S02-P02 悪役令嬢は嘘がお嫌い——私に隠し事は通用しませんことよ?

第10話: 帳簿の嘘と正直な罪人

第1アーク · 3,894文字 · revised

商会の番頭は——嘘をついていなかった。
 罪悪感の欠片(かけら)もなく、本当に自分が正しいと信じている。
 それが、私を最も戦慄させた。


子爵夫人の件から一週間余りが経っていた。
 晩秋の王都クレセンティアは、急速に冬の装いへ変わりつつある。運河沿いの並木はとうに葉を落とし、朝の石畳には薄く霜が張る。馬車の窓から入り込む風が、もう秋の匂いではなかった。

「セレスティーヌ君」
 十日前、オスカー様は万年筆を回しながら書類を手渡した。
「アステル商会。聞き覚えはあるかね」
「……ありますわ」
 外交官スパイ事件。あの時、取引先として浮上した商会。そしてエルヴィンが護衛任務に就いていた商会。
「宮廷財務から通報があった。納税額に不審な点がある。——この商会は宮廷の有力者とも繋がりがある。慎重に」
 それは警告だった。踏み込みすぎるな、と。
 だが私の目は——違和感を見逃すことができない。


商業区の運河沿いに建つアステル商会は、王都有数の貿易商会にふさわしい(たたず)まいだった。
 番頭のハンス・クレーヴァーが応接室で迎える。五十代半ばの小柄な男。几帳面(きちょうめん)な動作、穏やかな表情。
 ——くだらない。帳簿の不正なんて、宮廷では珍しくもない——かつてなら、そう切り捨てていた。
 だが、もうその言葉が喉を通らない。
 そしてこの男の感情を見た瞬間——私は、異常に気づいていた。
 良心があるべき場所に、何もない。空洞。子爵夫人の母性愛が消えていたのと、同じ質感の空白。
 鳥肌が立った。

「帳簿の数字が合いませんわ。少なくとも三年分、金額が改竄(かいざん)されています」
 私は淡々と事実を並べる。南方貿易の取引額、第三倉庫の在庫、護衛雇用の支出——すべて実数と一致しない。
 レクトが騎士団からの出向記録と突合した護衛費用に至っては、エルヴィンの派遣記録そのものが帳簿から消えていた。
「それは誤解です」
 ハンスは微笑んだ。
「私は正しく記帳しております。商会のため、王国のため——何ひとつ恥じることはありません」
 ——嘘ではない。
 だが嘘ではないことが、最も恐ろしい。この男の良心は、病気で壊れたのではない。外科手術のように切り取られている。
 あの騎士の消えた勇気。子爵夫人の消えた母性愛。そして今度は——罪悪感。

「商会主はいらっしゃいますの?」
 私は問うた。帳簿改竄を調査するなら、番頭だけでは不十分だ。
「商会主はここ数ヶ月、体調不良でご不在です。私が全てお預かりしております」
 数ヶ月の不在。それ自体が怪しい。
「では、こちらの倉庫も確認させていただきますわ」


第三倉庫は、商業区の外れにあった。絹織物、香辛料、貴金属——大陸中の品が積まれている。
 マルゴが在庫を数え始める(かたわ)ら、レクトが倉庫の奥を見つめていた。その目は——いつもの飄々(ひょうひょう)とした色がない。
「この倉庫、妙に広い」
「広い?」
「外から見た建物の大きさと、中が合わない」
 レクトが壁際に歩み寄る。木箱を避けながら、壁をノックした。空洞音が響いた。指先で隙間を探り——微かに空気が流れている場所を見つけた。
 隠し扉。
「マルゴ、外で見張っていて」
「は、はい!」
 扉の向こうは狭い部屋だった。机が一つ。その上に帳簿のような束と——古びた革装の冊子。
 私は冊子を手に取り、開いた。
 紙は黄ばみ、端が崩れかけている。そしてインクの色が、見たこともない深い紫。
 文字は——読めなかった。
 古い文語体。それも、現代の王国語とは明らかに異なる古語で、さらに特殊な略記号が混在している。部分的に読み取れるのは「術」「感応」「禁」という単語の断片だけ。
「……暗号か、古代の書式か。解読しなければ内容は分からない」
 私は冊子を閉じた。だが——手が震えていた。
 この場所に、この冊子がある意味。禁術に関わる文書が、アステル商会の隠し部屋にある。
「レクト殿」
 私は振り返った。「この商会は——ただの貿易商ではない」
 レクトは静かに頷いた。その目が、初めて見せる光を帯びていた。
「ああ。——俺も、そう確信した」


馬車の中で、私は考えを巡らせていた。
 冷たい風が(ほろ)の隙間から入り込む。もう外套(がいとう)なしでは歩けない季節だ。
「あの番頭に罪悪感がなかった」
 レクトは向かいの席で黙って聞いている。
「嘘をついていない。本当に、自分が正しいと信じている。——あの騎士の勇気が消えていたのと同じ。子爵夫人の母性愛が消えていたのと同じ。特定の感情だけを切り取る手口」
「ああ」
「そして帳簿の改竄は三年分」
 三年。
 その数字が、私の中で別の記憶と重なった。
「三年前——モンフォール伯爵の事件と、時期が重なる」
 リュシエンヌの父が冤罪で処刑された年。財務の要職にあった伯爵が、公金横領の()(ぎぬ)を着せられた年。
 そして——アステル商会の帳簿改竄が始まった年。
 偶然か?
「リュシエンヌに伝えなければ」
 私が呟くと、レクトが小さく頷いた。
「リュシエンヌ殿には、俺からも情報がある。伝えよう」


顧問府に戻ると、リュシエンヌが待っていた。
「遅かったわね」
 彼女は執務室の椅子に座り、書類を膝に載せていた。セレスティーヌが調査に出ると聞いて来たのだろう。
「あら、待っていてくれたの」
「……別に。マルゴに呼ばれただけよ」
 リュシエンヌは目を逸らした。だが膝の上の書類は、彼女が独自に調べた商会の取引先一覧だった。
「これ。アステル商会と取引のあった貴族家のリスト。わたくしの知人に、没落後も帳簿屋で働いている女がいるの。彼女から手に入れた」
 私は書類を受け取る。——リュシエンヌの事務能力と人脈が、ここに来て生きている。
「リュシエンヌ」
「何?」
「帳簿改竄が三年前からだった。あなたのお父様の事件と——」
 リュシエンヌの手が、一瞬だけ震えた。
 だが彼女は背筋を正した。泣くより先に、いつもそうする。
「……そう。三年前。やっぱり繋がっているのね」
「まだ推測よ。でも——」
「推測で構わない」
 リュシエンヌは真っ直ぐにこちらを見た。琥珀色の目に、涙ではなく炎があった。
「あなたの推測は、いつだってただの推測では終わらないでしょう。——続けて」
 私は頷いた。
 そして、隠し部屋のこと、解読できない古文書のこと、番頭の消えた罪悪感のことを話した。
「……古文書」
 リュシエンヌが呟いた。「父の手記にも、古い記録への言及があったわ。父は読めなかったようだけど——『極めて古い文書体で記された禁術の記録が存在する』と」
 符合する。全てが、少しずつ繋がっていく。


オスカー様への報告は、短く済ませた。
 古文書は渡さなかった。まだ内容が分からない以上、手元に置いておくべきだと判断した。
「……興味深い」
 オスカー様は万年筆を一瞬止めた。「商会の倉庫に、解読不能の文書か。——慎重に進めなさい。君の安全が最優先だ」
 それは優しさだろうか。それとも——
 読めない。この人の奥底は、いつも。


顧問府の廊下。
 窓の外では、裸の枝が冬の風に揺れている。

「あなた、この商会のこと、前から知っていたのでは?」
 レクトは——ゆっくりと頷いた。
「……ああ。俺がこの任務を志願した理由の一つだ」
 志願? 配属ではなく、自ら望んで?
「『一つ』? 他にも理由があるの?」
 レクトは少しだけ笑った。飄々とした笑みではない。困ったような、どこか恥ずかしそうな。
「……あなたの傍にいたかった。——護衛としてね」
 耳が熱くなる。
「顧問様」
 マルゴの声が、後ろから飛んできた。「耳が赤いです」
「……黙りなさい」
 私は顔を背けた。

そして——ふと、思い出した。
 あの蜂蜜色の髪の女。子爵家の娘セシリアが証言した人物。舞踏会で王太子の傍にいた令嬢。
「あの商会と、蜂蜜色の髪の女。——繋がりがあるのかしら」
 声に出したつもりはなかった。でもレクトは聞いていた。
「蜂蜜色の髪?」
「……子爵夫人の事件で、娘が言っていた。お母様を変えた人物。蜂蜜色の髪の女性。——あの舞踏会で見た令嬢と、特徴が一致するの」
 レクトの目が、僅かに鋭くなった。
「覚えておく」
 それだけ言って、レクトは再び歩き出した。


その夜。
 執務室の暖炉に薪がはぜる。窓の外は漆黒で、初冬の風が木枠を揺らしていた。
 マルゴが温かい茶を置いてくれた。
「顧問様、無理なさらないでくださいね。あと——」
 少しだけ悪戯(いたずら)っぽく笑う。
「騎士団長様、すごく心配してましたよ。あれは絶対、お仕事の顔じゃなかったです!」
「仕事です」
「本当にー?」
「本当」
 マルゴはくすくす笑いながら出て行った。

一人になる。
 古文書を開く。読めない文字の羅列。だが——この中に、答えがある。
 あの商会が全ての事件に繋がる結節点だとすれば。
 外交官の取引先。騎士の護衛任務。番頭の消えた罪悪感。そして帳簿改竄と同時期に起きたモンフォール事件。
 これだけの規模の改竄を、罪悪感なしに?
 何かが——この商会の奥にある。

古文書を閉じ、暖炉の火を見つめる。
 炎が揺れる。

——レクトのことを考えていた。
 「傍にいたかった」と、あの人は言った。嘘がつけない人が。
 くだらない、と思いたかった。
 いつもならそう切り捨てる。誰かの好意も、自分の感情も、社交界の嘘も——全部、くだらないと。
 でも——

調律への怒り。
 感情を奪われた人々への痛み。
 リュシエンヌとの、不器用な絆。
 マルゴの、根拠のない「絶対」。
 オスカー様の、読めない真意。
 この国で起きていることを、見過ごせない自分。
 そして——あの人の傍にいると、楽だと感じてしまう私。

その全部が。

——くだらなくない。

窓の外で、裸の枝が風に(きし)んでいる。
 冬が来る。
 でも私は——もう、目を背けない。

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