——庭でひと息つく凛のもとへ、レオンが野の花を抱えて戻ってくる。
庭の土は、冷たいのに、指先にやわらかかった。
エルザさんの家の裏手。柵の内側に、小さな畑と、花壇のようなものがある。
芽が出かけた葉ものの列と、冬を越えた薬草の株。
そこに混じって、名前も知らない小さな花が、勝手に咲いていた。
私は腰掛けに座って、膝の上に手を重ねる。
日向はあたたかい。背中だけが、ほんの少しほぐれていく。
大神殿の庭は、いつも整っていた。
踏むべき石の順番があって、目を上げる角度まで決まっていた。
ここは違う。
犬が柵の向こうを走り、遠くで誰かが笑って、風が勝手に髪を揺らす。
「……」
私は、息を吐いた。
許可を取らずに息を吐くことが、こんなに難しいなんて。
そのとき、門の方から足音が近づいてきた。
土を踏む、重い音。迷いのない歩幅。
それだけで、誰だか分かってしまう。
レオンが、庭の入口に立っていた。
いつものように無表情で、でも今日は片腕が妙に不自然だ。
抱えているのは……花?
野の花の束。
黄色いの、白いの、紫が混じったの。茎が長いものは折れ、土がついた根っこまでついている。
摘んだ、というより、引っこ抜いたに近い。
でも、それがなぜだか、胸の奥をくすぐった。
レオンは一歩だけ近づいて、立ち止まった。
私と花のあいだに、妙な距離ができる。
騎士の剣先ほどの、まじめな距離。
「……これ」
たったそれだけ言って、花を差し出してくる。
視線は、私の肩の少し横に落ちていた。
目が合うと何かが壊れるみたいに、避けている。
「わ、私に……?」
聞き返す声が、自分でも驚くほど幼かった。
レオンは頷く。
短く。速く。
それから、また黙る。
私は両手で花束を受け取った。
茎の冷たさ。土の匂い。朝露の残り。
それに混じって、レオンの手袋の革の匂いが、ほんの少し。
神殿でも、花はよく差し出された。
“聖女様へ”という札をつけて。
受け取った私は、決まった言葉で礼を述べ、決まった場所へ飾る。
花は、祈りの道具で、私のものではなかった。
でも今、これは。
札も、式次第も、見張りの視線もない。
差し出した本人が照れて黙っているだけだ。
「……ありがとう、ございます」
そう言うと、レオンは眉だけをわずかに動かした。
たぶん「どういたしまして」も言えない。
それがレオンの“礼”なのだと、最近分かってきた。
庭の前の道から、軽い咳払いが聞こえた。
振り向くと、籠を腕にかけたおじさんが、にやにやしながら立っている。
畑帰りだろう。頬が日に焼けていて、笑うと目が線になる。
「おやおや。珍しいもんだねえ。レオンが花なんて」
レオンの肩が、ほんの少し上がった。
本人は動かないつもりでも、体が先に反応してしまう。
「……通り道に、あった」
レオンが言い訳みたいに言う。
その声が小さくて、余計に怪しい。
おじさんは籠を揺らしながら、私の手元の花束を覗き込んだ。
「通り道に“束”で咲いてたんかい。器用な道だな。なあ、凛ちゃん。騎士様から花の献上だぞ」
「け、献上じゃ……」
言いかけて、口の中で言葉が詰まった。
神殿の言葉が、反射で出そうになる。
でもここでそれを言ったら、また遠くへ戻ってしまう気がした。
レオンはさらに視線を逸らす。
耳の先が、わずかに赤い。たぶん。
たぶん、そう見えた。
「いやあ、いいねえ。若いってのは。俺ぁ花なんてもらったの、三十年前だ」
「……知らん」
「知らんで済むかい。お前、凛ちゃん泣かせたら村中が敵だぞ。畑の鍬が飛ぶぞ」
「……泣かせない」
それは、反射じゃなくて、即答だった。
レオンの声が少しだけ強くなる。
おじさんは、わざとらしく肩をすくめた。
「はいはい。じゃあ、笑わせろ。泣かせるな、笑わせろ。そっちの方が難しいぞ」
レオンが固まった。
石像みたいに。
それがまた、おかしい。
「……っ」
喉の奥が、くすぐったくなった。
胸の中で何かがほどけて、息が変なところへ抜ける。
ふふ、と、声が出た。
止めようとしても、止まらない。
口元が勝手に上がってしまう。
「え……」
私は慌てて手で口を覆った。
今、私、笑った?
大神殿では、笑い声を出した記憶がない。
微笑むことはあった。形だけ、祈りのために。
でも、今みたいに、腹の底が軽くなる笑い方は、知らない。
怖い。
嬉しい。
どちらも、同じ熱で胸に広がっていく。
おじさんが目を見開いて、それから、にやりと笑った。
「ほら見ろ。もう笑った」
レオンは、私の方を見た。
やっと目が合った。
瞳が少しだけ揺れている。驚いているのが分かる。
私は笑いながら、でも涙が出そうで、花束を胸に押し当てた。
土の匂いがする。
生きている匂いがする。
「ごめん、なさい……その、笑うつもりじゃ……」
言い訳している自分がおかしくて、また小さく笑ってしまう。
レオンは、何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
それから、いつものように一拍遅れて、短く言った。
「……いい」
その言い方が、まるで許可みたいで。
私はまた、胸の奥が熱くなる。
おじさんは満足そうに頷き、道の先へ歩き出した。
去り際に、振り向きざま、からかいをもう一つ投げてくる。
「レオン、次は根っこを抜くなよ。花は土の上で咲くもんだ」
「……」
レオンは答えない。
答えないけれど、花束の中に混じった根っこを、ちら、と見てしまっている。
私がそれを見つけて、また笑う。
庭に、笑い声が落ちた。
自分の声なのに、知らない音だ。
風に混じって、どこかへ消えそうで、私は慌てて息を吸った。
笑いを、胸の中にしまうみたいに。
「……どこで、摘んだんですか」
花束を持ち直しながら聞くと、レオンは少し考える。
考えている時間が長いほど、彼は嘘をついていない。
「……川」
「川の……どの辺り?」
「……石の、多いとこ」
地図みたいな説明で、私はまた笑ってしまった。
レオンの視線が私の口元へ行って、すぐに逸れる。
それがまた、おかしい。
私は花束の中から、白い小さな花を一本抜いた。
花びらが少し欠けている。たぶん、彼の手袋の力に負けた。
「これ、かわいいですね」
「……そうか」
「名前、知ってます?」
レオンは首を横に振る。
その振り方が、剣を避けるときみたいに速い。
「神殿では、花の名前を覚える必要なんてなかった」
ぽろりと本音が落ちた。
私は慌てて口を閉じる。
また“大神殿の凛”に戻りそうになる。
でもレオンは、何も言わなかった。
ただ、花束に視線を落としたまま、低く言う。
「……必要ないなら、覚えなくていい」
優しいのに、ぶっきらぼうだ。
その矛盾が、胸を温める。
「でも、今は……知りたいです」
言い切ると、レオンのまつ毛がわずかに動いた。
意外そうな顔。
私は自分でも意外だった。
“知りたい”なんて、神殿では言えなかった。
花束の中の紫の花に触れて、私は首をかしげる。
「ええと……これは……たぶん……」
名前が出てこない。
私が知っているのは、飾られる花の名前じゃない。
薬草の効能と、祈祷に使う植物の分類だけだ。
花を“花”として見たことが、あまりない。
「……分からない」
自分で言って、少し恥ずかしくなる。
「……いい」
レオンが即答した。
さっきから彼の「……いい」は、私の胸に鍵をひとつずつ外していく。
私は立ち上がって、井戸の方へ歩いた。
花を水に入れないと、すぐにしおれてしまう。
エルザさんの家には、ガラスの瓶がいくつかあったはずだ。
「……待て」
背後から、短い声。
振り向くと、レオンが私の腕を掴みかけて、途中で止まっていた。
触れる寸前の距離で、手が宙に浮いている。
「……水、運ぶ」
そう言って、彼は私から目を逸らす。
自分の言葉に照れているのが分かる。
「え、でも……」
「……重い」
それは私が、という意味じゃない。
井戸の桶が、という意味だ。
そう分かっているのに、頬が熱くなる。
私は瓶を探して、台所の隅から空き瓶を一つ借りた。
戻ると、レオンが桶に水を汲んでいた。
腕の筋がきれいに浮いている。
その動きが、神殿の儀式よりよほど無駄がなくて、見とれそうになる。
「はい」
水を瓶に移すと、レオンはすぐに視線を外した。
人に見られるのが、得意じゃないのだ。
騎士なのに。
私は花束の茎を揃えて、瓶に入れた。
根っこが一本、どうしても邪魔をする。
「……これ、抜いた方がいいですね」
言った瞬間、道の向こうから声が飛んできた。
さっきのおじさんだ。
距離があるのに、よく通る声。
「おーい! レオン! 根っこは置いてこいって言ったろ!」
私は吹き出した。
レオンは固まった。
さっきと同じ石像の顔で、耳の先だけが赤い。
「……うるさい」
聞こえるか聞こえないかの声で言ってから、彼は私の方をちらりと見た。
“笑うな”ではない。
“笑ってるのか”という確認みたいな目。
私は笑いながら、花瓶を胸に抱えた。
水の中で、花がゆっくりと広がる。
不器用に折れた茎も、少しだけまっすぐになっていく。
「……きれいです」
花に言ったのか、レオンに言ったのか、自分でも分からない。
でも、レオンの肩がほんの少し下がった。
緊張がほどける音が、目に見えるみたいに。
私はまた、笑い声が出そうになるのを堪えきれず、息を吐いた。
この音を、もう隠したくない。
消えないでほしい。
レオンが、視線をまた外しながら言う。
照れたときの癖。黙る前の、最後の一言。
「……笑うのも、いいだろ」
——次話「使者の来訪」――次の一手が、運命を動かす。