社交界の茶会は、戦場に似ている。
微笑みが剣で、沈黙が盾で、噂話が矢だ。そして何より厄介なのは——全員が味方のふりをしていること。
セレスティーヌは、シャンヴェール伯爵夫人の屋敷の門をくぐりながら、そう思った。
「顧問殿」
門の手前でレクトが足を止めた。
「ここからは入れません。女性のみの茶会ですので」
「知っていますわ」
「何かあれば——」
「茶会ですわよ。命の危険はありませんこと」
レクトは薄い苦笑を浮かべた。
「社交界の茶会のほうが、戦場より死傷者が多いと聞きますが」
「……否定はいたしませんわね」
セレスティーヌは振り向かずに歩き出した。背中にレクトの視線を感じる。読めない視線を。
——いないほうが、気が楽なはず。護衛がいないのだから。
なのに、一歩ごとに、何か足りないような感覚が纏わりつく。
シャンヴェール伯爵夫人ベアトリスのサロンは、王都でも指折りの華やかさだった。
天井から下がる魔法灯のシャンデリア。磨き上げられた銀の茶器。壁一面の薔薇のタペストリー。——そして、完璧に着飾った十二人の貴婦人たち。
セレスティーヌが一歩踏み入れた瞬間、視界が色で溢れた。
薄紅。薄紅。薄紅。
十二人中、十一人に見慣れた色が灯っている。笑顔の裏に好奇心。好意を装った警戒。歓迎を偽った品定め。
——十一人。一人だけ、違う。
ベアトリスの右隣。穏やかな銀灰色の髪を品よくまとめた中年の夫人——宰相レヴェリエ卿の奥方だ。マルゴの事前調査で顔は知っていた。この規模の茶会に宰相夫人が出席しないのは体裁が悪い——格式を保つための義務的な参加だろう。
その夫人だけ、薄紅がない。代わりに淡い灰色と薄い緑——義務感と穏やかな好意。宰相の妻という権力の渦中にいながら、仮面をつけていない。
——これは、茶会ではない。査定会だ。
「まあ、セレスティーヌ様! ようこそおいでくださいましたわ!」
ベアトリス・ド・シャンヴェールが両手を広げて出迎えた。
蜜色がかった金髪を完璧にまとめ上げ、翡翠の瞳が自信に満ちている。——「社交界の女王」の名に恥じない佇まい。
セレスティーヌは読む。
薄紅——ある。「ようこそ」は嘘。その奥に、支配欲の暗い紅。そして——恐怖の灰色。私に見透かされることへの恐怖。
なるほど。攻撃は最大の防御、というわけか。
「お招きいただき、光栄ですわ。ベアトリス様」
「ささやかな集まりですの。——皆様、ご紹介しますわ。宮廷顧問のセレスティーヌ・ド・ラヴァリエール様よ」
十二対の目がこちらを向いた。微笑みの仮面を被ったまま。
茶会が始まった。
最初の三十分は、優雅な世間話に見えた。天気。流行のドレス。秋の園遊会の予定。
だがセレスティーヌの目には、別の風景が見えていた。
全ての話題が、巧妙にセレスティーヌを試すように設計されている。
「外交官の事件、お見事でしたわね。——あのような場面では、やはり特別なお力を?」
嘘の色。称賛のふりをした探り。能力の詳細を聞き出そうとしている。
「お力、と申しますと?」
「あら、ご謙遜を。宮廷中の噂ですわよ。人の嘘が全て見えるとか」
「全てとは大げさですわ。——ただ、不誠実な言葉には、どうしても気づいてしまいますの」
一瞬の沈黙。何人かの貴婦人が居心地悪そうに姿勢を正した。
ベアトリスの翡翠の目が細まった。
「まあ、怖いこと。わたくしたち、嘘なんてつきませんわよねえ?」
笑い声。だが視界は嘘の色の花盛りだった。
——くだらない。嘘を本気で信じている嘘が、一番たちが悪い。
茶会の中盤。話題が移り変わる。
「ところで——ダルシニー伯爵夫人、先日のご旅行はいかがでしたの?」
ベアトリスが、向かいに座る中年の夫人に話を振った。豊かな栗色の髪に、柔和な笑顔。ダルシニー伯爵夫人——名前は聞いたことがある。穏やかな人柄で知られる夫人。
「ええ、とても素敵でしたわ。夫と二人で南部の温泉地に。久しぶりにゆっくりできましたの」
セレスティーヌの目が、反射的に動いた。
薄紅——厚い。
「夫と二人で」が嘘。「ゆっくりできた」も嘘。この夫人は旅行中、ずっと苦しんでいた。そして「夫」という単語を口にした時、感情の色が激しく揺れた。
——夫の浮気を知っている。
知っていて、隠している。穏やかな笑顔の裏で、ずっと耐えている。
セレスティーヌは口を閉じた。
これは指摘すべきではない。クレマン卿のような犯罪者ではない。ただ夫婦の問題を抱えた、一人の女性だ。
——だが。
「ダルシニー伯爵夫人」
声が出ていた。
「はい?」
「南部の温泉地は、お一人で行かれたほうが、お体にはよろしいかもしれませんわね」
沈黙が落ちた。
ダルシニー夫人の顔から、ゆっくりと血の気が引いた。
「……どういう、意味かしら」
「深い意味はございませんわ。ただ——温泉は、心身の疲れを癒すもの。気を遣う旅では、十分な効果が得られませんもの」
セレスティーヌは自分の失言に気づいていた。「一人で」がこの場では「夫なしで」を意味する。前世の臨床心理士が咄嗟に口を挟んだのだ——患者の無理な笑顔を見過ごせなかった時のように。
だが社交界は、カウンセリング室ではない。
空気が凍った。
十二人の視線がセレスティーヌに集まる。ダルシニー夫人の目に涙が浮かんでいた。
ベアトリスの唇が、勝ち誇ったように歪んだ。
「あら、セレスティーヌ様。せっかくのお茶が冷めてしまいますわ。——お口に合わなかったかしら?」
——やられた。
ベアトリスは最初からこれを狙っていたのだ。ダルシニー夫人の「秘密」を知っていて、わざとセレスティーヌの近くで話題を振った。「見えてしまう」セレスティーヌが反応するのを待っていた。
嘘は暴かれた。だが悪者にされるのは、暴いたほうだ。
セレスティーヌは茶杯を静かに置いた。
「……失礼いたしましたわ。伯爵夫人」
ダルシニー夫人は目を伏せたまま、小さく首を振った。
その時、隣から静かな声が聞こえた。
「ダルシニー夫人。——南部の温泉地でしたら、水仙の季節にもう一度お訪ねになるとよろしいですわ。春のお湯は格別ですのよ」
レヴェリエ夫人だった。穏やかな声で、何でもないように話題を変えた。ダルシニー夫人の秘密にも、セレスティーヌの失言にも触れず——ただ、空気を静かに和らげた。
ダルシニー夫人が微かに顔を上げた。「……ありがとう、ございます」
レヴェリエ夫人は小さく微笑んで、それ以上何も言わなかった。
——この人は、見えていなくても分かるのだ。
セレスティーヌは内心で舌を巻いた。嘘を見る力など使わなくても、人の痛みに寄り添える。力ずくではない強さ。
ベアトリスの目が面白くなさそうに細まったが、レヴェリエ夫人には何も言わなかった。
茶会の終盤。セレスティーヌはもう会話に加わる気力がなかった。
笑顔の裏の悪意。同情の裏の嘲笑。「大丈夫?」の裏の好奇心。——全て見える。全て、見えてしまう。
視線を逸らした先に、一人の少女がいた。
サロンの隅。他の貴婦人たちから離れた場所に、質素な服の若い女性が座っている。赤銅色の髪。琥珀色の目。——周囲から明らかに距離を置かれている。
没落モンフォール家の一人娘。リュシエンヌ・ド・モンフォール。
茶会への出席を許されたのは、ベアトリスの「慈悲」——実際には、見下すための飾り物。
セレスティーヌはリュシエンヌの感情を読んだ。
紅——濃い。灼けるような紅が、少女の輪郭を覆っている。怒りだ。そしてその奥に、深い青が沈んでいた。悲しみ。紅と青が絶えず揺れ、混じり合っている。
だが色だけでは、何に怒り、何を悲しんでいるかまでは分からない。
分かるのは——泣きそうなほど傷ついているのに、背筋だけは一分の隙もなく伸ばしていること。質素な服の裾を、白くなるほど握りしめていること。一度も目を伏せていないこと。
前世の直感が読む。——限界に近い。でも折れることを、自分に許していない。
……強い。
セレスティーヌは指摘しなかった。
ダルシニー夫人には、つい口を挟んでしまった。だがこの少女には——言わない。見えている。紅も、青も、震える拳も。
でも、言わない。
なぜだか分からなかった。前世から含めて、こんな選択をしたのは初めてかもしれない。
リュシエンヌがこちらの視線に気づいた。琥珀色の目が鋭くなる。
「……何よ、その目」
低い声。警戒と拒絶が混じっている。
「わたくしのこと、憐れんでいるの? 没落令嬢を見て、可哀想だとでも?」
セレスティーヌは首を横に振った。
「いいえ。——強い方だと、思いましたの」
リュシエンヌの目が一瞬だけ揺れた。だがすぐに、背筋をさらに正して、棘を纏い直す。
「……ふん。お世辞なら間に合ってますわ。ここの方々から、もう十分いただいておりますもの」
皮肉だった。ベアトリスたちの「慈悲」への怒りを、冷たい言葉に変えている。
「『可哀想なモンフォール家のお嬢様、今日もお古のドレスがお似合いね』——毎回こうですのよ。おかげさまで慈悲の正体には詳しくなりましたわ」
声に皮肉の棘。だが微かに震えている。——泣く前に怒るタイプだ。
「お世辞ではありませんわ」
セレスティーヌは静かに言った。
「わたくしの目に、嘘の色は見えませんもの。——あなたにも、わたくし自身にも」
リュシエンヌの眉が跳ねた。
「……嘘の色? あなた——噂の、『氷の令嬢』?」
「不名誉な異名ですこと」
「わたくしも似たようなものよ。『没落令嬢』。——不名誉な肩書きは慣れておりますの」
その声には、嘲笑ではなく、ほんの一瞬の共感があった。
リュシエンヌはふいに目を逸らした。窓の外を見るふりをして、潤んだ瞳を隠している。
「……父は、無実でしたの」
声が小さくなった。令嬢口調の棘が、剥がれかけている。
「モンフォール伯爵家の横領事件。世間では決着がついた話ですわ。——でもわたくしは知っている。三人の証人が、まるで台本を読むように同じことを言った。父を嵌めた誰かがいるのよ」
セレスティーヌの心臓が跳ねた。
——三人の証人の供述が、不自然に一致。それは、揺らぎのない均一な色——殿下の恋慕に似た構造ではないか。
だが今は、推測に過ぎない。
「……失礼ですが」
「何よ」
「その話、もう少し詳しく伺いたいですわ。——ここではなく、別の場所で」
リュシエンヌが息を呑んだ。琥珀色の目が、今度はまっすぐにセレスティーヌを見た。警戒でも拒絶でもない、何かを確かめるような眼差し。
「……なぜ。あなたに、何の関係があるの」
「まだ分かりませんわ。でも——嘘の色が見える人間には、見過ごせないこともありますの」
リュシエンヌは暫く黙っていた。それから、自分に腹を立てるように顔を背けた。
「……勝手にすれば。わたくしは、誰にも期待なんかしていませんわ」
目を逸らしたまま。だが——拒絶は、しなかった。
言葉のない何かが、二人の間に落ちた。まだ名前のつかない、種子のようなもの。
茶会が終わった。
門を出た途端、秋の冷たい風が頬を撫でた。シャンデリアの光から解放されて、視界がようやく静かになる。
——疲れた。
嘘が見える場所で、二時間。頭が重い。
「お疲れ様です」
レクトが門の脇に立っていた。
その手に——湯気の立つ茶杯。
セレスティーヌは足を止めた。
「……なぜ茶が用意してあるのです」
「顔を見れば分かります。俺でも」
「わたくしの顔に、何が書いてありますの」
「疲れた、と。あとは——怒っている、と。見たまんまです」
セレスティーヌは茶杯を受け取った。温かい。秋の風に冷えた指先に、じんわりと熱が染みる。
「……怒ってはいませんわ」
「嘘ですね」
「……わたくしの嘘は見抜かなくてよろしいのです」
一口飲む。ハーブの香り。胃が温まる。
この男は嘘がつけないくせに、なぜかちょうどいいものを用意する。湯気が立っているということは、茶会が終わる時間を見計らって淹れたのだ。
——それは護衛の仕事ではない。
「騎士団長殿」
「はい」
「社交界の嘘は、外交官よりずっと厄介ですわ。外交官は自分が嘘をついていると知っている。でも社交界の女性たちは——自分の嘘を、本気で信じていることがある」
レクトは黙って聞いていた。
「わたくしの目は、嘘を見抜く。でも——見えたからといって、指摘していいとは限らない。今日、それを学びましたわ」
「……いい勉強では」
「高い授業料でしたわ」
セレスティーヌは空になった茶杯をレクトに返した。
指が触れかけて、どちらともなく避けた。
顧問府への馬車の中。
マルゴが興奮した様子で待っていた。
「顧問様! お茶会どうでした!?」
「二度と行きたくありません」
「えっ、そんなに!? ——あ、でもでも、わたし調べてきたんです! アステル商会のこと!」
セレスティーヌの意識が切り替わった。
「聞かせてちょうだい」
「アステル商会、宮廷に出入りしてるって言ったじゃないですか。いろんなお屋敷の茶会に物資を卸してるんです。お茶の葉、お菓子、食器まで。——今日の茶会も、たぶんアステル商会の卸しですよ」
磨き上げられた銀の茶器。あれがアステル商会のものだとしたら——くだらない茶会にも、一つだけ意味があったということか。
「それと、もう一つ。モンフォール家って知ってます? 三年前に没落した伯爵家。アステル商会の帳簿のどこかに、その名前がちらっと出てくるらしいんです」
「あっ、あともう一つ! 侍女仲間から聞いたんですけど、殿下が最近あの令嬢と——アッシュフォード男爵家の方とご一緒だそうで」
蜂蜜色の巻き毛が、ふと脳裏を過ぎった。舞踏会で、空気のように場に溶けていたあの令嬢。完璧すぎる微笑み。
モンフォール家。
茶会の隅にいた、赤銅色の髪の少女。
偶然か。あるいは——。
「マルゴさん。もう少し詳しく調べてもらえますか。モンフォール家とアステル商会の関係を」
「はい! ぜーったい調べます! お任せです!」
セレスティーヌは馬車の窓に目をやった。
夕暮れの王都。商業区の屋根が茜色に染まっている。あの中のどこかに、全てを繋ぐ糸がある。
外交官のスパイ。茶会の裏側。没落した伯爵家。——そしてアステル商会。
レヴェリエ夫人の穏やかな顔が蘇る。仮面をつけない不思議な夫人。——なぜ、あの人だけ嘘がなかったのだろう。
点と点が、まだ線にはなっていない。モンフォール家の冤罪。アステル商会。三人の証言者の不自然な一致。そして宰相府。
だが今日、三つの収穫があった。ベアトリスの手口。レヴェリエ夫人という未知の存在。そして——怒りの奥に悲しみを隠す、強い瞳の少女。
リュシエンヌ・ド・モンフォール。父の冤罪を信じ、たった一人で戦おうとしている少女。
——あの子の話を聞かなければ。
そう決めた時、馬車が顧問府の前で止まった。マルゴが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「顧問様! 今、王宮から急使が!」
「何事ですか」
「明後日の宮廷晩餐会——宰相レヴェリエ卿の主催で、顧問様にも出席の要請が。殿下も、ベアトリス様も、主要な貴族が全員招かれているそうです」
宰相の晩餐会。茶会とは比べものにならない規模の社交の場。
セレスティーヌは窓の外に目をやった。夕暮れの王都に、長い影が伸びている。
——嫌な予感がする。
理由は分からない。だが今日読みすぎた嘘の残像が、まだ視界の端でちらついていた。茶会が「査定」だったとすれば——次の晩餐会は、何だ。
秋の風が、帷を揺らした。