S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第23話: まだ作っていたのか

第3アーク · 6,421文字 · draft

王都の菓子は——光っていた。

品評会の前夜祭。王城の大広間に並べられた展示台の上で、色とりどりの菓子が燭台の光を浴びて輝いている。砂糖細工の薔薇。金箔を散らしたガトー。琥珀色のカラメルの塔。銀の皿に盛りつけられた宝石のようなボンボン。

息を、呑んだ。

三年前まで、この世界にいた。宮廷菓子房の末席で、この光の中にいた。

でも——今のリゼットは、この光の外側にいる。


前夜祭は、品評会の出場者と観覧の貴族が一堂に会する社交の場だった。

大広間は人で溢れている。絹のドレス、宝石の首飾り、磨き上げた革靴。王都の秋は社交の季節で、品評会はその華。出場者だけでなく、菓子を愛する貴族、食通の商人、菓子師ギルドの重鎮まで——王都の「食」に関わるすべての人間が集まる夜。

リゼットは、会場の端に立っていた。

辺境で仕立てた一番いいワンピース。マリーさんが「これくらいは持って行きなさい」と押し付けてくれた薄い青色の肩掛け。王都の令嬢たちの煌びやかな装いの中では——質素だった。

でも、構わない。

菓子師にとって大事なのは、手と舌だ。ドレスではない。

「……すごい」

展示台の菓子に目を奪われていた。

砂糖細工は、もはや菓子ではなく彫刻だった。薄く引き延ばした飴の花弁が、一枚一枚手作業で重ねられている。中央には金粉をまぶしたチョコレートの城。その周囲を、果実の宝石のようなコンフィチュールが取り囲む。

どれもが「高級素材」の塊だった。

南部産の精製砂糖。東方から輸入されたカカオ。温室育ちの季節外れの果実。それらを惜しみなく使い、芸術の域にまで高めた——王都の菓子文化の粋。

リゼットは、自分の荷物のことを考えた。

宿の部屋に置いてきた小さな木箱。中身は——黒胡桃。霜花蜜。乾燥させた高原りんご。辺境から持ってきた、素朴な素材たち。

この光の渦の中に、あの素材を持ち込む。

素朴すぎるだろうか……。

胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「あれは——メルヴェーユ嬢ではないか?」

声が聞こえたのは、展示台から少し離れた場所でだった。

貴族の男たちが数人、杯を傾けながら囁き合っている。

「メルヴェーユ? ああ、追放された——」

「よく戻ってこられたものだな。あの家は今や」

「しかし、辺境から品評会に出場とは。辺境伯の推薦だそうだ」

「ヴィントヘルムの? あの——田舎の」

声は小さかったけれど、リゼットの耳には届いた。

胸の中の何かが、ちくりと痛んだ。

三年前、宮廷を追われた日も——こういう声が聞こえていた。「メルヴェーユ伯の娘が」「追放されたらしい」「やはり所詮は」と。

大丈夫。分かっていたこと。

背筋を伸ばした。

唇を結んで——前を向いた。


視線を感じた。

大広間の反対側。人混みの向こうに——見覚えのある、くすんだ金髪。

ギルベール・フォン・メルヴェーユ。

父は、観覧客の中にいた。

擦り切れた伯爵服。だが仕立ては上等で、手入れだけは完璧。ボタンは磨かれ、襟は正されている。落ちぶれた元貴族の、最後の矜持。

父の周囲には、数人の紳士が集まっていた。美食家仲間だろう。杯を傾けながら、展示台の菓子を品定めしている。父は——堂々としていた。背筋を伸ばし、琥珀色の目を細めて、一つ一つの菓子を見つめている。

あの眉間の皺。あの不機嫌そうに曲がった口元。昨日再会した時と同じ——「話にならん」という顔。

でも——その堂々とした姿は、なぜか少しだけ、安心する。

「あれは落ちぶれたメルヴェーユ伯だろう?」

別の観覧客が囁いた。

「元伯爵だ。爵位は剥奪された」

「修道院にいたはずだが、飛び出したそうだ。食客暮らしだと聞いたが」

「しかし舌は確かだ。あの男が美味いと言えば美味い。不味いと言えば不味い。食通の間では——いまだに一目置かれている」

「口だけの男だよ。自分では卵も割れまい」

笑い声。

リゼットは——唇を噛んだ。

辛い。

父が笑い者にされるのが、辛い。

口うるさくて、偏屈で、娘の菓子師としての道を否定し続けた人。昨日だって「話にならん」と言い放った人。

なのに——他人にあの人を笑われると、胸が痛む。

不思議だった。もう三年も会っていなかったのに。音信不通だったのに。

父は、笑い声に気づいていないように見えた。いや——気づいていて、無視しているのだ。琥珀色の目は展示台の菓子だけを見つめている。批評家の目で。美食家の目で。

この場所でも、あの人はあの人のまま——食べることだけに真剣だった。


大広間の空気が——変わった。

人々がざわめいて、道を開ける。

金の髪。翡翠色の目。宝石をちりばめた指輪が燭台の光を受けて煌めいている。白い宮廷服の胸元には、王家の紋章。

ヴァレンティン・フォン・クラウゼン。

王太子殿下が——来た。

リゼットの足が、止まった。

三年ぶりだった。

あの日——「お前の菓子はもう不要だ」と告げた人。メルヴェーユ伯爵家の失墜に乗じて、リゼットを「能力不足」として宮廷から追い出した人。

心臓が、早くなる。

ヴァレンティンは取り巻きの貴族たちに囲まれていた。優雅に微笑みながら、展示台の菓子を眺めている。常に高級な菓子を手にしている美食家気取り——三年前と同じ。何も変わっていない。

いや。

変わっている。

菓子師の目は、細部を見逃さない。リゼットの目が捉えたのは——ヴァレンティンの指先だった。

杯を持つ右手の指が、かすかに——叩いている。親指の腹で人差し指の爪をこする仕草。焦燥の癖。三年前、宮廷菓子房で新作の出来に不満があった時——よくやっていた。

満足していない。

あの人は、今の菓子に——満足していない。

「——おや」

翡翠色の目が、こちらを向いた。

世界が——止まった。

一瞬。

ほんの一瞬だけ、ヴァレンティンの目が——揺れた。

瞳孔がわずかに開く。唇が動きかけて——止まる。優雅な微笑みの仮面が、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ——剥がれかけた。

そしてすぐに——仮面が戻る。

翡翠色の目が細められ、口元に嘲りの笑みが浮かんだ。

「これは。メルヴェーユ嬢ではないか」

慇懃無礼な声。三年前と——同じ声。

リゼットは背筋を伸ばした。

「お久しぶりでございます、殿下」

声が震えなかったことに、自分で驚いた。

ヴァレンティンが近づいてくる。取り巻きの貴族たちが、物珍しそうにリゼットを見ている。「追放された菓子師」と「追放した王太子」の再会——王都の社交界にとっては格好の見世物だろう。

「まだ菓子を作っていたのか」

ヴァレンティンは、杯を傾けながら言った。

まだ作っていたのか。

嘲笑。見下し。「お前にはもう価値がない」と三年前に決めつけた人の、予定通りの台詞。

でも——リゼットは見ていた。

あの一瞬の動揺を。

仮面を被り直す前の、あの翡翠色の目の揺れを。

「はい」

リゼットは、真っ直ぐにヴァレンティンの目を見た。

「辺境で、作り続けております」

声は穏やかだった。挑発でもなく、卑屈でもなく——ただ事実を述べるように。

ヴァレンティンの眉が、かすかに動いた。

「辺境で? あの荒れ地で? ろくな素材もない土地で、何を作るというのだ」

「辺境には辺境の恵みがございます。黒胡桃、霜花蜜、高原りんご——殿下はご存じないかもしれませんが、王都にはない味がございます」

「……ほう」

ヴァレンティンの指が——また動いた。親指が人差し指の爪をこする。苛立ちの癖。

「王都にはない味、か。面白いことを言う。王都にこそ最高の素材が集まるのではないか?」

「最高の素材がお集まりになることは存じております。ですが——最高の素材だけが、最高の菓子を生むわけではございません」

沈黙が——落ちた。

周囲の貴族たちがざわめいた。追放された菓子師が、王太子に正面から口答えした——と。

ヴァレンティンの翡翠色の目が、細くなった。

怒り——ではなかった。

もっと複雑な何か。苛立ちと、困惑と——それから、ほんのわずかな。

認めたくないけれど、否定できない何かを突きつけられた時の——あの顔。

後任の菓子師の菓子に満足できていないのだ。

リゼットには分かった。あの指の癖が、すべてを語っている。三年間、新しい菓子師の菓子を食べ続けて——あの時の味が、出ない。何かが足りない。何が足りないのかすら分からない。

その苛立ちが——今のヴァレンティンの嘲笑の裏に、透けている。

「殿下」

低い声が——割って入った。


セドリック様が、リゼットの隣に立った。

いつの間に来たのだろう。黒い外套の下に辺境伯の紋章が見える。灰銀色の短髪。左頬の傷跡。深い青灰色の目は——ヴァレンティンを、真っ直ぐに見ていた。

王太子と辺境伯。

空気が——張り詰めた。

ヴァレンティンの取り巻きの何人かが後退(あとずさ)った。セドリック様の目には、冬の見回りの時と同じ——剥き出しの威圧があった。辺境で魔物と対峙する武人の気配。王都の貴族たちには馴染みのない、本物の戦場の匂い。

「辺境伯。これは珍しい。王都に来ることなど滅多にないだろう」

ヴァレンティンの声は、平静だった。だが——一歩も近づかなかった。

「品評会に用がある」

セドリック様は短く答えた。

「辺境の菓子師を推薦した。辺境伯の権限の範囲だ」

「辺境伯が、菓子師の後援とは。ずいぶんと——奇妙な取り合わせではないか」

「……奇妙か」

セドリック様の目が、わずかに細くなった。

「辺境では菓子を軽んじない」

短い言葉だった。でも——その一言に、重みがあった。

辺境の民は食を粗末にしない。冬を越えるために命がけで食料を守る土地では、一つの菓子にも意味がある。王都の見栄とは違う、もっと切実な価値。

ヴァレンティンの唇が——わずかに引き結ばれた。

「そうか。辺境伯殿がそこまで言うのであれば——品評会の結果を楽しみにさせてもらおう」

翡翠色の目がリゼットを見た。最後に——もう一瞬だけ。

嘲笑でも、苛立ちでもない——何か。

懐かしさに似た、けれど決して認められないもの。

リゼットは気づいた。気づいてしまった。

ヴァレンティンは——リゼットの菓子を、覚えている。

三年経っても。後任に替えても。「不要だ」と言い放っても——あの人は、リゼットの菓子の味を、忘れられていない。

ヴァレンティンは踵を返した。取り巻きの貴族たちが慌ててその後に続く。白い宮廷服が大広間の人混みに溶けていく。

翡翠色の光が——遠ざかっていった。


ヴァレンティンが去った後、リゼットは——長い息を吐いた。

手が、震えていた。

気づかれないように、スカートの裾を握りしめていたのだ。膝が少し笑っている。心臓がまだ早い。

毅然としていられたのは——隣にセドリック様がいたから。

「……大丈夫か」

低い声。ぶっきらぼうだけど——気遣いの混じった声。

「はい。大丈夫です」

嘘だった。少しだけ。でも——嘘をつかなければ、ここでは立っていられない。

「殿下は……変わっていませんでした」

「あの男は——」

セドリック様が言いかけて、口を閉じた。

何か辛辣なことを言おうとして——やめたのだと思う。リゼットの前で、あの人を貶すのは違うと判断したのかもしれない。

「……あんな奴のことはいい」

それだけ言って——セドリック様は展示台の方を見た。

金箔のガトー。砂糖の彫刻。芸術品のようなボンボン。

セドリック様の青灰色の目が、それらを一つ一つ見つめて——そして、顔を背けた。

「こっちの方がいい」

「え?」

「お前の菓子の方が——こっちの方がいい」

リゼットは、目を瞬いた。

この大広間に並ぶ、王都最高峰の菓子たちを見て——セドリック様は「こっちの方がいい」と言った。リゼットの辺境の菓子の方が。

「……味見もされていないのに」

「食わなくても分かる」

「分かるんですか?」

「……知らん。分かるものは分かる」

セドリック様は、居心地悪そうに視線を逸らした。首の後ろに手をやる——照れた時の癖。

リゼットは——笑った。

ああ、この人は。

砂糖細工の薔薇も、金箔のガトーも、リゼットの不安も——全部まとめて、たった一言で吹き飛ばしてしまう。

「こっちの方がいい」。

それは品評会の審査基準には含まれない。技術でも、素材の高級さでも、見た目の華やかさでもない。

ただの——好み。

でも、その「好み」が。

セドリック様の「好み」が——リゼットにとっては、何よりも重い。

「ありがとうございます、セドリック様」

「礼を言うようなことじゃない」

「いいえ。言います」

セドリック様が、ちらりとこちらを見た。

青灰色の目。硬い表情。でも——怒ってはいない。

むしろ。

ほんのわずかに——口角が上がっている。


大広間を出た。

秋の夜風が頬を撫でた。王都の夜は辺境と違って温かい。でも——どこか物足りなかった。辺境の風には木の実と蜜の匂いが混じっていた。王都の風は、香水と煙の匂いがする。

宿への帰り道、通りを歩きながら——リゼットは、ちらりと大広間の方を振り返った。

まだ明かりが煌々と灯っている。笑い声と楽器の音が、夜風に乗って聞こえてくる。

あの中に——ヴァレンティンがいる。

まだ菓子を作っていたのか。

あの言葉を、反芻する。

嘲笑だった。見下しだった。でも——あの一瞬の動揺を、リゼットは忘れない。仮面が剥がれかけた、あの翡翠色の目を。

殿下。

わたしは——まだ、作っています。

あなたに「不要だ」と言われた手で、あなたの知らない素材で、あなたの知らない味を。

辺境で、ずっと。

「……どうした。立ち止まるな」

セドリック様が、少し先から振り返った。

「すみません。——行きます」

歩き出した。

隣に並ぶ大きな背中。黒い外套。辺境伯の紋章。

この人がいてくれたから、あの場で立っていられた。この人が「こっちの方がいい」と言ってくれたから、明日の予選が怖くない——

いや。

嘘だ。怖い。まだ怖い。

でも——怖くても、逃げない。


宿の部屋に戻った。

小さな一室。辺境の宿と似たような質素な部屋だけれど、壁は石造りで窓は広い。秋の月明かりが差し込んでいる。

木箱を開けた。

黒胡桃。焙煎して殻を割ったもの。深い茶色の実が、月明かりの中で鈍く光っている。

霜花蜜。小瓶に詰めたもの。蓋を開けると、かすかに花の香りがした。白霜の森の、冬の花の匂い。王都のどこにもない匂い。

乾燥させた高原りんご。薄く切って陽に干したもの。酸味と甘味が凝縮されて、噛むと辺境の夏の日差しが口に広がる。

どれも——素朴だった。

金箔もない。カカオもない。温室育ちの果実もない。

ただの——辺境の恵み。

でも。

リゼットは、素材を一つ一つ手に取った。

この手が知っている。この舌が知っている。三年前の宮廷菓子師には分からなかったことを、辺境の厨房で学んだ。

高級な素材だけが、最高の菓子を作るのではない。

素材の声を聴くこと。素材が持つ力を、最大限に引き出すこと。食べる人の顔を思い浮かべて、その人のために——一つだけの味を作ること。

セドリック様は「こっちの方がいい」と言った。

辺境で毎日食べてくれた人が、王都の菓子を見た上で——リゼットの菓子を選んだ。

あの言葉を、信じよう。

素材を木箱に戻した。蓋を閉める。

明日は予選だ。

深呼吸した。

秋の夜の空気が、肺を満たした。王都の空気は辺境より温かくて、少し甘い匂いがする。どこかの菓子屋が、明日の準備をしているのだろう。

窓の外を見た。

月が出ている。辺境の月と同じ月だ。白霜の森の上にも、この月が昇っているだろう。マリーさんが食堂の灯りを消す頃。兵士たちが見回りを終えて宿舎に戻る頃。

あの場所から、ここまで来た。

追放された日から——一年。

辺境の厨房で見つけたものを、明日——この手で証明する。

木箱の蓋の上に、両手を置いた。

指先に、小さな火傷の跡がある。菓子師の勲章。辺境の石窯が刻んだ、リゼットだけの勲章。

——大丈夫。

目を閉じた。

黒胡桃の香ばしさを、思い出す。霜花蜜の甘さを、思い出す。高原りんごの酸味を、思い出す。セドリック様が「こっちの方がいい」と言った時の、あのぶっきらぼうな横顔を——思い出す。

目を開けた。

深呼吸、もう一度。

明日。

明日から——始まる。

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