S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第9話: 辺境の一皿

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収穫祭の朝は、いつもより早く訪れた。

リゼットは夜明け前に起き出して、宿の裏にある窯に火を入れた。楢の薪——おそらくセドリックが置いていってくれた薪を、慎重に組み上げる。火種を押し込み、息を吹きかける。炎が立ち上がり、薪が爆ぜる音がした。

窯の中で、炎がゆっくりと安定していく。

これなら、焼ける。

昨日の夜、何度も繰り返した言葉を、リゼットはもう一度心の中で唱える。


窯の温度が安定したのを確認してから、リゼットはタルト生地を伸ばし始めた。

大麦粉に、バターと霜花蜜を少しだけ混ぜた生地。辺境では贅沢品のバターも、収穫祭のためにマリーが分けてくれた。ざっくりとした手触りの生地を、薄く伸ばして型に敷き詰める。底にフォークで穴を開けて、空焼きする。

その間に、フィリングを作る。

黒胡桃は、焙煎してから粗く砕いた。香ばしい香りが立ち上る。高原りんごは薄くスライスして、霜花蜜と少しの水で煮る。最初は酸っぱかったりんごが、熱を加えることでゆっくりと甘さを増していく。透明な金色になるまで煮詰める。

空焼きした生地に、焙煎した黒胡桃を敷き詰める。その上に、霜花蜜で煮たりんごのスライスを並べる。最後に、霜花蜜を溶いたものを全体に塗って——

窯に入れる。

楢の薪の火は、安定している。炎の色が、ずっと同じだ。

リゼットは窯の前に座り込んで、じっと中を見つめた。


タルトの香りが、宿の中に広がり始めた。

大麦の生地が焼ける香り。バターが溶けて、霜花蜜が焦げる甘い香り。黒胡桃の香ばしさ。高原りんごの酸味が、熱で変化して——

甘い。

窯の中で、タルトが色づいていく。生地がこんがりと焼けて、縁が黄金色になる。霜花蜜を絡めた黒胡桃が、琥珀色に輝く。りんごのスライスが、透明な金色に変わる。

焼けた。

リゼットは息を止めて、タルトを窯から取り出した。

湯気が立ち上る。甘い香りが、一気に広がった。

完成した。

辺境の素材だけで作った、木の実タルト。

リゼットは、タルトを見つめたまま、動けなかった。


「リゼ! 焼けたの!?」

マリーが、厨房に飛び込んできた。エプロンを締めながら、タルトを見て——固まった。

「……なにこれ」

「木の実タルトです。霜花蜜と黒胡桃と高原りんごで——」

「そうじゃなくて! なんでこんな、こんな……」

マリーは言葉を失って、ただタルトを見つめていた。

「いい匂いすぎるでしょ。宿中に広がってるよ、この香り」

本当だ。宿の廊下から、客たちの声が聞こえてくる。「なんだこの匂いは」「甘い匂いがする」「厨房か?」

リゼットは慌てて、タルトを布で覆った。

「収穫祭まで、誰にも見せちゃダメです! これは、広場で——」

「わかってるよ! あたしだって、これを広場で出すのが楽しみなんだから!」

マリーが笑った。

リゼットも、笑っていた。


収穫祭の広場は、朝から賑わっていた。

村の中央にある広場に、大きな焚き火が焚かれている。その周りに、長テーブルが並んでいる。いつもなら、干し肉とパンと芋のスープだけが並ぶテーブル。今年も同じだった——リゼットたちのタルトが運ばれるまでは。

「マリーさん、ここに置きましょう」

「ええ。真ん中がいいわね」

布で覆ったタルトをテーブルの中央に置いた。

村人たちが、興味深そうに集まってくる。

「マリー、なんだそれは」

「楽しみにしててよ。リゼが作ったんだから」

マリーが、誇らしげに言った。

リゼットは緊張で、手が震えていた。


焚き火の炎が高く上がり、村長が挨拶を始めた。

「今年も無事に収穫を終えられた。豊穣神に感謝する。辺境は厳しいが、俺たちはここで生きている。この冬も、乗り越えよう」

短い挨拶だった。辺境の人々は、言葉を飾らない。王都の収穫祭は華やかな祝祭だが、ここでは冬を越すための覚悟を確かめ合う場だ。

「それじゃあ、食うか!」

村長の号令とともに、村人たちが一斉にテーブルに集まった。

干し肉を取る者、パンを掴む者、スープを椀に注ぐ者——

そして、タルトの前で、足を止める者。

「……なんだこれは」

「初めて見るぞ」

「甘い匂いがする」

リゼットは、布を取った。

タルトが、焚き火の光を受けて輝いた。


最初に手を伸ばしたのは、子どもだった。

十歳くらいの男の子が、恐る恐るタルトを一切れ取る。他の子どもたちも、それに続いた。

「食べていいのか?」

「もちろんです。どうぞ」

リゼットが頷くと、男の子は一口、タルトを齧った。

——そして、目を見開いた。

「……甘い」

その言葉に、周りの大人たちがざわついた。

「甘い?」

「本当か?」

他の子どもたちも、タルトを口に運んだ。そして、一人、また一人と——笑顔になった。

「甘い! 本当に甘い!」

「こんな味、初めて!」

「おいしい!」

子どもたちの歓声が、広場に響いた。


大人たちも、タルトに手を伸ばし始めた。

「どれ、俺も——」

村の男たちが、タルトを一切れ取る。一口食べて——固まった。

「……なんだこれは」

「胡桃が、こうなるのか」

「りんごが、こんなに……」

言葉にならない驚きが、広場を満たしていく。

「甘いな。本当に甘い」

「辺境で、こんな味が食えるとは思わなかった」

「これが、菓子ってやつか」

村の女たちも、タルトを食べている。目を細めて、何度も頷いている。

「霜花蜜を、こんな風に使えるのね」

「黒胡桃、焙煎するとこんなに香ばしくなるのか」

「りんご、煮るだけでこんなに甘くなるなんて」

テーブルの端で、エルザばあちゃんがゆっくりとタルトを口に運んだ。

(しわ)だらけの顔が、ほころんだ。

「ああ……」

震える声だった。

「甘いって、こういうものなのかい」

小さな目に、涙が光っている。

「七十年生きてきて、こんな味は初めてだよ。初めてだ」

エルザは、リゼットを見た。

「ありがとうね、菓子師さん。あたしゃ、死ぬ前にいいものを食べた」

リゼットは唇を噛んだ。泣いてはいけない。笑顔で受け取らなければ。

「エルザさん……まだまだ、たくさん作りますから」

「そうかい。じゃあ、もう少し長生きしなきゃいけないねえ」

エルザは皺くちゃの顔で笑って、もう一切れ、タルトに手を伸ばした。

リゼットは、その光景を見つめていた。

辺境の村に、初めて「菓子」が存在した日。


タルトは、あっという間になくなった。

子どもたちは、まだ食べたそうにテーブルの周りをうろうろしている。大人たちは、焚き火の前で酒を飲みながら、タルトの話をしている。

「あんなもの、生まれて初めて食った」

「辺境でも、あんな味が作れるんだな」

「マリーの宿の新しい菓子師、大したもんだ」

リゼットは、その声を聞きながら——泣きそうになっていた。

菓子を、喜んでもらえた。

辺境の素材だけで、王都の菓子に負けないものを作れた。


「リゼ」

マリーが、リゼットの隣に座った。

手に、タルトの最後の一切れを持っている。

「あたしね、辺境に生まれて、甘いもの食べたの、これが初めてかもしんない」

マリーの声が、震えていた。

「蜂蜜は、傷の手当てに使うもんだと思ってた。胡桃は、そのまま齧るもんだと思ってた。りんごは、酸っぱいもんだと思ってた」

マリーは、タルトを一口食べた。

「でも、こんな風になるんだね。こんなに、甘くなるんだね」

そして——泣いた。

「美味しい。本当に、美味しい」

リゼットも、涙が溢れてきた。

「マリーさん……」

「ありがとうね、リゼ。あたしの宿に来てくれて、ありがとう」

二人は、焚き火の光の中で、泣きながら笑っていた。


焚き火の炎が、ゆっくりと揺れている。

村人たちの笑い声が、広場に響いている。

リゼットは、その光景を見つめていた。

ここは、王都じゃない。

辺境の、小さな村。

でも——

リゼットは、ここで菓子を作れる。

ここで誰かを笑顔にできる。

それだけで、十分だ。


「……まだ、残っているか」

低い声が、背後から聞こえた。

振り返ると——セドリックが、タルトの前に立っていた。

テーブルには、もうタルトは残っていない。

でも、リゼットは——一切れだけ、取っておいた。

セドリックのために。

二人の、目が合った。

セドリックの表情は、いつもと同じだった。

でも——その瞳に、何かが灯っているのを、リゼットは見た。

リゼットは、その一切れを差し出した。

セドリックの手が、ゆっくりと伸びて——タルトを受け取った。

大きな手。剣だこのある、武人の手。その指先に、小さなタルトが収まる。

「……いただこう」

低い声が呟いた。

セドリックがタルトを口に運ぶ。

一口。

噛む音が——リゼットの耳には、はっきりと聞こえた。

大麦の生地が砕ける音。焙煎黒胡桃が歯に当たる音。霜花蜜が溶ける、かすかな音。

セドリックの咀嚼(そしゃく)が——止まった。

彼の目が、わずかに見開かれた。

眉の間に、微かな(しわ)が寄る。

唇が——震えている。

リゼットは固唾(かたず)を呑んで、その顔を見つめた。

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