蝋燭が揺れている。
二月の朝。窓の外は白一色で、その白さが逆にまぶしい。雪は夜のうちにまた積もって、昨日踏んだ道の跡さえも消してしまっていた。
厨房に降りると、いつもの時間なのに——セドリック様の姿がなかった。
毎朝、同じ時間に来るようになっていた。
扉を開けて、無言で座って、リゼットが出すものを食べて、「明日も来る」とだけ言って出ていく。短いけれど確かな日課。二人の間に出来た、小さな約束。
今朝は——その約束が、破られていた。
「マリーさん、セドリック様を見かけましたか?」
「ああ、セドね。朝早くに出ていったよ。村の倉庫を見に行くんだって」
マリーさんの声には、いつもの軽さがなかった。
セドリック様がここ数日、険しい顔をしていることには気づいていた。
リゼットが試作品を出しても、食べる速度がいつもより遅い。視線が菓子ではなくどこか遠くを見ている。「明日も来る」の声に、わずかな間ができるようになった。
でも——聞けなかった。
あの人が自分から話さないことを、こちらから尋ねてはいけないのだと、なんとなく分かっていた。
だから代わりに、マリーさんに聞いた。
「マリーさん。何か——あったんですか?」
マリーさんは暖炉に薪をくべながら、ふう、と息を吐いた。
「リゼ、あんた……気づいてたかい」
「セドリック様の表情が、ここのところずっと——」
「そうだね」
マリーさんは火掻き棒を置いて、テーブルの端に腰かけた。
「今年の備蓄、少し足りないんだよ」
「……え?」
「秋の収穫がいつもより少なくてさ。大麦も芋も、冷夏のせいで実りが悪かった。塩漬け肉はなんとかなってるけど、穀物が——心もとない」
マリーさんの目が、窓の外の雪景色に向いた。
「あと一ヶ月半は雪解けまであるのに」
リゼットは、その言葉の重さを噛みしめた。
一ヶ月半。
四月の雪解けの市まで、あと六週間。商隊は来ない。外からの物資は、ない。今あるものだけで——百人近い村人が、食いつながなければならない。
帳簿上では、大麦換算であと三十七日分。雪解けまで、五日足りない。
「セドは心配してるんだ」
マリーさんの声が、低くなった。
「領主だからね。餓死者を出すわけにいかない。先代が——セドの父上が命を懸けて守った村だ。魔物じゃなくて飢えで人が死ぬなんて、あの子は絶対に許せないんだよ」
リゼットは唇を噛んだ。
毎朝、ここに来てリゼットの菓子を食べていた人。味が分からないのに、毎日来ていた人。
その人が——村の食料のことで、一人で帳簿と首っ引きになっていた。
一人で。
「……セドリック様は、誰かに相談していますか?」
「しないよ。あの子は」
マリーさんが、苦く笑った。
「弱みを見せない子だからね。村の男衆には『備蓄は問題ない』って言ってる。でも——あたしには分かるよ。毎晩、倉庫の帳簿を何度も数え直してるの。何度数えても、増えるわけないのにさ」
リゼットの胸が、きゅっと痛んだ。
マリーさんが村の用事で出かけた後、リゼットは一人、厨房に立っていた。
作業台の上には、今朝の試作品の残り。蜂蜜と大麦粉の焼き菓子。セドリック様のために焼いた分が、手つかずのまま残っている。
食料が足りない。
穀物が心もとない。
あと一ヶ月半。
リゼットは焼き菓子を手に取って、じっと見つめた。
——菓子師の技術。
ふと、思考が走った。
菓子師の仕事は、甘いものを作ることだけではない。素材を加工して、保存して、価値を高める——それもまた、菓子師の技術だ。
砂糖漬け。蜂蜜漬け。乾燥。
どれも、菓子を作るときに使う基本の技術。
でも——それはそのまま、保存食の技術でもある。
リゼットの指が、震えた。
果物を蜜漬けにする。ナッツを蜂蜜で瓶詰めにする。根菜を甘煮にして瓶に詰める。穀物と干し果実を練り合わせて焼く——高カロリーで、長期間保存できて、しかも甘い。
菓子の技術は、保存の技術でもある。
「……できる」
声に出していた。
リゼットはエプロンの紐を結び直して、棚を確認し始めた。
霜花蜜——瓶にまだ半分残っている。蜂蜜の殺菌作用は強い。蜂蜜に漬けたものは、何ヶ月でも保つ。
乾燥果実——秋のうちに干しておいた山ベリーと高原りんごの切片。
大麦粉——袋に三つ。これと干し果実を練り合わせれば、保存のきく堅焼きパンが作れる。
根菜——蕪と人参は、地下の貯蔵室にまだ余裕がある。蜂蜜で甘煮にすれば、瓶詰め保存が可能だ。
黒胡桃——殻付きのまま保管してあるものが、まだ二袋ある。
「……やれる。やれるかもしれない」
リゼットは作業台に両手をついて、深く息を吸った。
一人じゃ足りない。でも——菓子教室の生徒たちがいる。
村の女性たちは、もう基本的な菓子作りを覚えている。生地を練ること。火加減を見ること。材料を計ること。
その手があれば——保存食菓子の量産は、不可能じゃない。
その日の午後、リゼットは菓子教室の三人に声をかけた。
吹雪の中を来てくれた彼女たちに、事情を話した。
「保存食を作りたいんです。菓子師の技術で——蜂蜜漬けや、干し果実のパンや、根菜の甘煮を。できるだけたくさん」
三人は顔を見合わせて——すぐに、頷いた。
「あたしたちにも作れるかい?」
「もちろんです。今まで教えたことの応用ですから」
厨房は一気に活気づいた。
リゼットが指示を出し、三人が手を動かす。
蕪と人参を薄く切って、蜂蜜と水で煮る。山ベリーの干し果実を大麦粉に練り込んで、薄く延ばして焼く。黒胡桃を砕いて蜂蜜と混ぜ、小さな瓶に詰めていく。
堅焼きの干し果実パンは、水分を飛ばせば二ヶ月は持つ。蜂蜜漬けの胡桃は、密封すれば半年でも大丈夫だ。根菜の甘煮は瓶詰めにすれば一ヶ月は保つ。
「リゼットさん、この蕪の甘煮、美味しいねえ!」
「甘いのに保存がきくなんて、不思議だねえ」
「菓子の技術は、保存の技術でもあるんです」
リゼットは作業をしながら、微笑んだ。
「砂糖漬け、蜂蜜漬け、乾燥——全部、菓子師が使う技術です。甘いものを作る技術は、食べものを長く保つ技術でもある」
窓の外は吹雪。厨房の中だけが温かくて、蜂蜜の甘い香りが充満している。
夕方までに、瓶詰め十二本と干し果実パン三十枚ができた。
小さな量だ。百人の村を六週間養うには、到底足りない。
でも——足りないなりに、できることがある。
何もしないよりは、ずっといい。
日が暮れて、生徒たちが帰った後の厨房。
リゼットは作業台の上に、今日の成果を並べていた。
干し果実パン。蜂蜜漬けナッツの瓶。根菜の甘煮。どれも素朴だけれど、しっかりとした保存食だ。
厨房の入り口に——気配がした。
振り返ると、セドリック様が立っていた。
外套に雪がついている。北の見回りから戻ってきたところだろう。青灰色の目が、テーブルの上を見渡している。
いつもの「食わせろ」は——出なかった。
黙って、立ったまま。リゼットの作業台に並んだものを、一つ一つ見ている。
「……何をしている」
低い声だった。疲れた声。
「保存食です」
リゼットは手を止めて、セドリック様のほうを向いた。
「菓子師の技術で——少しでも、冬の食料を増やせないかと思って」
セドリック様の眉が、わずかに動いた。
「蜂蜜漬けのナッツと、干し果実のパンと、根菜の甘煮です。どれも長期保存ができます。菓子教室の生徒さんたちにも手伝ってもらいました」
「……」
「足りないのは、分かっています。でも——毎日少しずつ作れば、六週間分の足しにはなるはずです」
セドリック様は、テーブルに近づいた。干し果実パンを一つ、手に取る。硬い表面を指で押して、保存状態を確かめるように。
そして——リゼットを見た。
「なぜそこまでする」
声が、低い。
「お前には関係ないだろう」
その言葉は、前にも聞いた。
——俺のことは放っておけ。
あの時と同じだ。一人で背負おうとする。弱みを見せまいとする。自分の問題だから、他人は踏み込むなと——壁を作る。
リゼットは、手を止めた。
エプロンで手を拭いて、まっすぐセドリック様を見上げた。
「関係あります」
セドリック様が、かすかに目を見開いた。
「ここはもう——わたしの場所ですから」
声が、自分でも驚くほどはっきりと出た。
「わたしはこの村の人たちに菓子を教えています。この村の素材で菓子を焼いています。この厨房で毎日、朝から晩まで——」
言葉が、溢れた。
「この村が困っているなら、わたしも困ります。この村の人たちが飢えるなら、わたしの生徒さんたちも飢えます。だから——関係あります」
長い沈黙が落ちた。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
セドリック様の瞳に——何かが、揺れていた。
怒りではない。拒絶でもない。もっと深い、名前のつかない感情。あの収穫祭の夜にも見た、あの揺れ。
「……そうか」
静かな声だった。
セドリック様はテーブルの干し果実パンを一つ取って——外に出ていった。
足音が遠ざかる。
リゼットは、しばらくその場に立っていた。
手が、まだ震えている。
言い過ぎただろうか。生意気だっただろうか。追放されてきた身で、領主の問題に口を出すなんて——
でも。
言わずにはいられなかった。
ここは——もう、リゼットの場所だから。
翌日の昼過ぎだった。
リゼットが厨房で蕪の甘煮を瓶詰めにしていると、外から馬のいななきが聞こえた。
窓から覗くと——セドリック様が馬を引いて戻ってきたところだった。
馬の背に、荷が積んである。大きな麻袋がいくつも。
リゼットは厨房を飛び出した。
冷たい外気が頬を刺す。雪を踏んで駆け寄ると、セドリック様が馬から荷を降ろしているところだった。
「セドリック様、それは……?」
セドリック様は荷を地面に降ろして、リゼットをちらりと見た。
「北の倉庫に、去年の余りの大麦があった」
「え……」
「秋に使い切れなかった分が、まだ残っていた。虫は入っていない。使え」
リゼットは、麻袋の口を覗き込んだ。
大麦だ。乾燥した、きれいな穀粒が、たっぷり詰まっている。
「こんなに……」
「六袋ある。干し果実のパンとやらに使えるだろう」
「……これで、みんな足りますか」
「足りるわけがない」
即答だった。
「だが、雪解けまで繋ぐ時間は稼げる。配給は続ける。無駄は一粒も出すな」
「足りない五日分は?」
「干し果実パンと根菜の甘煮で埋める。だから急げ」
セドリック様は、それだけ言って馬の轡を直しにかかった。
リゼットは目を見開いたまま、立ち尽くしていた。
北の倉庫。去年の余り。
——探してくれたのだ。
リゼットが言ったことを聞いて。リゼットが作ったものを見て。一人で、北の倉庫まで——吹雪の中を。
「……ありがとうございます」
声が、かすれた。
セドリック様は振り返らなかった。馬の首を撫でながら——ぽつりと言った。
「礼はいらん」
「でも——」
「……お前の作るパン、村のガキどもが喜ぶだろう」
リゼットは、目が熱くなるのを堪えた。
あの人は——こういう人だ。
弱さを見せない。感謝も受け取らない。でも——黙って、動く。
言葉じゃなくて、行動で示す人。
セドリック様が馬を厩舎に引いていく。大きな背中が、白い雪の中を遠ざかっていく。
リゼットはその背中を見送りながら——思った。
あの人は——菓子を通して、リゼットの「場所」を受け入れてくれた。
「ここはもう、わたしの場所です」
そう言った時の、あの瞳の揺れ。
拒絶ではなかった。あれは——受け入れの、始まりだった。
リゼットは大麦の袋を抱え上げた。重い。でも——嬉しい重さだった。
厨房に運び込んで、明日からまた作ろう。干し果実のパンを。蜂蜜漬けのナッツを。村の女たちと一緒に。
この冬を——越える。
みんなで。
リゼットは空を見上げた。灰色の雲が、低く垂れ込めている。まだ降る。まだ冬は続く。
でも——この冬を越える手伝いができることが、ただ嬉しかった。