「……甘い」
声が、落ちた。
かすれた、小さな声。
焚き火の爆ぜる音にかき消されそうな、それほど小さな声だった。
でも、リゼットには——はっきりと、聞こえた。
「え……」
リゼットの口から、声が漏れた。
「今、甘いって……?」
セドリックが、リゼットを見た。
その瞳に——何かが、揺れていた。
怒りでも、苦しみでもない。もっと深い、名前のつかない何か。
長い沈黙が流れた。
焚き火の炎が揺れている。村人たちの笑い声が、どこか遠い世界の音のように響いている。
「……気のせいだ」
セドリックは、視線を逸らした。
タルトの残りを、口に入れた。最後の一欠片まで。
そして——立ち上がった。
「ごちそうさま」
リゼットに背を向けて、歩き出す。
「あ、待って——セドリック様——」
手を伸ばしたけれど、届かなかった。
黒い外套が、焚き火の光の外へ消えていく。
広場の端から、暗い夜道へ。
リゼットは伸ばした手を下ろして、その背中を見送った。
どれくらいの時間が経っただろう。
焚き火が小さくなり、村人たちが少しずつ家路につき始めた頃——マリーがリゼットの隣に立った。
「リゼ」
「……マリーさん」
「見てたよ。セド、タルト食べたんだね」
リゼットは頷いた。
「あの人……甘いって。甘いって、言ったんです」
声が震えていた。自分でも、どうして震えるのか分からなかった。
マリーは、焚き火の向こう——セドリックが消えていった方角を見つめた。
「リゼ」
「はい」
「あの子ね、泣いてたよ」
リゼットは、息が止まった。
「背中向けて——泣いてた」
マリーの声は、静かだった。
「あたし、セドの幼馴染だからね。あの子の背中なら分かるんだ。肩が震えてた。ほんの少しだけだけど——確かに」
「……」
「3年だよ、リゼ。あの子は3年間、何を食べても味が分からなかった。19のときに魔物の大群と戦って、村を守って——その代わりに、味覚を失った」
マリーの手が、リゼットの肩に置かれた。
「3年ぶりに——甘いって、感じたんだ。あんたの菓子で」
リゼットの目から、涙が落ちた。
止められなかった。
3年間、味のない世界で。食事が作業で。何を食べても何も感じない日々を——19歳の若者がたった一人で耐えてきた。
そして今日、リゼットのタルトで甘いと感じた。
気のせいだ、と。彼はそう言った。
でも——泣いていた。背中を向けて。
「マリーさん」
「ん?」
「わたしの菓子が……あの人に、甘いを届けられたなら」
「ああ」
「それだけで——菓子師として、こんなに嬉しいことはないです」
マリーは、リゼットの頭をぽんぽんと叩いた。
「あんたは、いい菓子師だよ。リゼ」
村人たちが全員帰り、広場に誰もいなくなった。
焚き火の残り火だけが、赤く燃えている。
リゼットは一人、長テーブルの前に座っていた。
空になったタルトの皿を、見つめている。
今日、この皿の上に——辺境で初めての菓子が乗っていた。
子供たちが目を輝かせた。大人たちが驚いた。マリーが泣いた。
そして——セドリックが甘いと言った。
リゼットは皿を抱えて、立ち上がった。
空を見上げると、星が降るように瞬いていた。王都の空では見えなかった、辺境の星空。
冷たい風が頬を撫でる。秋が終わり、冬が近づいている。
辺境の冬は厳しいとマリーが言っていた。雪に閉ざされて、村は外界との行き来ができなくなる。
——それでも。
リゼットは、ここにいたい。
宿に戻ると、マリーはもう部屋に上がっていた。
リゼットは一人、厨房に入った。
蝋燭に火を灯す。
石窯が、まだほんのり温かい。今朝、タルトを焼いた余熱が残っている。
作業台の上には、使い切った素材の瓶や袋が並んでいる。霜花蜜の空き瓶。焙煎黒胡桃の残りかす。大麦粉の袋の底。
全部、使い切った。
辺境の素材を、全部。
リゼットはエプロンのポケットからレシピ帳を取り出して、作業台に広げた。
最初のページには、母が書いてくれたレシピがある。砂糖菓子、バタークッキー、フルーツタルト。王都の、貴族のための菓子。
ページをめくる。
途中から、リゼットの字に変わる。宮廷菓子師として書き溜めたレシピ。精緻な分量。正確な温度。完璧を目指した記録。
さらにめくる。
最後の数ページ——辺境に来てから書いたレシピ。
『辺境の蜂蜜クッキー』。失敗の記録。
『焙煎黒胡桃のビスコッティ』。初めて成功した菓子。
『山ベリーのジャム』。子供たちが運んでくれた素材。
『木の実タルト』。霜花蜜×焙煎黒胡桃×高原りんご。
どれも、不格好な記録だ。分量は曖昧で、温度は「手のひらの感覚で」としか書いていない。王都のレシピとは比べものにならない。
でも——このページに書かれた菓子は人を笑顔にした。
子供たちを。村人を。マリーを。
そして——セドリックに甘いを届けた。
リゼットは、新しいページを開いた。
ペンを手に取り——書く。
『辺境菓子の記録 第一章 ここが、わたしの厨房』
翌朝。
リゼットは厨房の扉を開けた。
冷たい朝の空気が流れ込んで、蝋燭の炎が揺れる。窓の外には、白霜の森が朝日を浴びて輝いている。
石窯に手を当てた。冷たい。昨日の温もりは、もう消えている。
でも——また温めればいい。薪を入れて、火を点けて、この窯をもう一度温めればいい。
マリーが階段を降りてくる足音が聞こえた。
「リゼ、早いねえ。昨日あんなに遅くまで起きてたのに」
「おはようございます、マリーさん」
リゼットは振り返って、笑った。
「お願いがあるんです」
「なんだい?」
「これからも——この厨房を、使わせてください」
マリーは一瞬きょとんとして、それから大きな声で笑った。
「何言ってるんだい! 当たり前じゃないか。あんたがいなくなったら、あたしが困るよ」
「ありがとうございます」
リゼットは深く頭を下げた。
「わたし、ここに残ります。この村で——菓子を、作り続けます」
マリーは笑うのをやめて、リゼットの顔をじっと見た。
「……本気かい?」
「本気です」
「辺境は冬が厳しいよ。雪で閉ざされたら、春まで外に出られない」
「知っています」
「砂糖もバターも手に入りにくいし、素材だって限られてる」
「だからこそ——ここで作る菓子に、意味があるんだと思います」
マリーは、しばらくリゼットを見つめていた。
そして——目を潤ませて笑った。
「嬉しいよ、リゼ。あんたがここにいてくれて」
二人は、厨房の入り口で向かい合って笑っていた。
窓から差し込む朝日が、石窯を照らしている。
冷えた窯に、これから火を入れよう。
今日も菓子を作ろう。明日も。その先も。
ここが——リゼットの厨房だ。
その日の昼、リゼットは白霜の森に素材を探しに出かけた。
冬に向けて、使える素材を確認しておきたかった。保存できる木の実、冬でも採れる蜂蜜、雪の下で甘みを増す根菜——辺境の冬を、菓子で乗り越えるために。
森の入り口で、足を止めた。
遠く——村の外れの丘の上に、黒い外套の人影が見えた。
セドリックだ。
北の見回りに向かうところだろう。馬に跨り、朝日を背に受けて、まっすぐ前を見ている。
昨日のことを思い出す。
——甘い。
あのかすれた声。震える唇。そして、背を向けて去っていった姿。
マリーが言っていた。あの子は泣いていた、と。
セドリックの味覚のこと——リゼットには、まだ分からないことだらけだ。なぜ味を失ったのか。どうすれば取り戻せるのか。リゼットの菓子がなぜ「甘い」と感じられたのか。
でも、一つだけ——分かることがある。
リゼットの菓子は、あの人に届いた。
3年間、何も感じなかった舌に——木の実タルトは、甘いを届けた。
それなら——もっと、届けたい。
もっと美味しい菓子を。もっと甘い菓子を。あの人が、もう一度「甘い」と言えるような——
丘の上の人影が、動き出した。馬が歩き出し、やがて北の道へ消えていく。
リゼットは、その背中を見送って——森へ向かった。
白霜の森は、秋の終わりの冷たい空気に包まれていた。
木の実が、枝から落ち始めている。
リゼットは手を伸ばして、黒胡桃を一つ拾い上げた。
硬い殻。苦い実。でも——焙煎すれば、あの香ばしい宝物に変わる。
この森には、まだまだ知らない素材が眠っている。
冬が来る。
でも——春も、必ず来る。
その時にはきっと、もっとたくさんの菓子を焼いている。
リゼットは黒胡桃を籠に入れて、森の奥へ歩き出した。