朝の食堂に足を踏み入れた瞬間、違和感があった。
リーナの席が——違う。
いつもなら入口から三つ目のテーブル、俺の対面に座る。入学以来ずっとそうだった。でも今朝、亜麻色の髪は窓際の奥、魔法科のクラスメイトたちに囲まれた席にあった。
リーナの頭上。65。昨日と同じ数字。
でも——色味が違った。いつもの暖かなオレンジが、黄色のほうにくすんでいる。数値は同じなのに、温度だけが下がったような。
俺はいつもの席に座った。トレイにスープとパンを乗せて、スプーンを取る。
リーナのほうを見る。目が合わない。俺のことが視界に入っていないわけはない。食堂はそこまで広くない。
避けられている。
65。数字だけを見れば、昨日と何も変わっていない。でも物理的な距離が変わった。いつもの席に座らなかった。それは数字には表れない変化だ。
パンをちぎる。口に入れる。味がしなかった。
二限目。合同講義の大教室。
文官科と魔法科が一緒に受ける週に一度の講義。いつもならリーナは俺の隣に座る。入学初日からずっと、当然のように。
今日、リーナは二列前の席にいた。別のグループの隣。後ろ姿しか見えない。亜麻色の髪が、ハーフアップのリボンで束ねられているのだけが見える。
65。
教授が何かを話している。ノートにペンを走らせるが、文字が頭に入ってこない。右手が勝手にメモを取っているだけで、意味を追えていない。
数値は同じだ。65。昨日と同じ。一昨日と同じ。
でも——二列分の距離が、そこにある。
いつもの隣の席は空席だった。俺の左側に、誰もいない空間がぽっかりと口を開けている。
数字に表れない変化がある。
入学してから、こんなことは初めてだった。リーナが俺の隣を選ばなかった日は、一度もなかった。たとえ好感度が73から65まで下がり続けた二週間の間も、隣の席だけは変わらなかった。
それが今日、変わった。
ノートの余白に、無意識にリーナの好感度推移を書きかけて——手を止めた。73、72、70、69、67、66、65。もう何度書いたかわからない数列。でも今日は、数列よりも二列前の後ろ姿のほうが気になった。
昼休み。
リーナを探した。食堂にはいなかった。中庭のいつものベンチにもいなかった。
渡り廊下を歩いていたとき、魔法科の校舎に続く角の手前で、亜麻色の髪が見えた。
リーナが一人で歩いていた。
「リーナ」
声をかけた。リーナの足が止まる。振り返る。翡翠の目が俺を見た。
65。色は朝と同じ。黄色にくすんだ、冷たいオレンジ。
「……ちょっと話せるか?」
リーナは少し間を置いて、答えた。
「いいよ」
声は穏やかだった。怒ってはいない。でも、いつもの軽さがない。渡り廊下の真ん中で、リーナは立ち止まったまま動かなかった。いつものベンチに行こう、とは言わなかった。
座らない。ここで話す、ということか。
春の光が渡り廊下のアーチから差し込んでいる。中庭の木々が風に揺れて、木漏れ日がリーナの髪に斑の模様を落としていた。
沈黙。
何を言えばいい。「最近、避けてないか」——それは詰問だ。「何か怒ってる?」——それは地雷を踏みに行く行為だ。最適な言葉を探そうとして、頭が回転する。
リーナが先に口を開いた。
「蓮、ひとつ聞いていい?」
「ああ」
リーナの翡翠の目がまっすぐ俺を射抜いた。
「わたしのこと、好き?」
思考が停止した。
渡り廊下の春風が、二人の間を吹き抜けていく。木漏れ日が揺れる。遠くから鳥の声。
リーナは俺の沈黙を待って、続けた。
「恋とか、そういうんじゃなくて」
声は落ち着いていた。怒りの色はない。
「友達として、幼馴染として、でもいいの。わたしの——『何が』好きなの?」
答えなければ。
リーナの何が好きか。翡翠の目。亜麻色の髪。世話焼きで、ツッコミが鋭くて、怒ると敬語になるところ。
——全部、外側だ。属性だ。リーナの外見と、性格のカタログを読み上げているだけだ。リーナ本人を見ていない。
「お前は——いつも俺のことを心配してくれて」
ようやく出た言葉が、それだった。
「それ、わたしじゃなくてもできるよね」
リーナの声は静かだった。
「誰でも心配はできる」
春風が止まった。渡り廊下のアーチの影が、石畳の上で動かなくなった。
俺の頭の中をよぎるのは——数字だった。73、72、70、69、67、66、65。リーナの好感度推移。数列は覚えている。下落のタイミングも、色味の変化も、全部記録してある。
でも。
リーナが最近何を楽しいと思っているか。魔法科の授業でどんなことを学んでいるか。誰と仲良くなって、何に悩んでいるか。どんなときに笑うのか。
知らない。何も知らない。
「リーナは——」
「ほら、言えないじゃん」
静かな声だった。怒りではない。確認するような口調。ずっと前から気づいていたことを、ようやく声に出した、という響き。
「蓮、あなたはわたしを見てるんじゃない」
リーナの翡翠の目が、真っ直ぐに俺を捉えていた。一瞬、言葉を探すように視線が揺れて——
「わたしの——上に浮かんでる何かを見てるの」
血が凍った。
バレた? いや——リーナは能力のことを知らない。知るはずがない。これは比喩だ。
でも、あまりにも正確すぎる比喩だった。
65——。
数字が動いた。
60。
一気に5ポイント。黄色にくすんでいたオレンジが、薄い緑色に変わった。暖色の領域を割り込んだ。好意と中立の境界線。
リーナの目に涙はなかった。むしろ——晴れやかにすら見えた。胸の奥に溜め込んでいたものを、ようやく外に出した。そういう表情だった。
「前から感じてた」
リーナの声は穏やかだった。諦めでも怒りでもない。事実を確認するような、透明な声。
「10歳くらいから——蓮、変わったよね。人の顔色ばっかり見るようになった。わたしにも、他の人にも、同じように気を遣って」
一拍。
「誰にも本気じゃない」
60——58。
さらに2ポイント。春の光の中で、薄い緑の数字が静かに揺れていた。
「もういい」
リーナの声に震えはなかった。
「あなたが何を見てるのか知らないけど」
翡翠の目が、最後にもう一度だけ、俺を見た。
「——わたしはここにいるのに」
リーナが踵を返した。
渡り廊下を歩いていく。亜麻色の髪が春風に揺れる。一度も振り返らない。背筋が真っ直ぐ伸びた、毅然とした後ろ姿。
58。
その数字が、アーチから差し込む光の中で、小さくなっていった。
放課後。
中庭のいつものベンチに座っていた。一人で。
渡り廊下の、あの場所ではない。あそこには戻れなかった。
58。
リーナの好感度が一度に7ポイント落ちた。入学以来の最大の落差。73から始まって、二週間かけてじわじわ削れた8ポイントよりも大きな数字が、一度の会話で消えた。
でも——。
58という数字よりも、リーナの言葉が頭から離れなかった。
「わたしはここにいるのに」
あの声。震えのない、透明な声。怒ってはいなかった。泣いてもいなかった。ただ、事実を告げていた。
俺は何を見ていた?
数字だ。
73から65まで、15ポイントの下落を見ていた。リーナが何を感じていたかではなく、数字がいくつ下がったかを追いかけていた。下がったから焦った。焦ったから菓子を買った。思い出話を振った。「大丈夫か」と聞いた。
全部、数字を戻すためだった。リーナのためじゃない。
リーナはそれを——数字なんか見えないのに、全部わかっていた。
「あなたはわたしを見てるんじゃない。わたしの上に浮かんでる何かを見てるの」
比喩だ。リーナは能力のことを知らない。
でも、その比喩は完璧に正しかった。俺は六年間、リーナの頭上の数字を見ていた。リーナの顔を見ていなかった。翡翠の目も、笑ったときのえくぼも、怒ったときの眉間のしわも——全部、数字の付属物としてしか見ていなかった。
春風が中庭の木々を揺らした。新緑の葉がさわさわと音を立てる。
ベンチの隣は空いている。いつもならリーナが座っていた場所。
能力が覚醒してから六年。ずっと数字を追いかけてきた。リーナの好感度が下がるたびに、対策を練った。上げるための「正解」を探した。
でもリーナが求めていたのは——正解じゃない。
何を求めていたのか、まだわからない。
58。目を閉じても、薄い緑の数字がまぶたの裏に残っている。
でも今日は——数字よりも、リーナの目を思い出していた。
あの最後の一瞬。「わたしはここにいるのに」と言ったときの、翡翠の目。そこにあったのは怒りではなかった。
寂しさだった。
六年分の、静かな寂しさ。
ベンチから立ち上がる気力がなかった。春の光が中庭を満たしていく。鐘が鳴った。放課後の終わりを告げる鐘。立ち上がらなければ。
立ち上がった。
足が重い。何をすればいいかわからない。数字を戻す方法は——いや、そうじゃない。それはもう、やってはいけないことだと、今日わかった。
じゃあ、何をすればいい。
わからない。
中庭の木々が春風に揺れていた。新緑の匂い。暖かい光。世界は何も変わっていない。
変わったのは、俺の中だけだ。
58。あの数字が、まだ視界の端にちらついている。
でも——その奥にある翡翠の目のほうが、ずっと鮮明だった。