嘘の色が、薄い。
舞踏場が薄紅の花畑なら、この場所は冬枯れの野だった。薄暗い回廊を抜け、重い樫の扉を押し開けた先。王宮ルミエールの西棟、宮廷顧問府。すれ違う官吏たちが纏う薄紅はまばらで、「ご苦労様です」程度の軽い社交辞令。
少しだけ、息がしやすかった。
三日前の舞踏会の夜から、まるで嵐の中を歩いていた。婚約破棄。父の叱責。母の泣き声。翌朝から始まった来客ラッシュは根回しという名の火消しで、ラヴァリエール邸はさながら外交戦の前線基地だった。
だが父は、顧問府からの招聘状を止めなかった。醜聞の矛先が家名から逸れることを歓迎したのだろう。三日目の朝、馬車に荷物を積み込むセレスティーヌを、父は見送りさえしなかった。
秋晴れの朝だった。馬車の窓から見えた王都クレセンティアの並木は、葉の端がわずかに色づき始めていた。
「セレスティーヌ君。待っていたよ」
奥の執務室から声。暗褐色の髪をきちんと撫でつけた男が、眼鏡の奥の灰色の目で柔らかく微笑んでいる。宮廷顧問府筆頭、オスカー・デュヴァル。招聘状の主だ。
セレスティーヌは、まず彼を「読んだ」。
穏やかな微笑み。薄紅がない。歓迎に嘘はない。だが、何かが足りない。
人間の感情には揺らぎがある。初対面ならば好奇心と警戒が混ざり、期待と計算がちらつく。なのにオスカーの纏う色は、穏やかな暖色の一色だけ。嘘ではない。だが、これが全てだとも思えない。
もやもやした違和感だけが残る。正体は分からない。
「お招きいただきありがとうございます、デュヴァル様」
「堅苦しい挨拶はいらないよ。ここは顧問府だ。事実と分析で語る場所でね」
椅子を勧められ、腰を下ろす。
「舞踏会の件、見事だった。社交界では悪評だそうだが、私の評価は違う」
「殿下の心が別の方にあることを指摘しただけですわ」
「見えたものを口にした。それだけのことだね?」
灰色の目が、眼鏡越しにこちらを見た。温かそうに見える。だが奥を読ませない。
「……ええ」
「ところで、あの舞踏場には二百人ほどいたかな。君の目にはどれくらいの嘘が見えていた?」
雑談のような口調。だがこれは査定だ。何を、どこまで見えるかの精度確認。
「……人が嘘をついている時、薄紅色のもやが見えます。感応系の微弱な魔法です。加えて、感情の色が薄く見えることもあります。ただし精度は距離に依存しますし、以前に学んだ行動分析の技術と組み合わせないと、意味のある情報にはなりません」
「行動分析。この王国の学術機関にそのような体系があったかな」
心臓が冷えた。
オスカーの声は穏やかなままだった。追及ではなく、確認。しかしこの一問で、セレスティーヌの知識が「この世界の学問」で説明できないことを突いている。
「……独学ですわ」
「そうかい。独学で舞踏場の二百人を読む。大したものだ」
薄紅がない。嘘ではない。だが「独学」を信じたわけでもないだろう。この人は、踏み込まないことで信頼を演出する。
——くだらない。嘘をつかないまま核心を避けるなんて、正面から嘘をつく人間よりたちが悪い。
「さて」とオスカーは立ち上がった。「君の能力が顧問府でどう活きるか、実地で示してもらう。まずは護衛を紹介しよう」
廊下に出ると、壁に背を預けて腕を組んだ男がいた。
近衛騎士団の制服。銀灰色の髪を無造作に束ね、前髪が片目にかかっている。長身。鍛えられた体格だが、威圧感は不思議と薄い。
笑っているのか皮肉なのか分からない、薄い笑み。あの舞踏場の隅にいた男だ。
「近衛騎士団長のレクト・ヴァルシュタインだ。今日から君の護衛を務める」
オスカーがレクトを示す仕草に、わずかに硬さがあった。二人の間にある空気を読もうとしたが、オスカーの穏やかな色の向こうは見通せない。
セレスティーヌは反射的にレクトを「読んだ」。
——色が、ない。
は?
薄紅がないのは分かる。嘘をついていないのだろう。だがそれだけではない。感情の色そのものが、何も返ってこない。魔法を向けた先に、壁がある。感応の力が跳ね返されるのではなく、吸い込まれて消えていく感覚。
こんなことは初めてだった。人間であれば、どんなに無表情でも感情はある。好奇心か、警戒か、退屈か。何かが見えるはずだ。なのにこの男の周囲には、色のもやが一切纏わりつかない。
前世の技術で補う。瞳孔の開き、呼吸のリズム、肩の角度。嘘の兆候ゼロ。感情を隠している兆候もゼロ。隠していないのに、読めない。
「……顧問殿」
レクトが口を開いた。深い灰青色の目が、真っ直ぐこちらを見ている。声が、一段低い。
「ずいぶん熱心に見てくれているが、何か俺の顔についているか」
凝視していた。自覚した瞬間、頬に血が上る。
「……いいえ。失礼しましたわ」
「嘘だな。何かが気になったんだろう」
心臓が跳ねた。
「なぜ……」
「読めないのか?」
こちらの言葉を先取りされた。セレスティーヌは足を止め、振り向いた。
「……ええ。読めませんの。あなたからは感情の色が何も見えない。嘘の薄紅だけでなく、何もかも。なぜですの」
レクトは数秒、黙った。自分からは語らない。だが問われたことには答える、という間だった。
「……俺は嘘がつけないんだ。つかない、じゃなくて、つけない。ちょっとした体質みたいなものだと思ってくれ」
「嘘がつけないだけで、感情の色まで消える道理はありませんわ」
「そうだな。……たぶん、あなたの目の仕組みとは別の理由がある。俺にもよく分からない」
飄々とした口調だが、「よく分からない」の手前でわずかに間があった。知っている。だが語らない。
読めない人間は脅威だ。分析できない相手は、何をするか予測できない。
「……騎士団長殿」
「ん?」
「わたくし、あなたを信用する理由がありませんわ」
レクトの薄い笑みが、少しだけ深くなった気がした。
「信用しなくていい。護衛の任務ですから。……個人的な興味は、まあ、否定しません。俺は嘘がつけないので」
嘘かどうかを確かめたかった。だがこの男に対しては、確かめる手段がない。
「顧問様! 大変です!」
執務室に戻った途端、栗色のショートボブの少女が飛び込んできた。侍女服のエプロンにインクのシミ。そばかすだらけの顔が紅潮している。
「デュヴァル様の部屋の銀の文箱が、なくなってるんです!」
オスカーが眉をわずかに上げた。「銀の文箱? 外交用の封蝋一式が入ったものだね」
少女がセレスティーヌに気づいた。
「あっ! もしかして新しい顧問様ですか!? わたしマルゴです! 本名はマルグリットですけど長いので! 顧問様付きの侍女やってます!」
一息。薄紅はない。嘘のかけらもない。感情が全部、表情からはみ出している。
……裏表のない人間。こういう人は、嫌いではない。
「セレスティーヌですわ。よろしく、マルゴさん」
「マルグリット」とオスカーが訂正した。「文箱の件だが」
マルゴの表情が曇った。
「先輩侍女のロゼットさんが、わたしが盗ったって言うんです。昨日わたしがデュヴァル様の部屋の掃除当番で、鍵を持ってたから。でもわたし、やってません! 本当です!」
薄紅がない。この子は嘘をついていない。
「デュヴァル様。先輩侍女と関係者にお会いしたいのですが」
オスカーが眼鏡の位置を直した。万年筆が指先でゆっくりと回る。
「……興味深い。いいだろう、最初の仕事だ」
顧問府の侍女控えの間。狭い部屋に、三人の侍女が向かい合って座った。
告発者のロゼット。もう一人の掃除当番エレーヌ。そして嫌疑をかけられたマルゴ。
セレスティーヌは三人を見渡した。全員が手を伸ばせば届く距離。背後の壁際にはレクトが立っている。読めない男の気配を背中に感じるのは落ち着かないが、今はそれどころではない。
「まず確認しますわ。昨日、デュヴァル様の部屋の鍵にアクセスできたのは?」
ロゼットが即座に答えた。「マルグリットです。午後の掃除当番でした」
エレーヌが頷く。「わたしも……マルグリットさんだと思います」
薄紅がわずかに灯った。確信のない推測を事実のように語る色。告発者に同調しているだけだ。
「ロゼットさん。あなたはその時間、どちらにいらしたの?」
「わたしは食堂で休憩を……」
薄紅が、濃くなった。同時に左手が無意識に右手首に触れた。嘘をつく時に人は自分の体に触れる。前世で何百回と見た典型的な防衛動作。
だが、もう一歩踏み込む。ロゼットの感情の色を読む。怒り。焦り。その奥に、嫉妬の暗い赤。
赤の濃さに一瞬、目を細めた。これは根が深い。ただの出来心ではなく、積もった不満が動機だ。
「ロゼットさん。あなたの右手首に、銀磨き粉の痕がありますわね」
顔色が変わった。
「銀の文箱の留め金に使われる研磨粉です。掃除当番ではないあなたの手にそれがあるのは、どういうことかしら」
沈黙。
「加えて」セレスティーヌは淡々と続けた。「先ほどの『食堂で休憩を』に嘘がありました。あなたは休憩中ではなかった。マルゴさんが掃除を終えた後、合鍵を使って部屋に入りましたわね」
ロゼットの全身が強張った。
「なぜ?」
声を落とす。「……文箱の中身を売るためではありませんわね。あなたの目には嫉妬の色がある。この顧問府で、新人のマルゴさんが新しい顧問に付くことへの」
ロゼットの目に涙が浮かんだ。
「……前の顧問様の時は、わたしが付き侍女だったんです。なのに新しい方が来たら、あの子が。経験もないあの子が」
薄紅はもう消えていた。嘘をつく余裕もなく、本音が溢れている。
「文箱は、厨房の裏の棚に隠しました。あの子のせいにすれば、あの子が外されて、わたしがまた……」
マルゴが目を見開いた。「ロゼットさん……」
オスカーが静かに前に出た。
「ロゼット。文箱を回収する。始末書を提出しなさい」
ロゼットが頭を下げ、肩を震わせながら退室していった。
侍女控えの間に残ったのは、セレスティーヌとマルゴ、そして壁際のレクトだけだった。
マルゴが、ぽつりと言った。
「……ロゼットさん、悪い人じゃないんです。前の顧問様付きの侍女、みんな怖がって辞めちゃって。ロゼットさんだけ最後まで残って。それなのにわたしが選ばれて……悔しかったんだと思います」
感情を読むまでもない。マルゴの表情には全てが出ている。加害者を庇う優しさ。冤罪を晴らされた安堵。ロゼットへの心配。
「マルゴさん」
「はい!」
「あなた、わたくしのことは怖くないの」
首をかしげる。「怖い? なんでですか?」
「……そう。なんでもありませんわ」
マルゴの目がきらりと光った。「顧問様、今ちょっと笑いませんでした?」
「笑っておりません」
「笑いましたよ! 口の端がこう、ぴくって!」
「気のせいですわ」
背後でレクトが小さく息を漏らした。振り向いても、あの読めない薄い笑みがあるだけだ。
その夜。
顧問府の執務室で、セレスティーヌは窓の外を見つめていた。秋の夜風が運河を渡り、魔法灯の光が水面でゆらゆらと揺れている。
ふと、舞踏会の夜が蘇る。
アルベールの恋慕の色。あの均一な暖色。恋は揺らぐものなのに、まるでインクで塗り潰したような一色。あれは何だったのだろう。
そして蜂蜜色の髪の令嬢の、完璧すぎる微笑み。左右差のない、人形のような笑顔。
考えすぎだと、あの夜は切り捨てた。今も根拠はない。だが、あの違和感だけは胸の底に沈んでいる。
扉を軽く叩く音。
「顧問様、お茶をお持ちしました! あっ、まだお仕事ですか?」
マルゴが盆を手に入ってくる。エプロンの新しいシミは茶色。紅茶をこぼしたらしい。
「……ありがとう、マルゴさん」
「あ、それと! もう噂になってますよ、着任初日に一瞬で事件を解いたって。厨房の侍女たちが大騒ぎで。あと婚約破棄の話も色々聞かれたんですけど、わたし何も言ってませんから!」
婚約破棄。その四文字に、胸が軋む。アルベールへの未練ではない。三日で実家を追い出された事実。来客の中に、父の盟友だったはずの侯爵が一人も含まれていなかった事実。ラヴァリエールの家紋が入った馬車を降りた時、門番の目が泳いだ事実。
社交界での私の名前は、もう「毒舌令嬢」から「追放令嬢」に格下げされているのだろう。
「……大袈裟ですわ」
「あと、騎士団長様が門のところで帰らないんです。『任務が終わるまで帰らない』って。もう夜ですよ? 秋風が冷たくなってきたのに」
窓の方を見た。顧問府の正門の傍に、銀灰色の影がある。壁に背を預けて、腕を組んで。
「……放っておきなさい」
「でも寒そうですよ?」
「護衛の任務ですって。自己責任ですわ」
マルゴが何か言いたげにしていたが、やがて「おやすみなさい!」と下がっていった。
一人になった執務室で、紅茶を啜る。ほんの少しだけ甘すぎる。パン屋の三女が淹れた紅茶。この少女の性格がそのまま出ている。
嫌いではない。
窓の外を、もう一度だけ見た。
レクト・ヴァルシュタイン。あの男の前に立った時の、あの奇妙な感覚。感応の力を向けた先に、何も返ってこない空白。嘘の薄紅がないのは理解できる。嘘をつかないなら、薄紅は灯らない。だが感情の色まで見えないのは、別の何かだ。
「体質」と言った。嘘ではない。嘘はつけないと言ったのだから。
しかし体質の一言で片づくものではない。あれは壁だ。感応系の魔法そのものを拒絶する、目に見えない壁。
嘘がつけない人間。嘘で満ちたこの宮廷で、そんな存在がどうやって生き延びてきたのだろう。
銀灰色の影は、まだそこにいた。
翌朝。顧問府の扉を開けた時、セレスティーヌを待っていたのは、青い顔をした外務卿の使者だった。