蜂蜜湯。
焙煎黒胡桃のビスコッティ。
蕪の蒸しパン。
干しりんごの焼き菓子。
霜花蜜のキャラメル。
——この二週間で、リゼットがセドリック様に差し出した菓子の数は、十を超えた。
どれも、考え抜いて作った。
蜂蜜湯には花の蒸留水を加えて、湯気そのものが甘い香りを運ぶようにした。ビスコッティは二度焼きして、歯で噛む瞬間にざくりと音が鳴るようにした。蒸しパンは蕪の甘みを限界まで引き出して、ふわふわの食感が舌に溶けるように。
全部——五感に訴えるように。味覚が届かなくても、香りで、食感で、温度で、何かが伝わるように。
セドリック様は、毎回受け取ってくれた。
そして、毎回食べてくれた。
反応は——いつも同じだった。
「ああ」
か、
「ごちそうさま」
だけ。
十回目の菓子を差し出した日のことだ。
霜花蜜のキャラメルだった。蜜を鍋で煮詰めて、とろりと琥珀色になるまで焦がす。バターを加えて乳化させ、冷やし固める。口に入れると、最初はかりっと硬くて、体温でゆっくり溶けていく。溶ける瞬間に、霜花蜜の甘い香りがぶわっと広がる——はずだった。
セドリック様は、キャラメルを口に入れた。
噛んだ。
飲み込んだ。
「ごちそうさま」
いつもと、同じ。
でも——リゼットは見逃さなかった。
キャラメルを噛んだ瞬間、セドリック様の咀嚼が——ほんの一瞬だけ、止まったこと。
それが何を意味するのか、分からない。味を感じたのかもしれない。ただ硬かっただけかもしれない。
でも——リゼットの心は、それだけで跳ねた。
十一回目は、やめた。
菓子ではなく——言葉を、届けることにした。
その日、セドリック様は珍しく昼に宿に戻ってきた。北の見回りの途中で馬具を修理するためだと、マリーさんが言っていた。
食堂で、一人で干し肉とパンを食べている。
リゼットは——厨房から出て、セドリック様の前に立った。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
「セドリック様」
「……何だ」
パンを千切る手が、止まった。
「味覚のこと……わたしに、何かできることはありませんか」
言ってしまった。
ずっと考えていた言葉。何度も飲み込んで、何度も言い直して、結局——こんな直球になってしまった。
セドリック様の表情が、凍った。
正確には——表情が消えた。もともと無表情に近い人だけれど、その無表情の奥にある微かな温度が、一瞬にして消え失せた。
「……誰から聞いた」
低い声だった。怒りとは違う。もっと冷たい、もっと硬い何か。
「マリーさんに……少しだけ」
「……そうか」
セドリック様は、パンをテーブルに置いた。静かに。丁寧に。感情を殺した、制御された動作だった。
長い沈黙が降りた。
食堂の時計が、かちかちと刻む音だけが聞こえる。
「俺のことは——放っておけ」
低い声が、落ちた。
「でも——」
「味のことは、もう——どうでもいい」
椅子を引いて、立ち上がった。
リゼットを見なかった。
テーブルの上には、食べかけのパンと干し肉が残されている。
セドリック様は、背を向けて食堂を出ていった。
黒い外套が、扉の向こうに消える。
重い足音が——遠ざかっていく。
リゼットは——立ったまま、動けなかった。
放っておけ。
その言葉が、胸に刺さっている。
怒られた、とは少し違う。拒絶された——それとも違う。
あの声は——壁だった。
分厚くて、冷たくて、何年もかけて積み上げられた壁。
厨房に戻って、作業台に両手をついた。指先が、小さく震えている。
「……やっぱり、踏み込みすぎたかな」
呟いた声が、石壁に吸い込まれた。
「リゼ」
夕方、厨房の扉が開いた。マリーさんが入ってきて、リゼットの顔を見て——すぐに気づいたらしい。
「セドに、何か言ったね?」
「……はい」
「味覚のこと?」
リゼットは頷いた。
「放っておけ、って——言われました」
マリーさんは、大きく息を吐いた。
「やっぱりね」
作業台の端に腰掛けて、リゼットの顔を覗き込む。
「リゼ。怒ったんじゃないよ、あの子は」
「……え?」
「怒ったんじゃない。怖いんだ」
マリーさんの声は、穏やかだった。でもその穏やかさの中に——深い理解が、滲んでいた。
「3年間でね、セドはいろんなことを試してるんだ。王都の薬師に診てもらって。高い薬を飲んで。珍しい食材を取り寄せて。そのたびに——期待して、裏切られて。何も感じない、何も変わらない。それを何度も何度も繰り返したんだよ」
「……」
「だから、もう期待しないって決めたんだ。期待しなければ——裏切られても、傷つかない。『味はどうでもいい』って言うのは、本心じゃないよ。あの子なりの——自分を守る方法なのさ」
マリーさんは、リゼットの肩をぽんと叩いた。
「放っておけ——って言ったんだね」
「はい」
「あの子がそう言う時はね。本当は『助けてほしい』って思ってるんだ。でも、助けを求めたら——また期待してしまう。だから突き放すんだよ。不器用だろ? 昔っからそうなんだ、あの子は」
リゼットは——その言葉を、胸の中で何度も反芻した。
放っておけ。
本心じゃない。
怖いんだ。期待して、裏切られるのが。
「……マリーさん」
「ん?」
「わたし——もう少し、別のやり方を考えてみます」
マリーさんは、にっと笑った。
「いいね。あんたなら、きっと見つかるよ」
その夜、レシピ帳を開いて考えた。
セドリック様に——直接は、近づけない。近づけば近づくほど、あの人は壁を高くする。
なら——回り道をしよう。
リゼットにできることは、菓子を作ること。
セドリック様のためだけじゃなく——この辺境の、みんなのために。
この村に甘味の文化を根づかせる。誰もが菓子を作れるようになれば、この土地はもっと豊かになる。そして——セドリック様の周りに、甘い匂いが自然と広がるようになる。
リゼットが差し出さなくても。
あの人が受け取る必要がなくても。
ただ——この村に、甘さがある。それだけで、何かが変わるかもしれない。
レシピ帳の新しいページに、書いた。
『菓子教室——辺境の女性たちへ』
翌日、マリーさんに相談した。
「菓子教室?」
「はい。村の女性たちに、簡単な菓子の作り方を教えたいんです」
「へえ。いいじゃないか」
「ただ——場所をお借りしてもいいですか? この厨房で」
「もちろんだよ! あたしも参加したいくらいさ」
マリーさんが村の女性たちに声をかけてくれた。
三日後——最初の菓子教室に、五人の女性が集まった。
恐る恐る、という顔だった。
辺境の女たちは、朝から晩まで働いている。畑仕事、家畜の世話、薪割り、水汲み。食事は質素で、「美味しく作る」よりも「腹が膨れればいい」という土地柄だ。菓子なんて、この村に来るまで見たことも聞いたこともなかった人がほとんどだ。
「今日は、一番簡単なものから始めましょう」
リゼットは、大麦粉と霜花蜜を作業台に並べた。
「大麦粉のクッキーです。材料は二つだけ。誰でも作れます」
「……二つだけ?」
「はい。大麦粉と、霜花蜜。あとは——手のひらだけ」
女性たちが、顔を見合わせた。
「まず、大麦粉をこのくらい。ボウルに入れて——」
リゼットが粉を量り入れる。
「ここに、霜花蜜をこのくらい加えます」
蜜を垂らすと、甘い香りがふわりと立った。女性たちの鼻が、くんくんと動く。
「あとは——手で混ぜるだけです。こうやって、手のひらで押すように」
生地をこねる。最初はぼそぼそだった粉が、蜜の水分を吸って、少しずつまとまっていく。
「はい、みなさんもどうぞ」
五人が、恐る恐る手を伸ばした。
「あ、べたべたする」
「力入れすぎかな?」
「いえ、大丈夫です。そのくらいで。押すように——そうそう、上手です」
最初はぎこちなかった手つきが、少しずつ慣れていく。粉と蜜が混ざって、生地になっていく過程を——女性たちが、不思議そうに見つめている。
「まとまったら、手のひらで丸くして——少し潰して——」
小さな円形の生地を、石窯の天板に並べていく。
「あとは、焼くだけです」
窯の中で、クッキーが焼ける匂いが広がった。
大麦粉と霜花蜜が焦げる、素朴で優しい甘さ。
女性たちの表情が——変わった。
「……甘い匂いがする」
「こんなの、初めて」
「うちでも作れるの? これ」
「もちろんです。大麦粉と霜花蜜だけですから」
窯から取り出したクッキーは——完璧とは程遠い形だった。大きさはばらばら。形はいびつ。焼き色もまちまちだ。
でも——甘い。
一人の女性が、恐る恐るクッキーを口に運んだ。
噛む音。さくり、と。
「……おいしい」
目が、丸くなった。
「本当に、おいしい! あたしが作ったのに!」
その声に、他の女性たちも一斉にクッキーを口に入れた。
「甘い!」
「こんなの食べたことない!」
「うちの子にも食べさせたい!」
厨房が、笑い声で満たされた。
リゼットは——その笑顔を見つめて、胸が熱くなった。
「次は——もう少し、難しいものに挑戦してみましょう。卵があれば、もっとふわふわにできます」
「卵ならうちにあるよ! 持ってくる!」
「バターは? バターもいる?」
「少しあれば。でも、なくても——」
「うちの山羊の乳から作れるさ!」
女性たちが口々に言い出した。
あ、と思った。
この人たちは——素材を持っている。リゼットが持っていない素材を。卵、バター、山羊の乳。辺境の農家にはあるけれど、リゼットの手元にはないものたち。
そして、リゼットには——技術がある。素材を菓子に変える方法を知っている。
物々交換だ。
リゼットが技術を教える。みんなが素材を持ち寄る。
お金は動かない。でも——菓子が、生まれる。
「来週も、やりましょう。今度はもう少し材料を増やして」
「絶対来る!」
「あたしも友達連れてきていい?」
「もちろんです」
菓子教室の帰り道。
厨房の前の通りを、子どもたちが走り回っていた。
手に持っているのは——さっき焼いたクッキー。女性たちが、帰りがけに子どもたちに配っていったのだ。
「もらった! クッキーもらった!」
「甘い! 甘いよ!」
子どもたちの歓声が、夕暮れの村に響く。
通りの向こうから、村の男たちが不思議そうに覗いている。「何だ、その匂いは」「甘い匂いがするぞ」。
この村に——甘い匂いが、少しずつ広がっている。
リゼットは、嬉しくて——でも、ふと足を止めた。
丘の方を見上げた。
セドリック様の姿は、見えない。
この時間は——北の国境沿いを巡回しているはずだ。馬に跨って、一人で。冷たい風の中を。
——放っておけ。
あの低い声が、まだ胸に残っている。
感情を押し殺した、硬い声。
でも——マリーさんが言っていた。
怖いんだ。期待して、裏切られるのが。
つまり——あの人は、まだ期待しているということじゃないか。
期待していなければ、裏切られることを恐れたりしない。
「どうでもいい」が本心なら——リゼットの言葉に、あんな顔はしない。
あの凍りついた表情。感情を消した目。あれは——必死に、何かを堪えている顔だった。
リゼットは——静かに、決意した。
無理には近づかない。
「味覚のこと」を、もう一度口にはしない。
でも——菓子は、作り続ける。
この村に、甘さを広げ続ける。
セドリック様の周りに——甘い風が、自然と流れるようにする。
あの人が壁を作るなら、リゼットは壁の外に花を植えよう。
いつか——花の香りが、壁の向こうに届く日まで。
夕日が沈んでいく。丘の向こうに、赤い光が滲む。
冬が近い。
でも——この村には、甘い匂いがある。
リゼットは、エプロンのポケットに手を入れた。レシピ帳の角が、指先に触れる。
明日は——蒸しパンを教えよう。蕪の甘みを生かした、ふわふわの蒸しパン。子どもたちが喜ぶやつだ。
歩き出す。宿に向かって。厨房に向かって。
明日も——菓子を作る。
あの人のために。この村のために。
そして——リゼット自身のために。