教室の扉を開けた瞬間、色が違った。
いつもなら暖色の数値がざわめく朝の教室。橙色の50台が並び、その隙間を黄味がかった40台が埋める——それが、この二週間半で見慣れた風景だった。
今朝は、くすんでいる。
マルクス——『50』。昨日の廊下で55だったはずだ。セリア——『51』。ヨハン——『47』。入学初日に43だった男が、俺と二週間付き合った結果、47。ほとんど変わっていない。
他のクラスメイトも軒並みマイナス。44、41、38——暖色が褪せて、黄色と灰色の境目みたいな色ばかりが視界を埋めている。
何が起きた?
席に向かう。
いつもなら「おはよう」の声がかかる距離だ。マルクスの席は俺の二つ隣。朝の挨拶を交わすのが日課だった。
マルクスがこちらを一瞬だけ見て、視線を手元の教科書に落とした。『50』。怒りの色ではなかった。もっと静かな——商家の息子が帳簿を閉じるときの目。見切り。
俺が席に座る。隣のクラスメイトが、ほんの少しだけ椅子を引いた。音すら立てない微かな動作。でも数値は正直だ。そいつの頭上の『42』が、俺の着席と同時に『40』に沈んだ。
原因がわかったのは、一限目が始まる前のことだった。
教室の後方、ヨハンの席のあたりに固まったグループから、声の断片が届く。
「——柊って、計算して人に近づいてるらしいよ」
空気が、耳の奥で凍った。
「席替えのときも、わざとあの提案したんだって」
「マルクスが言ってた。あいつ、誰にでもいい顔してるけど全部演技だって」
声のトーンに悪意はなかった。それがかえって堪えた。噂話を楽しんでいるのではない。「気をつけたほうがいい」と情報を共有する声音だった。
マルクスが広めた。
振り返ることはしなかった。でも、視界の端でマルクスの数値が見えた。『50』が——講義前の数分で、『45』に落ちた。
俺がこの教室にいること自体が、マルクスの数値を削っている。
マルクスは俺を嫌いになったのではない。これは敵意の数字じゃない。商家の息子として、「不誠実な取引」を看過できなかった。
俺の人間関係は、マルクスの目には取引に映っていたのだ。笑顔と親切を通貨にして、好感度という利益を得る——そういう商売。マルクスはその不正を、取引相手全員に通告した。商人として当然の行動だ。不誠実な商売人がいたら、仲間に警告する。それがマルクスの正義。
正義だからこそ——数値の落ち方が、冷静だった。
一限目の講義。教授の声が、水の底から聞こえるみたいに遠い。
視界の中で数字が沈んでいく。
セリアが講義中に一度だけ俺のほうを見た。薄い茶色の瞳が、何の表情も浮かべないまま、すぐに逸れた。『51→49』。
セリアは噂を鵜呑みにするタイプじゃない。ただ、「何か引っかかるものがあった」のだろう。俺がいつも「ちょうどいい距離」で「ちょうどいいこと」を言っていたこと。あれが自然ではなかったかもしれない——その疑念だけで、上位貴族は距離を取る。
ヨハン——『47→45』。午前中だけでさらに2ポイント。灰色に近い色だ。あのくじ引き操作の件と、俺が両派閥の間を立ち回っていた事実が結びついたのだろう。「どっちの味方でもなかった。両方いい顔していただけだ」。ヨハンの頭の中にはきっと、そういう結論が浮かんでいる。
教室の平均好感度が、一気に10ポイント以上落ちた。
入学三日目から二週間かけて積み上げた成果が——一朝で崩れた。
いや。「崩れた」より「剥がれた」が近い。上物が風で飛んだだけだ。基礎は最初からなかった。好感度最適化で得た評価は、「柊蓮」への評価じゃなかった。「柊蓮の最適化された対応」への評価だった。対応の裏に計算があると知れた瞬間に、根拠ごと瓦解した。
砂の城だ。
俺はこの二週間半、砂の上に城を建てていた。
昼休み。
食堂の隅のテーブルに、一人で座っていた。
いつもの席ではない。マルクスやセリアと同じ列の席には、今日は近づけなかった。近づけば数値がまた削れる。俺が近くにいるだけで。
トレイの上のスープが冷めていく。パンをちぎる。口に運ぶ。味がしない。
食堂は昼の喧騒で満ちている。文官科、剣術科、魔法科——三学科の生徒が入り混じる場所。俺の周りだけが、ぽっかりと空いていた。
トレイが、目の前に置かれた。
向かいの席に、赤茶色の寝癖頭が座った。何の断りもなく、当然のように。
65。
「なんか今日、お前まわりの空気おかしくね?」
「……気のせいだろ」
「嘘つけ。お前ひとりでメシ食ってるとか初めてじゃん」
カイルがスープの皿を引き寄せながら、こちらを見た。琥珀色の目に、探るような色はない。ただ、見ている。
65。カイルの数値は噂に影響されない。当たり前だ。こいつは噂を聞いても「で?」で終わる人間だ。他人の評判で自分の判断を変えない。
「蓮が計算高いとか言ってるやつ、いるけどさ」
聞いていたのか。
「俺別にどうでもいいんだよな。お前と飯食うのは楽しいし」
声が詰まった。
何か返そうとした。「ありがとう」とか「助かる」とか、最適な返答を探す癖が発動して——止まった。
65。この数値は俺が何を言っても動かない。気の利いた言葉を返しても、黙っていても、65のままだ。
だから。
「……カイル」
「ん?」
「飯、うまいか」
「おう。今日のBランチ当たりだな。肉が分厚い」
カイルが肉を頬張る。パンをちぎる。スープをすする。向かいの席で、いつもと同じように飯を食っている。
周りのテーブルでは、クラスメイトたちが俺を避けて固まっている。その中心に俺と——カイルだけが、食堂の隅で二人で向かい合っている。
65。噂で動く数字と、噂では動かない数字。
教室の三十人が一斉に下方修正をかける中で、この男だけが——朝も昼も、入学初日からずっと、同じ場所にいる。
カイルにとって、俺が「計算して人付き合いをしていた」かどうかは、飯がうまいかどうかより重要度が低いのだろう。こいつの世界はそういうふうにできている。俺にはそれが——今日だけは、少しだけ眩しかった。
午後の講義が終わり、渡り廊下を歩いていた。
春の夕方の光が、石造りの柱の間から斜めに差し込んでいる。中庭の若葉が風に揺れて、淡い緑の匂いがした。入学して十六日目の春。季節だけが、何も変わらずに進んでいる。
渡り廊下の先——魔法科の校舎に繋がる一角に、人影が見えた。
亜麻色の髪。ハーフアップ。隣には魔法科の制服を着た女子生徒が二人、連れ立って歩いている。
リーナ。
反射的に頭上を見た。
『55』。
昨日は58だった。一日で3ポイント。昨日の中庭での対決の余波だけではない。噂がリーナの耳にも届いたのか。それとも、あの「もういい」から一晩経って、失望がさらに数値に沁みたのか。
あるいは——もう、どちらでもいいのかもしれない。リーナにとって俺は、「理由を気にする相手」ですらなくなりつつある。
三十歩ほどの距離。声をかけようと思えばかけられる。
リーナがこちらを——向いたように見えた。一瞬だけ、渡り廊下のこちら側に視線が動いて。
すぐに前を向き直した。
気づかなかったのか。気づいて、目を逸らしたのか。わからない。55という数値からは、そのどちらかを読み取ることはできない。
友人たちの笑い声と一緒に、亜麻色の髪が廊下の奥に遠ざかる。角を曲がって、消えた。
渡り廊下に、俺だけが残った。
春風が石の床を抜けていく。暖かいはずの風が、今日はやけに冷たかった。
寮の自室。
机の引き出しからノートを取り出す。好感度推移記録。入学初日から毎日つけているグラフ。
ページを開く。
リーナの折れ線。73から始まる線が、一度も上向きに転じることなく、右肩下がりに降りている。72、71、70、69、67、66、65、58——そして今日、55。入学から十六日で、18ポイント。
その隣に、クラスメイトたちの推移。セリア、ヨハン、マルクス。入学三日目から急上昇した曲線が、今日一日で出発地点より下に叩き落とされている。
二週間かけて積み上げたものが、一日で崩れた。
——いや。
ペンを置いた。
「今日」崩れたのか?
本当に崩れたのは、今日じゃない。最初から、砂の上に建てていたのだ。
好感度最適化で稼いだ数値は、セリアが「家門を褒めてくれる蓮」を評価した結果だ。ヨハンが「下手に出てくれる蓮」を評価した結果だ。マルクスが「うまく仲裁してくれる蓮」を評価した結果だ。
「蓮」を好きだったわけじゃない。
本体がバレたら、上物は崩れる。基礎のない構造物に耐久性はない。
ノートのページを繰る。
折れ線の群れ。上がったり下がったりする線が入り乱れる中に、一本だけ——まっすぐな水平線がある。
65。
入学二日目から今日まで、一度も振れていない線。
あいつだけが——最初から、俺の「対応」ではなく、「俺」を見ていたのかもしれない。だから最適化しても上がらなかったし、噂が回っても下がらなかった。カイルにとって、俺の演技も計算も、好感度の材料じゃなかった。
何を意味するのか、わかったつもりになるのは嘘だろう。今日一日で「気づき」を得ましたなんて、そんな安い話にしたくない。
でも。
明日の昼、カイルはまた向かいに座る。何も言わず、Bランチのトレイを置いて、肉が薄いだの厚いだの言うだろう。
そのとき俺は——65という数字の手前で、あいつの顔を見られるだろうか。
わからない。
ノートを閉じた。引き出しに戻す。
灯りを落とす。
暗い部屋で、まぶたの裏に数字が残っている。50、49、45、55——崩れた数値の残骸が、ちらちらと明滅する。
その中に、一つだけ。同じ明るさで灯り続けている数字がある。
目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐いた。