S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第11話: 味のない世界

第2アーク · 4,535文字 · draft

「今日は何作るの?」

厨房の窓から、小さな顔が覗いている。

赤い頬。霜焼(しもや)けの指。好奇心でいっぱいの目。村の子どもたちが、毎朝ここに集まるようになったのは——収穫祭から二週間ほど経った頃だった。

「今日はね、干しりんごの蜂蜜漬けです」

「あまいやつ?」

「甘いやつです」

子どもたちが歓声を上げた。リゼットは笑いながら、薄く切った高原りんごを霜花蜜に漬け込む。一晩置くと、りんごの酸味が蜜に溶け出して、甘酸っぱい宝石みたいになる。

「できたら持っていくから、お昼まで待っていてね」

「やったあ!」

子どもたちが走り去っていく。小さな足音が、石畳の上を跳ねるように遠ざかった。

——十月に入って、村は少しだけ変わった。

収穫祭のタルトがきっかけだった。「甘い」という味を初めて知った村人たちが、リゼットの厨房を覗くようになった。子どもたちは毎朝顔を出すし、大人たちも「今日はどんな匂いがするんだ」と通りすがりに立ち止まる。

辺境に——ほんの少しだけ、甘味の文化が芽吹き始めている。

嬉しい。

本当に、嬉しい。

でも——リゼットの心には、ずっと引っかかっていることがあった。


——甘い。

あの夜の声が、耳の奥にこびりついて離れない。

セドリック様の、かすれた声。震える唇。背を向けて去っていく黒い外套。

そして——マリーさんの言葉。

あの子、泣いてたよ。

収穫祭から二週間。セドリック様とは、ほとんど顔を合わせていなかった。

北の国境沿いの見回りが忙しいらしく、宿に立ち寄るのは二日に一度、それも夜遅くに食事を取ってすぐ出ていくだけだった。リゼットが焼き菓子を作って置いておいても、翌朝には皿が空になっている——ただ、それだけ。

何の言葉もない。

あの夜のことは、まるでなかったかのように。

でも——リゼットは忘れられない。

3年ぶりに「甘い」と言ったあの人の声を。


その夜、厨房の片づけを終えたリゼットは、居間の暖炉の前に座っていた。

マリーさんが温めた林檎酒を二つ、テーブルに並べる。

「はい、リゼ。冷えるねえ、もう」

「ありがとうございます」

十月の夜は、もう寒かった。窓の外は真っ暗で、風が木の枝を揺らす音だけが聞こえる。冬が、確実に近づいている。

林檎酒を一口含んだ。りんごの酸味と、微かなアルコールの温かさが喉を下りていく。

「……マリーさん」

「ん?」

「セドリック様のこと——もう少し、教えてもらえませんか」

マリーさんの手が、一瞬止まった。

林檎酒のカップを持ったまま、リゼットの顔をじっと見ている。

「……味覚のこと?」

「はい」

暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。

マリーさんはカップをテーブルに置いて、暖炉の炎を見つめた。その横顔に、いつもの明るさはなかった。

「あたしが話していいのかな。セドの——」

「すみません。無理にとは——」

「いいよ」

マリーさんは、小さく息を吐いた。

「あんたには、知っておいてほしい気もするから」


「3年前のことだよ」

マリーさんの声は、静かだった。

「この辺境に、大きな魔物の群れが押し寄せてきた。大侵攻(たいしんこう)って呼ばれてる。北の峡谷を越えてきたんだ。何百匹も」

暖炉の明かりが、マリーさんの横顔を照らしている。

「セドの父上——先代の辺境伯が、迎撃に出た。セドも一緒だった。19歳。あたしと幼馴染でさ、小さい頃から一緒に遊んでたんだよ。悪ガキでね、木登りが得意で、よくあたしを泣かせたもんさ」

マリーさんは、少しだけ笑った。でも、その笑みはすぐに消えた。

「先代が——戦死した」

「……」

「魔物の群れの真ん中に突っ込んで、村を守って——死んだ。セドは父上の代わりに最前線に立った。19歳の子供が、辺境伯の(よろい)を被って、兵を率いて」

マリーさんの声が、わずかに震えた。

「魔物の一撃を、頭に受けた。(かぶと)の上からだったけど——意識が飛んで、三日間目が覚めなかった。目が覚めた時には、魔物は退いてた。村は守れたんだ。でも——」

「味覚を、失った」

「そう」

暖炉の薪が崩れて、火の粉が舞い上がった。

「最初は何も分からなかったんだよ。怪我の痛みとか、いろいろあったから。でも、回復してきて——食事を取るようになって、セドが言ったんだ」

マリーさんは、遠い目をした。

「『何を食っても——水みたいだ』って」

リゼットは、息を呑んだ。

水みたいだ。

何を食べても。何を飲んでも。甘いも、辛いも、苦いも、酸っぱいも——何も、感じない。

「王都から薬師(くすし)を呼んだんだよ。高い金を払ってさ。でも、診てもらって——言われたのは、『頭を打った衝撃で、味覚の神経が損傷している。時が解決するか、しないかだ』って。それだけ」

「……そんな」

「3年だよ、リゼ。3年間、セドは何も味を感じてない。食事は——ただの作業さ。生きるために、口に入れて、飲み込む。それだけ」

リゼットの手が、カップの上で震えていた。

「セドはね——誰にも弱みを見せない子なんだ。味が分からなくなっても、辛いとも苦しいとも言わなかった。ただ黙って食べて、黙って戦って、黙って辺境を守ってる」

マリーさんが、リゼットを見た。

「だから——あの収穫祭の夜、セドが『甘い』って言った時、あたし——」

声が詰まった。

「あたしも、泣きそうだったんだよ」


マリーさんが寝室に戻ってからも、リゼットはしばらく暖炉の前に座っていた。

3年間。

何を食べても——水みたいだ。

その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

リゼットは菓子師だ。菓子師は、食べた人に「美味しい」を届ける仕事だ。

でも——味覚がない人に、美味しいは届くのだろうか。

あの夜のことを思い出す。セドリック様がタルトを食べて、「甘い」と呟いた。あの一瞬は——本物だったのだろうか。それとも、マリーさんが言うように——3年間の渇望が生んだ幻だったのだろうか。

分からない。

でも——一つだけ、確かなことがある。

リゼットは、あの人にもう一度「甘い」を届けたい。

それが菓子師としての使命なのか、それとも——別の何かなのかは、まだ分からない。

でも——やるべきことは分かっている。

リゼットは立ち上がって、厨房に向かった。


翌日から、リゼットは研究を始めた。

味覚を失った人に、何が届くのか。

五感——視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。味覚が駄目なら、他の感覚に訴えかければいい。

香り。

温度。

食感。

舌が感じなくても、鼻が感じる。喉が感じる。歯が感じる。

リゼットは厨房に籠もって、一つの料理を作り始めた。

根菜のポタージュ。

(かぶ)と人参を、時間をかけて煮る。辺境の蕪は甘い。霜に当たった根菜は、寒さから身を守るために糖分を蓄える。その自然の甘みを、できるだけ引き出す。

刻んだ蕪と人参を鍋に入れ、水をひたひたに注いで、弱火でことこと煮ていく。灰汁(あく)を丁寧にすくう。野菜が崩れるほど柔らかくなったら、木べらで潰す。滑らかになるまで、何度も何度も。

そこに——霜花蜜を少しだけ加える。

甘みが足りないのではない。香りを立たせるためだ。霜花蜜には、花の蜜に似た独特の香りがある。温めると、その香りがふわりと広がる。鼻の奥まで届く、甘い、甘い香り。

仕上げにバターをひとかけ。表面に、薄く金色の膜ができる。

温度にも、こだわった。熱すぎず、ぬるすぎず。舌が火傷しない、でも体の芯まで温もりが届く温度。人肌よりも少し高く——手のひらで器を包んだ時に「ああ、温かい」と思える温度。

最後に——乾燥させた胡桃を細かく刻んで、ポタージュの表面にぱらりと散らす。食感のアクセント。滑らかなスープの中に、かりりと歯ごたえのある粒が混じる。

味見をした。

舌の上に、蕪の優しい甘みが広がる。人参のほのかな土の香り。霜花蜜の花のような芳香。バターのまろやかさ。胡桃の香ばしさ。

——美味しい。

温かくて、甘くて、優しい味だ。

これなら——味覚が鈍くても、香りで、温度で、食感で——何かが伝わるかもしれない。


夕方、セドリック様が北の見回りから戻ってきた。

黒い外套に、冷たい風の匂いをまとわせて。馬を厩舎(きゅうしゃ)に入れて、宿の食堂に入ってくる。

リゼットは——待っていた。

厨房の扉の向こうで、器にポタージュをよそって。湯気が、ゆらゆらと立ち上っている。

「セドリック様」

声をかけると、セドリック様が振り向いた。

深い青灰色の目が、リゼットを見る。左頬の傷跡が、夕暮れの光に浮かび上がっている。

「……何だ」

「あの、もしよろしければ——スープを、召し上がりませんか」

器を差し出した。

セドリック様は、スープを見下ろした。無表情のまま。

一瞬の間があった。

「……ああ」

大きな手が、器を受け取った。

リゼットは、固唾(かたず)を呑んだ。

セドリック様がスープを口に運ぶ。一口、二口。機械的に。淡々と。

(さじ)が器の中を往復する。規則的な動き。そこに——何の感情も、読み取れない。

リゼットは彼の顔を見つめていた。目の動きを。唇の端を。眉の角度を。何か変化がないか。あの夜のように、かすかでも——何かが揺れないか。

スープが、なくなっていく。

胡桃の粒が、匙に引っかかる小さな音がした。最後の一口を飲み干して——

セドリック様は、器をリゼットに返した。

「……ごちそうさま」

それだけだった。

何の反応もない。美味しいとも、不味いとも。温かいとも、冷たいとも。

——ただ、食べた。それだけ。

「あの……何か——感じましたか?」

聞いてはいけないと、分かっていた。でも——口が、動いてしまった。

セドリック様の目が、リゼットを見た。

一瞬——ほんの一瞬だけ、その瞳に何かが(よぎ)った気がした。

でも、すぐに消えた。

「食えればいい。味は——関係ない」

低い声だった。感情を押し殺した、平坦な声。

セドリック様は背を向けて、食堂を出ていった。

重い足音が、廊下に遠ざかる。

リゼットは——空の器を持ったまま、立ち尽くしていた。


厨房に戻って、鍋に残ったポタージュを、自分の器によそった。

匙を口に運ぶ。

温かい。甘い。蕪の優しさが、舌に広がる。霜花蜜の花の香りが、鼻を抜けていく。胡桃がかりりと小気味よい音を立てる。

——美味しい。

ちゃんと、美味しい。

でも。

あの人には——届かなかった。

リゼットは匙を置いて、天井を見上げた。

石天井に、蝋燭の影がゆらゆら揺れている。

収穫祭のタルト。あの夜、セドリック様は確かに「甘い」と言った。3年ぶりに、味を感じた。

あれは——一瞬の奇跡だったのかもしれない。

再現できないもの。二度と起きないもの。

そう思ったら——胸の奥が、きゅっと痛んだ。

でも。

リゼットは、匙をもう一度手に取った。

ポタージュを、最後まで飲み干す。

空になった器を洗って、布で拭いて、棚に戻す。

鍋も洗う。作業台も拭く。いつもの手順で、厨房を片づける。

菓子師は、食べた人の笑顔のために作る。

母がそう教えてくれた。笑顔がなくても、作り続けろ。いつか——必ず届く日が来る。

あの人にも。

もう一度——甘いを、届ける。

レシピ帳を開いて、新しいページにペンを走らせた。

『根菜のポタージュ(霜花蜜・胡桃)——届かず。次は、香りをもっと立たせる。蒸留した花水を加えてみる?』

窓の外は、もう真っ暗だった。

十月の夜風が、厨房の窓を揺らしている。

冬が近い。

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