外交官は、嘘をつく生き物だ。
それは職業柄であり、処世術であり——ある意味では、この世界で最も「正しい」嘘のつき方だ。国のために嘘をつく。民のために真実を隠す。そこに私情はなく、使命だけがある。
だから外交官の嘘は、社交界の嘘より見抜きにくい。
——はずだった。
朝一番の顧問府。
青い顔をした外務卿の使者は、早口で事情を説明した。
「友好国アルシャント公国の通商大使、ジルベール・クレマン卿。三年前の赴任以来、両国の交易拡大に尽力いただいておりましたが……」
「先日の査察で、軍事機密を含む書簡が公国側に流出した痕跡が見つかったと」
オスカーが使者の言葉を引き取った。眼鏡を拭く手つきに焦りはない。
「外務卿は正式な告発の前に、確認を求めている。顧問府に——つまり、君に」
セレスティーヌに視線が向く。
「証拠は?」
「状況証拠のみ。書簡は暗号化されており、誰が持ち出したかは特定できていない。だが——」
「クレマン卿が最も疑わしい、と」
「三年間に渡る通商交渉で、彼だけが軍事施設の視察を頻繁に求めていた。外務卿の言葉を借りれば、『好奇心が過ぎる』とのことだよ」
オスカーは書類を差し出した。クレマン卿の経歴。赴任前の外交履歴。通商交渉の記録。
セレスティーヌは目を通しながら、考える。
外交官の嘘は「職業的な嘘」と「個人的な嘘」が重なる。どこまでが職務で、どこからが裏切りなのか。
——くだらない。嘘に階層があること自体が、この世界の病理だ。
その境界を見極めるには、直接会って「読む」しかない。
「お会いしますわ」
「よろしい。——騎士団長」
壁際のレクトが顎を上げた。
「護衛と、念のための確保要員だ。頼めるかね」
「任務ですから」
応接室に通されたジルベール・クレマン卿は、四十代半ばの洗練された紳士だった。
銀混じりの黒髪。仕立ての良い外交服。穏やかな笑顔。手の動きは優雅で、声には適度な温かみがある。——「誠実な外交官」の完璧な見本。
セレスティーヌは、扉をくぐった瞬間から「読んで」いた。
薄紅——ある。最初の挨拶で、すでに色が見えた。
「お目にかかれて光栄です。宮廷顧問殿」
薄紅。光栄ではない。警戒している。
「突然のお呼び立て、失礼いたしましたわ」
「いえ。通商大使として、顧問府とは良好な関係を築きたいと常々。——何かお力になれることでも?」
薄紅。「常々」は嘘。顧問府に呼ばれた理由を察して探りを入れている。
三つ。冒頭の挨拶だけで三つの嘘。
外交官としては標準的だ。問題は、ここからだ。
「クレマン卿。単刀直入にお尋ねしますわ」
クレマンの目がわずかに細まった。
「先月の査察で、軍事書簡の流出が確認されました。通商大使として、この件についてご存知のことはございますか」
沈黙が落ちた。
セレスティーヌはクレマンの全身を読む。
呼吸——微かに深くなった。心拍の上昇を抑えようとしている。右手の人差し指がテーブルの縁に触れた。「自己接触行動」。嘘をつく前の準備動作。
そして——感情の色。
複雑だった。警戒の灰色。焦りの灰色。そして、奥深くに——計算の冷たい灰色。
「軍事書簡の流出……? 初耳ですな。由々しき事態だ。すぐに公国側にも確認を——」
薄紅が、厚く灯った。
嘘だ。
「初耳」ではない。この男は知っている。
だがセレスティーヌが読み取ったのは、そこだけではなかった。
「クレマン卿」
「はい」
「今の発言で、三つの嘘がありましたわ」
空気が凍った。
「一つ目。『初耳ですな』——あなたの呼吸は、わたくしが『軍事書簡』と口にした時点で変わりました。知らない情報に対する反応ではありません。既知の事実を聞かされた時の、『来たか』という覚悟の呼吸です」
クレマンの表情が固まった。
「二つ目。『由々しき事態だ』——あなたの感情に驚きの色が見えません。本当に初耳であれば、少なくとも動揺が混じるはずです。あなたは事態の深刻さを演じていますが、実際にはこの状況を冷静に計算しています」
背後でレクトが微かに位置を変えた。出口に近い壁際へ。退路を塞ぐように。
セレスティーヌは続けた。
「三つ目。『すぐに公国側にも確認を』——あなたの右手が、上着の内ポケットに一瞬だけ向かいました。公国側に確認するのではなく、何かを確認しようとした。……内ポケットの中身が気になったのではありませんこと?」
沈黙。
クレマンの顔から外交官の仮面が、ゆっくりと剥がれていった。
「……お嬢さん。あなたは——」
「三つ嘘を重ねれば十分ですわ。——それで、あなたの内ポケットには、外務卿の知らない書簡があるのではございませんか」
クレマンが椅子から立ち上がった。
その瞬間、レクトが動いた。
音もなく間合いを詰め、クレマンの退路を完全に塞ぐ。抜刀はしない。だが佇まいだけで——この男が本気を出せば一瞬で制圧できることが伝わる。
クレマンは立ち止まった。レクトを見上げ、薄い苦笑を浮かべた。
「……近衛騎士団長殿か。——退路なし、と」
「座っていただければ。話の続きがあるそうなので」
レクトの声は穏やかだった。だが有無を言わせない重みがあった。
クレマンは、ゆっくりと腰を下ろした。
外交官の抵抗は、長くは続かなかった。
セレスティーヌが一つずつ嘘を剥がすたびに、クレマンの仮面は薄くなっていった。最後に残ったのは、疲れ切った中年の男だった。
「……分かりました。認めましょう」
内ポケットから取り出されたのは、暗号化された連絡先の一覧。
クレマンは三年前から、軍事施設の情報を公国の情報部に流していた。見返りは金銭と、帰国後の地位の保証。
「ただし」とクレマンは付け加えた。「情報の受け渡しは直接ではない。仲介者がいる」
「仲介者?」
「王都にある商会だ。アステル商会。通商交渉の名目で取引を行い、その裏で情報を流す。——俺一人の判断ではない。あの商会を通じて情報を渡すよう、指示があった」
アステル商会。
セレスティーヌはその名を記憶に刻んだ。前世の経験則が囁く。——通商と諜報を兼ねる商会。組織的な情報網のハブ。個人の犯罪ではなく、仕組まれた構造。
視界の端で、レクトの手が一瞬だけ拳を握った。
セレスティーヌは振り向かなかった。だが、気づいた。
あの読めない男が、「アステル商会」の名前に反応した。それも——聞き覚えがあるかのように。
「デュヴァル様。報告書を作成しますわ。クレマン卿の身柄については外務卿と協議が必要かと」
扉の外で控えていたオスカーが入室した。穏やかな微笑み。
「……興味深い手際だったよ、セレスティーヌ君」
万年筆がオスカーの指先でくるりと回った。
「——クレマン卿、別室にご案内する。騎士団長、護送を」
「了解」
レクトがクレマンに付き添い、部屋を出ていく。
すれ違いざま、セレスティーヌはレクトの横顔を「読んだ」。——もちろん、何も見えない。だがその佇まいには、いつもの飄々とした軽さがなかった。
顧問府への帰路。
秋晴れの回廊を、セレスティーヌとレクトが並んで歩いている。二歩後ろに下がっていた護衛が、いつの間にか半歩の距離にまで詰めてきている。
「騎士団長殿」
「ん?」
「交渉の場で、あなたはわたくしが証拠の在処を指摘する前に、既に退路を塞いでいましたわね」
レクトは前を向いたまま答えた。
「護衛ですから」
「わたくしの推理の先を読んでいたのではなくて?」
「……あなたが内ポケットの話を始めた時点で、相手が逃げるか暴れるかの二択だと判断した。護衛として当然の読みです」
嘘ではない——はずだ。この男には薄紅が灯らない。だが「当然の読み」という言葉の裏に、もう少し複雑なものがある気がした。
「もう一つ」
「どうぞ」
「クレマン卿が『アステル商会』の名を出した時、あなたの右手が拳を握りましたわ」
レクトの歩みが、ほんの一瞬だけ遅れた。
「……癖だ」
短い。あまりに短い。
「嘘では——」
「俺は嘘がつけないので」
そう。嘘ではない。嘘ではないが——全てでもない。
この男はオスカーとは別の方法で情報を隠す。オスカーは「言わない真実」を選ぶ。レクトは言葉を削ることで核心を逸らす。嘘がつけないなら、黙ればいい。——この男は、それを知っている。
「騎士団長殿。わたくし、あなたを信用したいと思い始めていますわ。——ですが、あなたが何かを隠していることも、感じています」
レクトが足を止めた。
振り向いた灰青色の目が、真っ直ぐこちらを見た。
「顧問殿。俺は嘘がつけない。だが——全てを話す義務もない。あなたにも、そういう部分はあるだろう」
……前世のこと。言いかけて飲み込んだ秘密。
「——ええ。ありますわね」
「だったら、お互い様だ。……今は、それでいいだろう」
レクトが歩き出した。セレスティーヌも続く。
半歩の距離。近すぎず、遠すぎず。
信用とは呼べない。だが、不信とも違う。
護衛と顧問。仕事上の関係。——今は、それでいい。
「顧問様! 大手柄じゃないですか!」
顧問府に戻るなり、マルゴが飛びついてきた。エプロンには今日も新しいシミ。
「外交官の二重スパイを捕まえたって、もう宮廷中の噂ですよ! 外務卿の侍従がうちの侍女に話して、そこから——」
「マルゴさん。宮廷中に広まっているなら、わたくしに報告する意味は薄いのでは」
「あっ、確かに! ——でも顧問様、すごいです!」
セレスティーヌは執務室の椅子に腰を下ろした。
すごくはない。外交官の嘘は分かりやすかった。職業的な嘘と個人的な嘘は、色の重なり方が違う。
問題は——アステル商会。
一国の外交官を動かすほどの情報網を持つ商会。通商と諜報を兼ねる組織。それが王都に存在する。
セレスティーヌは窓の外に目をやった。
王都クレセンティアの街並み。白亜の城壁の向こうに、商業区の屋根が連なっている。あの中のどこかに、その商会がある。
「マルゴさん」
「はい!」
「アステル商会について、何か知っていますか?」
マルゴが首をかしげた。「アステル……ああ、王都でも五指に入る大商会ですよね? 貴族御用達で、宮廷にも出入りしてるって聞きます」
「詳しいですわね」
「侍女仲間の間では有名ですよ。お屋敷の仕入れ先ですし。——あっ、もしかして調べますか?」
セレスティーヌが頷くと、マルゴの目がきらりと光った。
「お任せください! 絶対ですよ! 侍女の口伝えなら、帳簿に載らない話まで拾えますから!」
薄紅がない。得意だという自負に嘘はない。
セレスティーヌは小さく頷いた。
嘘と真実が絡み合うこの宮廷で、私の目が役に立つなら——使おう。
ただし。
オスカーの穏やかな微笑みの裏にある計算。レクトの「アステル商会」への反応。
この宮廷には、外交官の嘘よりもずっと深い闇がある。
——くだらない。嘘を暴いても、次の嘘が待っている。
そんな予感が、胸の奥で静かに灯っていた。
翌日。セレスティーヌの執務室に、一通の招待状が届いた。
差出人は——シャンヴェール伯爵夫人ベアトリス。
「社交界の新星にお目にかかりたく、ささやかな茶会へご招待申し上げます」
セレスティーヌは招待状を裏返した。
——ささやか、ね。嘘の色が見えなくても、この文面だけで分かる。ささやかな茶会など、あの女性が開くはずがない。
包囲網だ。
外交官の嘘は、暴けた。だが社交界の嘘は——もっと、厄介だ。
セレスティーヌは招待状を執務机の引き出しにしまった。丁寧に。まるで宣戦布告を保管するように。