裁判記録は、嘘で出来ていた。
正確に言えば——嘘ではなかった。それが問題だった。
晩秋の冷気が石壁から滲み出す宮廷記録保管室の奥、埃っぽい書架に囲まれた閲覧席で、私は三度目の溜息をついた。
「……まったく、くだらない」
マルゴがお茶を淹れ直してくれている背後で、レクトが書架に寄りかかったまま尋ねる。
「何がくだらない?」
「記録が、です」
私は開いたままの羊皮紙の束を指先で叩いた。三年前のモンフォール伯爵の裁判記録。公金横領の罪で有罪となり、処刑された男の、最後の記録。
「証言者三名。全員が『確かに見た』と言っている。伯爵が金庫から金貨の袋を持ち出すところを。証言は完全に一致している」
「それは——」
「完全に、です」
私は顔を上げて、レクトを見た。彼の灰青色の瞳がこちらを映している。相変わらず、何も読めない。
「完全に一致した証言など、あり得ませんわ。人間の記憶は曖昧なもの。三人が同じ場面を見ても、必ず細部は食い違う。時刻の認識、伯爵の服装、袋の大きさ——些細な部分に必ずズレが生じる」
指を折って数える。
「ですがこの三人は、まるで同じ台本を読んでいるかのよう。『夜七つの鐘が鳴った直後』『紺色の上着に金の刺繍』『革の袋、両手で持つほどの大きさ』——寸分違わず同じことを言っている」
「……均一、か」
レクトが呟いた。何かを確かめるような、低い声だった。
「ええ。均一すぎる。まるで——」
私は言葉を切った。先日の毒入りワイン事件を思い出していた。あの犯人の、自分でもなぜか分からないと言った不自然な敵意。揺らぎのない、均一な感情。
同じだ。
構造が、同じだ。
「——まるで、誰かが揃えたかのよう」
その言葉に、レクトの表情が一瞬だけ変わった。眉が、ほんの僅かに寄せられる。私は彼の感情を読めない。だが——何かを感じた。重い、何か。
「騎士団長殿」
「どうぞ」
「あなた、今——」
何を感じているの、と問いかけようとして、マルゴが戻ってきた。
「お茶、お持ちしました! あとクッキーも見つけました! 保管室の管理人さんがくれました!」
明るい声に、保管室の空気が少しだけ軽くなる。マルゴの天性の才能だ。私は小さく礼を言い、温かいカップを受け取った。
レクトも一息つくように笑みを浮かべる。先ほどの重さは、もうどこにもない。
「で、どうするんです? この記録」
「写しを取らせていただきますわ」
私は羽ペンを手に取った。
「リュシエンヌに、見せる必要があります」
その名を口にした時、マルゴが小さく目を丸くした。
「リュシエンヌ様……あの、茶会にいらした方ですか?」
「ええ」
「赤銅色の髪の、きれいな方。でもちょっと怖かったです」
怖い、か。確かにそうかもしれない。没落した家名を背負い、誰にも媚びず、一人で立っている令嬢だ。
「彼女が、わたくしに言いましたの。『父は嵌められた』と」
「で、調べたんですか」
レクトが淡々と言う。
「ええ」
「自分から首を突っ込む性格じゃないと思ってたが」
「……見えてしまいましたから」
私はカップを置いた。茶会の日のリュシエンヌの瞳を思い出す。怒りの奥にある、深い悲しみ。それでも折れない、誇り。
「彼女の感情は、本物でした。嘘が一切ない」
「だから信じた?」
「……ええ」
レクトが小さく笑った。皮肉なのか、それとも——。
「らしくない」
「は?」
「感情で動くなんて、あなたらしくない」
「……わたくしだって、人間ですわ」
むっとして言い返すと、レクトはますます笑みを深くした。
「ああ。そうだな」
何がおかしいのだ、この男は。
翌日。
私はリュシエンヌを顧問府に呼んだ。
応接室に通された彼女は、質素な服を着ていた。だが立ち姿は凛としている。
「……何の用かしら」
警戒した声。当然だ。
「お父様の件で、お話がありますの」
その言葉に、リュシエンヌの瞳が鋭く細められた。
「……あなた、調べたの」
「ええ」
「なぜ」
私は羊皮紙の束を、彼女の前の卓に置いた。
「あなたの感情が、本物だったから」
リュシエンヌが息を呑む。
「裁判記録を閲覧しました。非公式にね。顧問の権限を使って」
「……それ、まずいんじゃないの」
「バレなければ問題ありませんわ」
私は淡々と続けた。
「証言者三名の供述を読みました。結論から言えば——不自然です」
「不自然?」
「ええ。あまりにも均一すぎる。まるで誰かが台本を用意したかのよう」
リュシエンヌが卓に手をついた。
「それじゃあ——」
「証拠にはなりません」
冷たい言葉を、私は躊躇わずに口にした。リュシエンヌの顔が強張る。
「『不自然』は疑いを生みますが、法廷で覆せるほどの力はありません。ましてや三年前の確定判決を。お父様はもう——」
「分かってる」
リュシエンヌが遮った。声が震えている。
「分かってるわ。父はもういない。判決を覆したところで、父は戻ってこない」
「それでも——」
「それでも、知りたいのよ!」
彼女が叫んだ。
応接室の空気が、張り詰める。
「誰が父を嵌めたのか。なぜ嵌めたのか。父が何を知ってしまったのか——それを知らなければ、わたくしは、前に進めない」
リュシエンヌの拳が、卓を叩いた。
「三年よ。三年間、一人で考えて、調べて、でも何も分からなくて——」
声が、割れた。
「何度も諦めかけた。……それでも——諦められなかった。母は、死んだ。領地は取り上げられた。親戚は皆、わたくしを見捨てた。残ったのは——父への想いだけ」
リュシエンヌの目が、潤んでいた。
「父は無実だった。それだけが、わたくしを支えてきた。でも誰も信じてくれなかった。『没落貴族の妄執』だって、笑われた」
私は、黙って聞いていた。
彼女の感情を、観ていた。
嘘は、ない。
三年間の怒りと悲しみが、全て本物だ。
偽りのない、純粋な痛みが——彼女を包んでいる。
「……セレスティーヌ」
リュシエンヌが顔を上げた。琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見る。
「あなたの目には、見えるのでしょう? わたくしが嘘をついているかどうか」
「ええ」
「なら——教えて」
彼女の声が、懇願になった。
「わたくしは、間違っていない? 父は本当に——無実だった?」
私は、ゆっくりと頷いた。
「わたくしの目で見る限り——」
言葉を紡ぐ。ひとつひとつ、丁寧に。
「あなたのお父様への想いは、本物ですわ。嘘も、自己欺瞞も、ない。純粋な——娘の、愛」
リュシエンヌの目から、涙が零れた。
彼女は慌てて手で顔を覆う。
「……ばか」
震える声。
「そんなこと……言われなくても、分かってる……」
「いいえ」
私は静かに言った。
「三年間、一人で信じ続けてきた。誰かに言ってもらわなければ、折れそうな時もあったでしょう」
リュシエンヌが顔を上げた。涙で濡れた顔で、怒るように笑った。
「……何よ、それ。優しいじゃない」
「わたくしは優しくなどありませんわ」
「嘘」
リュシエンヌが笑う。泣きながら、笑う。
「あなたは優しい。不器用で、口下手で、表情が冷たくて——でも、優しい」
私は何も言い返せなかった。
——くだらない。優しいだなんて。ただ見えてしまうだけだ。
ただ、小さく溜息をついた。
リュシエンヌが帰った後。
私は執務室の窓辺に立ち、外を眺めていた。夕暮れが王都を染めている。
「……疲れましたか」
背後から声がした。レクトだ。いつの間にか、部屋に入っていた。
「少し」
「お茶、淹れましょうか」
「騎士団長が侍女の真似事ですの?」
「俺でもお茶くらい淹れられます」
レクトが茶器を手に取る。手慣れた動きで湯を注ぐ。意外なほど、様になっている。
カップを受け取った。優しい香りが立ち上る。一口飲んで、ふと口を開いた。
「……レクト殿」
騎士団長殿、と言うつもりだった。なぜか名前が先に出た。レクトは気にした様子もなく答える。
「どうぞ」
「あなたに、聞きたいことがあるのだけれど」
レクトが窓の反対側に立った。夕陽が彼の横顔を照らしている。
「なんでしょう」
「なぜ——」
私は言葉を選んだ。
「なぜ、嘘をつかないの?」
レクトの表情が、止まった。
「……唐突ですね」
「ずっと気になっていましたの」
私はカップを両手で包んだ。
「わたくしの観察眼は、嘘を見抜く力。でもあなたには効かない。なぜなら——あなたは嘘をつかないから」
「ええ」
「でも、それは——」
私は彼を見た。
「信念ではないでしょう? あなたは『嘘をつかない』のではなく、『嘘がつけない』」
レクトが、小さく笑った。
「……何で分かるんです」
「分かりませんわ。でも、感じる」
彼の笑みが消えた。
「理由は——いつか、話します」
「今は、ダメ?」
「今は、まだ」
レクトがこちらを向いた。灰青色の瞳が、真っ直ぐに私を映す。
「でも、必ず。いつか」
私は頷いた。
「……待ちますわ」
それだけ言って、私は再び窓の外を見た。
沈黙が降りる。
でも——嫌な沈黙ではなかった。
その夜。
顧問府の執務室で、私は記録の写しを並べていた。
モンフォール伯爵の裁判記録。証言者三名の供述。そして——先日の毒入りワイン事件の記録。
共通項がある。
均一な供述。均一な感情。
まるで誰かが——意図的に揃えたかのような。
ふと、晩餐会でのフローレンスの顔が浮かんだ。毒が発覚した瞬間、あの場で唯一微笑みを崩さなかった女。均一な霧のような感情。あれも——同じ構造ではないのか。
「……何かが、動いている」
呟いた時、ノックの音がした。
「顧問様、まだ起きてらっしゃいますか?」
マルゴの声だ。
「ええ、どうぞ」
マルゴがホットミルクを持って入ってきた。受け取ると、心配そうに覗き込まれる。
「顧問様、最近お疲れじゃないですか?」
「大丈夫ですわ」
「絶対大丈夫じゃないです! 騎士団長様も心配してましたよ! 『ちゃんと休ませろ』って!」
レクトが、か。
私は小さく笑った。
「お節介ですわね」
「優しいんですよ! だから顧問様も、もっと頼ってください! 一人で抱え込まないで!」
マルゴの言葉に、私は何も返せなかった。
一人で抱え込む。
ずっと、そうしてきた。
でも——
リュシエンヌの涙を見た。
レクトの沈黙を感じた。
一人じゃ、ないのかもしれない。
「……ええ。そうしますわ」
そう答えると、マルゴが満面の笑みを浮かべた。
「約束ですよ! 絶対ですよ!」
翌朝。運河に浮かぶ枯れ葉を窓越しに眺めながら廊下を歩くと、レクトが待っていた。
「で、何か分かりました?」
「……まだ、推測の域を出ませんわ。でも——何かが、繋がり始めている」
「話してみますか? 推測でも」
読めない瞳。でも——信じられる、気がする。
私は小さく息を吸い込んだ。
「証言の均一さ。感情の均一さ。二つの事件に、同じパターンがある」
「ええ」
「もし——これが偶然ではなく、意図的なものだとしたら」
言葉にする。
「誰かが、人の証言や感情を——操作している」
レクトの表情が、変わった。
ほんの一瞬だけ——何かが、彼の瞳に浮かんだ。
「……鋭い」
レクトが一歩、近づいた。
「その仮説を追うなら、俺も協力します」
「なぜ?」
「……俺にも、理由がある」
彼の声が、低くなった。
「いつか話すと言いましたね。嘘がつけない理由」
「ええ」
「それと——これは、繋がっている」
私は息を呑んだ。
「レクト殿……あなた、知っているの?」
「全部は知らない。でも——」
レクトが真っ直ぐに見つめてくる。
「あなたなら、見つけられると信じていた。——嘘じゃないですよ」
その言葉の意味が、私には分からなかった。
でも——確かなことがひとつだけ、あった。
この人は、私と同じものを——追っている。
「……協力、お願いしますわ」
私が差し出した手を、レクトが握った。
「任せてください」
その日の午後。
リュシエンヌが再び顧問府を訪れた。
「話があるって——また記録でも見つけたの?」
「いいえ。あなたに、協力をお願いしたくて」
私はリュシエンヌを執務室に招き入れた。
「お父様は、何を調べていましたの? 嵌められた理由があるはず」
リュシエンヌがゆっくりと頷いた。
「父は……宮廷財務の要職にいた。公金の流れを管理していた」
「ええ」
「で、ある時から——おかしな支出に気づいたみたい」
「おかしな支出?」
「記録にない金の動き。父が問い詰めると——一ヶ月後、横領の疑いで逮捕された」
リュシエンヌが拳を握りしめた。
「父は真実に近づいた。だから消された」
私は立ち上がった。
「お父様の遺品は?」
「ほとんど処分された。でも——」
リュシエンヌが懐から、小さな革の手帳を取り出した。
「これだけ、隠し持っていた。父の手記」
私は手帳を受け取り、ページを開いた。几帳面な文字で調査の記録が綴られている。
最後のページ。震える文字で、こう書かれていた。
『もし私に何かあったら——「調律」を調べろ。感情を書き換える術。宮廷ではそう呼ばれていたらしい』
私の手が、止まった。
調律。
感情を、書き換える——
「……これ」
私が呟いた時、レクトが部屋に入ってきた。
「レクト殿。これを見て」
最後のページを示すと、レクトの顔色が変わった。
「『調律』……」
その言葉を、彼は噛みしめるように呟いた。
「やっと——名前が出た」
私とレクトの視線が交わる。
そして——
リュシエンヌが割り込んできた。
「ちょっと待って。『調律』って何? あなた達、知っているの?」
私は深く息を吸い込んだ。
「まだ仮説ですわ。でも——誰かが、人の感情を操作している」
その言葉に、リュシエンヌが息を呑んだ。
「それが、父を殺した——」
「おそらく」
私は頷いた。
「お父様は、その術の痕跡に気づいてしまった。だから——」
「消された」
リュシエンヌの声が、震えた。
怒りと、悲しみと、そして——ほんの少しの、安堵。
「やっぱり……父は、正しかった」
「ええ」
私は手記を閉じた。
「これから——わたくし達は、『調律』を追います」
リュシエンヌが顔を上げた。
「わたくしも、一緒に」
「危険ですわよ」
「構わない」
リュシエンヌが強く言った。
「怖いわ」
リュシエンヌの目が潤みかけた。だが次の瞬間、背筋を正す。涙が怒りに変わるのが見えた。
「——折れるわけにはいかない。父の仇を討つ。それが、わたくしの矜持」
私は小さく笑った。
「……分かりましたわ」
そして——
三人の視線が交わった。
セレスティーヌ、レクト、リュシエンヌ。
それぞれ違う理由で、同じ敵を追う——
長い戦いの、始まりだった。