S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第22話: 三年ぶりの王都

第3アーク · 6,266文字 · draft

王都クラウゼンの尖塔が、秋の陽光に白く輝いていた。

馬車の窓から身を乗り出すようにして、リゼットはその光景を見つめた。三年ぶりの——あの街。石造りの尖塔が何本も天を突き、朝日を受けて金色に縁取られている。記憶の中の王都と、寸分違わない姿。

胸の奥が——きしんだ。


城門を抜けると、甘い空気が流れ込んできた。

焼き菓子の匂いだ。バターと砂糖と小麦粉を高温で焼いた、あの幸福の匂い。街道沿いの菓子店が朝の仕込みを終えたところらしい。開け放たれた窓から、こんがりと焼けた生地の香りが秋風に乗って漂っている。

石畳の大通りには、色とりどりの服を着た人々が行き交っていた。絹のドレスに羽根飾りの帽子。金糸の刺繍が入った上着。宝石をあしらった首飾り。すれ違う人々の衣服が、辺境では見たこともない鮮やかさで目に飛び込んでくる。

辺境の——茶色と灰色の世界とは、何もかもが違う。

「……派手だな」

隣で、セドリック様がぼそりと呟いた。

窓の外を見る青灰色の目が、居心地悪そうに細められている。質素な革鎧にヴィントヘルム辺境伯家の紋章。装飾のない灰銀色の短髪。この華やかな街並みの中で、セドリック様の姿だけが——辺境の風を纏ったまま、浮いていた。

「セドリック様、王都にいらしたことは?」

「ある。辺境伯を継いだ時に一度、叙任の儀で来た」

「どうでしたか?」

「……二度と来るかと思った」

リゼットは、思わず笑った。

この人は辺境の人だ。広い空と冷たい風と、飾り気のない土地の人。王都の石畳と甘い空気は——きっと、息が詰まるのだろう。

でも——その人が、ここにいる。リゼットのために。

「ありがとうございます。来てくださって」

「……公務だ」

セドリック様は窓の外に目を戻した。左頬の傷跡に秋の光が当たって、白く光っている。

公務。辺境伯としての公務。そう言い張る横顔が——少しだけ、照れているように見えた。


品評会の登録受付は、王都の中央広場に面した大ホールの中にあった。

石造りの重厚な建物。高い天井にはシャンデリアが吊られ、磨き上げられた大理石の床が来場者の靴音を反響させている。壁には歴代の品評会優勝者の肖像画が並び、甘い花の香りが漂っている。

三年前——ここに来たことがある。

宮廷菓子師の末席として。先輩の菓子師に付き添って、裏方の手伝いをした。あの時は観客席すら遠い場所だった。出場者として立つなど、夢にも思わなかった。

受付の列に並んだ。前に十人ほどの出場者がいる。見たところ、どの菓子師も上等な服に身を包み、助手を何人も引き連れている。

リゼットは——質素なワンピースに白いエプロン。袖はまくったまま。背後にいるのは革鎧の辺境伯一人。

場違いだ、とは思わない。思わないようにしている。

「次の方、どうぞ」

受付に進んだ。書類を差し出す。

「リゼット・フォン・メルヴェーユ。辺境ヴィントヘルム代表として出場します」

受付の役人が書類に目を通し、ペンを走らせた。

「辺境ヴィントヘルム……辺境伯の推薦ですね。登録は問題ありません。控室は西棟の第六室を——」

「辺境から?」

声が割り込んできた。

振り返ると——男が立っていた。

仕立ての良い上着に銀糸の刺繍。指には宝石の指輪。腰には菓子師ギルドの一級を示す銀の徽章。きっちりと撫でつけた黒髪に、見下すような薄い笑みを浮かべている。

知らない顔ではなかった。

正確には——知っている顔だが、三年前には宮廷にいなかった顔。リゼットの後任として宮廷菓子師になった男。名前は知らない。知る必要もなかった。

「辺境から品評会に? これは珍しい。場違いではないかな」

男の声には明確な嘲りがあった。リゼットの服装を上から下まで見て——鼻で笑った。

「辺境の素材で何を作るつもりだ? 木の実と蜂蜜か? 品評会はお遊びの場ではないのだよ」

リゼットは——唇を結んだ。

怒りはある。でもそれ以上に——この声に、覚えがあった。三年前、宮廷を追われた時に聞いた声と同じ種類の声。「お前は不要だ」と、上から告げる声。

言い返すべきだ。でも——言葉が、喉の奥で詰まる。

「おい」

低い声が——背後から響いた。

セドリック様が、一歩前に出た。

何も言わなかった。ただ——立っただけだ。

百八十五センチの長身。引き締まった体躯。左頬の古い傷跡。深い青灰色の目が、後任の菓子師を見下ろしている。革鎧の胸に刻まれた辺境伯家の紋章が、シャンデリアの光を鈍く反射している。

言葉は、一言も発していない。

ただ——立っている。辺境を守る武人の、無言の威圧。

後任の菓子師の顔から——笑みが消えた。

「……これは、辺境伯殿でしたか。失礼を」

男は一歩退いた。それ以上何も言わず——足早に去っていった。

セドリック様は去っていく男の背中を一瞥して——何事もなかったかのように、元の位置に戻った。

「……ありがとうございます、セドリック様」

「何もしていない」

「立ってくださいました」

「立っていただけだ」

リゼットは——少しだけ、笑った。

立っていただけ。確かにそうだ。でも、その「立っていただけ」が——どれほど心強かったか。

登録手続きを済ませて、控室の鍵を受け取った。品評会は三日後。予選は明後日。明日は会場の下見と素材の確認がある。

大ホールを出ると、秋の風が頬を撫でた。

王都の空は——高い。辺境の空とは違う青。澄んでいるけれど、どこか遠い青。

「少し——歩いてもいいですか」

「好きにしろ」


王都の街を歩いた。

三年ぶりの石畳。靴の裏に伝わる硬い感触が、記憶を——呼び起こす。

あの角を曲がれば、師範菓子師の工房があった。毎朝、開店前に焼きたてのマドレーヌの匂いが路地に漂っていた場所。通りかかるたびに足を止めて、匂いだけで焼き加減を想像した。

あの橋を渡れば、宮廷への近道。まだ薄暗い朝の道を、菓子房に向かって小走りに駆けた。息が白かった冬の朝。汗が流れた夏の朝。三年間、毎日通った道。

この街で——菓子を作っていた。この街で——菓子を奪われた。

懐かしいのか、苦いのか。自分でも分からない。両方が、混ざっている。蜂蜜の中に一滴の苦味を落としたような——甘くて、でも、どこかひりつく感情。

「あの菓子店、まだあるんだ……」

角の焼き菓子屋が目に入った。小さな店。窓際にパウンドケーキが並んでいる。三年前と同じ——いや。ケーキの種類が少し変わっている。以前はなかったベリーのタルトが加わっている。

街は——変わっていない。でも、少しずつ変わっている。リゼットがいなくなった後も、この街の菓子文化は動き続けていた。

当たり前のことだ。リゼット一人がいなくなっても、王都は変わらない。

分かっている。分かっているけれど——少しだけ、胸が痛んだ。

「ここが——お前がいた場所か」

セドリック様が、ぽつりと言った。

「はい」

「……そうか」

それだけだった。でも——その短い言葉の中に、何かが詰まっている気がした。辺境の風を知っている人が、リゼットの過去の場所を——見てくれている。


品評会の会場に戻る途中だった。

大ホールの前の広場を横切ろうとした時——足が、止まった。

人混みの中に——見覚えのある背中があった。

痩せた肩。くすんだ金髪。そして——擦り切れた濃紺の伯爵服。袖口の刺繍がほつれかけているのに、ボタンだけは磨き上げられている。背筋は真っ直ぐだ。痩せてやつれても、背筋だけは——伯爵のそれだった。

心臓が——跳ねた。

嘘だ。なぜ——ここに。

その人が振り返った。

琥珀色の目。リゼットと同じ色。でもリゼットの目が菓子を見ると輝くのに対して——その目は、常に皮肉げに細められている。眉間の皺。不機嫌そうに曲がった口元。

三年半ぶりの——父の顔。

「……お前か」

ギルベール・フォン・メルヴェーユは、娘を見て——眉間の皺を深くした。

驚きも、喜びも、感傷も見えない。ただ——眉間の皺。それだけ。

「お、お父様……?」

声が震えた。自分でも驚くほど。

三年半、音信不通だった。南部の修道院に隠棲したきり、手紙も伝言もなかった。生きているのか死んでいるのかすら分からなかった。心配していなかったと言えば——嘘になる。

でも、心配していたとも——素直には言えない。

だって、この人は。

「品評会に出るそうだな」

ギルベールが——口を開いた。

開口一番——それだった。「元気か」でも「久しぶりだな」でもなく。

「お前がまだ厨房に立っているとは。話にならん」

リゼットは——息を呑んだ。

変わっていない。三年半経って——何も、変わっていない。

あの声。あの口調。「厨房に立つな」「伯爵令嬢が菓子師など」「話にならん」——幼い頃から何百回と聞いた言葉。

「品評会の菓子を食べに来ただけだ」

ギルベールは顎を上げた。落ちぶれた元伯爵の——矜持を示すように。

「誰がお前の心配などするものか。王都の品評会は毎年食べに来ている。たまたま——たまたまだ」

たまたま。

リゼットは父を見つめた。擦り切れた伯爵服。かつては恰幅が良かった体が痩せて、服が少し余っている。でも——手入れだけは完璧だ。ボタンは磨かれ、靴は擦り減っているが汚れひとつない。

落ちぶれても——この人は、この人のままだ。

「お父様、修道院は——」

「あんな所に長居できるか。食事が話にならん。塩味しかしない粥を毎日三食——あれは食事ではない、罰だ」

ギルベールの声に嫌悪が滲んだ。食に対する激しい拒絶。この人の——変わらない性分。

「今は王都に戻っている。旧知の者に世話になっているのだ。居候ではない、食客だ。食客だぞ」

二度言った。

食客——旧知の貴族や美食家仲間の庇護を受けて暮らす、元貴族の処世術。爵位も金も失った。でも教養と舌は健在。「元メルヴェーユ伯の批評舌」は、食通の間では未だ一目置かれているのだろう。

金はないが、舌で食べている。この人らしいと言えば——この人らしかった。

「お父様、お元気そうで——」

「元気かどうかなど訊くな。当然だろう。私を何だと思っている」

ギルベールの視線が——ふいに、リゼットの腰元を捉えた。

エプロンの紐に挟んである革袋。中には携帯用の菓子道具が入っている。小さな泡立て器、折りたたみ式の温度計、味見用のスプーン。旅の間も手放さなかった、リゼットの道具。

ギルベールの目が——一瞬、鋭くなった。皮肉の色が消え、代わりに批評家の目が覗く。

「……その道具は」

「え?」

「泡立て器。王都の量産品ではないな。柄の太さが違う。手に合わせて削ったか」

リゼットは——目を見開いた。

その通りだった。辺境で鍛冶師に頼んで、自分の手の大きさに合わせて作り直してもらった泡立て器。柄を二ミリ細くして、握りに革を巻いた。

一瞥で——見抜いた。道具の質を。

「……はい。辺境の鍛冶師に」

「ふん。道具だけは一人前か」

それだけ言って——ギルベールは視線を逸らした。

批評家の目が消え、また眉間の皺と不機嫌な口元が戻る。

「品評会は三日後だな。辺境の素材で何を出すつもりだ。どうせ蜂蜜と木の実だろう。予選で落ちなければいいがな」

言葉は辛辣だった。でも——リゼットは気づいた。

品評会が三日後だと知っている。辺境の素材を使うことも知っている。「たまたま」来ただけの人間が——そこまで知っているだろうか。

何か言おうとした、その時——

「リゼット」

背後から、低い声。

セドリック様が——一歩、前に出た。青灰色の目が、ギルベールを捉えている。

警戒の目だった。辺境伯の目。知らない人間が、自分の連れに向かって辛辣な言葉を投げている——それだけで、あの人の警戒は十分だった。

「あの男は誰だ」

短い問い。リゼットに向けた低い声。

リゼットは——口を開いた。開いて——閉じた。

何と言えばいいのだろう。三年半音信不通だった父です、と。開口一番ケチをつけてくる父です、と。落ちぶれても食にだけは妥協しない、頑固で偏屈で口うるさい——父です、と。

「……父です」

小さな声だった。自分でも聞こえないくらい。

「何?」

「わたしの——父です。ギルベール・フォン・メルヴェーユ」

セドリック様の目が——わずかに見開かれた。

ギルベールの方もセドリック様を見ていた。革鎧と紋章。左頬の傷跡。辺境の武人の風貌を、値踏みするような目で見上げている。

「辺境伯殿か」

ギルベールが言った。皮肉を込めた丁寧さで。

「娘が世話になっているようだな。もっとも——世話というより、厨房を貸しているだけだろうが」

セドリック様は——何も答えなかった。ただ、ギルベールを見ていた。感情の読みにくい青灰色の目で、じっと。

ギルベールは——少しだけ、居心地が悪そうに目を逸らした。

「まあいい。品評会の日に、また来る。菓子を——食べにな」

それだけ言って——ギルベールは踵を返した。

擦り切れた伯爵服の背中が、人混みの中に消えていく。背筋だけは真っ直ぐなまま。痩せた肩が、秋の光の中で小さく揺れていた。

リゼットは——その背中を、見送った。

「……あれが、お前の父親か」

セドリック様の声。

「はい」

「嫌な男だな」

率直だった。ぶっきらぼうで、飾りがなくて——正直な感想。

「……はい。でも」

でも——何だろう。

嫌な父親だ。口うるさくて、偏屈で、褒めることを知らない人。菓子師になることに最後まで反対した人。追放された後も、一度も連絡をくれなかった人。

でも。

品評会の日程を知っていた。辺境の素材を使うことも。道具の質を一瞥で見抜いた。

あの人は——知っていたのだ。リゼットのことを。どこかで、誰かから聞いて。食客仲間から、商人の噂話から。辺境で娘が菓子師として名を上げたと——知っていて、品評会に来た。

「たまたま」なんかじゃない。

でも——この人は絶対に認めない。「お前の心配などするものか」と言い張る。死ぬまで言い張るだろう。

「……お父様は、ああいう人なんです」

リゼットは——笑った。

笑おうとした。上手く笑えたかどうかは——分からない。

「行くぞ。宿を探す」

セドリック様が歩き出した。

リゼットは一度だけ——ギルベールが消えた方角を振り返った。

もう姿は見えない。人混みの中に紛れて、擦り切れた伯爵服の背中は消えていた。

まだ——あんな調子なんだ。

三年半経っても。爵位を失っても。修道院を飛び出して、食客として身を寄せる暮らしになっても。

変わらない。変わらないまま——それでも、ここにいる。

品評会の菓子を「食べに来た」のだと。そう言い張りながら。

目頭が——じんと、熱くなった。

泣くほどのことじゃない。泣くほどのことでは、ないはずだ。

「リゼット」

セドリック様が——立ち止まっていた。

数歩先で振り返り、リゼットを待っている。深い青灰色の目。何も言わない。問い詰めもしない。ただ——待っている。

「……すみません。行きましょう」

リゼットは小走りでセドリック様に追いついた。

秋の王都の風が、二人の間を吹き抜けていった。

どこかの菓子店から、焼きたてのパウンドケーキの匂いが漂ってくる。甘くて、温かくて——少しだけ、泣きたくなるような匂い。

三年ぶりの王都。

追放された場所。捨てられた場所。

でも——今度は、一人じゃない。

隣に、この人がいる。ぶっきらぼうで、短い言葉しか言わなくて、甘いものを食べた時だけ沈黙が長くなる——この人が。

そして——あの父が、いる。認めないくせに。心配してないくせに。「食べに来ただけだ」と嘘をつきながら——ここに、いる。

品評会まで、三日。

リゼットは前を向いた。秋の陽光に照らされた王都の大通り。石畳に二つの影が並んで伸びている。

作らなければ。最高の一品を。

辺境の全てを詰め込んだ——あの、一皿を。

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