ギルベール・フォン・メルヴェーユの指が——プティフールに、伸びた。
擦り切れた袖口。でも手入れだけは完璧な、かつての伯爵服。その袖から覗いた痩せた指が、銀のフォークを取り上げる。
会場が——静まった。リゼットの心臓が、喉の奥で鳴っている。
フォークの先が、黒胡桃のフィナンシェに触れた。
かつ、と小さな音。焼き色のついた表面に、フォークの跡がつく。
割った。
断面が見えた。焙煎した黒胡桃の粒が、きめ細かい生地の中に散っている。焦がしバターの香りが、割れた断面からふわりと立ち上った。
口に運ぶ。
咀嚼。一度。二度。三度——
リゼットは息ができなかった。
父の顔を見ている。琥珀色の目——自分と同じ色の目が、フィナンシェを噛みしめている。眉間の皺。不機嫌そうに曲がった口元。いつもの、あの顔。
四度目の咀嚼で——動きが、止まった。
ギルベールの目が、わずかに見開かれた。
何も言わない。フォークを置くこともなく、そのまま——次のひと品に手を伸ばした。
霜花蜜のボンボン。
白い球体を丸ごと口に入れた。噛むと、中から霜花蜜のジュレがとろりと溢れるはずだ。白霜の森の花から集められた蜂蜜の、澄んだ甘さが——舌の上に広がるはずだ。
ギルベールの咀嚼が——遅くなった。
一口ごとに、確かめるように。味を追うように。舌の上で転がして、奥歯で噛みしめて、飲み込んで——そしてまた、次へ。
高原りんごのコンポート。
匙ですくう。透明な琥珀色の果肉が、匙の上で震えている。バターと霜花蜜で煮込んだりんごは、酸味が消えて甘みだけが残っている——でも、ただ甘いだけじゃない。りんごが生きていた時の記憶が、甘さの奥に、かすかに残っている。
口に入れた。
ギルベールの喉が——動いた。
ベリーのタルトレット。
紫色の果実が焼き込まれた小さなタルト。サクッとした生地を噛む音が、静まった会場に小さく響いた。
そして——
中央のカラメル。
辺境の蜂蜜を煮詰めた、琥珀色の結晶。辺境の太陽の色。あの土地の光と風と、長い冬を越えた蜜蜂たちの——命の味。
ギルベールの指が、カラメルをつまんだ。
口に入れた。
噛んだ。
ぱき、と結晶が割れる小さな音。蜂蜜の濃い甘さが、口の中に広がっているはずだ。焦がした砂糖のほろ苦さと、霜花蜜の透き通った甘さが混ざり合って——
ギルベールの手が——止まった。
フォークが、テーブルの上に置かれた。音もなく。静かに。
肩が——震えていた。
リゼットは見ていた。息を止めて。まばたきもせず。
父の、琥珀色の目が——潤んでいく。
光を受けて、ゆらゆらと——水面のように。
リゼットには——分かった。
菓子師の舌で。絶対味覚で。いいえ——娘の目で。
父が何を感じているのか。あの舌が、何を味わっているのか。
お母様の——味。
エレーヌ・フォン・メルヴェーユ。料理上手だった母。豪華ではないけれど、食べる人のことを想って作る、温かい菓子。ギルベールの舌を唯一満足させた、あの人の味。
リゼットの菓子には——母の面影がある。
素材に語りかけること。食べる人を想うこと。火加減を手で感じること。母から受け継いだ、菓子師としての根っこが——この五つの小菓子の、すべてに染みている。
ギルベールの批評舌は——それを、感じ取った。
言語化できないほどの衝撃として。あの饒舌な批評家が、一言も発せないほどの——衝撃として。
涙が——一筋、頬を伝った。
琥珀色の目から溢れた雫が、痩せた頬を滑り落ちて、擦り切れた伯爵服の襟元に落ちた。
ギルベールが——袖で目元を拭った。
乱暴に。ごしごしと。
「……目にゴミが入っただけだ」
声が——かすれていた。
尊大で、偏屈で、口うるさい父の声が——かすれて、揺れている。
リゼットの視界が——滲んだ。
ああ——お父様。
お父様の舌は。あの批評舌は。わたしの絶対味覚の——根っこだったんだ。
味を分析する力。素材の良し悪しを見抜く力。火加減の一度の差を、舌で感じ取る力。母から受け継いだ「想い」を、父から受け継いだ「舌」で——わたしは、菓子を焼いている。
二人の——娘だから。
ギルベールが立ち上がった。
椅子を引く音が、静かな会場に響いた。背を向ける。痩せた背中。かつては恰幅が良かったであろう肩が、今は骨ばっている。
歩き出す。
リゼットは——呼び止められなかった。声が出なかった。涙で喉が詰まって、何も——
ギルベールが——足を止めた。
振り返らない。背中のまま。
「……不味くは、ない」
短い言葉。ぶっきらぼうな言葉。
でも——リゼットには聞こえた。その声の奥にあるものが。
認めている。娘の菓子を。菓子師としての娘を。十八年間、一度も肯定してくれなかった父が——初めて。
不味くは、ない。
それが——ギルベール・フォン・メルヴェーユの、精一杯だった。
痩せた背中が、会場の出口に消えていく。振り返らない。最後まで。
リゼットの涙が——溢れた。
止まらなかった。止める必要もなかった。
お父様に——認められた。
たった一言で。たった五文字で。それだけで——十分だった。
会場がざわめいた。
審査員長が壇上に立ち、咳払いをした。
「第四十二回王立菓子品評会——本選の結果を発表いたします」
リゼットは涙を拭った。指先で、頬の雫を拭って——前を向いた。
「本年の最優秀賞は——」
息を吸った。
「辺境ヴィントヘルム代表、リゼット・フォン・メルヴェーユ殿の『辺境のプティフール』」
会場が——沸いた。
歓声。拍手。ざわめき。でもリゼットの耳には——遠く聞こえていた。水の中にいるみたいに。ぼんやりと。
優勝した。
辺境の素材だけで——王都の菓子師たちを、超えた。
審査員が講評を述べていた。
「素材の質ではなく、素材への理解と愛情の深さ。どの一品にも、作り手がその素材と向き合い、対話した時間が感じられる。辺境にしかない味——いえ、辺境だからこそ生まれた味。本年の品評会において、最も心を動かされた一皿でした」
リゼットは頭を下げた。深く。言葉が出なくて、ただ——深く。
祝賀の喧騒の中を、一つの人影がリゼットに近づいた。
金髪。翡翠色の目。豪華な宮廷服。
ヴァレンティン・フォン・クラウゼン。
王太子殿下は——いつもの慇懃無礼な笑みを、浮かべていなかった。
リゼットの前に立った。沈黙が、数秒。
「……なぜ」
声が——低かった。あの尊大な断定調ではない。もっと——素朴な、剥き出しの声。
「なぜ、あの時お前を手放したのか」
リゼットは——殿下の目を見た。
翡翠色の瞳が揺れている。自信に満ちていたはずの目が。底の浅さを自覚してしまった人間の目。
「私は——判断を、誤った」
言葉が、一つ一つ絞り出されるように落ちた。
「お前の菓子の価値を——理解していなかった。高級な素材でなければ一流ではないと、そう思い込んでいた。それは……私の浅さだ」
会場の喧騒が遠くなった。二人の間だけ、静かだった。
リゼットは——長い息を、吐いた。
怒りは——もう、ない。恨みも。あの日、「お前の菓子はもう不要だ」と言われた日の痛みは、消えてはいない。たぶん、一生消えない。
でも。
「殿下」
リゼットは、微笑んだ。
「殿下のおかげで、辺境の素材に出会えました」
ヴァレンティンの目が——見開かれた。
「あの日追放されなければ、わたしは辺境の厨房を知らなかった。高原りんごも、霜花蜜も、黒胡桃も——出会えなかった。このプティフールは、生まれなかった」
許してはいない。あの日の痛みを、なかったことにはしない。
でも——恨んでもいない。
前を、向いている。もう、とっくに。
「……そうか」
ヴァレンティンが——目を伏せた。
長い睫毛が影を落とす。唇が結ばれて、喉が一度動いた。言いたいことが、まだあるのかもしれない。引き留めたい言葉が。呼び戻したい過去が。
でも——言わなかった。
目を伏せたまま、小さく頷いて——踵を返した。
宮廷服の裾が翻る。金髪が揺れる。その背中は——来た時より、少しだけ小さく見えた。
自分の浅さを知った男の、背中だった。
祝宴の会場は、華やかな光に満ちていた。
シャンデリアの灯りが磨かれた床に反射して、宮廷服の宝石がきらきらと輝いている。笑い声。祝杯の音。美しい音楽。
リゼットは——少し、居心地が悪かった。
三年前まで、ここにいた。宮廷の端っこで、菓子を焼いていた。でも今は——もう、ここの人間ではない。
人々がリゼットの周りに集まっていた。「辺境の菓子師」に興味を持った貴族や商人たちが、次々と声をかけてくる。
その輪の外に——一人、立っている人がいた。
灰銀色の髪。質素な革鎧。左頬の傷跡。大きな体を壁際に寄せて、居心地悪そうに腕を組んでいる。
セドリックだった。
誰かが声をかけたらしい。「そちらの方は?」と。
セドリックが——短く、答えた。
「辺境の菓子師だ」
それだけ。
辺境伯でも、騎士でもなく。リゼットの肩書きでも、出身でもなく。
辺境の菓子師。
その声に——誇りが、滲んでいた。
ぶっきらぼうで。短くて。でも——あの低い声の底に、確かな温もりがあった。
リゼットはセドリックと目が合った。
人混みの向こう。シャンデリアの光が、青灰色の瞳にちらちらと映っている。
言葉は——なかった。
何も言わなかった。目が合って、ほんの一瞬、セドリックの口角がかすかに動いた——それだけ。
でも——通じていた。
お前の菓子は、俺が一番知っている。
そう言っている気がした。
リゼットは——笑った。目が熱くなるのを堪えながら。今日はもう、何度泣いたか分からない。これ以上は——格好悪い。
祝宴の後。宿に戻る馬車の中で。
「リゼット」
セドリックが、名前を呼んだ。
あの焼きりんごの日から変わった呼び方。「お前」ではなく、「リゼット」。まだ少し硬くて、慣れていない感じが残っている——でも、呼ぶたびに少しずつ、自然になっていく。
「はい」
「宮廷菓子師への復帰——話が来たら、どうする」
リゼットは窓の外を見た。
王都の夜景が流れていく。煌びやかな灯り。石畳の街路。すれ違う馬車。華やかで、美しくて——もう、リゼットの場所ではない街。
「帰ります」
迷いは——なかった。
「わたしの厨房は、辺境にありますから」
セドリックが——リゼットを見た。
青灰色の目が、ほんの一瞬だけ——柔らかくなった。ほんの一瞬。見逃してしまいそうなほど短い。でも——リゼットには、見えた。
「……ああ」
短い返事。いつもの「ああ」。でも——その声が、温かい。
馬車が石畳の上を走る音。車輪の軋み。馬の蹄の音。窓から入る夜風が、リゼットの蜂蜜色の髪を揺らしている。
「セドリック」
「何だ」
「……わたし、優勝しました」
「知ってる」
「すごくないですか」
「……まあ、悪くはない」
リゼットは——吹き出した。
お父様と同じ言い方だ。「悪くはない」。不器用な人たちは、みんな同じ言葉を選ぶ。
セドリックが怪訝そうに眉を寄せた。
「何がおかしい」
「いえ——ふふ、なんでもありません」
笑いが収まらない。でも、嬉しい笑いだった。泣いた後の、温かい笑い。
翌朝。帰路の馬車。
王都の城門を抜けた。街道が——北へ伸びている。辺境へ向かう、長い長い道。
馬車の中は二人きりだった。
来た時よりも——距離が、近い。向かい合わせに座っているのは同じなのに、膝と膝の間が、少し狭くなっている。
窓の外を、秋の野が流れていく。収穫の終わった畑。黄金色の草原。遠くに見える山並み。
リゼットはぼんやりと景色を眺めていた。優勝の興奮が少しずつ引いて、穏やかな疲れが体に広がっている。心地よい疲れだった。
「リゼット」
「はい?」
セドリックが——口を開いた。
でも、すぐには言葉が出てこなかった。青灰色の目が、リゼットを見て——逸れて——また戻った。
「一つ、頼みがある」
リゼットの心臓が——跳ねた。
セドリックの声が、いつもと違った。ぶっきらぼうなのは同じだ。短いのも同じだ。でも——緊張している。あの剣だこのある手が、膝の上で——かすかに、握られている。
「はい。何でしょう」
セドリックが——口を開いた。
言いかけた。唇が動いて、息を吸い込んで——
閉じた。
言葉を飲み込むように、唇を結んだ。視線が窓の外に逃げた。
「……いや」
低い声。
「帰ってからでいい」
リゼットは——息を止めていたことに、気づいた。
「帰ってから、ですか」
「ああ」
「……分かりました」
何を——頼みたかったんだろう。
セドリックの横顔を見つめた。秋の陽が差し込んで、灰銀色の髪に金色の光が混じっている。左頬の傷跡。結ばれた唇。少しだけ赤くなった——耳。
耳が赤い。
リゼットの胸の奥が——きゅっと、鳴った。
帰ってから。辺境に帰ったら。あの厨房で——あの石窯の前で——何を、頼むんだろう。
想像した。ほんの少しだけ。
頬が——熱くなった。
慌てて窓の外に目を逸らした。秋の野原が流れていく。金色の草が風に揺れている。
帰ろう。辺境に。
わたしの厨房に。わたしの石窯に。わたしの——居場所に。
この人と一緒に。
馬車の車輪が、石畳から土の道に変わった。がたがたと揺れる。その振動で——リゼットの体が、ほんの少しだけ傾いた。セドリックの方に。
戻さなかった。
セドリックも——何も言わなかった。
秋の風が、馬車の幌を揺らしている。辺境へ続く道は——長い。
でも——悪くない。
第3章「王都の毒と蜜」——完。