S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第13話: 密かな常連

第2アーク · 4,477文字 · draft

初雪は、音もなく降った。

朝、目を覚まして窓の外を見た瞬間——世界が白かった。

屋根も、道も、白霜の森の木々の(こずえ)も。一夜のうちにすべてが白い衣を(まと)って、昨日までとはまるで違う景色がそこにあった。

リゼットは窓枠に手をついて、息を呑んだ。

王都では、雪はめったに降らなかった。降っても薄化粧のように消えてしまう、はかないものだった。

でも、辺境の雪は——違う。

積もっている。しっかりと、深く。大地を覆い尽くすように。

「……冬が、来たんだ」

白い息が、窓硝子(まどガラス)に触れて曇った。


階下に降りると、マリーが暖炉に薪をくべていた。

「おはよう、リゼ。見たかい、あの雪」

「はい……すごいですね」

「すごいなんてもんじゃないよ。これが始まりさ。これから五ヶ月、あたしたちはこの村から出られない」

マリーの声は、淡々としていた。辺境に生まれ育った人にとって、冬の孤立は特別なことではない。毎年やってくる、当たり前の季節。

「最後の商隊は昨日のうちに()ったよ。街道が塞がる前にって、大慌てでね」

「そう……ですか」

「次に商人が来るのは、四月の雪解けの市。それまで——ここにあるものだけで、やっていかなきゃならない」

リゼットは頷いた。

覚悟はしていた。秋のうちに、保存の利く素材はできるだけ買い込んでおいた。霜花蜜は瓶に三本。乾燥させた黒胡桃は麻袋にふたつ。大麦粉と、わずかなバターと、塩。

足りないものばかりだけれど——足りないなりに、やる。

窓の外では、雪がまだ降り続けている。

白い、白い世界。

五ヶ月。

リゼットは胸の中で、静かに覚悟を決め直した。


その日から、暮らしが変わった。

朝の水汲みは、井戸の蓋を凍りついた雪から掘り出すところから始まる。薪は一日に消費する量が倍になった。窓の隙間から吹き込む冷気を、古い毛布で塞ぐ。

厨房にいる時間が、ずっと長くなった。

外に出られない分、リゼットは菓子を焼いた。

村人に教えた簡単なクッキー。黒胡桃のビスコッティ。霜花蜜を薄く塗った大麦のラスク。素材は限られているけれど、組み合わせを変え、焼き加減を変え、毎日少しずつ違うものを作った。

菓子教室に通ってくる村の女たちも、冬になると足が遠のいた。雪道を歩くのは大変だし、家々の仕事も増える。

それでも——週に二回、三人ほどが厨房に来てくれた。赤い頬に白い息を吐きながら、卵や薪を抱えて。

「リゼットさん、今日は何を教えてくれるんだい?」

「今日は——焼き菓子の保存法を。冬籠りの宵まで持つように、しっかり乾燥させる方法です」

小さな菓子教室。小さな甘い時間。

辺境の冬は厳しいけれど、厨房だけは——温かかった。


その夜のことだった。

リゼットが厨房の片付けを終えて、蝋燭を手に二階へ上がろうとしたとき——

「リゼ」

小声だった。

振り返ると、マリーが廊下の壁に寄りかかって、腕を組んでいた。

「マリーさん? どうかしましたか?」

「ちょっと、こっちおいで」

マリーが手招きする。リゼットは首を傾げながら近づいた。

マリーは声を落として、囁くように言った。

「ねえ、リゼ。ちょっと聞いてよ」

「はい?」

「セドのやつ、毎晩来てるんだよ」

「……え?」

「あんたが寝た後にね。厨房に来て——残り物の焼き菓子、全部食べてるの」

リゼットは、言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

「セドリック様が……毎晩?」

「そう。最初はたまたまかと思ったんだけどさ。もう一週間以上だよ。毎晩、欠かさず」

マリーの顔は、いたずらっぽくもあり、どこか切なげでもあった。

「味なんか分からないって言ってたのに……」

「分からなくても食べたいんだろうね。あの子なりの、何かがあるんだよ」

リゼットは、階段の手すりを握りしめた。

あの日の言葉が蘇る。

——放っておけ。

——俺のことは放っておけ。

そう言って、背を向けた人。

その人が——毎晩、リゼットの菓子を食べに来ている。

「……マリーさん。セドリック様は、何か言っていましたか?」

「何も。あたしが起きてることにも気づいてないよ。いつも真っ暗な厨房にそーっと入ってきて、そーっと出ていくんだ。猫みたいにね」

マリーは小さく笑った。

「あの図体(ずうたい)で猫もないもんだけどさ」

リゼットは笑えなかった。

胸の奥が、きゅっと縮むような痛みがあった。


翌日から、リゼットは焼き菓子を多めに作るようにした。

いつもの量に、もう少しだけ。五つか六つ、余分に。

「あら、今日はちょっと作りすぎちゃいました。もったいないから、置いておきましょうか」

マリーに向かって、何でもないように言う。

マリーは何も言わず——ただ、にやりと笑った。

「そうだね。もったいないからね」

焼き菓子を、厨房の作業台の端に並べた。布を被せて、でも——取りやすいように。

霜花蜜の香りが、布越しにほんのりと漂う。

リゼットはそれを確認して、二階に上がった。

——美味しいと、思ってくれているのだろうか。

味が分からないと言っていた。何を食べても同じだと。

それなのに、毎晩来る。

毎晩、食べる。

その理由が——リゼットには、まだ分からなかった。


三日が過ぎた。

毎朝、皿は空になっていた。一つ残らず。

リゼットは空の皿を洗いながら、考えた。味が分からないのに、毎晩食べに来る。拒絶したはずなのに、菓子を求めている。

矛盾だ。

でも——人の心は、矛盾するものだ。

四日目の夜。

リゼットは、どうしても確かめたくなった。

寝間着の上に厚い肩掛けを羽織り、蝋燭は持たずに——暗い廊下を、足音を殺して歩いた。

階段を途中まで降りて、壁の影に身を隠す。ここからなら、厨房の入り口が見える。

月明かりが、廊下の窓から差し込んでいた。雪の夜は明るい。白い地面が月光を跳ね返して、薄い青白い光が屋内にまで届く。

リゼットは壁に背をつけて、息を殺した。

待った。

暖炉の残り火が、時折ぱちりと爆ぜる音がする。それ以外は、静寂。雪の夜は、音すら凍るように静かだ。

どれくらい経っただろう。

足先が冷えてきた頃——

かすかな、足音。

重い。だが、慎重に抑えた足取り。床板の(きし)みを最小限にするように、ゆっくりと。

大きな影が、廊下の奥から現れた。

セドリックだった。

黒い外套は脱いでいる。厚手の麻のシャツに革のズボンという、寝る前の格好。灰銀色の髪が月明かりに淡く光っている。

リゼットは息を止めた。

セドリックは厨房の入り口で一瞬立ち止まり——中に入った。

蝋燭は灯さない。

月明かりだけ。

窓から差し込む青白い光の中で、セドリックの大きな手が——作業台の上の焼き菓子に伸びた。

布をそっとめくる。

一つ、手に取る。

口に運ぶ。

リゼットは、階段の影から、その横顔を見つめた。

セドリックは——目を閉じていた。

ゆっくりと、噛む。一口、一口。急がない。味わうように——いや、味わうのとは違う。もっと切実な何か。

何かを探すような。

祈るような。

眉の間にかすかな皺が寄っている。快楽の表情ではない。かといって苦痛でもない。名前のつけられない表情。

まるで——一口ごとに全神経を集中させて、舌の上のかすかな何かを(すく)い取ろうとしているような。

味を。

感じようとしている。

リゼットの目が、熱くなった。

セドリックは焼き菓子を一つ食べ終えると、二つ目を手に取った。同じように、目を閉じて、ゆっくりと噛んだ。

三つ目。四つ目。

全部、同じだ。一つ一つに、同じだけの時間をかける。同じだけの集中を注ぐ。味の分からない菓子を——それでも、一口一口、丁寧に。

最後の一つを食べ終えると、セドリックは——皿を布で拭いた。

そして、もとの場所に、丁寧に戻した。

まるで——誰かの手仕事を、壊さないように。

セドリックは厨房を出た。

足音を殺して、廊下の奥へ消えていく。

リゼットは階段の壁に背中を押しつけたまま、動けなかった。

胸を、両手で押さえている。

涙が頬を伝っていた。いつから泣いていたのか、分からなかった。

——あの人は。

味が分からないのに。何を食べても同じだと言ったのに。

それでも——毎晩、ここに来て。リゼットの菓子を、あんなふうに食べていた。

祈るように。

一口一口、味を探して。


翌朝。

リゼットは、いつもより早く厨房に降りた。

作業台の上——空になった皿が、きちんと布の上に置かれている。

綺麗に拭かれた皿。欠片ひとつ残っていない。

リゼットはその皿を手に取って、しばらく見つめた。

あの人は、味を諦めていない。

「放っておけ」と言いながら、毎晩来ている。味の分からない菓子を、それでも食べている。一つ残らず。

期待して裏切られるのが怖い——マリーはそう言っていた。

だから、誰にも言わない。暗い厨房に一人で来て、一人で食べて、一人で帰る。

味覚を取り戻したいという願いを、誰にも見せずに。

でも——リゼットは見た。

あの祈るような横顔を。

「……鍵が、あるはず」

声に出していた。

味覚を取り戻す鍵。セドリックの舌に「甘い」を届ける方法。

収穫祭のあの夜、木の実タルトで一瞬だけ「甘い」と感じた。あれは偶然だったのか? それとも——何か理由があるのか?

リゼットは作業台に座って、考えた。

味覚。

菓子師として、味覚については誰よりも考えてきたはずだ。

味は、舌だけで決まるものじゃない。

——香り。

焼き菓子の香ばしい匂い。蜂蜜の甘い香り。りんごの酸味を含んだ香り。

——温度。

焼きたての温かさ。冷めた菓子と、温かい菓子では、同じものでも味が違う。

——食感。

さくりと砕ける生地。とろりと溶ける蜜。歯ごたえのある胡桃。

——そして、記憶。

母が焼いてくれたクッキーの味を、リゼットは今でも覚えている。あの味を思い出すだけで、口の中に甘さが蘇る。

味は——記憶と結びつく。

「味覚は舌だけで決まるものじゃない——香り、温度、食感、記憶……」

リゼットはエプロンのポケットからレシピ帳を取り出した。

母のページ。使い込まれて角が丸くなった、古いページ。

その一節が、目に留まった。

——蒸留。

母のレシピの余白に、小さな字で書かれている。

『ラベンダーの花を蒸留して得た香水(エッセンス)を一滴。菓子に魂を吹き込むのは、目に見えない香りである』

蒸留技術。花や薬草から、香りだけを濃く取り出す技術。

辺境には蒸留器がある。酒を造るために使うものだと、マリーが言っていた。

リゼットの指先が、震えた。

何かが——見えかけている。

まだ形にはなっていない。ぼんやりとした、輪郭だけ。

でも——確かに、何かが。

「……セドリック様」

リゼットは空の皿を胸に抱いて、目を閉じた。

「待っていてください。わたし、必ず——」

言葉は、途中で止まった。

何を、必ず?

味を取り戻す? そんな大きなことが、菓子師に出来るのか?

分からない。

でも——あの祈るような横顔を、もう見たくない。

味のない世界で、一人で祈っている人を——放っておくことだけは、出来ない。

リゼットはレシピ帳を開いて、新しいページに書き込んだ。

『味覚回復の研究——舌以外の感覚で、味に近づく方法を探す』

窓の外では、雪がまだ降っていた。

白い世界。閉ざされた冬。

でも——リゼットの中には、小さな火が灯っていた。

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