさんの口元が、ほんの少しだけ緩む。
緩んだのに、本人はそれを隠すみたいに、顎に力を入れて、遠くを見る。
でも隠しきれていない。
風に揺れる前髪の隙間から、目元がやわらかいのが見える。
その仕草が、妙に人間くさくて。
私の胸の奥が、また熱くなった。
歩きながら、私は息を吸う。
冷たい空気が肺に入って、涙の跡を乾かしていく。
「……私」
声に出したら、消えてしまいそうで、小さくしか言えなかった。
「私、名前があるんだ……」
自分に言い聞かせるみたいに。
確かめるみたいに。
エルザさんが、歩きながら、こちらを見ないで言った。
「あるよ。最初からずっと」
その言葉は、慰めじゃなくて、事実だった。
私はそれを、やっと受け取れた。
川の音が少し近づく。
水の匂いが混ざって、風が頬を撫でた。
私はもう一度、涙を拭く。
今度の涙は、悲しい涙じゃない。
胸の奥に溜まっていたものが、外へ出ていくだけの涙だ。
そして私は、少しだけ顔を上げた。
——次話「騎士の不器用」――二人の距離が、もう一段近づく。