春の陽射しが、窓から長い矩形を描いていた。
あの日から数日が過ぎた。正確な日数を数える気力もない。三日か、四日か。好感度が崩壊したあの朝からずっと、俺は教室の窓際の席で——ただ、外を見ていた。
中庭の木々が若葉を広げている。まだ柔らかい黄緑色の葉が、風に吹かれるたびに裏返って銀色に光る。入学したときは桜が咲いていたのに、もう新緑の季節だ。
今まで、こんなものを見る余裕はなかった。誰かの好感度が1上がった、2下がった。その変動を追うことに忙しくて、窓の外の景色なんて目に入らなかった。
教室では授業が続いている。教授の声。羽ペンが紙を走る音。その中に、俺だけがぽっかりと切り離されたように座っている。
マルクスの頭上——45。目が合うことはない。あの暴露以来、マルクスは俺を視界に入れないようにしている。俺も同じだ。今さら何を言えばいいのかわからない。
セリアは事務的だった。班分けの連絡事項だけを淡々と伝えてくる。51。礼儀としての最低限。それ以上でもそれ以下でもない。
ヨハンに至っては、俺が透明になったかのようだった。47。廊下ですれ違っても、完全に素通り。
かつて暖色で満たされていた教室が、今は黄色と灰色のまだら模様だ。
不思議と——もう、胸は痛まなかった。
正確に言えば、痛む気力が残っていなかった。数日前まで必死に追いかけていた好感度の数字を、今はただ眺めている。追わない。上げようとしない。下がっても対策を考えない。
最適化を止めた——というと格好いいが、実際はただ疲れただけだ。
もう、数字のために笑う体力がない。
放課後の鐘が鳴る。クラスメイトがぞろぞろと教室を出ていく。誰も俺に声をかけない。数日前までは「蓮くん、一緒に帰ろう」と言ってくれた何人かも、今は黙って通り過ぎる。
俺は最後に教室を出て、寮への道を一人で歩いた。
渡り廊下を抜けるとき、春の風が吹き込んできた。暖かい風だ。新緑の匂いがする。その風を心地いいと感じた自分に、少し驚いた。
夕方。寮室に戻り、椅子に座ったまま何をするでもなく過ごしていた。教科書を開いたが、一行も読めていない。窓の外では、夕日が校舎の尖塔を朱色に染めている。
ノックの音がした。
軽い、が、遠慮のないリズム。
「よっ」
扉を開ける前から声が聞こえた。カイルだ。
鍵を開けると、赤茶色の寝癖頭が視界に入った。琥珀色の目が、いつものように屈託なく笑っている。
頭上の数値。65。
「最近元気ないな——ってか、前からか。前からだな」
「……うるさいな。何しに来た」
「暇だから。あと蓮の部屋のベッド、座り心地いいんだよな」
言うが早いか、カイルはずかずかと部屋に入り、俺のベッドにどかりと腰を下ろした。スプリングが盛大に軋む。こいつは人の部屋を自分の家みたいに使う。
俺は椅子に座ったまま、カイルを見た。65。窓から差し込む夕日に照らされて、その数字が橙色に輝いている。この教室が灰色に沈んだ数日間、この男の数字だけが色を変えなかった。
カイルがベッドの上であぐらをかいて、こちらを見た。
「なあ蓮。俺、ずっと聞きたかったことあんだけど」
「……何」
「お前さ——いつも人の頭の上見てるよな」
心臓が跳ねた。
「入学初日からだぜ」
カイルの声には追及の色がなかった。ただ不思議そうに、首を傾げている。
「教室でも、食堂でも、廊下でも。人と話すとき、相手の目じゃなくて、ちょっと上を見る。癖なのかもしんないけど、俺はずっと気になってた」
沈黙が落ちた。窓の外で、鳥が一声鳴いた。
「何が見えんの? 幽霊?」
65。その質問に裏はない。探りでも試しでもない。入学初日からの純粋な疑問を、ようやく口に出しただけだ。
能力のことを——話すか。
六年間、誰にも言っていない。母にも、リーナにも。この能力を打ち明ければ気味悪がられるかもしれない。距離を置かれるかもしれない。あるいは同情されるかもしれない。どちらにしても、今ある関係が変わる。
でも。
嘘をつく気力が、もう残っていなかった。
そして——カイルにだけは、嘘をつきたくなかった。
「……見えるんだ。人の気持ちが——数字で」
声が掠れた。最後に本音を口にしたのが、いつだったか思い出せない。
カイルが目をぱちくりとさせた。
「は? 数字?」
「好感度、みたいなもの。0から100で。相手が俺をどう思ってるか、数字で見える」
言ってしまった。比喩でも曖昧な表現でもない。そのまま、全部。
カイルは数秒黙って——それから。
「マジで? ……マジで?」
「マジで」
「へー」
拍子抜けするほど、軽かった。
嫌悪でも、同情でも、恐怖でもない。「今日の晩飯なに?」と聞いたときと同じトーンの「へー」だった。
「で、俺は何点?」
「……65」
「65!? 微妙じゃね!? せめて70くれよ!」
「……俺が決めるんじゃない」
「あ、そうなの? 勝手に見えんの? うわ、それちょっと大変だな」
65。
カイルの頭上の数字は、この会話が始まってからぴくりとも揺れていない。俺が六年間隠してきた能力を——好感度が数字で見えるという、気味の悪い秘密を打ち明けた、この瞬間にも。
上がらない。下がらない。同情も幻滅もない。カイルの65は、俺の告白を「へー」で受け止めて、何事もなかったように同じ温度を保っている。
目頭が熱くなった。
泣くわけにはいかない。こんなところで泣いたら、カイルが変に気を遣う。65が動くかもしれない。——いや、たぶん動かないけど。でも泣くな。泣くのは違う。
俺は唇を噛んで、熱いものを飲み込んだ。
「ていうかさ」
カイルが足を組み替えた。ベッドのスプリングがまた軋む。
「数字で人の気持ちがわかるって、便利じゃん。なのにお前、なんでそんな辛そうなの?」
「……便利なんかじゃない」
喉の奥から、言葉が零れた。堰を切ったように。
「数字を見るたびに、その数字を上げたくなる。上がらないと不安になる。下がると怖くなる。いつの間にか——人を見るんじゃなくて、数字を見るようになってた」
カイルは黙っていた。琥珀色の目が、静かに俺を見ている。
「リーナの好感度が、毎日下がってた。俺はそれを止めたくて、色々やった。でも全部裏目に出た。なぜかわかるか?」
「……」
「俺はリーナのために動いてたんじゃない。数字を元に戻すために動いてた。リーナは——それを見抜いてた」
沈黙。
窓の外で夕暮れが深まっていく。朱色だった空が、紫に変わり始めている。春の夕方は短い。
「難しいことはわかんねーけどさ」
カイルの声が、静かに落ちてきた。いつもの「難しいことはわかんねー」。でも今日のそれは、投げやりじゃなかった。ゆっくりと、言葉を選ぶような間があった。
「俺はお前の65が何点だろうが、別にどうでもいいんだよ」
「……」
「お前と飯食って、バカ話して、たまに素振り見てもらって。それだけで俺は楽しいし。それって数字以前の話じゃん?」
一拍。
「数字がなくても、友達じゃん」
65。
その数字が——今までで一番、あたたかく見えた。
何も変わっていない。入学初日から同じ、65。でもこの瞬間の65には、春の夕日みたいな温度があった。変わらないことが——初めて、救いになった。
俺は天井を向いた。泣きそうな顔を見せたくなかった。だから天井を見たまま、低い声で言った。
「……ありがとう」
「おう」
カイルはそれ以上何も言わなかった。ベッドの上で大きなあくびをして、窓の外の夕焼けをぼんやり眺めている。
この男は——深刻な場面を、深刻なまま放置しない。感動的な空気を作らない。ただ隣にいて、あくびをする。
それが——今の俺には、何よりありがたかった。
翌朝。
俺は教室に向かった。
廊下を歩く。すれ違う生徒の頭上に数字が浮かぶ。能力は消えていない。昨日カイルに打ち明けたからといって、何かが変わるわけではない。
教室の扉を開けた。灰色と黄色の数値が視界に散らばる。変わっていない。マルクス45。セリア51。ヨハン47。
でも——今日の俺は、その数字に対策を練ろうとしなかった。
自分の席に座る。教科書を出す。窓の外では、朝の風が中庭の木々を揺らしている。
一限目が始まるまで少し時間がある。教室の喧騒の中で、俺はぼんやりと窓の外を見ていた。
マルクスが教室に入ってきた。45。
俺は——数字を見る前に、口を開いた。
「おはよう」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。最適化の結果じゃない。数値を確認してから発したものでもない。ただマルクスが目の前を通ったから、反射のように。
マルクスが足を止めた。少し驚いたような顔。数日間、俺が誰にも声をかけなかったから、意外だったのだろう。
「……おはよう」
硬い声。目を合わせたのは一瞬で、すぐに自分の席に向かった。
45。変わらない。上がらなかった。
でも——それでいい。
好感度を上げるための「おはよう」じゃない。上がらなくても、俺が損をするわけじゃない。ただの挨拶だ。ただの、朝の挨拶。
二限目の休み時間。
渡り廊下に出たとき、春風が吹き抜けた。暖かい風。新緑の匂い。遠くで誰かが笑っている声。
その風の向こうに——亜麻色の髪が見えた。
リーナが渡り廊下の反対側から歩いてきた。魔法科の教科書を胸に抱えている。たぶん合同講義の教室に向かう途中だ。
頭上の数値。55。
数日前から変わっていない。58から急落して、そこで止まった数字。
俺は——最適解を探さなかった。
リーナとの距離が、どう声をかけるか逆算しなかった。表情を作らなかった。声のトーンを調整しなかった。
ただ、言った。
「おはよう、リーナ」
いつもと同じ言葉だ。入学初日から何十回と繰り返してきた挨拶。
でも——いつもと違う。
数字を見てから言葉を選んだのではなく。55という数値に対する最適な反応を計算したのでもなく。ただ、リーナが目の前にいるから。ただ、それだけの理由で発した、素の声。
リーナが少し目を見開いた。
翡翠色の瞳が、俺の顔を見ている。頭上ではなく——顔を。俺も、リーナの顔を見ていた。頭上の数字ではなく。
「……おはよう」
リーナの声は小さかった。でも——硬くはなかった。あの日の渡り廊下で「わたしはここにいるのに」と言ったときの、凍りついた声とは違う。かすかに——ほんのかすかに——柔らかかった。
リーナはそのまま歩き去った。振り返らなかった。
俺も立ち止まらなかった。歩き続けた。
数歩進んでから——気づいた。
55が、56になっていた。
たった1。
たった1ポイント。
でもそれは——俺がこの学園に入ってから、初めてリーナの好感度が上昇した瞬間だった。
入学初日は72。そこから毎日のように削れ続けた数字が、55まで落ちて——今、56。
この1ポイントには、何の計算もない。最適化の結果ではない。好感度を上げるために選んだ言葉ではない。
ただの「おはよう」で——リーナが、自分の意思で、1ポイント上げた。
目が熱くなった。
渡り廊下の真ん中で立ち止まりそうになって、唇を噛んだ。こんなところで泣くわけにはいかない。渡り廊下は人通りが多い。
春の風が、頬を撫でるように吹いた。新緑の葉が風に揺れて、さわさわと音を立てている。
俺は歩き出した。熱いものを胸の奥に押し込んで。
放課後。中庭を歩いていた。
春の風が、今日は特に穏やかだった。午後の陽射しが中庭の芝生を明るく照らし、あちこちのベンチで生徒たちが談笑している。
数字はまだ見える。
能力は消えていない。これからも消えないだろう。目を開けている限り、人の頭上に数値が浮かび続ける。
でも——今日、俺は少しだけ「数字の向こう側」を見た気がする。
カイルの65。リーナの56。マルクスの45。母の91。
数字は変わる。上がったり下がったり。でもその数字の裏には、人がいる。笑ったり怒ったり、悩んだり泣いたりしている、生きた人間がいる。
俺は——数字を見ていた。人を見ていなかった。
リーナの好感度が73から55に落ちる間、俺が見ていたのは数字だけだった。リーナの表情も、声のトーンも、伸ばしかけた手も——全部、数字の付属品でしかなかった。
それは、前の人生で画面越しの数字だけを見ていたのと、何も変わらない。
これからは——数字が見えても、人を見たい。
まだうまくできない。最適化の癖は染みついている。数字を見れば、つい対策を考えてしまう。さっきマルクスに「おはよう」と言ったとき、一瞬だけ「これで好感度が上がるかもしれない」と期待した自分がいた。
六年間——いや、前の人生を含めればもっと長い時間をかけて身についた癖は、一日で抜けるものじゃない。
でも少なくとも、「それじゃダメだ」と気づいた。
気づいただけで——何かが変わった気がする。
小さな変化だ。世界はまだ灰色と黄色の数字で溢れている。クラスの信頼は戻っていない。リーナとの関係も、たった1ポイント上がっただけだ。
でも——あの1は、俺がこれまで積み上げたどの数字よりも重かった。
中庭のベンチに腰を下ろした。春の風が吹き抜ける。暖かい。穏やかな午後だ。
ふと、隣のベンチで話しているクラスメイトの会話が耳に入った。
「来月、転入生が来るらしいよ」
「へー、この時期に?」
「なんか変わった子らしいよ。詳しくは知らないけど」
俺は聞き流した。
でも一瞬だけ——転入生の頭上に浮かぶはずの数値を、想像した。何点だろう。初対面の初期値は大体40前後だ。高ければ50。人懐っこいタイプなら——
そこで首を振った。
——まだ会ってもいない相手の数字を、想像してどうする。
癖だ。すぐに数字で考えようとする。それが俺の悪い癖で——たぶん、一番最後まで残る癖だ。
でも今日は、首を振れた。想像を止められた。
それだけでいい。今は。
春風が、もう一度吹き抜けた。
新緑の匂いを運ぶ、暖かい風。
俺はベンチに背中を預けて、空を見上げた。数字のない空。青と白だけの、広い空。
数字の向こう側は——思ったより、広かった。