遺言書は、三人の前に置かれていた。
朝霧がまだ運河の水面を覆う時刻に馬車で王宮に向かう季節になった。老伯爵の死から二週間。遺産を巡る争いは、既に宮廷の噂になっている。長男は領地を、次男は財産を、三女は母の形見をと主張し、どれも譲らない。調停が行き詰まり、顧問府に持ち込まれたのだ。
「遺言書の真贋を確かめてほしい」——オスカーがそう依頼してきた時、私は珍しく躊躇した。
「遺言書の鑑定なら筆跡鑑定士を呼ぶべきでは?」
顧問府の執務室で、私はオスカーに訊いた。机の隅には、「調律」について宮廷記録を当たった結果——何も見つからなかったという報告書が積まれている。手記の一語だけでは、手がかりが足りない。
オスカーは穏やかに微笑んだまま、書類をこちらに差し出す。
「確かに。だが、今回の依頼者は筆跡ではなく『嘘』を見抜いてほしいと言っている」
「……三人が、遺言書について嘘をついている可能性があると?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
いつものはぐらかし。私は小さくため息をついた。
「オスカー様、謎かけなら他でやっていただけます?」
「失敬。——要するに、相続人たちの誰かが遺言書を偽造した可能性がある。だがそれぞれが『これが父の本心だ』と言い張って譲らない。君の目で、誰が本当に信じていて、誰が嘘をついているのか見極めてほしい」
書類に目を通す。被相続人は辺境の中堅伯爵。領地・財産・美術品——財産目録は膨大だ。
「……三人とも面会しますわ」
「よろしく頼むよ。——騎士団長、護衛をお願いできるかな」
執務室の隅に立っていたレクトが、いつもの薄い笑みで頷く。
「承知しました」
面会は宮廷の応接室で行われた。
最初に入ってきたのは次男だった。三十代半ば、商人のような実務的な服装。私とレクトを見て、少し緊張した表情を浮かべる。
「顧問殿、お忙しいところありがとうございます」
「ご丁寧にどうも。早速ですが、遺言書についてお話を伺いたいのですが」
次男は懐から遺言書の写しを取り出し、机に置いた。
「父は生前、わたくしに財産の管理を任せると言っていました。これはその約束の証です」
彼の目を見る。
——嘘と本音が混じっている。約束があったのは本当だろう。だが、その約束が「遺言書」という形だったかは曖昧だ。彼は自分に都合よく記憶を改変している。
普通の人間だ。よくある自己正当化。
「お父様はあなたを信頼していた、と」
「はい。長男の兄は領地経営に興味がなく、妹はまだ若い。わたくしが財産を守らねば」
彼の言葉には誇りと焦りが混ざっている。本物の感情だ。嘘をつきながらも、どこかで父を想っている。
——くだらない。自分を騙して正義を語る。よくある光景だ。
次男との面談は三十分ほどで終わった。
次に来たのは三女。二十代前半の、控えめな令嬢だ。
「顧問様……わたくしは、ただ母の形見だけでも」
彼女は泣きそうな声で訴える。だが目の端には計算がある。
——「か弱い娘」を演じている。嘘ではない、が誇張だ。彼女も兄たちと同じく、遺産に執着している。
母の形見を欲しがるのは本当だが、それが「母への愛」だけではない。財産的価値も見ている。
これもまた、人間らしい。
「お父様の遺言書について、何かご存じのことは?」
「いえ……兄たちが勝手に言っているだけで、わたくしは何も……」
嘘だ。彼女も自分に有利な解釈をしている。
くだらない——と思いかけて、少しだけ胸が痛む。彼女なりに必死なのだ。
私は淡々と質問を続け、彼女の言葉の綻びを記録していく。
そして、長男が入ってきた。
四十代前半。父に最も似た顔立ちをしている。彼は静かに椅子に座り、私に一礼した。
「お時間をいただき、恐縮です」
「いえ。こちらこそ、お忙しい中ありがとうございます」
丁寧なやりとりの後、私は切り出した。
「遺言書についてですが——」
「ああ、あれは偽物だと思います」
即答だった。私は少し驚いて彼の顔を見る。
「……と、おっしゃいますと?」
「父は生前、何も決めていませんでした。『お前たちで話し合って決めろ』と。——だから、誰が何を主張しようと、父の遺志ではない」
彼の目には悲しみがある。
父を失った悲しみ。兄弟が争う悲しみ。
——嘘ではない。
彼は本当に悲しんでいる。
私は観る。彼の表情、声の調子、仕草。
悲しみは本物だ。偽りはない。
なのに。
「……」
私は無意識に眉をひそめた。
何か、おかしい。
悲しみは本物なのに——何かが、おかしい。
長男は静かに続けた。
「わたくしは領地も財産も要りません。ただ、父の意志を尊重したい。兄弟で話し合って決めるべきだと思っています」
嘘ではない。
本心だ。
なのに——違和感が消えない。
彼の悲しみは、まるで均一だ。
揺らぎがない。
父を失った悲しみ、兄弟の争いへの悲しみ、全てが同じ「濃度」で、同じ「質」で、寸分の狂いもなく並んでいる。
人間の感情は、もっと揺れるはずだ。
怒りが混じったり、諦めが滲んだり、時折笑いたくなったり——そういう矛盾があるはずだ。
なのに彼の悲しみは、完璧すぎる。
「——ありがとうございました。大変参考になりました」
私は面談を終え、長男を見送った。
応接室にレクトと私だけが残る。
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「顧問様! お疲れ様です! お茶持ってきました!」
マルゴだ。盆の上に茶器を載せて、小走りで入ってくる。案の定、エプロンには何かのシミがついている。
「……ありがとう、マルゴ」
「三人も面談したんですよね? 絶対疲れてますよ! 甘いお菓子もつけてきました!」
彼女は手際よく——とは言い難い、少しぎこちない動きで茶を淹れてくれた。カップが微かにカタカタ鳴っている。だが彼女の顔に浮かぶ心配は本物だし、裏表がない。この子の前では、分析は要らない。
「それと、リュシエンヌ様から伝言です。『モンフォール家の処刑記録を閲覧できる先を見つけた。明日、顧問府に寄る』って」
私は手を止めた。
リュシエンヌが独自に動いている。父の冤罪に関わる記録を、自分の人脈で追っているのだ。
「……分かりましたわ。明日、待っていると伝えて」
「はいっ!」
マルゴは元気よく頷いて部屋を出ていった。扉の向こうで、小さく「よし!」と呟く声が聞こえる。
——あの子は、どんな小さなことでも嬉しそうにするのだ。少し、眩しい。
でも。少しだけ、口元が緩んだ気がした。
私は気を取り直し、メモを見返した。
次男は嘘をついている。三女も嘘をついている。
長男は嘘をついていない。
遺言書は——筆跡鑑定士の報告を読む限り、本物だ。
結論としては、長男の言葉が最も信用できる。
なのに。
「……どうした」
レクトが声をかけてきた。私は顔を上げる。
「……何のことですの?」
「顔に出てる」
「……何が」
「『分からない』って顔」
私は思わずレクトを睨んだ。彼はいつもの薄い笑みで受け流す。
「別に責めてるわけじゃない。——何が引っかかってる?」
「……」
言葉にするべきか迷った。
でも。
私は小さく息を吐いた。
「長男の感情が、おかしいの」
「おかしい?」
「嘘ではない。本物の悲しみ。でも——」
私は言葉を探す。
「——均一すぎる。揺らぎがないの。まるで、悲しみだけを切り取って並べたような」
レクトは黙って聞いている。私は続けた。
「人間の感情はもっと複雑なはず。悲しいのに笑いたくなったり、怒りたくなったり、矛盾するもの。でも彼には、それがない」
「……」
「嘘ではないのに、本物でもない——そんなこと、あり得るのかしら」
そう言った瞬間、レクトの表情が変わった。
私には彼の感情は読めない。
でも、今——何か「重いもの」を感じた。
「……あり得る」
レクトが、静かに言った。
「え?」
「嘘ではないが本物でもない感情。——俺は、知っている」
私は息を呑んだ。
「教えて」
「……まだ、言えない」
「なぜ」
「言えば、あなたを巻き込むことになる」
「もう巻き込まれていますわ」
私は立ち上がり、レクトの目を見た。
読めない。
彼の目は、いつだって読めない。
でも——今、私は「何か」を感じている。
彼は何かを知っている。
そして、それを言えないでいる。
レクトはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……でも、あなたの直感は正しい。嘘だと思うか?」
「どういう意味?」
「いつか話す。まだ、今じゃない」
「——ずるいですわ」
「ああ。ずるい」
彼は認めた。嘘をつかない男は、自分がずるいことも正直に認める。
私は溜息をついて、椅子に座り直した。
「……せめて一つだけ」
「何だ」
「その『嘘ではないが本物でもない感情』を持つ人は——危険ですの?」
レクトは少し考えてから答えた。
「……危険なのは、その感情を作り出した者だ」
私は息を呑んだ。
作り出した——?
感情を、作る?
「待って。それは——」
「今日はここまで。——報告書、まとめるんだろう」
レクトは話を打ち切った。私は反論しようとしたが、彼の目を見て黙った。
これ以上は言わない、という意志が見える。
「……分かりましたわ」
私は渋々メモを手に取った。
報告書は翌日、オスカーに提出した。
「遺言書は本物。次男と三女は自己正当化の嘘あり。長男は嘘なし。ただし——」
私は言葉を選んだ。
「長男の感情には、若干の違和感がありました。詳細は不明ですが、記録として残しておきます」
オスカーは報告書に目を通し、わずかに眉を上げた。
「……興味深い」
万年筆を指先で回しながら、彼は呟いた。
「違和感、か」
「はい」
「具体的には?」
「感情が均一すぎる。——人間らしい揺らぎがないんです」
オスカーは黙って報告書を読み続けた。
そして——長い沈黙の後。
「……記録には残さなくていい」
「え?」
「君の判断を尊重する。遺言書は本物、長男は信用できる——それだけで十分だ」
私は眉をひそめた。
「でも、違和感は——」
「セレスティーヌ君」
オスカーが、珍しく低い声で遮った。
「君の直感は正しい。だが、全てを記録に残す必要はない。——今は、な」
その言葉に、私は背筋が冷えた。
彼は知っている。
何かを、知っている。
「……オスカー様は、何かご存じなのですか」
「知っている。知らない。どちらとも言える」
またはぐらかす。
私は唇を噛んだ。
「教えていただけませんの?」
「今は教えられない。だが——君が自分で気づくことを、期待している」
「……」
オスカーは穏やかに微笑んだ。
「慎重に、な。——宮廷には、触れてはいけない真実がある」
私は黙って頷き、報告書の最終版をまとめた。
結論——遺言書は本物。長男の証言が最も信頼に足る。次男と三女には自己正当化による虚偽あり。
顧問府の裁定として、遺言書の内容に従い、領地は長男に、財産は三分割、形見の品は三女に相続させる旨を勧告した。長男の「兄弟で話し合え」という父の遺志を尊重しつつ、遺言書に記された具体的な配分を基本とする折衷案だ。
次男も三女も、最終的には渋々ながら受け入れた。完全な納得ではないにせよ、顧問府の裁定に公然と逆らう度胸は、どちらにもない。
——事件としては、これで終わりだ。
だが、私の胸の違和感は消えなかった。
顧問府を出た後、私はレクトと並んで廊下を歩いた。
「……レクト殿」
「何だ」
「あなたは、知っているのでしょう。あの長男に何があったのか」
レクトは答えなかった。
私は続けた。
「オスカー様も知っている。でも、誰も教えてくれない」
「……」
「わたくし、何か——触れてはいけないものに、近づいているのかしら」
レクトは立ち止まった。
私も立ち止まる。
「……ああ」
彼は静かに答えた。
「多分、そうだ」
「でも、止めないのですね」
「止めても、あなたは進むだろう」
「……そうですわね」
私は苦笑した。
自分でも分かっている。止まれない。
見えてしまったものを、無視できない。
レクトは私の顔を見て、小さく笑った。
「だから、俺が傍にいる」
「……護衛として?」
「それもある。——でも、それだけじゃない」
「では?」
「……まだ言えない」
またその答えだ。
私は溜息をついた。
「いつになったら言えるのです?」
「いつか」
「曖昧ですわ」
「ああ。でも——」
レクトは歩き出した。私も後に続く。
「——その時が来たら、ちゃんと話す。嘘じゃない」
私は彼の背中を見つめた。
嘘じゃない——彼の口癖。
その言葉だけは、本当だ。
ならば——私は待つ。
彼が話してくれる日を。
その夜、私は自室で考え続けた。
先日の晩餐会での毒事件。犯人は「自分でもなぜあんなことをしたか分からない」と言った。
モンフォール伯爵の裁判記録。証言者たちの供述は、まるで台本を読むように均一だった。
そして今日の長男。彼の悲しみは本物なのに、均一すぎる。
点が、線になろうとしている。
でもまだ、全体像は見えない。
「嘘ではないが本物でもない感情」
——くだらない。そんな矛盾が、あるはずがない。
でも。そんなものが、本当にあるのだろうか。
あるとすれば——それは、どうやって作られるのか。
私はメモを広げ、三つの事件を並べた。
共通項は——
「感情の不自然さ」
モンフォール伯爵の手記にあった言葉が、脳裏をよぎる。
——「調律」。感情を書き換える術。
あの均一な証言も、今日の長男の均一な悲しみも、もしこれが「調律」の痕跡だとしたら——
窓の外を見る。月が出ている。
宮廷の灯りが、夜の闇を照らしている。
この美しい王都の、どこかに——
真実が、隠れている。
私は必ず、見つけ出す。
この目で、全ての嘘を暴く。
——たとえそれが、「嘘ではない偽り」であっても。