S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第17話: 冬支度

第2アーク · 4,730文字 · draft

蝋燭が揺れている。

二月の朝。窓の外は白一色で、その白さが逆にまぶしい。雪は夜のうちにまた積もって、昨日踏んだ道の跡さえも消してしまっていた。

厨房に降りると、いつもの時間なのに——セドリック様の姿がなかった。

毎朝、同じ時間に来るようになっていた。

扉を開けて、無言で座って、リゼットが出すものを食べて、「明日も来る」とだけ言って出ていく。短いけれど確かな日課。二人の間に出来た、小さな約束。

今朝は——その約束が、破られていた。

「マリーさん、セドリック様を見かけましたか?」

「ああ、セドね。朝早くに出ていったよ。村の倉庫を見に行くんだって」

マリーさんの声には、いつもの軽さがなかった。


セドリック様がここ数日、険しい顔をしていることには気づいていた。

リゼットが試作品を出しても、食べる速度がいつもより遅い。視線が菓子ではなくどこか遠くを見ている。「明日も来る」の声に、わずかな間ができるようになった。

でも——聞けなかった。

あの人が自分から話さないことを、こちらから尋ねてはいけないのだと、なんとなく分かっていた。

だから代わりに、マリーさんに聞いた。

「マリーさん。何か——あったんですか?」

マリーさんは暖炉に薪をくべながら、ふう、と息を吐いた。

「リゼ、あんた……気づいてたかい」

「セドリック様の表情が、ここのところずっと——」

「そうだね」

マリーさんは火掻き棒を置いて、テーブルの端に腰かけた。

「今年の備蓄、少し足りないんだよ」

「……え?」

「秋の収穫がいつもより少なくてさ。大麦も芋も、冷夏のせいで実りが悪かった。塩漬け肉はなんとかなってるけど、穀物が——心もとない」

マリーさんの目が、窓の外の雪景色に向いた。

「あと一ヶ月半は雪解けまであるのに」

リゼットは、その言葉の重さを噛みしめた。

一ヶ月半。

四月の雪解けの市まで、あと六週間。商隊は来ない。外からの物資は、ない。今あるものだけで——百人近い村人が、食いつながなければならない。

帳簿上では、大麦換算であと三十七日分。雪解けまで、五日足りない。

「セドは心配してるんだ」

マリーさんの声が、低くなった。

「領主だからね。餓死者を出すわけにいかない。先代が——セドの父上が命を懸けて守った村だ。魔物じゃなくて飢えで人が死ぬなんて、あの子は絶対に許せないんだよ」

リゼットは唇を噛んだ。

毎朝、ここに来てリゼットの菓子を食べていた人。味が分からないのに、毎日来ていた人。

その人が——村の食料のことで、一人で帳簿と首っ引きになっていた。

一人で。

「……セドリック様は、誰かに相談していますか?」

「しないよ。あの子は」

マリーさんが、苦く笑った。

「弱みを見せない子だからね。村の男衆には『備蓄は問題ない』って言ってる。でも——あたしには分かるよ。毎晩、倉庫の帳簿を何度も数え直してるの。何度数えても、増えるわけないのにさ」

リゼットの胸が、きゅっと痛んだ。


マリーさんが村の用事で出かけた後、リゼットは一人、厨房に立っていた。

作業台の上には、今朝の試作品の残り。蜂蜜と大麦粉の焼き菓子。セドリック様のために焼いた分が、手つかずのまま残っている。

食料が足りない。

穀物が心もとない。

あと一ヶ月半。

リゼットは焼き菓子を手に取って、じっと見つめた。

——菓子師の技術。

ふと、思考が走った。

菓子師の仕事は、甘いものを作ることだけではない。素材を加工して、保存して、価値を高める——それもまた、菓子師の技術だ。

砂糖漬け。蜂蜜漬け。乾燥。

どれも、菓子を作るときに使う基本の技術。

でも——それはそのまま、保存食の技術でもある。

リゼットの指が、震えた。

果物を蜜漬けにする。ナッツを蜂蜜で瓶詰めにする。根菜を甘煮にして瓶に詰める。穀物と干し果実を練り合わせて焼く——高カロリーで、長期間保存できて、しかも甘い。

菓子の技術は、保存の技術でもある。

「……できる」

声に出していた。

リゼットはエプロンの紐を結び直して、棚を確認し始めた。

霜花蜜——瓶にまだ半分残っている。蜂蜜の殺菌作用は強い。蜂蜜に漬けたものは、何ヶ月でも保つ。

乾燥果実——秋のうちに干しておいた山ベリーと高原りんごの切片。

大麦粉——袋に三つ。これと干し果実を練り合わせれば、保存のきく堅焼きパンが作れる。

根菜——蕪と人参は、地下の貯蔵室にまだ余裕がある。蜂蜜で甘煮にすれば、瓶詰め保存が可能だ。

黒胡桃——殻付きのまま保管してあるものが、まだ二袋ある。

「……やれる。やれるかもしれない」

リゼットは作業台に両手をついて、深く息を吸った。

一人じゃ足りない。でも——菓子教室の生徒たちがいる。

村の女性たちは、もう基本的な菓子作りを覚えている。生地を練ること。火加減を見ること。材料を計ること。

その手があれば——保存食菓子の量産は、不可能じゃない。


その日の午後、リゼットは菓子教室の三人に声をかけた。

吹雪の中を来てくれた彼女たちに、事情を話した。

「保存食を作りたいんです。菓子師の技術で——蜂蜜漬けや、干し果実のパンや、根菜の甘煮を。できるだけたくさん」

三人は顔を見合わせて——すぐに、頷いた。

「あたしたちにも作れるかい?」

「もちろんです。今まで教えたことの応用ですから」

厨房は一気に活気づいた。

リゼットが指示を出し、三人が手を動かす。

蕪と人参を薄く切って、蜂蜜と水で煮る。山ベリーの干し果実を大麦粉に練り込んで、薄く延ばして焼く。黒胡桃を砕いて蜂蜜と混ぜ、小さな瓶に詰めていく。

堅焼きの干し果実パンは、水分を飛ばせば二ヶ月は持つ。蜂蜜漬けの胡桃は、密封すれば半年でも大丈夫だ。根菜の甘煮は瓶詰めにすれば一ヶ月は保つ。

「リゼットさん、この蕪の甘煮、美味しいねえ!」

「甘いのに保存がきくなんて、不思議だねえ」

「菓子の技術は、保存の技術でもあるんです」

リゼットは作業をしながら、微笑んだ。

「砂糖漬け、蜂蜜漬け、乾燥——全部、菓子師が使う技術です。甘いものを作る技術は、食べものを長く保つ技術でもある」

窓の外は吹雪。厨房の中だけが温かくて、蜂蜜の甘い香りが充満している。

夕方までに、瓶詰め十二本と干し果実パン三十枚ができた。

小さな量だ。百人の村を六週間養うには、到底足りない。

でも——足りないなりに、できることがある。

何もしないよりは、ずっといい。


日が暮れて、生徒たちが帰った後の厨房。

リゼットは作業台の上に、今日の成果を並べていた。

干し果実パン。蜂蜜漬けナッツの瓶。根菜の甘煮。どれも素朴だけれど、しっかりとした保存食だ。

厨房の入り口に——気配がした。

振り返ると、セドリック様が立っていた。

外套に雪がついている。北の見回りから戻ってきたところだろう。青灰色の目が、テーブルの上を見渡している。

いつもの「食わせろ」は——出なかった。

黙って、立ったまま。リゼットの作業台に並んだものを、一つ一つ見ている。

「……何をしている」

低い声だった。疲れた声。

「保存食です」

リゼットは手を止めて、セドリック様のほうを向いた。

「菓子師の技術で——少しでも、冬の食料を増やせないかと思って」

セドリック様の眉が、わずかに動いた。

「蜂蜜漬けのナッツと、干し果実のパンと、根菜の甘煮です。どれも長期保存ができます。菓子教室の生徒さんたちにも手伝ってもらいました」

「……」

「足りないのは、分かっています。でも——毎日少しずつ作れば、六週間分の足しにはなるはずです」

セドリック様は、テーブルに近づいた。干し果実パンを一つ、手に取る。硬い表面を指で押して、保存状態を確かめるように。

そして——リゼットを見た。

「なぜそこまでする」

声が、低い。

「お前には関係ないだろう」

その言葉は、前にも聞いた。

——俺のことは放っておけ。

あの時と同じだ。一人で背負おうとする。弱みを見せまいとする。自分の問題だから、他人は踏み込むなと——壁を作る。

リゼットは、手を止めた。

エプロンで手を拭いて、まっすぐセドリック様を見上げた。

「関係あります」

セドリック様が、かすかに目を見開いた。

「ここはもう——わたしの場所ですから」

声が、自分でも驚くほどはっきりと出た。

「わたしはこの村の人たちに菓子を教えています。この村の素材で菓子を焼いています。この厨房で毎日、朝から晩まで——」

言葉が、溢れた。

「この村が困っているなら、わたしも困ります。この村の人たちが飢えるなら、わたしの生徒さんたちも飢えます。だから——関係あります」

長い沈黙が落ちた。

暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。

セドリック様の瞳に——何かが、揺れていた。

怒りではない。拒絶でもない。もっと深い、名前のつかない感情。あの収穫祭の夜にも見た、あの揺れ。

「……そうか」

静かな声だった。

セドリック様はテーブルの干し果実パンを一つ取って——外に出ていった。

足音が遠ざかる。

リゼットは、しばらくその場に立っていた。

手が、まだ震えている。

言い過ぎただろうか。生意気だっただろうか。追放されてきた身で、領主の問題に口を出すなんて——

でも。

言わずにはいられなかった。

ここは——もう、リゼットの場所だから。


翌日の昼過ぎだった。

リゼットが厨房で蕪の甘煮を瓶詰めにしていると、外から馬のいななきが聞こえた。

窓から覗くと——セドリック様が馬を引いて戻ってきたところだった。

馬の背に、荷が積んである。大きな麻袋がいくつも。

リゼットは厨房を飛び出した。

冷たい外気が頬を刺す。雪を踏んで駆け寄ると、セドリック様が馬から荷を降ろしているところだった。

「セドリック様、それは……?」

セドリック様は荷を地面に降ろして、リゼットをちらりと見た。

「北の倉庫に、去年の余りの大麦があった」

「え……」

「秋に使い切れなかった分が、まだ残っていた。虫は入っていない。使え」

リゼットは、麻袋の口を覗き込んだ。

大麦だ。乾燥した、きれいな穀粒が、たっぷり詰まっている。

「こんなに……」

「六袋ある。干し果実のパンとやらに使えるだろう」

「……これで、みんな足りますか」

「足りるわけがない」

即答だった。

「だが、雪解けまで繋ぐ時間は稼げる。配給は続ける。無駄は一粒も出すな」

「足りない五日分は?」

「干し果実パンと根菜の甘煮で埋める。だから急げ」

セドリック様は、それだけ言って馬の(くつわ)を直しにかかった。

リゼットは目を見開いたまま、立ち尽くしていた。

北の倉庫。去年の余り。

——探してくれたのだ。

リゼットが言ったことを聞いて。リゼットが作ったものを見て。一人で、北の倉庫まで——吹雪の中を。

「……ありがとうございます」

声が、かすれた。

セドリック様は振り返らなかった。馬の首を撫でながら——ぽつりと言った。

「礼はいらん」

「でも——」

「……お前の作るパン、村のガキどもが喜ぶだろう」

リゼットは、目が熱くなるのを堪えた。

あの人は——こういう人だ。

弱さを見せない。感謝も受け取らない。でも——黙って、動く。

言葉じゃなくて、行動で示す人。

セドリック様が馬を厩舎に引いていく。大きな背中が、白い雪の中を遠ざかっていく。

リゼットはその背中を見送りながら——思った。

あの人は——菓子を通して、リゼットの「場所」を受け入れてくれた。

「ここはもう、わたしの場所です」

そう言った時の、あの瞳の揺れ。

拒絶ではなかった。あれは——受け入れの、始まりだった。

リゼットは大麦の袋を抱え上げた。重い。でも——嬉しい重さだった。

厨房に運び込んで、明日からまた作ろう。干し果実のパンを。蜂蜜漬けのナッツを。村の女たちと一緒に。

この冬を——越える。

みんなで。

リゼットは空を見上げた。灰色の雲が、低く垂れ込めている。まだ降る。まだ冬は続く。

でも——この冬を越える手伝いができることが、ただ嬉しかった。

文字数: 4,730