山ベリーを摘んできたのは、村の子供たちだった。
麻布の巾着いっぱいに、つやつやした紫がかった赤い粒が転がっている。小指の先ほどの小さな果実は、手に取るとすぐに潰れてしまいそうなほど柔らかい。一粒つまんで口に含むと、びりりと舌を刺す酸味が広がった。
「酸っぱいでしょう? でも、甘くなるんですよね」
子供たちはきらきらした目でリゼットを見上げてくる。昨日のビスコッティが村中に評判になったらしい。こんな小さな村で、噂が広がるのは早い。
「ええ、甘くなりますよ。煮詰めてジャムにすれば、それはそれは美味しいんです——」
思わず早口になっていた。リゼットは咳払いをして、子供たちに礼を言う。
「ありがとう。大事に使わせてもらいますね」
子供たちは満足そうに笑って駆けていった。
宿屋の厨房で、リゼットは山ベリーを丁寧に洗い、水気を切る。小さな鍋に移し、霜花蜜を少しずつ加えながら火にかけた。
木べらでかき混ぜると、果実がすぐにとろけ始める。酸味と甘みが混ざり合って、湯気とともに立ち上る香りが厨房を満たす。深い赤紫の色が、煮詰まるにつれてつやを増していく。
「わあ、いい匂い!」
マリーが覗き込んでくる。
「山ベリーのジャムです。酸味が強いので、霜花蜜を多めに——でも入れすぎると果実の風味が死んでしまうから、この加減が——」
「はいはい、リゼは本当に菓子のことになると止まらないねえ」
マリーはくすくす笑いながら、リゼットの肩を叩いた。
「明日の朝食に出してもいいかい? パンに合うだろう」
「もちろんです! ぜひ!」
翌朝、宿屋の食卓に並んだ焼きたてのパンと、小さな陶器の器に盛られた山ベリーのジャム。
村の男たちが、恐る恐るパンにジャムを塗って口に運ぶ。そして、顔色が変わった。
「なんだこれは……!」
「果物がこんな味になるのか……!」
「酸っぱいだけの山ベリーが、こんなに甘く……?」
驚きと喜びの声が食卓を包む。リゼットは厨房の隅で、その光景を見ながら胸が温かくなった。
王都では当たり前だったジャム。でも、ここでは違う。ここでは、小さなジャム一瓶が、こんなにも人を喜ばせる。
日々は、穏やかに過ぎていった。
リゼットは宿屋の手伝いをしながら、厨房で試作を繰り返す。掃除、配膳、薪割り。王都にいた頃には想像もしなかった仕事だけれど、手を動かしているうちに、不思議と心が落ち着いていく。
そして合間を見つけては、厨房で新しい菓子を試す。辺境の素材は限られているけれど、だからこそ一つ一つの素材と向き合う時間が増えた。黒胡桃の焙煎具合、霜花蜜の濃度、山ベリーの煮詰め方——。
絶対味覚が、今までになく冴えている気がする。
その日の夕刻、宿屋の扉が開いた。
セドリックだった。
北の見回りから戻ったのだろう。黒い外套には雪が薄く積もっている。彼はいつものように無言で席に着き、マリーが出した食事に手をつけた。
リゼットは厨房の隅から、そっと様子を伺う。
セドリックは、淡々と食事を口に運ぶ。味わっている、というよりは、作業のように見える。噛んで、飲み込む。ただそれだけ。
——あの人は、食事を楽しんでいるのだろうか?
ふと、そんな疑問がリゼットの頭をよぎった。
厨房に戻ると、山ベリーのジャムがまだ少し残っている。小さなスプーンですくって、陶器の小皿に盛る。
深呼吸をして——リゼットは食堂に戻った。
「あの……セドリック様」
声をかけると、彼は顔を上げた。無表情のまま、リゼットを見る。
「これ、よろしければ……山ベリーのジャムです」
小皿を差し出す。
セドリックは一瞬、ジャムを見つめた。そして——迷うように視線を揺らした後、小さく頷いた。
「……いただこう」
スプーンを受け取り、ジャムをすくって口に運ぶ。
沈黙。
長い、長い沈黙。
彼の表情は、変わらない。
何も感じていないように見える。
でも——違う。何かが、彼の中で動いている気がする。わずかに眉が寄せられ、目が細められる。
「……甘いか、これは」
ぽつりと、呟くような声。
リゼットは一瞬、言葉を失った。
「……え?」
「甘いのか、と聞いている」
セドリックは、じっとリゼットを見た。その目には——何があるのだろう。
「は、はい……甘いですよ。山ベリーと霜花蜜で、煮詰めて——酸味と甘みのバランスを整えて——」
早口になる。止まらない。でも、セドリックの表情は動かない。
「そうか」
それだけ言って、彼は立ち上がった。
「ごちそうさま」
そして、宿屋を出ていく。
リゼットは呆然と、その背中を見送った。
——甘いか、これは。
あの問いかけは、何だったのだろう。
味が、分からないのだろうか?
いや、そんなはずは——でも、もしそうだとしたら——。
「マリーさん」
リゼットは厨房に戻り、食器を洗っているマリーに声をかけた。
「セドリック様は……味が、分からないんですか?」
マリーの手が、一瞬止まった。
そして——ゆっくりと、皿を置く。
「あの子の口から、聞いたことはないよ」
静かな声だった。
「でも……食事を楽しんでる顔、見たことないね。3年前の大侵攻の後から」
「大侵攻……?」
「ああ。3年前、魔物の大群がこの村を襲った。セドはまだ19だったけど、たった一人で村を守り抜いた。でも——その時、何かがあったんだろうね。それ以来、あの子は食事を『栄養補給』としか見てない」
マリーは、遠い目をした。
「味が分からないのか、それとも分かっていても感じないのか——分からないけど。ただ、あの子にとって食事は『生きるための作業』なんだろう」
リゼットの胸に、小さな棘のような何かが刺さった。
味が分からない世界。
食べることが、ただの作業になる世界。
菓子師として——いや、一人の人間として、それがどれほど孤独なことか、想像もつかない。
その夜、リゼットは部屋に戻ってもなかなか眠れなかった。
マリーの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
味が分からない。食事が作業。3年間。
リゼットは毛布の中で、自分の指先を見つめた。火傷の跡がいくつもある菓子師の手。この手は「美味しい」を作るためにある。誰かの舌に甘さを届けるためにある。
もし、味が分からない人がいるなら。その人にも届く菓子を、作れないだろうか。
どうすれば届くのか、まだ分からない。でも、考えることをやめたくなかった。
レシピ帳を開いて、小さく書き加える。
『味覚を失った人に、菓子は届くか?』
答えはまだない。
でも、今日セドリック様は「甘いか」と聞いた。あれは、味を知りたかったのではないだろうか。
リゼットはレシピ帳を閉じて、目を閉じた。
窓の外で、風が枝を揺らす音がした。白霜の森の方角から、かすかに木の実の匂いが漂ってくる。
明日も、厨房に立とう。