騎士エルヴィンの一件から数日が経っていた。
アステル商会の調査は壁にぶつかっている。レクトが騎士団の記録を洗い、私も顧問府の過去の取引台帳を遡ったが、商会の表向きの帳簿はどこまでも清廉で、尻尾を掴ませない。調律——感情を書き換える禁術の影が、あの商会の裏にあるのか。確信はあるのに、証拠がない。もどかしさだけが募る日々だった。
そんな朝に——それは起きた。
早朝の王宮に、狼狽した男の怒鳴り声が響く。
玉座の間ではなく、顧問府の待合室。受付のマルゴが青ざめて私の執務室の扉を叩いた。
「顧問様……大変です。カーライル子爵が、尋常ではなく——」
マルゴの声の震えを聞いた瞬間、足は勝手に動いていた。
——母親が娘を忘れた。
そう聞いたのは、その三分後だった。
カーライル子爵は中堅貴族らしい誠実そうな男性だった。だがその表情は、まるで地獄を見たかのように歪んでいる。
「妻が——妻が、娘を知らないと言うのです。記憶を失ったのではなく、知らない《・・・・》と」
私は静かに頷いた。レクトは扉の傍で腕を組んで彼の様子を見つめている。
「詳しくお話しください。いつから、どのように」
「一週間ほど前からです。最初は何か考え事でもしているのかと思いました。娘に冷たくなったわけではない。むしろ——無関心なのです。空気のように扱う。家の使用人と同じように、いえ、それ以下に」
男の声が震える。私は彼の表情を見た。
——嘘ではない。心底の困惑と恐怖。
くだらない社交辞令ではない。この男は、本当に怯えている。
「お嬢様の年齢は?」
「十五です。夫婦仲も良好でした。娘を溺愛していた。それが突然——」
私はメモを取る手を止めず、視線を上げた。
「他のことは覚えておられるのですね」
「ええ。わたくしのこと、屋敷のこと、使用人の名前、昨日の献立まで——全て覚えています。ただ娘のことだけ。まるで最初から存在していなかったかのように……」
レクトの視線が鋭くなった。私は彼が何かに気づいたことを、読めないはずなのに感じ取った。
——これは、あの騎士と同じ。
「お話を伺いたいと思います。奥様に面会させていただけますか?」
「お願いします。何でもします。妻を——妻を元に戻してください」
男は縋るように私の手を取った。
私は静かにその手を外す。優しく、しかし確実に。
「約束はできません。ですが——全力を尽くしますわ」
カーライル子爵邸は王都の貴族街にある中規模の屋敷だった。
執事が案内してくれたのは、日当たりの良い応接室。そこに座っていた夫人は、四十代半ばの穏やかそうな女性だった。
「顧問様、いらしていただきありがとうございます」
落ち着いた物腰。笑みすら浮かべている。
——異常なほどの平静。
「奥様。いくつかお尋ねしたいことがございますの」
「どうぞ」
「ご主人様のお名前を教えていただけますか」
「ラルフ・カーライルですわ。夫です」
「お屋敷の使用人の数は」
「十五人ほど。執事のアルヴィン、料理長のマーサ、侍女頭のエレナ……お名前を全てお伝えしましょうか?」
「いえ、結構ですわ。では——お子様については」
「……子ども?」
夫人は首を傾げた。本当に分からないという顔で。
「おりませんわ。わたくしたち夫婦には、子はございません」
部屋の空気が凍った。
レクトの手が、腰の剣の柄に触れる。誰かが襲ってくるわけではない。ただ——この理不尽に対する、彼の怒りの現れ。
私は息を吸った。
「奥様は嘘をついておられるのではありませんわね?」
「ええ、本当のことを申し上げています。子どもはおりません。——なぜそのようなことを?」
——読めない。
読めないのではない。読む必要がない。
彼女は嘘をついていない。本心から、心の底から、娘の存在を知らないのだ。
「失礼いたします」
私は立ち上がり、レクトと共に部屋を出た。
廊下で待っていた子爵が駆け寄る。
「どうでした? 何か——」
「奥様の記憶は正常です。ですが——」
言葉を選ぶ。どう伝えればいい? あなたの妻は、娘への愛を《・》奪われた《・・・・》と。
「お嬢様にお会いしたいのですが」
娘の名はセシリア。繊細そうな少女で、会った瞬間から泣きそうな顔をしていた。
「お母様が——お母様が、わたしを見てくださらないんです。お父様の隣を通っても、わたしだけ目に入らないみたいに……」
少女の声は震えている。
——嘘ではない。本物の悲しみと混乱。
「セシリアさん。奥様に何か変わったことはありませんでしたか? 一週間前より前、何か心当たりは」
「……あります」
少女は顔を上げた。
「先月のことです。お母様が、ある方にお会いしてから——」
「ある方?」
「お名前は存じません。社交界でお知り合いになったと。とても素敵な方だったと、何度もお話しされていました。蜂蜜色の髪の……」
私の背筋に、冷たいものが走った。
——蜂蜜色の髪。
どこかで聞いた。見た。あの舞踏会で、王太子の傍に控えていた令嬢。
フローレンス——
「その方に、何度かお会いしたのですか」
「はい。二度、三度……お茶会をご一緒したと。とても楽しかったと、嬉しそうにお話しされていました。でも——それから、少しずつお母様が変わって……」
段階的に。
一瞬で消えたのではない。少しずつ、確実に、母親の愛が削り取られていった。
屋敷を辞した帰路。馬車の中で私は何も言えなかった。
レクトも黙っている。ただ向かいの席に座り、私を見ている。
「……あの方は、嘘をついていませんでしたわ」
私は自分の声が震えているのを感じた。
「夫のこと、屋敷のこと、使用人の名前——全部覚えている。記憶は無傷。ただ娘への『感情』だけが、跡形もなく——」
「ああ」
レクトの声は低かった。
「勇気を失った騎士と同じだ。伯爵の長男の均一な悲しみとも似ている。特定の感情だけを、外科手術のように《・・・・・・・・》切り取られている」
私は拳を握った。
——母親の愛。
それは本来、最も強く、最も本物で、最も揺るがないもののはずだった。それが——
「——許せない」
気づけば言葉が零れていた。令嬢語ですらない、素の声で。
「感情を奪うなど——心を奪うなど——そんなこと、あっていいはずがない。人を人として扱っていない。道具のように、物のように……!」
「セレスティーヌ」
レクトが呼んだ。
顔を上げると、彼が手を伸ばしていた。
——そして、私の手に触れた。
初めての、身体接触。
大きな手が、私の拳をそっと包む。
温かかった。
「……怒っていい。俺も怒っている」
レクトの声は静かだが、その奥に深い怒りがある。
「感情を奪うことが、どれほど残酷か。あなたは分かっている。だから怒れる。——それは、正しいことだ。嘘じゃない」
「……」
「一人で抱え込むな。俺がいる」
——なぜ。
なぜこの人は、いつも私の傍にいるのだろう。
読めないのに。理解できないのに。
それなのに——
「……ありがとう」
言葉が、自然に出た。
レクトは静かに笑った。いつもの飄々とした笑みではない。本当の、穏やかな笑みだった。
馬車が揺れる。
私たちは、手を繋いだまま黙っていた。
顧問府に戻ると、リュシエンヌが待っていた。
「遅かったわね。マルゴから聞いたわよ——また変な事件? あの子、絶対大変な事件ですって、すごい勢いだったけど」
「……変、では済まされないものですわ」
私は執務室の椅子に座り、額を押さえた。疲れた。身体ではなく、心が。
リュシエンヌは何も言わず、紅茶を淹れてくれた。マルゴが持ってきた茶葉を使って、手慣れた手つきで。
「飲みなさい。あなた、顔色が悪い」
「……ありがとう」
カップを受け取る。
レクトは窓辺に立ち、外を見ている。
「……あの方の、娘への愛は、確かにあったはずですわ」
私は紅茶を啜りながら呟いた。
「十五年間、毎日毎日積み重ねてきた感情。それが——跡形もなく消える。病気ではない。呪いでもない。誰かが、意図的に《・・・・》」
「……」
レクトが振り返った。
彼の表情を読むことはできない。でも——今、彼が何かを決意したような気がした。
「俺も、同じものを見たことがある」
レクトは静かに言った。
「ずっと昔。大切な人が——感情を奪われて、別人になった」
リュシエンヌが息を呑む。私は動けなかった。
——初めてだ。レクトが、自分の過去を語った。
「誰が、とは言わない。まだ言えない。でも——あなたが今感じている怒りを、俺はずっと抱えてきた。嘘じゃない」
「レクト——」
——あ。
敬称をつけなかった。無意識に、名前だけが口を衝いて出てしまった。
慌てて言い直そうとした。「レクト殿」と。でも——レクトは、何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めた。
だから、私も——訂正しなかった。
「だから分かる。あなたの気持ちが」
沈黙。
私は、追及できなかった。
聞きたいことは山ほどある。誰が? どうして? どうなった?
でも——今は、聞いてはいけない。
彼がまだ、語れないのなら。
「……いつか、話してくれるのを待つから」
私は静かに言った。自分でも驚くほど、自然な言葉だった。
「今じゃなくていい。あなたが、話したいと思った時に」
レクトの目が、僅かに見開かれた。
そして——また、あの穏やかな笑みを浮かべた。
「……ああ。ありがとう」
マルゴが扉をノックした。
「顧問様、お疲れ様でした。今日はお休みになられては……絶対ですよ! 今日はもうお仕事禁止です!」
「そうね」
リュシエンヌが立ち上がった。
「今日は帰りなさい。顔色が戻ってないわよ」
扉に向かいかけて、リュシエンヌは足を止めた。
「——一つだけ。アステル商会の件、わたくしの方でも当たっているわ。没落前の伝手で、商会と取引のあった貴族家のリストを集めているの。まだ不完全だけれど……近いうちに持ってくる」
私は顔を上げた。彼女の琥珀色の目には、静かな怒りがある。父の冤罪と、あの商会が繋がっている——その確信が、彼女を動かしている。
「……ありがとう、リュシエンヌ」
「礼はいいわよ。わたくしの問題でもあるのだから」
リュシエンヌは窓の外を一瞬だけ見た。何かを飲み込むように。それから背筋を正し、真っ直ぐにこちらを見た。
「——あなたは、諦めていないのでしょう?」
私は顔を上げた。
「……ええ」
「なら、明日でいいわ。今日は休みなさい。——明日、続きを聞かせて」
「……そうですわね」
私は立ち上がる。
レクトが扉を開けてくれた。
——帰路。
いつものようにレクトが護衛として同行する。
いつものように、無言の時間が流れる。
でも——今日は、いつもと違う。
この人の傍にいると、楽だ。
読めないのに。分からないのに。
それなのに——安心する。
——これは、何?
……くだらない、と思いたかった。自分の感情くらい自分で分かれ。
でも——分からない。
私は首を振った。考えるのは後にしよう。
今は——ただ、歩けばいい。
この人の隣を。
その夜。
執務室で一人、事件の記録を整理していた。
カーライル子爵夫人の事例。勇気を失った騎士。均一な悲しみの長男。モンフォール事件の証言者たち——
全てが繋がる。
感情の操作。消去。統一。
誰かが、意図的に、組織的に——
「……蜂蜜色の髪」
呟く。
セシリアの証言。あの舞踏会での記憶。
フローレンス・アッシュフォード。
——あなたが?
まだ確証はない。
でも——次に彼女と会う時、私は必ず見抜く。
嘘を。真実を。
全てを。
窓の外、月が昇っていた。
冷たい光が、私の手元を照らす。
——もう逃げない。
この目で見たものから。
この力が辿り着く真実から。
たとえそれが、どれほど恐ろしいものであっても。