晩餐会の席に、毒入りワインが並ぶ。
それに気づいた時、毒はすでに宰相の喉を通り過ぎていた——いや、まだ通り過ぎていない。これから通る。
私の目の前で、歴史が動こうとしている。
招待状が届いたのは、茶会から三日後のことだった。
「宮廷晩餐会へのご招待ですわ」
マルゴが封蝋を確認しながら、興奮した様子で言った。羊皮紙には金の紋章——王家と宰相府の連名。
「宰相レヴェリエ卿主催、王太子殿下のご臨席を賜る公式晩餐会……! 顧問様、こんなの初めてです!」
出席者リストに目を通す。十二名。宮廷顧問府、外務卿、財務卿、近衛騎士団長——つまりレクト——王太子アルベール、そして数名の貴族と側近。
末尾に短い一文が添えられていた。
『茶会でご面識を得て以来、改めてお話をさせていただきたく存じます。——レヴェリエ夫人』
茶会の時、唯一敵意の色がなかった人。
「絶対に成功させますからね! どんなドレスで行かれるんです?」
「マルゴさん、落ち着いて」
晩餐会当日。秋の夜の王宮ルミエール。
大宴会場は魔法灯の白金の光で満たされ、壁の鏡がそれを増幅していた。中央の長テーブルには純白のクロスと銀の食器。暖炉にはこの秋初めての火が入り、薪の爆ぜる音が静かに響いている。
窓の外には、紅葉し始めた中庭の木々が闇に沈んでいた。日が短くなったことを、肌で感じる季節だ。
プラチナブロンドの髪を編み上げ、淡い紫のドレスを身に纏った。華美ではないが、品位は保つ。
——くだらない。暖炉の火で飾ろうが、ここは嘘の巣窟だ。
会場に踏み入れた瞬間、視界が色で溢れる。
薄紅。薄紅。薄紅。
十二人中、十一人に見慣れた色。笑顔の裏の好奇心。好意を装った警戒。歓迎を偽った品定め。
「婚約破棄から、ずいぶん出世されましたわね」
隣の貴族夫人が皮肉を滑り込ませる。嘘はない。だが悪意は濃厚だ。
「励んでおりますわ」
視界の端にレクトが入った。近衛騎士団の正装。銀灰色の髪を束ね、剣を佩いている。
今夜は出席者リストに名があった。宰相が近衛騎士団長を招いたのか、あるいはレヴェリエ夫人の配慮か。どちらにせよ、対面の席に配されたレクトの視線が一瞬こちらに向いた。何も言わない。だがそれだけで、不思議と呼吸が落ち着く。
宰相が入場した。
レヴェリエ宰相。年齢は五十代半ば。灰色の髪と鋭い目つき。今夜は穏やかな迎賓の笑みを浮かべている。
嘘だ。薄紅の色が濃い。政治の話をしないつもりなどない。
その隣に、レヴェリエ夫人。茶会で会った、あの柔和な夫人。私に気づいて微笑んだ。——嘘のない笑み。
「ようこそおいでくださいました、セレスティーヌ嬢。茶会では失礼がございましたでしょうか」
「いえ。こちらこそご招待いただき、光栄です」
「宰相が申しておりましたの。顧問府の新進、ぜひ招きたいと」
夫人の感情を読む。優しさ。好意。だがその奥にわずかな不安の灰色。何を不安に思っているのだろう。
上座に、最後の客が入場した。
明るい金髪。深い青の瞳。整った笑顔——だが、その表情にわずかな不自然さがある。完璧に見えて、どこか平坦。一話の舞踏会で感じた違和感が、再び胸をかすめた。
王太子アルベール。
そして——その隣に控える、蜂蜜色の髪の令嬢。
フローレンス・アッシュフォード。舞踏会でアルベールの傍にいた女性。正式な婚約はまだ発表されていない。だが立ち位置は既に「王太子妃候補」そのものだ。
「ごきげんよう、セレスティーヌ様」
柔らかく、優雅で、一分の隙もない微笑み。
私はその感情を読もうとした——そして、眉を寄せた。
見えない。いや、違う。感情の色そのものが「薄い」。まるで均一な霧のような。笑顔なのに——温度がない。
……何だ、この人。
違和感が引っかかる。だがそれを追求する間もなく、晩餐が始まった。
料理が運ばれ、ワインが最初に注がれた。会話は途切れない。外交の話、宮廷の人事、貴族派閥の綱引き。
私は観察を続けた。十二人の出席者、一人ずつ。
外務卿。薄紅——社交辞令だ。宰相への賞賛に嘘の色が混じるが、殺意ではない。政治的な打算と、保身。これは普通の宮廷人。
隣の伯爵夫人。薄紅が厚い。夫の昇進をレヴェリエ卿に取り次いでもらいたいのだろう。会話のたびに媚びの色が強まる。殺す理由がない。
財務卿。灰色——警戒。宰相との間に緊張がある。政敵だ。だがこの灰色は「策謀」であって「殺意」ではない。宰相を政治的に排除したいが、命を奪う覚悟は持っていない。むしろ宰相が死ねば困る立場だ。
その隣に座る財務卿の補佐官。若い男性。黒髪に地味な顔立ち。ほとんど発言しない。
彼の感情の色は——焦燥に滲む紅。そして憎悪の暗い紅。
対象は宰相。視線が、何度も何度も宰相に向く。
他の出席者にはない色だ。外務卿にも、財務卿にも、この濃さの感情はなかった。しかも——揺らぎが不自然だ。普通の憎悪には理由がある。恨みの記憶、怒りの根拠。それが色に「深さ」を与える。
だがこの補佐官の憎悪は、根が浅いのに色だけが濃い。まるで——理由のない怒りが、急に湧き上がったかのような。
危険だ。
レクトの目を探した。対面のレクトが、既にこちらを見ていた。
無言の視線。だが伝わった。
レクトが僅かに顎を動かす。私は目線で答えた。財務卿補佐官の方向。
目が細まった。了解した、という合図。
言葉のない連携。初めてだ。
第三の皿。鹿のロースト。給仕が肉料理に合わせた別のワインを注ぎ直して回る。
宰相のグラスに、深紅のワインが満たされていく。
給仕の手が微かに震えた。
恐怖の灰色——濃い。この給仕は怯えている。何かをさせられている。
視線が給仕の背後に移る。厨房の入口に立つ影。財務卿の補佐官が、ほんの一瞬だけ席を立っている。補佐官がわずかに頷く。給仕が息を呑む。
恐怖と合図。給仕は脅されて——。
その時、レヴェリエ夫人が私の隣に身を寄せた。
「セレスティーヌ嬢」
小さな声。夫人の灰色の不安が、急激に濃くなった。
「あの給仕……先ほどから様子がおかしいの。わたくし、厨房から戻ってきた時に見たのですが、あの方、控えの間で誰かに何か言われていました。泣いていたように見えたの」
……そういうことか。
夫人は不安の色を纏っていた。最初からだ。何かがおかしいと、感覚で気づいていたのだ。
「それは、いつ頃のことです?」
「お料理の二皿目が出る前……あの方、廊下の隅で若い男性と話していました」
若い男性。補佐官だ。
点が繋がった。
「宰相閣下」
私の声が、静かに響いた。
立ち上がる。宴会場が静まった。
「恐れながら——そのワイン、お飲みにならないほうがよろしいかと」
宰相の手が、グラスの寸前で止まった。
「セレスティーヌ嬢? 何を仰るのです」
外務卿が眉をひそめる。
「給仕の方。そのワインは、他のお客様と同じ瓶から注いだものですか?」
給仕の顔が蒼白になった。震える唇。否定の言葉が出ない。
財務卿が立ち上がりかけた時、レクトが動いた。
椅子を蹴って、一瞬で補佐官の背後に回り込む。剣を抜くことなく、ただ立つ。だがその佇まいだけで、逃走を封じた。
「補佐官殿。あなた、今この場から出ようとしましたね」
レクトの低い声。
「宰相閣下を見ていた。給仕に合図を送った。——違いますか」
補佐官の表情が歪んだ。焦燥と憎悪が渦巻く。
レクトの目を見た。一瞬のアイコンタクト。「今だ」と。
二人の意思が、言葉なく重なった。
レクトが補佐官の腕を掴む。私は宰相のワイングラスを手に取る。
「デュヴァル様。このワインの検査をお願いできますか」
宴会場の入口に立っていたオスカーが、静かに歩み寄った。グラスを受け取り、懐から小さな銀の器具を取り出す——毒物検知の魔法道具だ。水面に器具の先端を浸すと、ワインが微かに変色した。
「……興味深い。いや——興味深いなどという場合ではないな。猛毒の反応があります。飲めば、十分以内に呼吸が止まる」
宴会場が凍りついた。
一瞬の沈黙の後、悲鳴にも似たざわめきが広がった。
外務卿が青ざめた顔で椅子から腰を浮かせ、伯爵夫人は扇で口元を覆った。財務卿が「馬鹿な」と呻く。彼の感情に薄紅はない。これは本物の驚愕だ。自分の補佐官の暴走を、知らなかった。
アルベールが立ち上がった。深い青の瞳に、困惑が浮かんでいる。だがその反応は——一拍遅い。まるで、自分がどう反応すべきか計算してから動いているような。
「宰相、ご無事で何よりです」
声は穏やかだが、平坦だ。国の要人が毒殺されかけたのだ。もっと感情が動くはず。
その隣で、フローレンスが静かに微笑んでいた。
微笑んでいた。
宴会場中が動揺する中で、彼女だけが——表情を変えなかった。均一な霧のような感情が、さざ波一つ立てない。
……この人だけ、何も感じていない?
いや——感じていないのではなく、「動かない」のだ。まるで絵に描いたように、完璧で、揺らぎのない微笑み。
背筋に冷たいものが走った。理由は分からない。ただ——本能が、警告を発している。
補佐官は近衛騎士に拘束され、給仕も事情聴取のため連行された。
レヴェリエ夫人が宰相の手を握りしめていた。彼女の感情に嘘はない。夫への純粋な安堵と、恐怖。
「あなた……ああ、よかった……」
その声が、凍りついた宴会場に小さく響いた。
控室で補佐官と対峙した。オスカーと宰相が同席している。
「なぜこのようなことを」
宰相の声は冷たい。怒りが、抑制された言葉の奥に燃えている。
補佐官は俯いたまま、答えない。
私は観察を続けた。憎悪の色は消えていない。だがその奥に——混乱の灰色。本人が自分の行動を理解していない。
「わたくしが答えましょうか」
補佐官の前に進み出た。
「あなたは宰相を憎んでいる。それは本物だ。だが——なぜ憎んでいるのか、あなた自身、分かっていないのでは?」
目が見開かれた。
「どうして——」
「あなたの憎悪は本物です。嘘ではない。だが理由が曖昧。まるで、感情だけが先に生まれたかのような」
自分で言って、引っかかった。
感情だけが先に?
「質問を変えますわ。ここ数ヶ月で、誰か特別な人と会いませんでしたか? 宮廷の外の方、あるいは——蜂蜜色の髪の女性、とか」
補佐官の顔が硬直した。
「……なぜ、それを」
「会ったのですね」
「会った。でも——何をされたのか、覚えていない。ただ——気づいたら、宰相が許せなくなっていた。理由は分からない。自分でも分からない。でも止められなかった——!」
声が震えた。混乱と恐怖。自分の感情が、自分のものではないかもしれないという恐怖。
背筋が冷えた。
「セレスティーヌ君」
オスカーの声が割り込んだ。
「興味深い供述だ。——だが、この件は我々が引き取ります。今夜はお疲れでしょう。お下がりになってください」
オスカーの目が、僅かに細められていた。これ以上聞くな、という合図。
「デュヴァル様。この件、宮廷顧問府として正式に調査させていただけますか?」
「……考えておきましょう」
肯定でも否定でもない。情報を出す気はない。
控室を出た廊下。暖炉のない廊下は秋の夜気が忍び込んで冷えていた。魔法灯の光が途切れ途切れに道を照らす。
レクトが壁に背を預けて待っていた。
「お疲れ様です、顧問殿」
「……騎士団長殿も」
二人は無言で歩き出した。
私が足を止めた。
「今日は——悪くなかったですわ」
レクトが振り返る。薄い笑みを浮かべた。
「最高の褒め言葉をどうも」
「冗談ではありませんわ」
真顔で続けた。
「あなたがいたから、間に合った。あなたの動きが、わたくしの推理の先を読んでいた。——連携、というのでしょうね」
レクトの表情が、僅かに柔らかくなった。
「俺も同じことを思ってましたよ。あなたがいたから、気づけた」
二人の視線が交わる。読めない目と、読む目。だが今は——何かが伝わる気がする。
「騎士団長殿。あの補佐官の言葉、気になりませんでしたか? 『自分でもなぜか分からない』と」
レクトの目が鋭くなった。
「……ええ。気になります」
「感情が、本物なのに不自然。理由が不明なのに、憎悪だけが確かにある。まるで——誰かが感情だけを注ぎ込んだような」
長い沈黙。
「……覚えておいてほしい。この件は——根が深い」
レクトの目に、何か重いものがあった。私には読めない。でも——感じる。痛みのようなもの。古い傷のようなもの。
「……いつか、教えてくれますか」
「いつか」
レクトはそれだけ言って、歩き出した。
その背中を見送る。ふと——気づいた。
宴会場にいた、蜂蜜色の髪の令嬢。フローレンス。
彼女の感情の色は、均一だった。揺らぎがない。
そして補佐官が言った「蜂蜜色の髪の女性」。
……繋がる?
いや、まだ証拠はない。でも、何かが動き始めてる。
顧問府に戻ると、マルゴが飛びついてきた。
「顧問様! ご無事で! 毒殺未遂って本当ですか!?」
「ええ。本当ですわ」
「ひえええ! 顧問様が止めたんですよね!? 宮廷中の噂になってます!」
「……もう噂に?」
「侍女ネットワーク、侮らないでください!」
マルゴが興奮しながら茶を淹れる。椅子に座り、深く息を吐いた。
秋の夜風が窓から忍び込んでくる。暖炉に火は入れていない。少し冷える。
今夜の収穫を整理する。
一つ。宰相周辺の権力闘争。財務卿派閥との対立構造。
一つ。補佐官の「自分でも分からない」発言。感情操作の疑い。
一つ。レヴェリエ夫人の証言が、決め手になった。あの人がいなければ、給仕と補佐官の繋がりに気づくのが遅れていた。
一つ。フローレンスの存在。蜂蜜色の髪。均一な感情。騒動の中で微笑みを崩さなかった不気味さ。
一つ。レクトが何かを知っていること。
そして——。
一つ。レクトとの連携が、初めて「息が合った」こと。
……最後のは収穫じゃなくて感想だ。
マルゴがにやにやしながら言った。
「侍女の間でもう噂になってますよ! 顧問様と騎士団長様、息ぴったりだったって! 目だけで会話してたって!」
「……仕事です」
「顔が赤いですよ、顧問様」
「赤くありません」
「嘘の色、見えないんですか?」
「……マルゴさん。お茶が冷めますわ」
「はいはーい」
マルゴの笑い声が部屋に響く。
窓の外を見た。秋の夜の王都。冷たい風が、紅葉した並木をかすかに揺らしている。
点と点。まだ線にならない。
でも今夜——初めて誰かと「繋がった」気がした。
読めない人間と、読む人間が。
言葉なく、繋がった。