いつの間にか、日課になっていた。
朝。厨房で試作品を仕上げていると、重い足音が廊下を近づいてくる。
扉が開く。
冷たい外気と一緒に、大きな影が入ってくる。灰銀色の髪。黒い外套。左頬の傷跡。
セドリック様は、まっすぐリゼットを見て——言った。
「食わせろ」
たった一言。
それだけで——リゼットは、笑顔になる。
始まりは、十二月の終わりだった。
最初は夜更けだった。
片づけの終わった厨房に現れて、「昨日の残りを出せ」とだけ言う。リゼットが皿を差し出すと、無言で食べて、無言で帰る。
それが何日か続いて、やがて言葉が「また残しておけ」に変わった。
年が明けるころには、朝にも顔を出すようになり——
一月の半ば、ついに最初の一言が落ちた。
焼きりんごの研究を続けていたリゼットは、毎日さまざまな試作品を作っていた。りんごの切り方を変えたもの。蜜の配合を変えたもの。シナモンを多くしたもの、少なくしたもの。焼き時間を長くしたもの。バターを焦がしたもの。
その日も、朝から試作をしていた。厨房に甘い香りが充満している。
セドリック様が北の見回りから戻ってきたのは、いつもより早い時刻だった。
厨房の前を通りかかって——足を止めた。
リゼットは気づかなかった。振り返ったら、扉の前に立っていた。
「あ、セドリック様。おはようございます。今日はお早いですね——」
「食わせろ」
「え?」
「今。焼いてるやつ。食わせろ」
ぶっきらぼうな声。視線は——試作品のりんごに向いていた。
リゼットは一瞬きょとんとして、それから慌てて皿を用意した。
「は、はい。まだ試作段階なんですけど——どうぞ」
セドリック様は黙って椅子に座り、出されたものを食べた。
淡々と。無表情に。
何の感想もなく、席を立った。
「……ごちそうさま」
それだけだった。
翌朝も——来た。
「食わせろ」
その翌朝も。
「食わせろ」
三日続いた時に、リゼットは確信した。
これは——日課になるのだ、と。
毎日、違う試作品を出す。
セドリック様の反応を——リゼットは、一つも見逃すまいと観察した。
菓子師の目で。そして——もう一つの、名前のつかない感情で。
シナモンを強めた焼きりんごを出した日。セドリック様の眉が、かすかに動いた。ほんの一瞬。でも、確かに。
レシピ帳に書く。『眉が動いた → 何かが届いた。シナモンの量は多め寄りで正解か』
霜花蜜をたっぷり絡めたものを出した日。セドリック様の咀嚼が、途中で遅くなった。いつもは規則的に動く顎が、一瞬だけ——ためらうように。
『咀嚼が遅くなった → 味を探っている。蜜の量は増やす方向で』
バターを焦がしてから焼いたものを出した日。セドリック様が、目を閉じた。食べながら、瞼を下ろした。三秒ほど。
リゼットの心臓が、大きく跳ねた。
『目を閉じた → 香りを感じている。焦がしバターの香りは有効。これは大きな手がかり』
そして——高原りんごを丸ごと芯をくり抜いて、中に蜜とバターとシナモンを詰めて焼いたものを出した日。
セドリック様は一口食べた。そして——二口目を食べた。
二口目。
いつもなら、出されたものをただ食べきるだけだ。でもこの日は——一口目の後に、ほんの一瞬の間があった。そして、自分から二口目に手を伸ばした。
食べたいから食べたのか。それとも、いつもと同じただの動作なのか。
分からない。でも、リゼットはレシピ帳に書いた。
『二口目を食べた → 良い兆候。丸ごと焼きは有望。配合を固定して、温度を詰める』
記録は日に日に増えていく。科学者のように精密に。でも——菓子師の直感も、忘れない。数字では測れないもの。あの人の沈黙の質。呼吸の深さ。匙を置く速度。
全部——リゼットにしか読み取れない言語だった。
「セドリック様、まだ熱いですから——あっ」
差し出した皿を、セドリック様は待たずに手で取った。焼きたてのりんごを、そのまま口に放り込む。
「問題ない」
「問題あります! 舌を火傷したらますます——」
言いかけて、止まった。
味が分からなくなる。
その言葉が、喉の奥で凍りついた。
沈黙が、落ちた。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、厨房に響いている。
リゼットは顔を伏せた。言ってはいけないことを、言いかけてしまった。
「……すみません」
「何がだ」
「いえ、その……」
セドリック様を見上げると——怒ってはいなかった。
むしろ——口角が、かすかに上がっている?
「……ああ、そうだな」
低い声だった。感情を押し殺した、いつもの平坦な声。でも——どこか、柔らかい。
リゼットの頬が、じわりと熱くなった。
ある朝、厨房に入ると——薪が補充されていた。
暖炉の横の薪置き場に、きれいに積み上げられた楢の薪。昨日の夜はもう残り少なかったのに。
「あれ、マリーさん、薪を——」
「あたしじゃないよ」
マリーさんが、にやにやしながら言った。
「セドが持ってきたんだよ。朝早く」
「え?」
「『薪が減ってる』って。それだけ言って、積んで、出ていった」
リゼットは薪の山を見つめた。一本一本、同じ長さに割られた楢の薪。暖炉にちょうどいい太さに揃えてある。
「あの子、厨房の薪の量なんかチェックしてるんだねえ」
マリーさんが、にやにやを隠そうともしない。
「セドリック様が……?」
「他に誰がいるのさ。まったく、あの子は——口じゃ何も言わないくせに、こういうところはちゃんとしてるんだから」
頬が熱い。
セドリック様が——リゼットの厨房の薪の量を、見ている。毎日来ているから、減り具合が分かるのだ。
気づいて——黙って、補充した。
何も言わず。
それが、あの人なのだ。
日が経つにつれて——セドリック様との会話が、少しずつ長くなっていった。
最初は、こうだった。
「食わせろ」
食べる。
「……ごちそうさま」
去る。
それが——変わった。
「食わせろ」
「はい、どうぞ。今日は蜜の配合を変えてみたんです」
「……」
食べる。沈黙。
「……前のやつの方がマシだった」
心臓が跳ねた。
反応があった。「マシだった」——つまり、違いを感じている。何かが伝わっている。
「え、どっちですか? 前のって、昨日のですか? 一昨日のですか?」
「昨日の。丸いやつ」
「ビスコッティのことですか? あれは黒胡桃を粗めに砕いて——」
「ああ。あれでいい」
「でも、あれは焼きりんごとは別の路線で——あ、でも胡桃の焙煎具合を焼きりんごにも応用したら——」
気づけば、菓子の話が始まっていた。
リゼットが一方的に話して、セドリック様は黙って聞いている。時々「ああ」とか「そうか」とか、短い相槌を打つだけ。
でも——聞いてくれている。
椅子に座ったまま、帰らずに。
リゼットの菓子の話を——聞いてくれている。
ある日のことだった。
二月の半ば。外は相変わらず雪に閉ざされている。
セドリック様がいつものように来て、いつものように食べた。今日の試作品は、薄くスライスした高原りんごをバターで焼いて、霜花蜜とシナモンを絡めたもの。
食べ終えて——立ち上がらなかった。
椅子に座ったまま、テーブルの上の空の皿を見つめている。
リゼットは流し台で皿を洗いながら、横目でセドリック様を見た。気にしないふりをしながら、でも——耳は、あの人の方を向いている。
水の音だけが、しばらく続いた。
「……お前は」
低い声がした。
リゼットは手を止めかけて——いや、止めたら気まずくなる。皿を洗い続けた。
「はい?」
「なぜ、俺に食わせる」
水の音。薪が爆ぜる音。その向こうに、静かな声。
「え?」
「味が分からない人間に食わせても、意味がないだろう」
リゼットは——手を止めた。
濡れた手を、エプロンで拭く。
振り返った。
セドリック様はまっすぐ前を見ていた。リゼットを見ていない。テーブルの上の空の皿を、じっと見つめている。
「意味はあります」
自分の声が、思ったよりもはっきりと響いた。
「どういう意味だ」
セドリック様が、こちらを見た。
深い青灰色の目。感情が読みにくい、静かな瞳。でも——その奥に、何かがあった。問いかけているのではない。確かめようとしている。
リゼットは——言葉を探した。
「……うまく言えないんですけど」
手を、胸の前で組む。
「わたしは菓子師です。菓子師は、食べてくれる人がいるから菓子を作れるんです」
「……」
「王都を追放されて、ここに来て——最初は、誰も甘い味を知らない土地で、わたしに何ができるんだろうって思いました。菓子師なのに、食べてくれる人がいない。それが、一番怖かったんです」
暖炉の炎が、橙色の影を揺らしている。
「でも——セドリック様が毎日来てくださるから」
声が、少し震えた。
「セドリック様が『食わせろ』って言ってくださるから——わたしは毎日、新しい菓子を作れるんです」
セドリック様は、黙っていた。
長い沈黙だった。暖炉の火が爆ぜる音が、いくつも過ぎた。
リゼットは胸の奥がぎゅっと締まるのを感じながら、あの人の顔を見つめていた。
「……そうか」
たった一言だった。
セドリック様は椅子から立ち上がった。大きな体が、厨房の低い天井の下を動く。
扉に向かう。
リゼットは——また背中を見送るのだと思った。
でも。
セドリック様は、扉の前で足を止めた。
振り返った。
「明日も来る」
低い声。ぶっきらぼうな声。いつもと同じ——でも、いつもとは違う声。
「食わせろ」ではなかった。
「明日も来る」。
それは——初めて、あの人の口から出た約束だった。
「……はい」
リゼットの声が、掠れた。
「はい。待ってます」
セドリック様は一瞬だけ——本当に一瞬だけ、口元を緩めた。
そして、扉の向こうに消えた。
足音が遠ざかっていく。
重い、大きな足音。廊下を歩いて、宿の出口に向かう音。外の冷たい空気が、一瞬だけ厨房の中に流れ込んだ。
リゼットは、流し台の前に立ったまま動けなかった。
頬が——熱い。
手を当てた。自分の頬に。
燃えるように、熱い。
暖炉のせい? いいえ。暖炉はいつもの温度だ。
あの人が——「明日も来る」と言った。
「食わせろ」じゃなくて。「ごちそうさま」でもなくて。
「明日も来る」。
自分の意志で。自分の言葉で。明日を——リゼットとの明日を、約束してくれた。
胸が温かい。
菓子師としての喜び——だけじゃない。食べてくれる人がいる嬉しさ——だけじゃない。
もっと別の、もっと深い場所で、何かが温かく灯っている。
名前がつかない。何だろう、この感情。
嬉しいとも違う。安心とも違う。もっとふわふわして、もっとどきどきして、もっと——苦しいような、甘いような。
レシピ帳なら分かるのに。素材の名前も、配合も、温度も、全部言葉にできるのに。
この気持ちだけは——レシピ帳に書けない。
「……なんだろう、これ」
呟いた声が、誰もいない厨房に落ちた。
頬に当てた手が、まだ熱い。
窓の外は雪が降っている。二月の辺境は、まだ真冬だ。
でも——厨房の中は、暖かかった。
暖炉の火のせいだけではない、温もりが——胸の中に、灯っていた。