「今日は何作るの?」
厨房の窓から、小さな顔が覗いている。
赤い頬。霜焼けの指。好奇心でいっぱいの目。村の子どもたちが、毎朝ここに集まるようになったのは——収穫祭から二週間ほど経った頃だった。
「今日はね、干しりんごの蜂蜜漬けです」
「あまいやつ?」
「甘いやつです」
子どもたちが歓声を上げた。リゼットは笑いながら、薄く切った高原りんごを霜花蜜に漬け込む。一晩置くと、りんごの酸味が蜜に溶け出して、甘酸っぱい宝石みたいになる。
「できたら持っていくから、お昼まで待っていてね」
「やったあ!」
子どもたちが走り去っていく。小さな足音が、石畳の上を跳ねるように遠ざかった。
——十月に入って、村は少しだけ変わった。
収穫祭のタルトがきっかけだった。「甘い」という味を初めて知った村人たちが、リゼットの厨房を覗くようになった。子どもたちは毎朝顔を出すし、大人たちも「今日はどんな匂いがするんだ」と通りすがりに立ち止まる。
辺境に——ほんの少しだけ、甘味の文化が芽吹き始めている。
嬉しい。
本当に、嬉しい。
でも——リゼットの心には、ずっと引っかかっていることがあった。
——甘い。
あの夜の声が、耳の奥にこびりついて離れない。
セドリック様の、かすれた声。震える唇。背を向けて去っていく黒い外套。
そして——マリーさんの言葉。
あの子、泣いてたよ。
収穫祭から二週間。セドリック様とは、ほとんど顔を合わせていなかった。
北の国境沿いの見回りが忙しいらしく、宿に立ち寄るのは二日に一度、それも夜遅くに食事を取ってすぐ出ていくだけだった。リゼットが焼き菓子を作って置いておいても、翌朝には皿が空になっている——ただ、それだけ。
何の言葉もない。
あの夜のことは、まるでなかったかのように。
でも——リゼットは忘れられない。
3年ぶりに「甘い」と言ったあの人の声を。
その夜、厨房の片づけを終えたリゼットは、居間の暖炉の前に座っていた。
マリーさんが温めた林檎酒を二つ、テーブルに並べる。
「はい、リゼ。冷えるねえ、もう」
「ありがとうございます」
十月の夜は、もう寒かった。窓の外は真っ暗で、風が木の枝を揺らす音だけが聞こえる。冬が、確実に近づいている。
林檎酒を一口含んだ。りんごの酸味と、微かなアルコールの温かさが喉を下りていく。
「……マリーさん」
「ん?」
「セドリック様のこと——もう少し、教えてもらえませんか」
マリーさんの手が、一瞬止まった。
林檎酒のカップを持ったまま、リゼットの顔をじっと見ている。
「……味覚のこと?」
「はい」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
マリーさんはカップをテーブルに置いて、暖炉の炎を見つめた。その横顔に、いつもの明るさはなかった。
「あたしが話していいのかな。セドの——」
「すみません。無理にとは——」
「いいよ」
マリーさんは、小さく息を吐いた。
「あんたには、知っておいてほしい気もするから」
「3年前のことだよ」
マリーさんの声は、静かだった。
「この辺境に、大きな魔物の群れが押し寄せてきた。大侵攻って呼ばれてる。北の峡谷を越えてきたんだ。何百匹も」
暖炉の明かりが、マリーさんの横顔を照らしている。
「セドの父上——先代の辺境伯が、迎撃に出た。セドも一緒だった。19歳。あたしと幼馴染でさ、小さい頃から一緒に遊んでたんだよ。悪ガキでね、木登りが得意で、よくあたしを泣かせたもんさ」
マリーさんは、少しだけ笑った。でも、その笑みはすぐに消えた。
「先代が——戦死した」
「……」
「魔物の群れの真ん中に突っ込んで、村を守って——死んだ。セドは父上の代わりに最前線に立った。19歳の子供が、辺境伯の鎧を被って、兵を率いて」
マリーさんの声が、わずかに震えた。
「魔物の一撃を、頭に受けた。兜の上からだったけど——意識が飛んで、三日間目が覚めなかった。目が覚めた時には、魔物は退いてた。村は守れたんだ。でも——」
「味覚を、失った」
「そう」
暖炉の薪が崩れて、火の粉が舞い上がった。
「最初は何も分からなかったんだよ。怪我の痛みとか、いろいろあったから。でも、回復してきて——食事を取るようになって、セドが言ったんだ」
マリーさんは、遠い目をした。
「『何を食っても——水みたいだ』って」
リゼットは、息を呑んだ。
水みたいだ。
何を食べても。何を飲んでも。甘いも、辛いも、苦いも、酸っぱいも——何も、感じない。
「王都から薬師を呼んだんだよ。高い金を払ってさ。でも、診てもらって——言われたのは、『頭を打った衝撃で、味覚の神経が損傷している。時が解決するか、しないかだ』って。それだけ」
「……そんな」
「3年だよ、リゼ。3年間、セドは何も味を感じてない。食事は——ただの作業さ。生きるために、口に入れて、飲み込む。それだけ」
リゼットの手が、カップの上で震えていた。
「セドはね——誰にも弱みを見せない子なんだ。味が分からなくなっても、辛いとも苦しいとも言わなかった。ただ黙って食べて、黙って戦って、黙って辺境を守ってる」
マリーさんが、リゼットを見た。
「だから——あの収穫祭の夜、セドが『甘い』って言った時、あたし——」
声が詰まった。
「あたしも、泣きそうだったんだよ」
マリーさんが寝室に戻ってからも、リゼットはしばらく暖炉の前に座っていた。
3年間。
何を食べても——水みたいだ。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
リゼットは菓子師だ。菓子師は、食べた人に「美味しい」を届ける仕事だ。
でも——味覚がない人に、美味しいは届くのだろうか。
あの夜のことを思い出す。セドリック様がタルトを食べて、「甘い」と呟いた。あの一瞬は——本物だったのだろうか。それとも、マリーさんが言うように——3年間の渇望が生んだ幻だったのだろうか。
分からない。
でも——一つだけ、確かなことがある。
リゼットは、あの人にもう一度「甘い」を届けたい。
それが菓子師としての使命なのか、それとも——別の何かなのかは、まだ分からない。
でも——やるべきことは分かっている。
リゼットは立ち上がって、厨房に向かった。
翌日から、リゼットは研究を始めた。
味覚を失った人に、何が届くのか。
五感——視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。味覚が駄目なら、他の感覚に訴えかければいい。
香り。
温度。
食感。
舌が感じなくても、鼻が感じる。喉が感じる。歯が感じる。
リゼットは厨房に籠もって、一つの料理を作り始めた。
根菜のポタージュ。
蕪と人参を、時間をかけて煮る。辺境の蕪は甘い。霜に当たった根菜は、寒さから身を守るために糖分を蓄える。その自然の甘みを、できるだけ引き出す。
刻んだ蕪と人参を鍋に入れ、水をひたひたに注いで、弱火でことこと煮ていく。灰汁を丁寧にすくう。野菜が崩れるほど柔らかくなったら、木べらで潰す。滑らかになるまで、何度も何度も。
そこに——霜花蜜を少しだけ加える。
甘みが足りないのではない。香りを立たせるためだ。霜花蜜には、花の蜜に似た独特の香りがある。温めると、その香りがふわりと広がる。鼻の奥まで届く、甘い、甘い香り。
仕上げにバターをひとかけ。表面に、薄く金色の膜ができる。
温度にも、こだわった。熱すぎず、ぬるすぎず。舌が火傷しない、でも体の芯まで温もりが届く温度。人肌よりも少し高く——手のひらで器を包んだ時に「ああ、温かい」と思える温度。
最後に——乾燥させた胡桃を細かく刻んで、ポタージュの表面にぱらりと散らす。食感のアクセント。滑らかなスープの中に、かりりと歯ごたえのある粒が混じる。
味見をした。
舌の上に、蕪の優しい甘みが広がる。人参のほのかな土の香り。霜花蜜の花のような芳香。バターのまろやかさ。胡桃の香ばしさ。
——美味しい。
温かくて、甘くて、優しい味だ。
これなら——味覚が鈍くても、香りで、温度で、食感で——何かが伝わるかもしれない。
夕方、セドリック様が北の見回りから戻ってきた。
黒い外套に、冷たい風の匂いをまとわせて。馬を厩舎に入れて、宿の食堂に入ってくる。
リゼットは——待っていた。
厨房の扉の向こうで、器にポタージュをよそって。湯気が、ゆらゆらと立ち上っている。
「セドリック様」
声をかけると、セドリック様が振り向いた。
深い青灰色の目が、リゼットを見る。左頬の傷跡が、夕暮れの光に浮かび上がっている。
「……何だ」
「あの、もしよろしければ——スープを、召し上がりませんか」
器を差し出した。
セドリック様は、スープを見下ろした。無表情のまま。
一瞬の間があった。
「……ああ」
大きな手が、器を受け取った。
リゼットは、固唾を呑んだ。
セドリック様がスープを口に運ぶ。一口、二口。機械的に。淡々と。
匙が器の中を往復する。規則的な動き。そこに——何の感情も、読み取れない。
リゼットは彼の顔を見つめていた。目の動きを。唇の端を。眉の角度を。何か変化がないか。あの夜のように、かすかでも——何かが揺れないか。
スープが、なくなっていく。
胡桃の粒が、匙に引っかかる小さな音がした。最後の一口を飲み干して——
セドリック様は、器をリゼットに返した。
「……ごちそうさま」
それだけだった。
何の反応もない。美味しいとも、不味いとも。温かいとも、冷たいとも。
——ただ、食べた。それだけ。
「あの……何か——感じましたか?」
聞いてはいけないと、分かっていた。でも——口が、動いてしまった。
セドリック様の目が、リゼットを見た。
一瞬——ほんの一瞬だけ、その瞳に何かが過った気がした。
でも、すぐに消えた。
「食えればいい。味は——関係ない」
低い声だった。感情を押し殺した、平坦な声。
セドリック様は背を向けて、食堂を出ていった。
重い足音が、廊下に遠ざかる。
リゼットは——空の器を持ったまま、立ち尽くしていた。
厨房に戻って、鍋に残ったポタージュを、自分の器によそった。
匙を口に運ぶ。
温かい。甘い。蕪の優しさが、舌に広がる。霜花蜜の花の香りが、鼻を抜けていく。胡桃がかりりと小気味よい音を立てる。
——美味しい。
ちゃんと、美味しい。
でも。
あの人には——届かなかった。
リゼットは匙を置いて、天井を見上げた。
石天井に、蝋燭の影がゆらゆら揺れている。
収穫祭のタルト。あの夜、セドリック様は確かに「甘い」と言った。3年ぶりに、味を感じた。
あれは——一瞬の奇跡だったのかもしれない。
再現できないもの。二度と起きないもの。
そう思ったら——胸の奥が、きゅっと痛んだ。
でも。
リゼットは、匙をもう一度手に取った。
ポタージュを、最後まで飲み干す。
空になった器を洗って、布で拭いて、棚に戻す。
鍋も洗う。作業台も拭く。いつもの手順で、厨房を片づける。
菓子師は、食べた人の笑顔のために作る。
母がそう教えてくれた。笑顔がなくても、作り続けろ。いつか——必ず届く日が来る。
あの人にも。
もう一度——甘いを、届ける。
レシピ帳を開いて、新しいページにペンを走らせた。
『根菜のポタージュ(霜花蜜・胡桃)——届かず。次は、香りをもっと立たせる。蒸留した花水を加えてみる?』
窓の外は、もう真っ暗だった。
十月の夜風が、厨房の窓を揺らしている。
冬が近い。