目を閉じた。
暗闇——ではなかった。
瞼の裏に映像が流れ始める。今日一日の光景。ただし、人の顔がない。教室の風景が、食堂の喧噪が、渡り廊下の夕日が——すべて背景だけぼやけて、頭上の数字だけが鮮明に再生される。
セリアの55。ヨハンの50。マルクスの56。
数字が浮かび、数字が揺れ、数字が静止する。カイルの65。リーナの66。
映像は巻き戻り、また再生される。
55、50、56、65、66——番号だけの世界。そこに人の顔はない。セリアがどんな表情をしていたか、思い出せない。マルクスの声のトーンが、どうだったか。ヨハンが何を言っていたか。
覚えているのは、数字だけだ。
春の夜。寮の自室。窓から入る風は温い。シーツの上で身体が強張っている。
目を開けた。天井が暗い。数字はない。でも瞼を閉じれば、また始まる。
入学十二日目の夜だった。
眠れないまま、記憶が滑り落ちていく。この世界の記憶ではなく、もっと前の。
白い蛍光灯。会議室のテーブル。ノートPCの画面に映し出された棒グラフ。
前世——柊蓮太郎、三十一歳。期末の評価面談。
上司の中村さんが画面を俺のほうに向けた。色分けされたセル。赤、黄、緑。俺の名前の行は、ほとんどが黄色だった。
「柊くん、今期はちょっと期待値を下回ってるかな」
声は穏やかだった。責めているわけではない。事実を述べているだけだ。数字が、俺の半年間を裁いていた。
「コードの品質は問題ない。ただ、チーム貢献のスコアがね。もう少し周りと連携してくれると助かるんだけど」
チーム貢献。四段階評価の2。「やや不足」。
あの夜も眠れなかった。布団の中で行動リストを作った。上司の好む報告書のフォーマットを調べる。チームの飲み会には必ず顔を出す。朝会では積極的に発言する。笑顔。相槌。適切なタイミングでの冗談。
評価スコアを上げるための最適な行動パターン。
翌期、チーム貢献は3に上がった。「標準」。中村さんは笑って「良くなったね」と言った。
嬉しかったか? 覚えていない。覚えているのは、3という数字だけだ。
——今やっていることと、何が違う。
暗い天井に問いかけた。答えはなかった。
結局、うとうとしただけで朝が来た。
顔を洗い、制服に着替えて寮の階段を降りる。春の朝日が廊下の窓から差し込んでいる。暖かい光。
郵便受けに、手紙が一通入っていた。
淡い桃色の封筒。見覚えのある丸い文字。
母さんからだ。
食堂に入る前に、窓際のベンチに座って封を切った。
『蓮へ
学園は楽しい? ちゃんと食べてる?
こちらは庭の薔薇が咲き始めました。今年は暖かいから、例年より早いの。あなたが好きだった白い薔薇も、もう蕾がふくらんでいますよ。
お父様は相変わらず書斎に籠もってばかり。たまにお庭に引っ張り出すのがお母さんの日課です。
たまにはお手紙ちょうだいね。お母さん、寂しいんだから。
母より』
読み終えて、手紙を膝の上に置いた。
母さんの好感度。91。
俺が知る限り、世界で一番高い数値。物心ついてからずっと、母さんの頭上にはその数字があった。90を下回ったことがない。
そして——俺は、母さんの好感度を上げるために何かをしたことが、一度もなかった。
気の利いた言葉を選んだこともない。母さんの前で最適な表情を作ったこともない。好感度の変動を恐れて言葉を飲み込んだこともない。
母さんは勝手に91だった。俺が何をしても、何もしなくても。
手紙をもう一度読み返す。「庭の薔薇が咲き始めました」。母さんの声が聞こえる気がする。台所で鼻歌を歌っている姿。書斎の父を呼びに行って、「またこんな時間まで」と笑う横顔。
91。その数字を思い浮かべても、胸は痛まない。
なのに——リーナの66を思い浮かべると、胸の奥がきゅっと縮む。
なぜだ。91と66。どちらも好意の圏内だ。どちらも俺を嫌ってはいない。数値だけ見れば、91のほうがずっと高い。66だって十分に高い数字のはずだ。
違いは——ひとつだけ。
母さんの91は、「変わらない」と信じている。
リーナの66は、「まだ下がる」と恐れている。
恐怖の正体は、数値の高さでも低さでもなかった。変動だ。下がるかもしれないという可能性。その不確実性が、66を91より怖くしている。
母さんの手紙を丁寧に封筒に戻し、制服のポケットに入れた。
91は動かない。たぶん明日も、来月も。
それは——カイルの65にも、少し似ている。
合同講義。大教室。
全学科の生徒が集まる週一回の講義は、リーナと同じ空間にいられる時間だ。
俺は後方の席に座っていた。教授が魔法理論と行政学の交差点について何かを語っているが、頭に入ってこない。昨夜ほとんど眠れなかったせいで、文字を目で追っても意味が滑り落ちていく。
隣に、ことり、と音がした。
リーナだった。後方の空いた席に教科書を開いている。
66。頭上の数字が見える。色味がくすんでいる。二週間前の73は暖かいオレンジだったのに、今の66はどこか黄土色に近い。
リーナが教科書の端を小さくちぎり、何か書いた。
紙片が机の上を滑ってきた。
『目の下のクマ、ひどいよ』
思わず口元が緩んだ。弱い笑み。
リーナのほうを見ると、翡翠の目がこちらを向いていた。心配の色。眉がわずかに寄っている。
66。動かない。
でも——リーナが心配してくれていることは、数値からではなく、ノートの文字から伝わった。まるい字。「ひどいよ」の「よ」がちょっとはねている。急いで書いたのだろう。
俺もペンを取り、紙片の裏に書いた。
『ちょっと寝つきが悪かっただけ』
滑らせて返す。
リーナが読んで、少しだけ唇を引き結んだ。何か言いたげな顔。でもここは講義中だ。それ以上は書いてこなかった。
66。変わらない。
紙の文字でのやりとりは、声で交わす言葉より少しだけ正直に見えるのかもしれない。あるいは、リーナがもう深追いしなくなっただけかもしれない。
どちらなのかは、数字ではわからなかった。
夜。また眠れなかった。
入学十三日目。昨夜と同じ天井を見つめて、同じ数字が瞼の裏を巡る。
堪えきれなくなって、ベッドを出た。外套を羽織り、寮の裏口からそっと抜け出す。
中庭。春の夜。星がきれいに見えた。
温い空気が肌を撫でていく。遠くで虫の声がする。草の匂い。
ベンチに——先客がいた。
赤茶色の寝癖頭。だらしなく足を伸ばして、空を見上げている。
カイル。65。
「お、蓮じゃん。お前も眠れねーの?」
「……まあ」
「俺は腹減って目が覚めた。夜食食ったら目が冴えちまって」
カイルが隣をぽんと叩いた。座れ、という意味だろう。俺はベンチの端に腰を下ろした。
二人で並んで、空を見上げた。
星が多い。前世の東京では見たことのない数の星が、春の夜空を埋めている。大気が澄んでいるから、光害もない。天の川に似た白い帯が、空の端から端まで架かっていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
虫の声と、遠くの校舎から漏れる魔法灯の薄い光。それだけが夜を満たしている。
「星ってさ」
カイルが唐突に口を開いた。
「数えてもしょうがねーよな」
「……は?」
「いや、ガキの頃さ、弟のアレクが星を数えようとしたことがあんだよ。庭に寝転がって、一個ずつ指差して。百ちょっとで飽きてやめてた」
カイルが短く笑った。
「何百個あるかとか、距離がどうとか。そういうの知らなくても、きれいはきれいじゃん」
65。何気ない声。弟の話をするときの、あの柔らかいトーン。
数えてもしょうがない。
その言葉が、思ったよりずっと深く、胸に刺さった。
星を数えても、星はきれいなままだ。数えたからといって、何かが変わるわけじゃない。数を知らなくても、夜空を見上げれば、きれいだとわかる。
好感度も——そうなのだろうか。
数えても。数字を見ても。上がった下がったと一喜一憂しても。
相手がそこにいることは、変わらない。
……いや。そう簡単に割り切れたら、俺はこんな夜に中庭で星なんか見ていない。
俺は何も答えなかった。カイルも、別に答えを求めている様子はなかった。
「あー、風が気持ちいい。春だなあ」
カイルが大きく伸びをした。腕を上げて、背中をばきばき鳴らす。
「蓮、明日の朝飯は俺と食おうぜ。ここんとこ一人で食ってんだろ」
「……なんでわかる」
「わかるっつーか、食堂で見かけるたびにお前隅っこにいるじゃん。隅っこの席、日当たり悪いぞ」
「……考えとく」
「考えなくていいだろ。飯は飯だ」
カイルが立ち上がった。ズボンについた砂を手で払う。
「じゃ、俺もう一回寝るわ。おやすみ、蓮」
「ああ。おやすみ」
足音が遠ざかっていく。寮の扉が軋む音。そして、静寂。
一人になったベンチで、俺は星を見上げた。
数えない。数えなくても、きれいだった。
虫の声。風の匂い。春の夜。
しばらくそうしていた。
翌日。午前の講義が終わった廊下。
文官科の教室を出て渡り廊下に向かう途中、前方に亜麻色の髪が見えた。
リーナが魔法科の友人と話しながら歩いている。笑っている。こちらには気づいていない。
頭上の数字を確認した。
65。
足が止まった。
昨日は66だった。また、1落ちた。
リーナが友人と別れ、こちらに歩いてきた。俺に気づく。軽く手を上げる。
「蓮、今日はクマ少しマシだね」
「ああ……少し寝られた」
「そ。ならいいけど」
リーナが通り過ぎていく。翡翠の目が一瞬だけこちらを見て、すぐ前に戻った。
65。
カイルと同じ数値になった。
65と65。同じ数字。でも意味はまるで違う。
カイルの65は、最初からそこにある数字だ。上がりもしなければ下がりもしない。地面のように安定した数字。
リーナの65は、73から8つ落ちてここに来た数字だ。毎日のように削れて、ようやくここまで来た。まだ底が見えない。
同じ65なのに——片方では息ができて、片方では息が詰まる。
数字は同じだ。違うのは、そこに至るまでの軌跡。
リーナの背中が廊下の角に消えていく。亜麻色の髪が、春の光に透けて揺れた。
午後の講義が終わった教室。西日が窓から差し込んで、机の上に長い光の筋を引いている。
俺は窓際の席に座ったまま、外を眺めていた。
中庭の木々に新緑が萌えている。春の午後の光は柔らかくて、目に痛くない。昨夜、カイルと並んで見上げた空は、今は淡い青に変わっている。
ポケットの中に、母さんの手紙がある。桃色の封筒。「たまにはお手紙ちょうだいね」。91は変わらない。
65と65がある。カイルの65とリーナの65。同じ数字が二つ並んで、片方は安堵で、片方は痛みだ。
66から65に下がった。その事実がある。消えない。
答えはまだ出ない。
能力はOFFにできない。明日も数字は見える。リーナの頭上に浮かぶ65を見て、俺はまた胸が痛むだろう。64になっていたら、もっと痛むだろう。
でも——昨夜の星空は、数えなくても、きれいだった。
それだけは覚えている。
春の風が窓から入ってきて、前髪を揺らした。机の上のノートのページがぱらりとめくれる。好感度の記録が並んだページ。数字、数字、数字。
俺はノートを閉じた。鞄に入れた。
窓の外で、中庭の薔薇が蕾をつけ始めている。母さんの手紙に書いてあったのと同じ白い薔薇だろうか。
立ち上がって、教室を出た。
渡り廊下を歩きながら、ふと空を見上げた。昼の空に星は見えない。でもあの星たちは、見えないだけで、そこにある。
数えなくても。
俺の足音だけが、春の廊下に響いていた。