騎士団の訓練場に向かう途中、私は先週の遺産争いの長男のことをまだ考えていた。
嘘ではないのに、本物ではない感情。均一すぎる悲しみ。——まるで感情だけが、どこかから貼り付けられたかのような違和感。
くだらない——と、思考を打ち切ろうとした。だが頭が止まらない。
「考え事ですか?」
レクトが隣から声をかけてくる。彼の表情は相変わらず読めない。嘘をつかない人間の顔は、私にとって白紙と同じだ。
「……些細なことですわ」
「顔に出てますよ。些細じゃない顔です」
——は? 何を見て、そう言ってるの。
思わず足を止めて彼を見上げた。レクトは薄く笑っている。冗談なのか本気なのか、相変わらず判然としない。
「……そんなに分かりやすい顔、してました?」
言ってから気づいた。令嬢口調が外れている。レクトの前だと、いつの間にか喉の力が抜けてしまう。慌てて取り繕う。
「——わたくし、そんなに分かりやすい顔をしていますの?」
「あなたは分かりにくいと思っているようですが、実際には結構出てますよ。考え込んでいる時は、眉間に小さな皺が寄る」
無意識に眉間に触れた。本当だろうか。今まで誰もそんなことを言わなかった。
「……ご忠告、感謝いたしますわ」
「忠告じゃないです。観察です」
彼はそう言って歩き出した。私は少しだけ遅れて、その背中を追った。
訓練場の隅にある騎士控え室で、私たちは一人の男を待っていた。
「エルヴィン・シュナイダー。30歳。近衛騎士団の副長補佐を務めていた歴戦の騎士です」
レクトが書類を繰りながら説明する。いつもの飄々とした口調だが、どこか硬い。
「北方辺境の魔獣討伐で三度の勲章。10年間の実戦経験。——勇敢で冷静、部下からの信頼も厚い。少なくとも、2ヶ月前までは」
「2ヶ月前、ですか」
「ええ。突然、剣が持てなくなったと言い出した。恐怖で手が震える。訓練場に入るだけで動悸がするようになったそうです」
書類を閉じたレクトの横顔に、初めて見る表情があった。悲しみ——ではない。もっと複雑な、名前のつけられない何か。
「怪我や病気の痕跡はありません。宮廷魔術師の診断でも異常なし。だから騎士団は——」
「臆病風に吹かれた、と判断したのですわね」
「……そうです。除隊を勧告した。本人もそれを望んでいる」
レクトが書類を机に置く。その動きは、いつもより少しだけ乱暴だった。
「あなた、この方のことを個人的に知っているのでは?」
問いかけた瞬間、レクトの目がこちらを向いた。読めない。でも——何か、答えたくないことを聞いてしまった気がした。
「……ええ。俺の部下でした。信頼できる男だった」
過去形で語る声が、静かに沈んでいく。
そこで扉がノックされた。
入ってきたのは、背の高い褐色の髪の男だった。騎士らしい堂々とした体格。だがその目は、落ち着きなく室内を彷徨っている。
「失礼いたします。エルヴィン・シュナイダーです」
声は低く、しっかりしている。だが両手が微かに震えていた。
「お座りください」
私は柔らかく声をかけた。エルヴィンは礼を言って椅子に座る。——その時、レクトの姿を認めて、彼の顔が強張った。
「団長……申し訳ございません。このような姿をお見せして」
「気にするな、エルヴィン。今日は顧問府の調査だ。俺は護衛としているだけだ」
レクトの声は、いつもより優しかった。
エルヴィンは俯き、拳を握りしめる。その拳が、小刻みに震えていた。
私は椅子に座り、彼の目を見た。
恐怖。圧倒的な恐怖。
彼の瞳には、何かに怯える色が濃く滲んでいる。嘘ではない。彼は本当に怖がっている。
だが——。
「エルヴィン様、あなたは今、何が怖いのですか?」
「……剣が、怖いのです」
絞り出すような声だった。
「剣を握ると、動悸がして呼吸ができなくなる。誰かを傷つけてしまうのではないかと思うと、手が震えて止まらない」
「敵と戦うことが、怖い?」
「いえ——味方を斬ってしまうのではないかと……自分が、自分を信じられないのです」
彼は顔を覆った。肩が震えている。
恐怖は、本物だ。
だが——。
違和感。
エルヴィンの恐怖には、形がない。
通常、恐怖には対象がある。高所恐怖症なら「高い場所」、閉所恐怖症なら「狭い空間」。戦場のトラウマなら「特定の状況」や「記憶の断片」に恐怖が結びつく。
だが彼の恐怖は、何もかもに向かっている。剣も、訓練場も、自分自身も。
まるで——。
まるで、「勇気」という感情が最初から存在しなかった人間の恐怖に似ている。
勇気を「知らない」者の恐怖。
勇気を「失った」のではなく、勇気だけが「切り取られた」かのような——。
——調律。
頭の隅で、禁術の名が閃いた。先週の長男の件で感じた、あの均一すぎる感情と同じ匂いがする。偶然だと思いたい。だが私の直感は、二度目の偶然を許さなかった。
「……エルヴィン様」
私は静かに声をかけた。彼が顔を上げる。
「2ヶ月前、何か変わったことはありませんでしたか? 新しい任務、出会った人、訪れた場所——何でも構いません」
エルヴィンは首を傾げた。考え込むような間があって、やがて口を開く。
「……そういえば、2ヶ月前に護衛任務がありました。アステル商会の隊商護衛です。無事に任務を終えましたが——」
私の背筋に、冷たいものが走った。
「アステル商会、ですか」
「はい。商会の重役の方に、茶をご馳走になりました。とても親切な方で……」
茶。
証拠はない。だが——感覚が、何かを告げている。
私は横目でレクトを見た。彼もまた、エルヴィンを見つめたまま動かない。
調査を終えて訓練場を出た時、レクトが低く呟いた。
「……あいつは、臆病な男じゃなかった」
私は何も言えなかった。言葉にするには、まだ曖昧すぎる。
だが——恐怖の「形」は、確かにおかしかった。感情が消去されたかのような空白。もしこれが調律なら、術者はエルヴィンの「勇気」だけを選択的に抜き取ったことになる。
そして、アステル商会の名前。先日の外交官の件でも名前が挙がった、あの商会。
「顧問府に戻って記録を確認しますわ。アステル商会に関する情報を——」
「ええ。俺も手を回します」
レクトの声は、いつもより固かった。そして——少しだけ、震えていた。
気がつくと、私の足はレクトの方に向いていた。
「レクト殿」
彼が振り向く。
「……あなたの部下を、私が——」
「必ず元に戻す」——そう言いたかった。でも、何が起きたのかさえまだ分からない。令嬢の言葉ではなく、素の「私」のまま口が動いたことに、自分でも驚いていた。
レクトは薄く笑った。いつもの、掴みどころのない笑み。だが今日は少しだけ、悲しく見えた。
「あなたなら、見つけてくれる。——嘘じゃない。俺は、信じてますよ」
宮廷への帰り道は、いつもより静かだった。
馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。秋の終わりの短い夕暮れが、王都の白壁を琥珀色に染めている。厚手の外套を引き寄せたが、寒さは外からではなく内側からのものだった。
「セレスティーヌ殿」
レクトが唐突に名を呼んだ。
——顧問殿、ではなく?
一瞬、胸の奥が跳ねた。この人が私を役職ではなく名前で呼んだのは、初めてだった。
「……はい?」
「一つ、聞いてもいいですか」
彼の声が、いつもと違った。冗談めかした軽さがない。
「あなた、人の目を見るのが怖いのでは?」
——何を、言って……?
思考が一瞬止まった。
「何を仰って——」
「見えすぎるから。人の嘘が、心の奥が、全部見えてしまうから」
レクトは真っ直ぐにこちらを見ている。その灰青色の瞳に、逃げ場はなかった。
「わたくし、別に——」
「あなたはいつも、人の目を見る時に一瞬だけ躊躇う。そして見た後、ほんの少しだけ目を伏せる。まるで——見てしまったことを謝るように」
違う。そんなことは——。
だが言葉が出なかった。
レクトは静かに続けた。
「俺の目を見る時だけ、その躊躇いがない。——なぜだか分かりますか?」
「…………」
「俺には嘘がないから。あなたが恐れる『見えてしまうもの』が、俺にはない」
胸の奥が、ざわりと波立った。
「……嘘をつけたら楽なのにな。見えすぎて辛い時は、目を閉じていい」
レクトはそう言って、窓の外に視線を戻した。
私は何も言えなかった。
馬車の揺れだけが、静寂を満たしていた。
——見えすぎることが、怖い?
そんなこと、考えたこともなかった。私の目は、ただの能力で、道具で、便利な——。
だが。
顧問府に着くまで、私は一度もレクトの方を見ることができなかった。
その夜、部屋に戻ってから、私は鏡の前に立った。
自分の目を、じっと見つめる。
淡い紫色の瞳。幼い頃から「人を見透かす目」と呼ばれた目。
これが——怖い?
……くだらない。そんなはずは——。
でも。
マルゴが部屋をノックして、お茶を持ってきた時、私は慌てて目を逸らしてしまった。
マルゴの笑顔を見るのが、ほんの少しだけ——怖かった。
彼女の中に、もしも「私への恐怖」や「気味悪さ」が隠れていたら。
もしもそれが見えてしまったら——。
「顧問様? お顔の色が優れませんが……」
「……大丈夫。ありがとう、マルゴ」
令嬢口調が出てこなかった。疲れているのだろうか。いや——マルゴの前で、無理に取り繕う気力がなかっただけかもしれない。
私は微笑んだ。社交的な完璧さではない、少しだけ本物に近い微笑み。
「本当ですか? ——お茶を飲んだら絶対元気になりますよ! 絶対ですよ!」
マルゴはそう断言して、安心したように頷き、部屋を出て行った。
一人になって、私は紅茶に口をつけた。
レクトの声が、まだ耳に残っている。
『見えすぎるから』
『俺の目を見る時だけ、その躊躇いがない』
——ああ。
ようやく理解した。
私がレクトの前でだけ、妙に落ち着かないのは。
彼の顔を見て、何も読み取れないことに苛立つのは。
それは——。
怖くないから、だ。
彼の目には、見えてしまう「何か」がない。
だから私は、安心して——彼を見ることができる。
紅茶のカップを、そっと机に置いた。
それは分析ではなく、感情だった。
初めて、自分の感情が——何なのか、分からなかった。