初雪は、音もなく降った。
朝、目を覚まして窓の外を見た瞬間——世界が白かった。
屋根も、道も、白霜の森の木々の梢も。一夜のうちにすべてが白い衣を纏って、昨日までとはまるで違う景色がそこにあった。
リゼットは窓枠に手をついて、息を呑んだ。
王都では、雪はめったに降らなかった。降っても薄化粧のように消えてしまう、はかないものだった。
でも、辺境の雪は——違う。
積もっている。しっかりと、深く。大地を覆い尽くすように。
「……冬が、来たんだ」
白い息が、窓硝子に触れて曇った。
階下に降りると、マリーが暖炉に薪をくべていた。
「おはよう、リゼ。見たかい、あの雪」
「はい……すごいですね」
「すごいなんてもんじゃないよ。これが始まりさ。これから五ヶ月、あたしたちはこの村から出られない」
マリーの声は、淡々としていた。辺境に生まれ育った人にとって、冬の孤立は特別なことではない。毎年やってくる、当たり前の季節。
「最後の商隊は昨日のうちに発ったよ。街道が塞がる前にって、大慌てでね」
「そう……ですか」
「次に商人が来るのは、四月の雪解けの市。それまで——ここにあるものだけで、やっていかなきゃならない」
リゼットは頷いた。
覚悟はしていた。秋のうちに、保存の利く素材はできるだけ買い込んでおいた。霜花蜜は瓶に三本。乾燥させた黒胡桃は麻袋にふたつ。大麦粉と、わずかなバターと、塩。
足りないものばかりだけれど——足りないなりに、やる。
窓の外では、雪がまだ降り続けている。
白い、白い世界。
五ヶ月。
リゼットは胸の中で、静かに覚悟を決め直した。
その日から、暮らしが変わった。
朝の水汲みは、井戸の蓋を凍りついた雪から掘り出すところから始まる。薪は一日に消費する量が倍になった。窓の隙間から吹き込む冷気を、古い毛布で塞ぐ。
厨房にいる時間が、ずっと長くなった。
外に出られない分、リゼットは菓子を焼いた。
村人に教えた簡単なクッキー。黒胡桃のビスコッティ。霜花蜜を薄く塗った大麦のラスク。素材は限られているけれど、組み合わせを変え、焼き加減を変え、毎日少しずつ違うものを作った。
菓子教室に通ってくる村の女たちも、冬になると足が遠のいた。雪道を歩くのは大変だし、家々の仕事も増える。
それでも——週に二回、三人ほどが厨房に来てくれた。赤い頬に白い息を吐きながら、卵や薪を抱えて。
「リゼットさん、今日は何を教えてくれるんだい?」
「今日は——焼き菓子の保存法を。冬籠りの宵まで持つように、しっかり乾燥させる方法です」
小さな菓子教室。小さな甘い時間。
辺境の冬は厳しいけれど、厨房だけは——温かかった。
その夜のことだった。
リゼットが厨房の片付けを終えて、蝋燭を手に二階へ上がろうとしたとき——
「リゼ」
小声だった。
振り返ると、マリーが廊下の壁に寄りかかって、腕を組んでいた。
「マリーさん? どうかしましたか?」
「ちょっと、こっちおいで」
マリーが手招きする。リゼットは首を傾げながら近づいた。
マリーは声を落として、囁くように言った。
「ねえ、リゼ。ちょっと聞いてよ」
「はい?」
「セドのやつ、毎晩来てるんだよ」
「……え?」
「あんたが寝た後にね。厨房に来て——残り物の焼き菓子、全部食べてるの」
リゼットは、言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「セドリック様が……毎晩?」
「そう。最初はたまたまかと思ったんだけどさ。もう一週間以上だよ。毎晩、欠かさず」
マリーの顔は、いたずらっぽくもあり、どこか切なげでもあった。
「味なんか分からないって言ってたのに……」
「分からなくても食べたいんだろうね。あの子なりの、何かがあるんだよ」
リゼットは、階段の手すりを握りしめた。
あの日の言葉が蘇る。
——放っておけ。
——俺のことは放っておけ。
そう言って、背を向けた人。
その人が——毎晩、リゼットの菓子を食べに来ている。
「……マリーさん。セドリック様は、何か言っていましたか?」
「何も。あたしが起きてることにも気づいてないよ。いつも真っ暗な厨房にそーっと入ってきて、そーっと出ていくんだ。猫みたいにね」
マリーは小さく笑った。
「あの図体で猫もないもんだけどさ」
リゼットは笑えなかった。
胸の奥が、きゅっと縮むような痛みがあった。
翌日から、リゼットは焼き菓子を多めに作るようにした。
いつもの量に、もう少しだけ。五つか六つ、余分に。
「あら、今日はちょっと作りすぎちゃいました。もったいないから、置いておきましょうか」
マリーに向かって、何でもないように言う。
マリーは何も言わず——ただ、にやりと笑った。
「そうだね。もったいないからね」
焼き菓子を、厨房の作業台の端に並べた。布を被せて、でも——取りやすいように。
霜花蜜の香りが、布越しにほんのりと漂う。
リゼットはそれを確認して、二階に上がった。
——美味しいと、思ってくれているのだろうか。
味が分からないと言っていた。何を食べても同じだと。
それなのに、毎晩来る。
毎晩、食べる。
その理由が——リゼットには、まだ分からなかった。
三日が過ぎた。
毎朝、皿は空になっていた。一つ残らず。
リゼットは空の皿を洗いながら、考えた。味が分からないのに、毎晩食べに来る。拒絶したはずなのに、菓子を求めている。
矛盾だ。
でも——人の心は、矛盾するものだ。
四日目の夜。
リゼットは、どうしても確かめたくなった。
寝間着の上に厚い肩掛けを羽織り、蝋燭は持たずに——暗い廊下を、足音を殺して歩いた。
階段を途中まで降りて、壁の影に身を隠す。ここからなら、厨房の入り口が見える。
月明かりが、廊下の窓から差し込んでいた。雪の夜は明るい。白い地面が月光を跳ね返して、薄い青白い光が屋内にまで届く。
リゼットは壁に背をつけて、息を殺した。
待った。
暖炉の残り火が、時折ぱちりと爆ぜる音がする。それ以外は、静寂。雪の夜は、音すら凍るように静かだ。
どれくらい経っただろう。
足先が冷えてきた頃——
かすかな、足音。
重い。だが、慎重に抑えた足取り。床板の軋みを最小限にするように、ゆっくりと。
大きな影が、廊下の奥から現れた。
セドリックだった。
黒い外套は脱いでいる。厚手の麻のシャツに革のズボンという、寝る前の格好。灰銀色の髪が月明かりに淡く光っている。
リゼットは息を止めた。
セドリックは厨房の入り口で一瞬立ち止まり——中に入った。
蝋燭は灯さない。
月明かりだけ。
窓から差し込む青白い光の中で、セドリックの大きな手が——作業台の上の焼き菓子に伸びた。
布をそっとめくる。
一つ、手に取る。
口に運ぶ。
リゼットは、階段の影から、その横顔を見つめた。
セドリックは——目を閉じていた。
ゆっくりと、噛む。一口、一口。急がない。味わうように——いや、味わうのとは違う。もっと切実な何か。
何かを探すような。
祈るような。
眉の間にかすかな皺が寄っている。快楽の表情ではない。かといって苦痛でもない。名前のつけられない表情。
まるで——一口ごとに全神経を集中させて、舌の上のかすかな何かを掬い取ろうとしているような。
味を。
感じようとしている。
リゼットの目が、熱くなった。
セドリックは焼き菓子を一つ食べ終えると、二つ目を手に取った。同じように、目を閉じて、ゆっくりと噛んだ。
三つ目。四つ目。
全部、同じだ。一つ一つに、同じだけの時間をかける。同じだけの集中を注ぐ。味の分からない菓子を——それでも、一口一口、丁寧に。
最後の一つを食べ終えると、セドリックは——皿を布で拭いた。
そして、もとの場所に、丁寧に戻した。
まるで——誰かの手仕事を、壊さないように。
セドリックは厨房を出た。
足音を殺して、廊下の奥へ消えていく。
リゼットは階段の壁に背中を押しつけたまま、動けなかった。
胸を、両手で押さえている。
涙が頬を伝っていた。いつから泣いていたのか、分からなかった。
——あの人は。
味が分からないのに。何を食べても同じだと言ったのに。
それでも——毎晩、ここに来て。リゼットの菓子を、あんなふうに食べていた。
祈るように。
一口一口、味を探して。
翌朝。
リゼットは、いつもより早く厨房に降りた。
作業台の上——空になった皿が、きちんと布の上に置かれている。
綺麗に拭かれた皿。欠片ひとつ残っていない。
リゼットはその皿を手に取って、しばらく見つめた。
あの人は、味を諦めていない。
「放っておけ」と言いながら、毎晩来ている。味の分からない菓子を、それでも食べている。一つ残らず。
期待して裏切られるのが怖い——マリーはそう言っていた。
だから、誰にも言わない。暗い厨房に一人で来て、一人で食べて、一人で帰る。
味覚を取り戻したいという願いを、誰にも見せずに。
でも——リゼットは見た。
あの祈るような横顔を。
「……鍵が、あるはず」
声に出していた。
味覚を取り戻す鍵。セドリックの舌に「甘い」を届ける方法。
収穫祭のあの夜、木の実タルトで一瞬だけ「甘い」と感じた。あれは偶然だったのか? それとも——何か理由があるのか?
リゼットは作業台に座って、考えた。
味覚。
菓子師として、味覚については誰よりも考えてきたはずだ。
味は、舌だけで決まるものじゃない。
——香り。
焼き菓子の香ばしい匂い。蜂蜜の甘い香り。りんごの酸味を含んだ香り。
——温度。
焼きたての温かさ。冷めた菓子と、温かい菓子では、同じものでも味が違う。
——食感。
さくりと砕ける生地。とろりと溶ける蜜。歯ごたえのある胡桃。
——そして、記憶。
母が焼いてくれたクッキーの味を、リゼットは今でも覚えている。あの味を思い出すだけで、口の中に甘さが蘇る。
味は——記憶と結びつく。
「味覚は舌だけで決まるものじゃない——香り、温度、食感、記憶……」
リゼットはエプロンのポケットからレシピ帳を取り出した。
母のページ。使い込まれて角が丸くなった、古いページ。
その一節が、目に留まった。
——蒸留。
母のレシピの余白に、小さな字で書かれている。
『ラベンダーの花を蒸留して得た香水を一滴。菓子に魂を吹き込むのは、目に見えない香りである』
蒸留技術。花や薬草から、香りだけを濃く取り出す技術。
辺境には蒸留器がある。酒を造るために使うものだと、マリーが言っていた。
リゼットの指先が、震えた。
何かが——見えかけている。
まだ形にはなっていない。ぼんやりとした、輪郭だけ。
でも——確かに、何かが。
「……セドリック様」
リゼットは空の皿を胸に抱いて、目を閉じた。
「待っていてください。わたし、必ず——」
言葉は、途中で止まった。
何を、必ず?
味を取り戻す? そんな大きなことが、菓子師に出来るのか?
分からない。
でも——あの祈るような横顔を、もう見たくない。
味のない世界で、一人で祈っている人を——放っておくことだけは、出来ない。
リゼットはレシピ帳を開いて、新しいページに書き込んだ。
『味覚回復の研究——舌以外の感覚で、味に近づく方法を探す』
窓の外では、雪がまだ降っていた。
白い世界。閉ざされた冬。
でも——リゼットの中には、小さな火が灯っていた。