嘘の色は、薄紅だ。
少なくともセレスティーヌ・ド・ラヴァリエールの目には、そう映る。唇が真実と異なる言葉を紡ぐたび、話者の輪郭がかすかに——ほんのかすかに、薄紅色のもやを纏う。
今夜の王宮大舞踏場は、さながら薄紅の花畑だった。
「まあ、侯爵夫人。今宵もお美しくていらっしゃいますわ」
——嘘。目尻の皺を数えている。
「殿下のご英断に、心より賛同いたします」
——嘘。裏で反対派閥に資金を流している。
「わたくし、お肉は控えておりますの」
——嘘。昨日の晩餐で鹿肉を三皿食べている。
薄紅が舞う。あちらでもこちらでも。嘘と社交辞令と打算が、魔法灯のシャンデリアの下で踊っている。
セレスティーヌはグラスの縁に唇をつけたまま、息を吐いた。
——嫌。
前世でも嫌だった。人の嘘が見える。あちらでは魔法ではなく技術で、こちらでは技術と魔法の合わせ技で。変わったのは手段だけだ。人が嘘をつくという事実だけは、世界を跨いでも変わらない。
そしてもう一つ、どうにもならないものがある。この口だ。
頭の中では「私」で考えている。敬語なんか使わない。前世のままだ。なのに口を開くと「わたくし」が勝手に出る。物心つく前から母に叩き込まれた令嬢言葉が、前世の記憶より先に喉を通る。
「わたくし、と仰いなさい」「ですわ、でしょう?」——間違えるたびに食事を下げられた。二十二年、毎日。体に刻まれたものは、前世の記憶が戻った程度では消えなかった。
パブロフの犬と同じだ。臨床心理士だったから仕組みは分かる。分かっていて、解除できない。
嘘が嫌いなくせに、私の口調そのものが嘘だ。
——くだらない。
魔法灯に照らされた白亜の天井には、建国の英雄たちが描かれている。五百年前の画家が「真実と正義の勝利」を題材に描いたとされる壁画。
その絵の真下で、二百人余りの貴族が嘘を交換し合っている。あまりの滑稽さに、もう慣れてしまった自分が一番嫌だ。
——くだらない。この茶番に、毎夜毎夜つき合わされる人生ごと。
この場にいる二百人余りの貴族のうち、今この瞬間に真実を口にしている人間は何人いるだろう。五人? 三人? それとも——
「お姉様!」
明るい声が背後から飛んできた。振り向けば、淡い金髪をきらめかせた少女が、スカートの裾を押さえながら小走りに近づいてくる。
ヴィヴィエンヌ。四つ下の妹。
「お姉様、さっきからずっとここにいらっしゃるでしょう。殿下がお探しでしたわよ?」
妹の周囲には薄紅色がない。嘘をついていない——というより、嘘をつく必要がない。社交界に馴染み、友人に恵まれ、誰にも怯えることのない十八歳。
それが少しだけ、眩しかった。
ヴィヴィエンヌの瞳の奥にある感情を、セレスティーヌは読まないようにしている。妹が自分に向ける視線には、いつも二つの色が重なっている。一つは純粋な心配。もう一つは——
読まない。読みたくない。
「ええ。すぐ参りますわ」
グラスを侍従に預け、歩き出す。
大舞踏場の中央では王太子アルベール・ド・ヴェルディアが、取り巻きの貴族たちに囲まれていた。金色の髪、深い青の瞳。文武に秀で、民にも慕われる次代の王。
——私の婚約者。
その称号が、どれほど空虚なものか。セレスティーヌの目は、とうに見抜いていた。
すれ違いざまに、赤みがかった金髪の令嬢が扇の陰から視線を寄越した。シャンヴェール伯爵夫人ベアトリス。社交界の女王を自認する女性。その唇が、隣の令嬢に何かを囁く。
——薄紅がない。
つまり、次の言葉は本音だ。
「見てごらんなさい。あの方、また一人でいらしたのよ。殿下がお気の毒だこと」
薄紅が灯らないということは、心からそう思っている。セレスティーヌは足を止めず、微笑みだけを返した。
微笑みだけは、練習で身につけた。
アルベールの視線がこちらに向く。社交的な微笑み。「やあ、セレスティーヌ」と声がかかり、周囲がざわめく。
微笑みの色を、セレスティーヌは読む。
淡い灰色——義務感。かすかな薄紅——「元気そうだね」は社交辞令。
そしてもう一色。視線がセレスティーヌから離れた瞬間、ほんの刹那だけ瞳の奥に灯る暖色。
それは——セレスティーヌではない誰かに向けられていた。
視線を辿る。
アルベールの斜め後方。控えめに佇む一人の令嬢。蜂蜜色の巻き毛に花の髪飾り。穏やかな微笑みを浮かべ、まるで空気のように場に溶けている。
美しい人だった。そして——何かが引っかかる。
微笑みが完璧すぎる。本物の微笑みには必ず左右差がある。口角の上がり方、目元の皺の入り方——人間の顔は完全な対称にはならない。彼女の微笑みには、それがない。
——考えすぎだ。セレスティーヌは視線を戻した。
アルベールの感情を、もう一度読む。
蜂蜜色の令嬢に向けられた暖色——恋慕。それ自体は不思議ではない。政略婚約に心が伴わないことくらい、最初から分かっていた。
ただ。
一瞬だけ——本当に一瞬だけ、奇妙なことに気づいた。
アルベールの恋慕の色が、あまりにも均一だった。
恋とは揺らぐものだ。前世で何百人もの相談者を診てきたから知っている。喜びの直後に不安が差し、独占欲のすぐ裏に自己嫌悪が貼りつく。恋の色は万華鏡のように刻々と変わる。
なのにアルベールの恋慕は、まるで一色のインクで塗り潰したかのように——
……いや、気のせいだ。
舞踏場の魔法灯がちらついた。色が乱れただけ。
セレスティーヌは、その違和感を飲み込んだ。
悲劇は——あるいは喜劇は、ワルツの最中に起きた。
アルベールと踊りながら、セレスティーヌは息を殺していた。いつものことだ。婚約者の手を取り、音楽に合わせて回る。社交界のお人形。家のための義務。
アルベールの手は正確にリードしている。完璧なステップ。完璧な姿勢。——けれど、手袋越しに伝わる体温の方向が違う。意識がここにない。
前世で学んだ知識が、勝手に分析を始める。瞳孔の微細な拡張、呼吸のリズム、肩の角度。本人は気づいていないだろうが、体は正直だ。
アルベールが口を開いた。
「最近、君は疲れているようだね」
薄紅が淡く灯る。本気で心配しているのではない。会話を埋めるための社交辞令。
「ご心配には及びませんわ、殿下」
「そうか。——君が元気そうで良かった」
また薄紅。嘘。視線がセレスティーヌの肩越しに泳いだ。
蜂蜜色の令嬢を、探している。
——前世の自分なら、黙っていた。カウンセラーは観察し、分析し、そして沈黙する。相手が自ら気づくのを待つ。
だが今の自分は、カウンセラーではない。ここは相談室ではなく、舞踏場だ。
「殿下」
「ん?」
「踊りながら別の方を探すのは、リードする側としていかがなものかと」
アルベールの頬がわずかに強張った。「何を言って——」
「左足が半拍遅れましたわ。視線が三時の方向に流れた時です」
ワルツが終わった。
拍手の中、アルベールはセレスティーヌの手を離した。表情は穏やかだが、感情の色は——苛立ち。見透かされたことへの、防衛的な怒り。
「セレスティーヌ、君のその癖は——」
「癖、ですか」
「人の心を読むような目で見るのは、やめてくれないか」
——見ないで。
母と同じことを言う。幼い頃から何度聞いた台詞だろう。「そんな目で見ないで」「お母様の心を覗かないで」。懇願のような、拒絶のような声。
セレスティーヌは微笑んだ。
「見えてしまうものを見ないふりをすることこそ、嘘ではありませんこと?」
その時だった。
蜂蜜色の令嬢が、そっとアルベールの傍に寄った。「殿下、お疲れではございませんか」と、春の風のような声で。
アルベールの感情が、一瞬で切り替わった。
苛立ちが消え、暖色が灯る。顔が緩む。声が柔らかくなる。
「ああ、フローレンス。——大丈夫だよ」
フローレンス。アッシュフォード男爵家の令嬢。最近、社交界に姿を見せるようになった女性。
セレスティーヌはその光景を見つめた。
婚約者が、自分以外の女性を見る目。
——知っていた。最初から。
問題はそこではない。
問題は、この場の全員がそれを知っていて、知らないふりをしていること。
ベアトリスの扇の向こうのひそひそ声。老侯爵の意味深な咳払い。侍女たちの伏せた目。
全員が見ていて、全員が黙っている。
この空間を支配しているのは、アルベールでも、国王でもない。
嘘だ。
——くだらない。全部。
「殿下」
セレスティーヌは自分でも驚くほど穏やかな声で言った。
「わたくしに隠し事は通用しませんことよ?」
大舞踏場が、静まった。
オーケストラの最後の余韻が消え、水を打ったような静寂が二百人を包んだ。
「殿下の心が既に別の方にあることくらい、わたくしの目を持ち出すまでもなく、この場の誰もがお気づきです。——ただ、皆様は嘘がお上手なだけですわ」
薄紅の色が、一斉に揺れた。
二百人の貴族が、息を呑む。同時に二百の薄紅が乱れる。嘘で固めた平穏が、たった一言で罅を入れられた動揺。セレスティーヌの目には、それが花畑を吹き荒れる風のように映った。
アルベールの顔から血の気が引いた。そして——怒りが湧き上がる。
「ラヴァリエール嬢! 君は——」
「わたくしが申し上げたのは事実ですわ。事実を述べることが罪なら、この舞踏場で罪を犯していないのはわたくしだけかもしれませんわね」
沈黙。
長い、長い沈黙。天井の壁画の英雄たちが、嘲笑っているようにさえ見える。
アルベールが、感情の読めない声で言った。
「——婚約は、破棄する」
その声を聞いた瞬間、セレスティーヌは奇妙な感覚に襲われた。
アルベールの怒り。強烈な、圧倒的な怒りの色。——しかしそれが、奇妙なほど均一だった。本物の怒りには揺らぎがある。後悔や逡巡が混じる。なのにアルベールの怒りは、まるで——
……まるで、誰かが描いた怒りの絵のように、完璧だった。
考える暇はなかった。
大舞踏場が騒然となり、父ローランが血相を変えて歩いてくる。その背後で母アメリーが顔を覆い、ヴィヴィエンヌが何か叫びながら駆け寄ろうとして——父に腕を掴まれ、止められた。
セレスティーヌは全部、見ていた。
父の感情——怒り。だがその奥の色は心配ではなく、計算。「家名への損害」を瞬時に見積もっている。セレスティーヌを叱る言葉を選びながら、同時に「誰に根回しすべきか」を組み立てている。
母の感情——恐怖。娘の心を案じる涙ではない。社交界での立場を、自分の居場所を案じる涙。あの人はいつもそうだ。「見ないで」と叫びながら、見られているのは自分ではなく世間体だった。
妹の感情——純粋な心配。けれどその奥に、ほんのかすかに、安堵。「わたしではなくてよかった」。——ヴィヴィエンヌに悪気はない。ない、と分かっている。
全部、見えてしまう。
全部。
舞踏場の隅で、壁に背を預けていた銀灰色の髪の男が、薄い笑みを浮かべていた。
近衛騎士団の制服。腕を組み、騒ぎの中心から最も遠い場所で、あのプラチナブロンドの髪の令嬢をじっと見ている。
隣の部下が声をかけた。
「団長。あの騒ぎ、止めなくてよろしいので」
「護衛の管轄外だ」
「はあ……」
男——レクト・ヴァルシュタインは、セレスティーヌが父に連れ出されていく背中を見つめた。
あの目。
嘘を暴く目。
あの目なら——もしかすると。
隣の部下が怪訝そうに見ている。レクトは小さく呟いた。
「面白い人だ」
彼は腕組みを解き、ゆっくりと舞踏場を横切り始めた。向かう先は、宮廷顧問府筆頭オスカー・デュヴァルの立つ位置。
オスカーもまた、眼鏡の奥の灰色の目で、あの令嬢の退場を見送っていた。万年筆を指先で回す癖。——考え事をしている時の仕草。
「……興味深い」
穏やかな声は、喧騒に紛れてレクト以外の耳には届かなかった。
翌朝。
セレスティーヌの部屋の扉を、侍女が叩いた。
「お嬢様、お手紙が届いております」
宮廷顧問府の紋章が押された封蝋。
中身は一枚の便箋。端正な筆跡で、こう記されていた。
『舞踏会でのあなたの目を拝見しました。ぜひ一度、顧問府にお越しいただきたい。あなたの力を、正しく使える場所があります。
宮廷顧問府筆頭 オスカー・デュヴァル』
セレスティーヌは便箋を裏返した。
裏には何も書かれていない。
——あなたの力を、正しく使える場所。
嘘はない。少なくとも、文字からは読み取れない。書いた人間の表情を見なければ、この目は意味を為さない。
だが「正しく」という言葉の定義は、人によって違う。前世で嫌というほど学んだ。「あなたのためよ」という言葉の九割は、言った側のためだ。
窓の外で、王都クレセンティアの朝が始まっていた。白亜の城壁の向こう、王宮ルミエールの尖塔が朝日を受けて光っている。
あの場所に、嘘のない空間があるとは思えない。
けれど——ここにいても同じだ。
階下から父の声がする。誰かと話している。声の調子から察するに、昨夜の損害回復に動いている。セレスティーヌの処遇について、既に何か決めたのだろう。相談ではなく、通告のために来るはずだ。
セレスティーヌは便箋を丁寧に折り畳み、引き出しにしまった。
そして鏡の前に立ち、いつものように、感情のない顔を確認した。
淡い紫色の目が、鏡の向こうからこちらを見つめている。嘘を暴く目。人を遠ざける目。——前世でも今世でも、この目のせいで孤独だった。
——私の目は、便利な道具ではない。
——けれど、見えてしまったものを無視することも、できない。
舞踏場で感じた、あの一瞬の違和感。アルベールの、均一すぎる怒り。
——感情は、揺らぐもの。揺らがない感情は——
扉をノックする音。
父だろう。昨夜の続きを叱りに来たに違いない。あの怒りの奥にある計算の色を、また見なければならない。
深く、息を吸った。
嘘つきたちの世界で、嘘を見る目を持って生まれたのは——呪いか、祝福か。
答えは、まだ分からない。