三月の吹雪は、音が違う。
二月の雪はしんしんと降る。音もなく、静かに、世界を白く塗り替えていく。
でも三月の吹雪は——唸る。窓硝子を叩き、屋根を揺すり、煙突の中を駆け抜けて暖炉の火を脅かす。冬の最後の力を振り絞るように、荒々しく、執拗に。
リゼットは毛布を引き上げて、天井を見つめていた。
眠れない。
保存食の量産で体は疲れ切っているはずだった。毎日、朝から日が暮れるまで厨房に立って、大麦の粉を練り、蜂蜜を煮詰め、根菜を刻み続けた。指先は罅割れて、肩は凝り固まっている。
北の倉庫の大麦で最悪は免れたが、余裕には程遠い。配給表の数字は毎晩書き直され、帳簿の赤字はまだ五日分残っている。厨房の棚には「使い切る」ための工夫ばかりが増えていった。
それなのに——目が冴えて、眠れなかった。
風が、唸っている。
窓の向こうで、吹雪が叫んでいる。
何か——落ち着かなかった。理由は分からない。ただ胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さっていて、それが眠りを遠ざけていた。
リゼットは毛布をはねのけて、枕元の蝋燭に火を灯した。
小さな炎が、部屋の闇を押しやる。壁に揺れる自分の影を見つめて——リゼットは立ち上がった。
温かいものを、飲もう。
肩掛けを羽織り、蝋燭を手に、静かに部屋を出た。
廊下は冷えていた。
吐く息が白い。裸足の足先が板張りの床に触れるたび、冷たさが骨まで染みる。
階段を降りて、厨房へ。
扉に手をかけた時——止まった。
中に、気配がある。
蝋燭の灯りはない。暗い。でも——誰かがいる。微かな呼吸の音。衣擦れのような、かすかな物音。
リゼットは、そっと扉を押した。
月明かりは今夜はない。吹雪の雲が空を覆い尽くしている。厨房の中は、ほぼ完全な闇だった。
蝋燭の小さな光を掲げると——
セドリック様が、いた。
作業台の前の椅子に座っている。テーブルに両腕を置いて、俯いて。
「セドリック様……?」
声が、闇に落ちた。
セドリック様は振り返らなかった。
リゼットは蝋燭を棚に置いた。小さな炎が厨房の石壁に影を揺らす。
その光に照らされたセドリック様の横顔を見て——リゼットは息を呑んだ。
疲れている。
いつもの鋭い目が、今夜は——沈んでいた。青灰色の瞳に、光がない。左頬の傷跡が、蝋燭の陰影で深く見える。
大きな体が、小さく見えた。背中が丸まっている。肩が落ちている。185センチの体躯が、椅子の上でうずくまるように縮んでいた。
リゼットは——何も聞かなかった。
どうしたんですか、とも。大丈夫ですか、とも。
聞いたら——この人は立ち上がって、出ていくだろう。「何でもない」と言って、背中を向けるだろう。
だから、聞かなかった。
リゼットは静かに厨房を動いた。
棚から山羊乳の瓶を取り出す。小鍋に注いで、竈に残っている種火でゆっくりと温める。
シナモンの棒を、指で折った。ぱきりと乾いた音が響く。鍋に落とす。
蜂蜜を、匙で一掬い。霜花蜜の、あの透明な蜜。鍋の中にゆっくりと溶かすと——ふわりと、甘い香りが立ちのぼった。
湯気が上がる。
山羊乳の温かさと、シナモンの刺激と、蜂蜜の甘さ。三つが混じり合って、厨房に優しい匂いが広がっていく。
リゼットは器に注いだ。両手で包めるくらいの、小さな陶器の器。
セドリック様の前に——そっと、置いた。
「……何だ」
低い声。かすれている。
「スパイスミルクです。温まりますよ」
セドリック様は顔を上げなかった。
しばらく——沈黙があった。
吹雪の音だけが、窓の向こうから響いている。
やがて——大きな手が、器に伸びた。
両手で、包むように持った。
長い指が、陶器の曲面に沿う。温もりを確かめるように。
口に運んだ。
一口——飲んだ。
沈黙。
リゼットは向かい側に座って、自分も同じものを作って飲んだ。何も言わなかった。
蝋燭の炎が、二人の間で揺れている。
どれくらい経ったか。
セドリック様が器を両手で包んだまま——口を開いた。
「……俺はもう、美味いも不味いも分からない」
リゼットは、匙を置いた。
「何を食っても同じだ。3年間——食事は、作業だった」
声は低く、平坦だった。感情を押し殺しているのではなく——感情をどう出していいか分からないような、不器用な声だった。
「口に入れて、噛んで、飲み込む。それだけだ。塩も、甘いも、苦いも——何も分からない。水を飲んでいるのと、スープを飲んでいるのと、区別がつかない」
リゼットは黙って聞いた。
「父上が死んで、俺が辺境を継いだ。19で。何も分からないガキが、いきなり領主だ。魔物は来る。冬は来る。民は食わせなきゃならない」
セドリック様の指が、器を握りしめた。
「だから食う。味は関係ない。生きるために食う。それでいいと思ってた」
一拍。
「……思ってた」
声が——かすれた。
リゼットは、息を止めた。
「だが——」
セドリック様が、器を見下ろした。湯気が、かすかに立ちのぼっている。
「味が分からないまま、俺は何を守っているんだと——時々、思う」
「……」
「食の喜びを知らない人間が、食で人を守れるのか。民に腹いっぱい食わせてやりたいと思っても——俺は、美味いものが何なのか、もう分からない」
声が、途切れた。
「お前は——菓子が美味いと知っている。村の女たちは、甘い保存食が美味いと知っている。子どもたちは、干し果実のパンを食べて笑っている。俺だけが——分からない」
セドリック様が——顔を上げた。
蝋燭の光に照らされたその目を見て、リゼットは胸の奥が震えた。
潤んでいた。
あの鋭い青灰色の目が——滲んでいた。
セドリック・フォン・ヴィントヘルム。辺境伯。185センチの大きな体。左頬に傷跡を持つ、辺境を守る騎士。
その人が——弱さを見せている。
初めて。
リゼットの前で、初めて。
リゼットは——立ち上がらなかった。駆け寄りもしなかった。
ただ、座ったまま——静かに、言った。
「味は分からなくても——温もりは、分かりますよね」
セドリック様の目が、わずかに動いた。
「……何?」
「今、そのミルクを飲んで——温かいって、感じましたよね」
セドリック様は、器を見下ろした。両手で包んだ小さな陶器。湯気は薄くなっている。でも——まだ温かい。
「……ああ。温かい」
「温かいは——美味しいの、入り口です」
リゼットは微笑んだ。自分でも知らないうちに、微笑んでいた。
「味覚だけが、美味しさじゃないんです。温もりも。香りも。食感も。誰かが作ってくれたということも」
「……」
「セドリック様は、ちゃんと感じています。温もりも。わたしの菓子の匂いも。味はまだ——でも、全部が失われたわけじゃない」
セドリック様は、黙っていた。
蝋燭の炎が揺れた。窓の外で、吹雪が一段と強くなる。
「わたしは菓子師です」
リゼットは、自分の声が震えていることに気づいた。でも——止められなかった。
「味を届けるのが仕事です。だから——諦めません」
「……」
「セドリック様の味覚を取り戻す菓子を、わたしは必ず作ります。まだ見つかっていないだけです。でも——必ず」
声が途切れた。
言い過ぎただろうか。大きなことを言い過ぎただろうか。味覚障害は、薬師にも治せないと言われたものだ。菓子師のリゼットに、何ができる?
でも——言わずにはいられなかった。
この人の前で。この人の、あの潤んだ目の前で。
しばらく、沈黙が流れた。
吹雪の音。蝋燭の炎。時折、暖炉の残り火が爆ぜる音。
二人は並んで座っていた。いつの間にか——リゼットの椅子が、セドリック様の隣に移動していた。いつ動かしたのか、自分でも覚えていなかった。
「……お前は」
セドリック様が、低い声で言った。
「はい」
「強いな」
リゼットは——首を振った。
「強くないです」
「……」
「わたしも——追放された時、全部失ったと思いました」
言葉が、するりと口をついて出た。
「宮廷菓子師の席。メルヴェーユ家の名前。お父様との繋がり。全部——一日で、なくなりました」
蝋燭の炎が、小さく揺れた。
「馬車に揺られて辺境に来る途中、ずっと考えていました。わたしには何が残っているんだろうって」
「……」
「でも——菓子は、失わなかった」
リゼットは、自分の手を見下ろした。
小さな手。火傷の跡がいくつもある指先。爪の間に、今日こねた生地の粉がまだ残っている。
「この手と、この舌がある限り——わたしは菓子師でいられる。それが——わたしの強さの、全部です」
セドリック様が——かすかに、笑った。
笑顔とは言えないほど小さな——でも確かな、口角の動き。蝋燭の光がなければ見落としていたかもしれない、ほんの微かな変化。
「……そうか」
その二文字に——初めて、温もりがあった。
いつもの「そうか」とは違う。拒絶の壁ではない。突き放す言葉でもない。
受け入れている。
リゼットの言葉を。リゼットの存在を。この暗い厨房で、蝋燭一本の灯りの中で——二人でいることを。
吹雪は続いている。
窓が鳴っている。屋根の上で、風が唸っている。
でも——厨房の中は、温かかった。
暖炉の種火と、蝋燭の小さな炎と、飲みかけのスパイスミルクの残り香。
それだけで——こんなにも温かい。
セドリック様は器を空にして、テーブルの上にそっと置いた。
「……明日も来る」
いつもの言葉。でも今夜は——声が、少しだけ柔らかかった。
「はい。お待ちしています」
セドリック様が立ち上がる。大きな影が蝋燭の光を遮って、一瞬、厨房が暗くなった。
出ていく背中は、いつもと同じ。まっすぐで、広くて、孤独な背中。
でも——ほんの少しだけ、軽く見えた。
肩の力が、少しだけ抜けている。
足音が遠ざかって、廊下の奥に消えた。
リゼットは一人、厨房に残った。
空になった二つの器を手に取って——洗った。丁寧に、一つずつ。
洗いながら、考えていた。
あの人が語った苦しみ。3年間、味のない世界で、一人で辺境を守り続けてきた苦しみ。
——美味いものが何なのか、もう分からない。
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
リゼットは器を拭きながら、心の中で——決意した。
焼きりんごを——完成させよう。
この人のために。
マリーさんが教えてくれた。セドリック様のお母様が得意だった焼きりんご。あの人の記憶の奥に残っている、たった一つの甘い記憶。
香りで記憶を呼び起こす。高原りんごの酸味を加熱で甘みに変えて、シナモンの香りで幼い日の記憶に訴えかけて、霜花蜜の花の香りで——味覚への扉を開く。
春が来たら。
雪が解けたら。
あの人に——忘れられない甘さを、届ける。
リゼットは蝋燭を吹き消した。
暗い厨房に、蜂蜜とシナモンの残り香だけが漂っている。
吹雪はまだ続いている。三月の夜は長い。冬の最後の抵抗は、激しい。
でも——冬は、終わる。
必ず、春が来る。
リゼットは暗闇の中で、そっと微笑んだ。