S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第21話: 招待状

第3アーク · 5,971文字 · draft

第3章「王都の毒と蜜」


厨房が、甘い煙に包まれている。

石窯の扉を開けると、焙煎した黒胡桃の香ばしさと、霜花蜜の花のような甘さが一斉に立ち上った。鼻腔をくすぐる、濃くて深い匂い。リゼットは反射的に目を閉じ——嗅覚だけで、焼き加減を読んだ。

あと三十秒。

数えるまでもない。匂いの色が変わる瞬間は、舌で分かるのと同じくらい、鼻で分かる。

三十秒後、窯から引き出した天板の上で、黒胡桃のフィナンシェが列を成して湯気を立てていた。こんがりとした焦げ茶色。表面はかりっと乾き、中はまだ湿り気を帯びている——指で押せばかすかに沈む、あの理想の弾力。

六月に入ってから、リゼットはほとんど毎日、品評会用の菓子を試作していた。

候補はいくつかある。霜花蜜のマドレーヌ。黒胡桃のフィナンシェ。ベリーのタルトレット。高原りんごのコンポートを添えた焼き菓子。どれも辺境の素材だけで作る、リゼットにしか焼けない菓子たち。

でも——まだ、決め手がない。

品評会に出す一品は、辺境の全てを凝縮したものでなければならない。春も、夏も、秋も、冬も。霜花蜜の透明な甘さも、黒胡桃の深い苦味も、高原りんごの鮮やかな酸味も——全部。

全部を、一皿に。

リゼットはレシピ帳を開いて、今日の試作の結果を書き込んだ。

『黒胡桃フィナンシェ・第十四版——焙煎温度を5度上げた。香ばしさは増したが、霜花蜜の繊細な甘さを食う。焙煎は第十二版の温度に戻し、粒度を変えて再試作する』

十四回目。一つの菓子だけで、もう十四回の試作を重ねている。

気が遠くなる。でも——手は止まらない。止めるつもりもない。


足音が聞こえた。

重い足音。扉の前で——一拍の間。

ノックはない。でも、あの一拍の間がノックの代わりだと、もう知っている。

「……邪魔するぞ」

「いらっしゃいませ、セドリック様」

リゼットは手を拭いて振り返った。

セドリック様が、いつもの席に座った。窓際の、光が差し込む場所。灰銀色の髪に夏の日差しが当たって、かすかに銀に光る。

辺境の夏は短い。六月から八月の、たった三ヶ月。でもその三ヶ月は日照時間が長く、窓から入る光は眩しいほどだった。

「今日はフィナンシェです。第十四版」

「……十四」

「はい。まだ改良の余地があります」

焼きたてのフィナンシェを二つ、小皿に載せてセドリック様の前に置いた。

セドリック様が一つ手に取り——(かじ)った。

かり、と軽い音。

それから——咀嚼が、遅くなった。

あ、と思った。美味しいものを食べた時の、あの癖。噛む速度が落ちて、口の中で味を確かめるように、ゆっくり、ゆっくり噛み続ける。

「……胡桃が強い」

「やっぱりそうですか。焙煎の温度を上げすぎました」

「だが——悪くない」

リゼットは素早くレシピ帳を取り出した。

「悪くない、というのは、具体的にどの部分がですか? 全体の方向性が悪くないのか、それとも胡桃の風味自体は好ましいけれど量の問題なのか——」

「知らん」

「……セドリック様」

「だから——こっちの、最初に噛んだ時の味は好みだ。後に残るのが重い」

リゼットの手が止まった。

的確だった。

最初の一噛みの香ばしさは良いのに、後味で胡桃の油脂感が残る——それはリゼットも感じていたことだった。でも、自分の作ったものは客観的に評価しづらい。作り手の思い入れが、味覚を曇らせる。

だからこそ——この人の感想が、何よりも頼りになる。

「ありがとうございます。とても参考になります」

「……礼を言うことか」

「言います。セドリック様の感想は、どんな品評会の審査員よりも——わたしには、大事ですから」

セドリック様が——視線を逸らした。

窓の外を見ている。夏の陽光を浴びた白霜の森が、深い緑に染まっている。

「……もう一つ、食っていいか」

「もちろんです」

二つ目のフィナンシェに手が伸びた。

リゼットは——レシピ帳にペンを走らせながら、こっそり笑った。

味覚がかなり回復したセドリック様の舌は、今やとても正直だ。美味しければ二つ目に手が伸びる。そうでなければ、一つで止まる。言葉より先に、手が答えを出す。

今日のフィナンシェは——二つ目まで。合格ではないけれど、不合格でもない。

方向は、間違っていない。


「次はこちらを」

三品目。ベリーのタルトレットを出した。

白霜の森で摘んだ夏ベリーを煮詰めて、タルト生地に流し込んだもの。鮮やかな赤紫色が、小さな器に宝石のように収まっている。

セドリック様が食べた。

「……酸っぱい」

「酸味が強いですか。煮詰めが足りなかったかもしれません」

「いや——酸っぱいが、後から甘い」

「それは霜花蜜の効果です。加熱すると甘さが遅れて広がる性質があるんです。最初に酸味が来て、それから——」

「ああ。今、甘くなった」

セドリック様が——少しだけ、目を見開いた。

その表情を、リゼットは見逃さなかった。驚き。小さな驚き。口の中で味が変化していく面白さに——あの無愛想な人が、子どものように驚いている。

「どうですか?」

「……面白い菓子だな」

面白い。

「美味い」とも「不味い」とも言わず——「面白い」。

リゼットの中で、何かが弾けた。菓子師として、これほど嬉しい言葉はなかなかない。味だけでなく、食べる体験として面白いと思ってもらえた。それは——ただの甘い焼き菓子を超えた何かを、あの人に届けられたということだ。

「嬉しいです」

「……そうか」

「はい。とても」

レシピ帳に書き込んだ。『ベリーのタルトレット・第八版——酸味と甘味の時間差を活かす方向で。セドリック様の反応: 面白い。この路線で改良する』

書きながら、気づいた。

レシピ帳の端に——「セドリック様の反応」という欄が、いつの間にか定位置になっている。いつからだろう。いつからか、この人の感想がレシピの一部になっていた。


夏が過ぎた。

八月の終わりに、白霜の森の葉先がかすかに色づき始めた。朝晩の空気が冷たくなり、辺境の短い夏が終わろうとしていた。

セドリック様は——旅の手配を進めていた。

馬車の確認。街道沿いの宿場への連絡。王都での滞在先の手配。辺境伯の公務として、書類を次々とこなしている。留守中の領地管理を副官に引き継ぎ、北の見回りの巡回路を調整し——

「大変ではないですか? 辺境伯がお留守にされるのは」

「問題ない。副官に任せる」

「でも——」

「辺境の産品を王都に紹介する。品評会は好機だ。辺境の利益になる」

セドリック様は書類から顔を上げずに言った。

「お前のためではない」

……セドリック様。

その言葉、もう三回目ですよ。

リゼットは口元を押さえて、笑いを堪えた。辺境の利益。品評会は好機。辺境の産品の紹介。全部、もっともらしい理由だ。もっともらしくて——全部、照れ隠しだ。

マリーさんが言っていた。あの人は嬉しい時ほど逃げる、と。

だったら今——セドリック様は、とても嬉しいのだと思う。


九月一日。出発の朝。

空は高く、秋の風が吹いていた。

宿の前に馬車が停まっている。辺境伯家の紋章が入った、質素だがしっかりした造りの馬車。荷台にはリゼットの菓子道具一式と、試作した菓子の素材が積み込まれていた。

霜花蜜の瓶。焙煎した黒胡桃の袋。乾燥させた夏ベリー。高原りんごの保存瓶。辺境の宝物たちが、木箱に丁寧に収められている。

「忘れ物はないかい?」

マリーさんが腰に手を当てて立っていた。

「大丈夫です。全部確認しました」

「菓子の道具は?」

「はい。泡立て器、ヘラ、型、計量のカップ——全部入っています」

「レシピ帳は?」

「ここに」

エプロンのポケットを叩いた。肌身離さず持っている。

マリーさんが——笑った。

いつもの、大きな笑い声ではなかった。穏やかで、どこか寂しそうな笑い。

「リゼ」

「はい」

「気をつけてね」

「……はい」

「王都の連中に思い知らせてやんな」

マリーさんの声が——少しだけ、震えた。

「あんたの菓子がどれだけ美味いか。あたしが一番知ってるんだから」

リゼットは——唇を噛んだ。泣きそうだった。

この人がいなければ、今の自分はいない。辺境に流れ着いた日、最初に手を差し伸べてくれた人。厨房を貸してくれた人。辺境の素材を教えてくれた人。セドリック様の味覚のことを、目頭を押さえて喜んでくれた人。

「行ってきます、マリーさん」

「行っておいで」

マリーさんがぎゅっとリゼットを抱きしめた。お団子頭から、いつもの小麦粉の匂いがした。


「セド」

馬車の前で待っていたセドリック様に、マリーさんが声をかけた。

「リゼのこと、ちゃんと頼んだよ」

「……言われなくとも」

「へえ。言われなくとも、ねえ」

マリーさんが、にやにやしている。

「……何だその顔は」

「なんでもないよ。行っておいで、セド。あんたも——楽しんできな」

セドリック様は怪訝そうな顔で馬車に乗り込んだ。リゼットもその後に続く。

馬車が動き出した。

窓から手を振った。マリーさんが大きく手を振り返している。宿の前に立つ栗色のお団子頭が——だんだん小さくなっていく。

角を曲がって、見えなくなった。


馬車は街道を南へ走った。

王都まで三日。辺境からは——遠い。

窓の外を、景色が流れていく。針葉樹の森が続き、やがて丘陵地帯に変わる。道は北から南へ下るにつれて広くなり、石畳が増えていく。すれ違う馬車や人の数も、少しずつ多くなっていった。

リゼットは窓枠に頬杖をついて、流れる景色を見つめていた。

三年前——逆方向に、この道を走った。

王都から辺境へ。追放されて、何もかも失って、ただ北へ。あの時の馬車は商隊に便乗した荷馬車で、座席もなく荷物の隙間に座っていた。秋の初めだったのに、北に進むにつれて風が冷たくなって、薄い外套では寒くて眠れなかった。

今は——違う。

座席がある。毛布がある。隣に——人がいる。

セドリック様は向かいの席で、腕を組んで目を閉じていた。眠っているのか、考え事をしているのか。規則正しい呼吸が聞こえる。

大きな人だ。馬車の座席に収まりきらないくらい長い足が、リゼットの足元近くまで伸びている。灰銀色の髪が額にかかり、左頬の傷跡に午後の陽光が落ちている。

不器用な人だ。

「お前のためではない」と言いながら、全部リゼットのために手配してくれた人。辺境伯の公務だと言い張りながら、わざわざ王都まで付いてきてくれる人。

怖い、と思った。

王都が。あの場所が。

品評会という晴れ舞台が怖いのではない。あの王都という場所そのものが——怖い。

三年前にリゼットを「不要だ」と切り捨てた場所。宮廷菓子師の座を奪い、メルヴェーユ伯爵家の令嬢という最後の肩書きすら意味を持たなくなった場所。リゼットが「何者でもない」に変えられた場所。

あそこに——戻る。

でも。

今のリゼットは、何者でもないわけではない。

辺境の菓子師だ。

セドリック様の味覚を取り戻した菓子師で、マリーさんが「ここの宝だ」と言ってくれた菓子師で、辺境の素材で王都にない菓子を焼ける菓子師だ。

それでも——怖い。

馬車が揺れた。小さな段差を越えたらしい。

セドリック様が——目を開けた。

「……眠れないのか」

「あ、起こしてしまいましたか。すみません」

「寝てない」

「え?」

「寝てない。目を閉じていただけだ」

ぶっきらぼうな声。でも——起きていたのに、何も言わずに目を閉じていた。リゼットが窓の外を見つめている時間を、邪魔しないように。

「……王都が、不安か」

低い声で、セドリック様が言った。

リゼットは——正直に頷いた。

「少し」

「そうか」

それ以上は何も言わなかった。「大丈夫だ」とも「心配するな」とも言わない。

ただ——腕を組み直して、再び目を閉じた。

その沈黙が——不思議と、安心できた。

無理に元気づけようとしない。嘘の慰めを言わない。ただ、ここにいる。隣に——いる。

それだけで。

リゼットは窓枠から頬を離して、毛布を膝に引き寄せた。馬車の振動が、心地よいリズムを刻んでいる。目を閉じると——石窯の温かさに似た、穏やかな眠気が降りてきた。


二日目の夜。

街道沿いの宿場に泊まった。

小さな宿だった。辺境の宿よりは広いが、王都の旅籠ほど洒落てはいない。街道を旅する商人や巡礼者が立ち寄るような、素朴な場所。

食事は——まあまあだった。塩味のスープにパンと干し肉。味付けは単調だが、旅の途中にはありがたい。

セドリック様が、スープを半分ほど飲んだところで——匙を止めた。

「……塩が多い」

ぽつりと呟いた。

リゼットは驚いた。以前なら、何も感じずに飲み干していたはずだ。

「分かりますか?」

「ああ。お前の作る飯の方が——」

言いかけて——止まった。

セドリック様が、そっぽを向いた。

「……いや、何でもない」

リゼットは、何も聞かなかったふりをした。

でも——心の中で、レシピ帳にこっそり書き留めた。

『セドリック様は、わたしの料理の方が美味しいと、言いかけた』


三日目の朝。

目が覚めた時、馬車はもう走り出していた。

夜明け前に出発したらしい。リゼットは毛布にくるまったまま眠っていたようだ。向かいの席でセドリック様が——まだ、目を閉じている。

いや。

今度は——本当に、眠っている。

規則正しい寝息。腕を組んだまま、壁にもたれかかるような姿勢。あまり楽そうには見えない。昨夜も夜通し馬車の周辺を見回りしていたと、御者が言っていた。辺境を離れても——この人は、守ることをやめない。

寝顔は——ぶっきらぼうな顔のままだった。眉間のしわは少しだけ緩んでいるけれど、口元は引き結ばれている。でも、どこか——穏やかだ。起きている時よりも、少しだけ年相応に見える。二十二歳の、若い顔。

胸が——きゅっと、鳴った。

知っている。この感覚を、もう知っている。

菓子師の目だけでは、足りない。もっと別の目で、あの人を見ている。

でも——今は。

今は、品評会のことだけを考えなければ。

リゼットは毛布を直して、窓の外に視線を向けた。

そして——息が、止まった。

丘の向こうに——尖塔が見えた。

朝靄の中に——白い尖塔が、いくつも。朝日を浴びて金色に光る屋根。霧の中から浮かび上がるように現れた、巨大な街の輪郭。

王都クラウゼン。

三年ぶりの——あの場所。

リゼットは無意識にエプロンのポケットを握った。レシピ帳がある。辺境で書き溜めた全ての試作の記録。セドリック様の感想。マリーさんに教わった素材の知識。この一年で積み上げたもの全てが——ここにある。

心臓が、早鐘を打っている。

怖い。怖い。でも——

「……着いたか」

セドリック様が目を開けた。

窓の外を見て——それから、リゼットを見た。

青灰色の目。真っ直ぐな目。丘の上で推薦状を読んだ日と同じ、あの目。

「ああ。着いたぞ」

短い言葉。

でもその声に——リゼットは、背筋が伸びるのを感じた。

エプロンのポケットから手を離した。膝の上で、拳を握った。

王都クラウゼンの尖塔が——朝霧の中で、少しずつ近づいてくる。

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