秋が、深まっていた。
白霜の森の木々は赤と金に色づき、朝晩の冷え込みが厳しくなっている。村の畑では最後の収穫が急ピッチで進められ、男たちは日の出から日没まで鎌を振るっていた。
「収穫祭は、来週の木曜日だよ」
朝食の配膳を手伝いながら、マリーが言った。
「年に一度の祭りだからね。村中総出で、広場に長テーブルを出して、みんなで食べるのさ」
「どんなものを出すんですか?」
「干し肉とパンと芋のスープ。毎年同じ」
マリーは苦笑した。
「辺境だからねえ。華やかなもんは何もない。でも、一年で一番楽しい日ではあるよ」
リゼットは、手を止めた。
——収穫祭。
辺境の、年に一度の祭り。村人が全員集まる日。
その日に——菓子を出せたら。
「マリーさん」
「ん?」
「収穫祭に、甘いものを出してもいいですか」
マリーはぽかんとリゼットを見つめた。
「甘いもの? 祭りに?」
「はい。木の実のタルトを作りたいんです。黒胡桃と、霜花蜜と、高原りんごで」
マリーはしばらくリゼットの顔を見つめていたが、やがて大きな笑みを浮かべた。
「いいじゃないか! この村で、祭りに甘味が出るのは初めてだよ」
その話は、あっという間に村中に広がった。
ビスコッティやジャムで「菓子師さん」の存在を知っていた村人たちが、次々とリゼットのもとに集まってきた。
「リゼさん、うちの黒胡桃、使ってくれよ。裏庭の木に今年はたくさん生ったんだ」
薪割りのヨハンが、麻袋いっぱいの黒胡桃を持ってきた。殻つきのまま、ずっしりと重い。
「こんなに……! ありがとうございます!」
「どうせ苦くて食えねえもんだ。あんたが使えるなら嬉しいよ」
ヨハンは照れたように頭を掻いて去っていった。
昼過ぎには、子供たちが走ってきた。
「お姉ちゃん! 黒胡桃、拾ってきたよ!」
「わたしも!」
「森の奥の大きい木のやつ! 実が大きいの!」
小さな手が差し出す巾着袋を、リゼットは両手で受け取った。
「ありがとう。たくさん集めてくれたのね」
「うん! お姉ちゃんのお菓子、もっと食べたいから!」
子供たちの笑顔に、リゼットの胸が温かくなった。
翌日、マリーが東の丘のおばあちゃんを連れてきた。
「エルザばあちゃんだよ。りんごを分けてくれるって」
白髪の老婆が、布に包んだ籠を差し出した。中には、小振りで青みがかったりんごが詰まっている。
「高原りんごさ。酸っぱいから、うちじゃ煮て食うしかないんだけど」
リゼットは一つ手に取り、齧った。
——酸っぱい。舌の奥がきゅっと締まるような、鋭い酸味。
だが、酸味の底に——しっかりとした果肉の甘さがある。これなら霜花蜜と煮詰めれば、フィリングとして最高の素材になる。
「エルザさん、これ……素晴らしいです」
「あらまあ。酸っぱいだけのりんごを褒められたのは初めてだよ」
エルザは皺だらけの顔で笑った。
「祭り、楽しみにしてるからね。甘いもんなんて、この歳で初めて食べることになるのかもしれないよ」
素材が、厨房に集まった。
焙煎黒胡桃。霜花蜜。高原りんご。大麦粉。山羊乳バター。
マリーが分けてくれた貴重なバターも含めて、作業台の上に並べる。リゼットはその一つ一つを手に取り、匂いを嗅ぎ、味を確かめた。
ここにあるのは全て、辺境の素材だ。王都にはないもの。この土地だけが育てたもの。
リゼットはレシピ帳を開き、空白のページに向かった。
『木の実タルト——収穫祭のために』
生地は大麦粉と山羊乳バターと霜花蜜。辺境のサブレ生地。
フィリングは二層。下に焙煎黒胡桃を敷き、上に霜花蜜で煮た高原りんごを並べる。
仕上げに霜花蜜を薄く塗って焼き上げる。
ペンが走る。分量、手順、注意点。頭の中でレシピが組み上がっていく。
焙煎黒胡桃の香ばしさが土台。霜花蜜の繊細な甘さが全体を繋ぎ、高原りんごの酸味がアクセントになる。
三つの味が、三角形のように支え合う構造——。
「いける」
リゼットは呟いた。
このレシピなら、辺境の素材だけで、王都にも負けないタルトが作れる。確信があった。味のバランスは、絶対味覚が保証する。
問題は——焼きだ。
その日の夕方、リゼットは試し焼きをすることにした。
まずは小さめの生地を一つだけ。レシピの確認と、窯の具合を見るために。
大麦粉に山羊乳バターを切り込み、霜花蜜を少し加えて生地をまとめる。冷やして休ませてから薄く伸ばし、小さな型に敷く。
ここまでは順調だった。手に馴染んだ工程。問題はない。
石窯に火を入れる。薪は松材。マリーの宿にある薪は、すべて松だ。
リゼットは窯口に手をかざした。熱気が掌を叩くように押し寄せてくる。
「……熱い」
松材は火力が強い。樹脂が多く、勢いよく燃える。パンを焼くには申し分ない。
でも——菓子には、強すぎる。
薪を一本引き抜いてみた。それでも窯の中は熱い。石が蓄熱して、温度がなかなか下がらない。
「……仕方ない。このまま試してみよう」
小さなタルト生地を窯に入れた。
十分後。
取り出した生地は——縁が黒く焦げ、中心はまだ白かった。焼きムラが激しい。
リゼットは鉄板を作業台に置いて、生地を見つめた。
松材の炎は一方向に集中しやすい。窯の奥と手前で温度差が大きい。王都の窯なら煉瓦の内壁が熱を分散してくれるが、この石窯にはそんな機能がない。
「温度が、安定しない……」
タルトの繊細な焼き加減には、穏やかで均一な熱が必要だ。松材では、それが得られない。
必要なのは、火力の穏やかな広葉樹の薪。楢や樫。王都の菓子房では必ず楢の炭を使っていた。
だが辺境では、松しかない。楢は貴重な建材で、薪にする余裕はない。
「……どうしよう」
リゼットは窯の前にしゃがみ込んだ。
味のレシピは完成した。自信がある。
でも——焼けない。この窯では、タルトが焼けない。
収穫祭まで、あと六日。
村人たちが素材を集めてくれた。子供たちが楽しみにしている。エルザばあちゃんが「甘いもんを初めて食べる」と笑っていた。
その期待に——応えなければ。
その夜、リゼットは部屋でレシピ帳を広げていた。
タルトのレシピの横に、窯についてのメモを書き加える。
『問題: 松材では温度が安定しない。焼きムラが出る。対策を要検討。』
窯を改造する? 時間が足りない。別の燃料を探す? 松以外の薪は——。
答えが、出ない。
リゼットはペンを置いて、窓の外を見た。
月が高い。森の影が、窓の下に長く伸びていた。
あの森には楢の木も生えているかもしれない。でも、木を伐って薪にするには時間がかかる。乾燥が必要だ。生木では使えない。
「……何か方法があるはず」
リゼットは呟いた。
宮廷菓子師として三年。どんな窯でも使いこなすのが菓子師の技だと、師匠に教わった。
まだ、諦めるには早い。
明日から——窯との格闘が始まる。