S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第8話: 折れそうな夜

第1アーク · 4,739文字 · draft

収穫祭まで、あと一日。

リゼットは厨房の片隅で、崩れたタルトを見つめていた。

焼き上がりの時点で——もう、駄目だった。生地の縁が焦げている。中心部は生焼け。木の実の詰め物が流れ出し、皿の上でどろどろの甘い泥になっている。

温度が、高すぎた。松材の薪は火力が強すぎる。石窯は蓄熱してどんどん温度が上がっていく。(ふた)を閉じても火を弱めても、一度熱し過ぎた窯は言うことを聞かない。

これで——何度目だろう。

リゼットは(かまど)の前に膝をついて、窯の口を覗き込んだ。まだ赤々と炭が燃えている。熱気が顔を撫でて、汗が頬を伝う。

もう一度、最初から。薪の量を減らす。温度を低く保つ。窯を休ませる時間を増やす。

——でも、時間がない。収穫祭は明日の昼だ。

「……もう一回」

呟いて立ち上がった瞬間、膝が震えた。気づけば、朝からずっと厨房にいる。マリーが昼に持ってきてくれたパンは、半分も食べずに皿に残ったままだった。

手を伸ばして、レシピ帳を開く。母の字が、蝋燭の明かりでゆらゆら揺れた。

——タルト生地は冷やした状態で窯へ。温度は中火より少し弱く。

母のレシピは、王都の窯を前提にしている。煉瓦(れんが)で内壁を張った温度調節の効く大きな窯。燃料は炭。温度計がついている。

ここには何もない。石を積んだだけの素朴な窯と、松材の薪しかない。

温度計も、ない。

リゼットは窯の前にしゃがみ込み、手のひらを窯口にかざした。熱の伝わり方で温度を読む——菓子師の基本だ。(てのひら)が熱くなる速さ、熱気の匂い、石の色。それで温度を推測する。

だが、辺境の窯は王都の窯と違う。熱の(こも)り方が違う。燃え方が違う。母のレシピ帳には書いていない、辺境の窯独自の癖がある。

——この癖を、リゼットはまだ(つか)めていない。


何度目かの試作を窯に入れて、リゼットは窯口の前で膝を抱えて座っていた。

蝋燭の灯りだけが厨房を照らしている。窓の外はもう完全に暗い。村の家々の灯りも、半分ほどは消えていた。村人は早寝早起きだ。日が暮れれば眠り、夜明けとともに起きる。

リゼットだけが、まだ起きている。

窯の中でタルトが焼ける音。ぱちぱちと泡立つ霜花蜜の音。木の実が焦げる直前の、甘い匂い。

リゼットは膝に(あご)を乗せて、窯の奥の赤い炎を見つめた。

——味は、近づいている。

霜花蜜の甘さと、黒胡桃の香ばしさと、高原りんごの酸味の組み合わせ。この三つのバランスは正解だ。昨日の試作で、それは確信した。マリーが試食して「リゼ、これ美味い! もう完璧じゃない?」と言ってくれた。

でも——見た目が、駄目なんだ。

焼き色がまだらになる。生地が崩れる。表面が焦げて、中が生焼けになる。

宮廷では、見た目が完璧でなければ菓子とは呼ばれない。黄金比で整った円形。均一な焼き色。装飾の精緻(せいち)さ。それが宮廷菓子師の矜持(きょうじ)だった。

辺境では——そこまで求められていないかもしれない。マリーさんは「味が良ければいいじゃないか」と言ってくれた。

でも、リゼットが許せない。

菓子師として——自分が納得できるものを、出したい。収穫祭は、村の一年で一番大切な日だ。初めて村人が「甘味」に出会う日だ。

その日に、崩れたタルトを出すわけにはいかない。

窯の中から、焦げた匂いがした。

リゼットは慌てて窯口を開けた。熱気と煙が噴き出す。目を細めながら布で手を包み、タルトを引き出す。

——やっぱり、焦げている。

縁が真っ黒だ。中心部は焼けているが、詰め物が(あふ)れて、石窯の底に焦げついている。

リゼットはタルトを作業台に置いた。そして——計量匙(スプーン)を手に取ろうとして、手が震えて落とした。

からん、と金属の音が厨房に響いた。

静けさの中で、その音がやけに大きく聞こえた。

「……」

リゼットはしゃがみ込んで、落ちた匙を拾おうとした。だが手が震えて、なかなか掴めない。

——何をやっているんだろう、リゼットは。

宮廷でも、追放された。不要だと言われた。お前の菓子はもう要らない、と。

ここに来て——やっと、菓子を焼く場所を得た。マリーさんが厨房を使わせてくれた。村人が「美味しい」と言ってくれた。

でも——また、失敗している。

窯が使えない。温度が読めない。薪の癖が分からない。

母のレシピ帳は役に立たない。王都で培った技術が通じない。

ここでも、リゼットの菓子は——

リゼットは床に座り込んで、膝を抱えた。

計量匙が、足元で冷たく光っている。


扉が開いた。

「まだやってるのかい」

マリーの声。

リゼットは顔を上げた。マリーが厨房に入ってきて、窯の前のリゼットを見下ろしている。寝間着にショールを羽織った格好だ。

「マリーさん……こんな時間に」

夜更(よふ)けに厨房から煙が出てるんだ。そりゃ見に来るさ」

マリーはリゼットの隣にしゃがみ込んだ。それから、作業台に並んだ失敗作のタルトを見た。五つ。六つ。どれも焼き色がまだらで、縁が焦げて、見た目がぐちゃぐちゃだ。

「……これ、全部今日作ったのかい?」

「はい……でも、どれも駄目で……温度が高すぎて、焼きムラが出て」

「味は?」

「味は——近づいています。霜花蜜と黒胡桃のバランスは、これで良いと思うんです。でも、見た目が」

「味が良いなら、いいじゃないか」

マリーがあっさり言った。

「でも……」

「あんた、完璧主義すぎるよ」

マリーはそう言って、一つのタルトを手に取った。縁が焦げているやつだ。端を指で割って、口に入れる。

もぐもぐと咀嚼(そしゃく)して、マリーの表情がふっと緩んだ。

「……うまいじゃないか」

「でも、焦げて——」

「焦げてる部分は取ればいいのさ。中は完璧だよ。この甘さ、この香り——リゼ、あんたすごいよ」

リゼットは首を横に振った。

「違うんです。わたしは——宮廷菓子師だったんです。見た目が完璧でなければ、菓子じゃない。そう教わって、そうやって作ってきたのに……ここでは、何もできない……」

声が震えた。

マリーはリゼットの肩に手を置いた。大きくて温かい手だった。

「リゼ」

「……」

「あんたの菓子は、ここの人を笑顔にしてるんだよ」

リゼットは顔を上げた。

「ビスコッティ食べた時のじいさんの顔、見たかい? あの人、五年ぶりに笑ったんだよ」

「……え」

「あの人の息子がね、五年前に魔物に殺されたんだ。それ以来ずっと、笑うことをやめちまった。でもあんたの菓子を食べた時——『こんな味、初めてだ』って、笑ったんだよ」

マリーの声は、いつもより低かった。だけど、温かかった。

「あんたの菓子はね、リゼ。ここの人に、何かを思い出させてる。忘れてたものを、取り戻させてる」

「……」

「完璧じゃなくていいんだよ。甘けりゃいいのさ、ここの人には」

リゼットの目が、熱くなった。泣きそうになるのを(こら)えて、(うつむ)いた。

「……ありがとうございます」

「礼はいらないよ。あたしこそ、あんたに感謝してるんだから」

マリーは立ち上がった。

「もう寝な。明日は大事な日だろ?」

「……はい」

「窯の火、ちゃんと消してから寝るんだよ」

「はい」

マリーは厨房を出ていった。足音が階段を登っていく音が聞こえて、やがて静かになった。

リゼットは一人、厨房に残された。

だが——さっきまでの暗い気持ちが、少しだけ軽くなっていた。

マリーさんの言葉が、胸に残っている。

——あんたの菓子は、ここの人を笑顔にしてる。

もう一度だけ、やってみよう。


リゼットは立ち上がって、窯の火を落とそうとした。

そのとき——厨房の裏口に、何か置いてあることに気づいた。

「……?」

裏口は宿屋の勝手口で、薪置き場に通じている。いつもは閉まっているはずだが、今日は半分開いていた。

その入り口に——薪が、積まれている。

リゼットは近づいて、その薪を見た。

松材じゃない。

木肌が滑らかで、色が濃い。(なら)の薪だ。

火力が穏やかで、じっくり焼くのに向く薪。王都の菓子房でも使っていた。だが辺境では見たことがない。松材ばかりだ。この辺りでは楢は貴重で、建材にしか使わないとマリーさんが言っていた。

リゼットは薪を一つ手に取った。

丁寧に割られている。断面が綺麗だ。(ふし)がなく、均一な厚さに揃えられている。

——誰が、こんな時間に?

薪置き場に続く小道を覗く。だが人の姿はない。月明かりだけが、薪小屋の屋根を照らしている。

リゼットは薪を抱えて、厨房に戻った。

これだけの量があれば——明日の朝、もう一度焼ける。

誰が置いたのか。こんな時間に。わざわざ楢の薪を割って、ここに置いていった人。

——セドリック様?

確証はない。でも、この薪の割り方には見覚えがあった。

数日前——厨房の窓から、セドリックが薪を割っているのを見たことがある。(おの)を正確に振り下ろして、一撃で薪を二つに割る。無駄のない動き。割られた薪は、まるで刃物で切ったように断面が綺麗だった。

この薪も——同じだ。

リゼットは薪を窯の脇に並べた。それから、一つ手に取って、窯に火を入れた。

松材とは違う、静かな火だった。炎がゆっくり燃え上がり、煙が少ない。窯の中の温度が、じわじわと上がっていく。

リゼットは窯口に手をかざした。熱気が、優しく掌を撫でる。

——これなら。

温度が、安定している。

松材のように急激に熱くならず、ゆっくりと窯全体に熱が広がっていく。これなら、タルトを焦がさずに焼ける。

リゼットは作業台に戻った。最後の大麦粉と、バターと、霜花蜜と——もう一度、タルト生地を作り始めた。

手が、震えていない。

マリーさんの言葉と、この楢の薪が——折れかけた心を、支えてくれている。


夜が深くなる。

窯の中でタルトが焼ける音が、静かに響いている。

リゼットは窯口の前で、両手を組んで待っていた。

楢の薪は、本当に優しい火だった。温度が安定して、窯の中が均一に熱せられていく。石窯の底に手を入れても、焦げ付きがない。

時間をかけて、ゆっくり焼く。

霜花蜜が泡立つ音。木の実が温まって香ばしくなる匂い。生地が膨らんで、縁に焼き色がつく瞬間。

——もう少し。

リゼットは窯口を覗き込んだ。タルトの表面が、黄金色に輝いている。焼きムラがない。縁も焦げていない。

「……焼ける」

呟いた声が、厨房に響いた。

「これなら——焼ける」

タルトを窯から出す。布で包んだ手に、ずっしりとした重みが伝わってくる。

作業台に置いて、蝋燭の明かりで見た。

完璧だった。

表面は均一な黄金色。縁はきつね色に焼けて、香ばしい匂いがする。木の実の詰め物は溢れず、生地の中にしっかり収まっている。霜花蜜の甘い香りと、黒胡桃の香ばしさと、高原りんごの爽やかな酸味が——全部、一つになっている。

リゼットは息を吐いた。

手が震えている。今度は、恐怖じゃない。

——できた。

初めて、辺境の窯で、完璧なタルトを焼けた。

王都のレシピじゃない。母の手帳に載っていない、辺境だけの菓子。

リゼットはタルトに触れた。まだ温かい。指先に、生地の柔らかさが伝わってくる。

窓の外が、少しずつ白んできていた。夜明けが近い。

収穫祭の朝が、来る。

リゼットは厨房の窓を開けて、外を見た。冷たい風が、顔を撫でる。

遠くで、一番鶏が鳴いた。

村が、目覚め始める。

リゼットは小さく笑った。涙が一粒、頬を伝った。

でも——悲しくはなかった。

ただ、嬉しかった。

リゼットの菓子が——ここで、焼けた。


厨房の裏口に、もう一度目を向けた。

楢の薪は、まだいくつか残っている。

誰が置いていったのか——確証はない。

でも、リゼットは思う。

——セドリック様。

もし本当に、あなたが置いてくれたのなら。

ありがとうございます。

言葉にはしない。でも、心の中で、何度も繰り返した。

窓の外で、朝の光が村を照らし始めていた。

収穫祭の日が、始まる。

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