S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第32話: 目にゴミが

第3アーク · 5,362文字 · draft

ギルベール・フォン・メルヴェーユの指が——プティフールに、伸びた。

擦り切れた袖口。でも手入れだけは完璧な、かつての伯爵服。その袖から覗いた痩せた指が、銀のフォークを取り上げる。

会場が——静まった。リゼットの心臓が、喉の奥で鳴っている。


フォークの先が、黒胡桃のフィナンシェに触れた。

かつ、と小さな音。焼き色のついた表面に、フォークの跡がつく。

割った。

断面が見えた。焙煎した黒胡桃の粒が、きめ細かい生地の中に散っている。焦がしバターの香りが、割れた断面からふわりと立ち上った。

口に運ぶ。

咀嚼(そしゃく)。一度。二度。三度——

リゼットは息ができなかった。

父の顔を見ている。琥珀色の目——自分と同じ色の目が、フィナンシェを噛みしめている。眉間の皺。不機嫌そうに曲がった口元。いつもの、あの顔。

四度目の咀嚼で——動きが、止まった。

ギルベールの目が、わずかに見開かれた。

何も言わない。フォークを置くこともなく、そのまま——次のひと品に手を伸ばした。

霜花蜜のボンボン。

白い球体を丸ごと口に入れた。噛むと、中から霜花蜜のジュレがとろりと溢れるはずだ。白霜の森の花から集められた蜂蜜の、澄んだ甘さが——舌の上に広がるはずだ。

ギルベールの咀嚼が——遅くなった。

一口ごとに、確かめるように。味を追うように。舌の上で転がして、奥歯で噛みしめて、飲み込んで——そしてまた、次へ。

高原りんごのコンポート。

匙ですくう。透明な琥珀色の果肉が、匙の上で震えている。バターと霜花蜜で煮込んだりんごは、酸味が消えて甘みだけが残っている——でも、ただ甘いだけじゃない。りんごが生きていた時の記憶が、甘さの奥に、かすかに残っている。

口に入れた。

ギルベールの喉が——動いた。

ベリーのタルトレット。

紫色の果実が焼き込まれた小さなタルト。サクッとした生地を噛む音が、静まった会場に小さく響いた。

そして——

中央のカラメル。

辺境の蜂蜜を煮詰めた、琥珀色の結晶。辺境の太陽の色。あの土地の光と風と、長い冬を越えた蜜蜂たちの——命の味。

ギルベールの指が、カラメルをつまんだ。

口に入れた。

噛んだ。

ぱき、と結晶が割れる小さな音。蜂蜜の濃い甘さが、口の中に広がっているはずだ。焦がした砂糖のほろ苦さと、霜花蜜の透き通った甘さが混ざり合って——

ギルベールの手が——止まった。

フォークが、テーブルの上に置かれた。音もなく。静かに。

肩が——震えていた。

リゼットは見ていた。息を止めて。まばたきもせず。

父の、琥珀色の目が——潤んでいく。

光を受けて、ゆらゆらと——水面(みなも)のように。

リゼットには——分かった。

菓子師の舌で。絶対味覚で。いいえ——娘の目で。

父が何を感じているのか。あの舌が、何を味わっているのか。

お母様の——味。

エレーヌ・フォン・メルヴェーユ。料理上手だった母。豪華ではないけれど、食べる人のことを想って作る、温かい菓子。ギルベールの舌を唯一満足させた、あの人の味。

リゼットの菓子には——母の面影がある。

素材に語りかけること。食べる人を想うこと。火加減を手で感じること。母から受け継いだ、菓子師としての根っこが——この五つの小菓子(プティフール)の、すべてに染みている。

ギルベールの批評舌は——それを、感じ取った。

言語化できないほどの衝撃として。あの饒舌な批評家が、一言も発せないほどの——衝撃として。

涙が——一筋、頬を伝った。

琥珀色の目から溢れた雫が、痩せた頬を滑り落ちて、擦り切れた伯爵服の襟元に落ちた。

ギルベールが——袖で目元を拭った。

乱暴に。ごしごしと。

「……目にゴミが入っただけだ」

声が——かすれていた。

尊大で、偏屈で、口うるさい父の声が——かすれて、揺れている。

リゼットの視界が——滲んだ。

ああ——お父様。

お父様の舌は。あの批評舌は。わたしの絶対味覚の——根っこだったんだ。

味を分析する力。素材の良し悪しを見抜く力。火加減の一度の差を、舌で感じ取る力。母から受け継いだ「想い」を、父から受け継いだ「舌」で——わたしは、菓子を焼いている。

二人の——娘だから。

ギルベールが立ち上がった。

椅子を引く音が、静かな会場に響いた。背を向ける。痩せた背中。かつては恰幅が良かったであろう肩が、今は骨ばっている。

歩き出す。

リゼットは——呼び止められなかった。声が出なかった。涙で喉が詰まって、何も——

ギルベールが——足を止めた。

振り返らない。背中のまま。

「……不味くは、ない」

短い言葉。ぶっきらぼうな言葉。

でも——リゼットには聞こえた。その声の奥にあるものが。

認めている。娘の菓子を。菓子師としての娘を。十八年間、一度も肯定してくれなかった父が——初めて。

不味くは、ない。

それが——ギルベール・フォン・メルヴェーユの、精一杯だった。

痩せた背中が、会場の出口に消えていく。振り返らない。最後まで。

リゼットの涙が——溢れた。

止まらなかった。止める必要もなかった。

お父様に——認められた。

たった一言で。たった五文字で。それだけで——十分だった。


会場がざわめいた。

審査員長が壇上に立ち、咳払いをした。

「第四十二回王立菓子品評会——本選の結果を発表いたします」

リゼットは涙を拭った。指先で、頬の雫を拭って——前を向いた。

「本年の最優秀賞は——」

息を吸った。

「辺境ヴィントヘルム代表、リゼット・フォン・メルヴェーユ殿の『辺境のプティフール』」

会場が——沸いた。

歓声。拍手。ざわめき。でもリゼットの耳には——遠く聞こえていた。水の中にいるみたいに。ぼんやりと。

優勝した。

辺境の素材だけで——王都の菓子師たちを、超えた。

審査員が講評を述べていた。

「素材の質ではなく、素材への理解と愛情の深さ。どの一品にも、作り手がその素材と向き合い、対話した時間が感じられる。辺境にしかない味——いえ、辺境だからこそ生まれた味。本年の品評会において、最も心を動かされた一皿でした」

リゼットは頭を下げた。深く。言葉が出なくて、ただ——深く。


祝賀の喧騒の中を、一つの人影がリゼットに近づいた。

金髪。翡翠色の目。豪華な宮廷服。

ヴァレンティン・フォン・クラウゼン。

王太子殿下は——いつもの慇懃無礼な笑みを、浮かべていなかった。

リゼットの前に立った。沈黙が、数秒。

「……なぜ」

声が——低かった。あの尊大な断定調ではない。もっと——素朴な、剥き出しの声。

「なぜ、あの時お前を手放したのか」

リゼットは——殿下の目を見た。

翡翠色の瞳が揺れている。自信に満ちていたはずの目が。底の浅さを自覚してしまった人間の目。

「私は——判断を、誤った」

言葉が、一つ一つ絞り出されるように落ちた。

「お前の菓子の価値を——理解していなかった。高級な素材でなければ一流ではないと、そう思い込んでいた。それは……私の浅さだ」

会場の喧騒が遠くなった。二人の間だけ、静かだった。

リゼットは——長い息を、吐いた。

怒りは——もう、ない。恨みも。あの日、「お前の菓子はもう不要だ」と言われた日の痛みは、消えてはいない。たぶん、一生消えない。

でも。

「殿下」

リゼットは、微笑んだ。

「殿下のおかげで、辺境の素材に出会えました」

ヴァレンティンの目が——見開かれた。

「あの日追放されなければ、わたしは辺境の厨房を知らなかった。高原りんごも、霜花蜜も、黒胡桃も——出会えなかった。このプティフールは、生まれなかった」

許してはいない。あの日の痛みを、なかったことにはしない。

でも——恨んでもいない。

前を、向いている。もう、とっくに。

「……そうか」

ヴァレンティンが——目を伏せた。

長い睫毛が影を落とす。唇が結ばれて、喉が一度動いた。言いたいことが、まだあるのかもしれない。引き留めたい言葉が。呼び戻したい過去が。

でも——言わなかった。

目を伏せたまま、小さく頷いて——踵を返した。

宮廷服の裾が翻る。金髪が揺れる。その背中は——来た時より、少しだけ小さく見えた。

自分の浅さを知った男の、背中だった。


祝宴の会場は、華やかな光に満ちていた。

シャンデリアの灯りが磨かれた床に反射して、宮廷服の宝石がきらきらと輝いている。笑い声。祝杯の音。美しい音楽。

リゼットは——少し、居心地が悪かった。

三年前まで、ここにいた。宮廷の端っこで、菓子を焼いていた。でも今は——もう、ここの人間ではない。

人々がリゼットの周りに集まっていた。「辺境の菓子師」に興味を持った貴族や商人たちが、次々と声をかけてくる。

その輪の外に——一人、立っている人がいた。

灰銀色の髪。質素な革鎧。左頬の傷跡。大きな体を壁際に寄せて、居心地悪そうに腕を組んでいる。

セドリックだった。

誰かが声をかけたらしい。「そちらの方は?」と。

セドリックが——短く、答えた。

「辺境の菓子師だ」

それだけ。

辺境伯でも、騎士でもなく。リゼットの肩書きでも、出身でもなく。

辺境の菓子師。

その声に——誇りが、滲んでいた。

ぶっきらぼうで。短くて。でも——あの低い声の底に、確かな温もりがあった。

リゼットはセドリックと目が合った。

人混みの向こう。シャンデリアの光が、青灰色の瞳にちらちらと映っている。

言葉は——なかった。

何も言わなかった。目が合って、ほんの一瞬、セドリックの口角がかすかに動いた——それだけ。

でも——通じていた。

お前の菓子は、俺が一番知っている。

そう言っている気がした。

リゼットは——笑った。目が熱くなるのを堪えながら。今日はもう、何度泣いたか分からない。これ以上は——格好悪い。


祝宴の後。宿に戻る馬車の中で。

「リゼット」

セドリックが、名前を呼んだ。

あの焼きりんごの日から変わった呼び方。「お前」ではなく、「リゼット」。まだ少し硬くて、慣れていない感じが残っている——でも、呼ぶたびに少しずつ、自然になっていく。

「はい」

「宮廷菓子師への復帰——話が来たら、どうする」

リゼットは窓の外を見た。

王都の夜景が流れていく。煌びやかな灯り。石畳の街路。すれ違う馬車。華やかで、美しくて——もう、リゼットの場所ではない街。

「帰ります」

迷いは——なかった。

「わたしの厨房は、辺境にありますから」

セドリックが——リゼットを見た。

青灰色の目が、ほんの一瞬だけ——柔らかくなった。ほんの一瞬。見逃してしまいそうなほど短い。でも——リゼットには、見えた。

「……ああ」

短い返事。いつもの「ああ」。でも——その声が、温かい。

馬車が石畳の上を走る音。車輪の軋み。馬の蹄の音。窓から入る夜風が、リゼットの蜂蜜色の髪を揺らしている。

「セドリック」

「何だ」

「……わたし、優勝しました」

「知ってる」

「すごくないですか」

「……まあ、悪くはない」

リゼットは——吹き出した。

お父様と同じ言い方だ。「悪くはない」。不器用な人たちは、みんな同じ言葉を選ぶ。

セドリックが怪訝そうに眉を寄せた。

「何がおかしい」

「いえ——ふふ、なんでもありません」

笑いが収まらない。でも、嬉しい笑いだった。泣いた後の、温かい笑い。


翌朝。帰路の馬車。

王都の城門を抜けた。街道が——北へ伸びている。辺境へ向かう、長い長い道。

馬車の中は二人きりだった。

来た時よりも——距離が、近い。向かい合わせに座っているのは同じなのに、膝と膝の間が、少し狭くなっている。

窓の外を、秋の野が流れていく。収穫の終わった畑。黄金色の草原。遠くに見える山並み。

リゼットはぼんやりと景色を眺めていた。優勝の興奮が少しずつ引いて、穏やかな疲れが体に広がっている。心地よい疲れだった。

「リゼット」

「はい?」

セドリックが——口を開いた。

でも、すぐには言葉が出てこなかった。青灰色の目が、リゼットを見て——逸れて——また戻った。

「一つ、頼みがある」

リゼットの心臓が——跳ねた。

セドリックの声が、いつもと違った。ぶっきらぼうなのは同じだ。短いのも同じだ。でも——緊張している。あの剣だこのある手が、膝の上で——かすかに、握られている。

「はい。何でしょう」

セドリックが——口を開いた。

言いかけた。唇が動いて、息を吸い込んで——

閉じた。

言葉を飲み込むように、唇を結んだ。視線が窓の外に逃げた。

「……いや」

低い声。

「帰ってからでいい」

リゼットは——息を止めていたことに、気づいた。

「帰ってから、ですか」

「ああ」

「……分かりました」

何を——頼みたかったんだろう。

セドリックの横顔を見つめた。秋の陽が差し込んで、灰銀色の髪に金色の光が混じっている。左頬の傷跡。結ばれた唇。少しだけ赤くなった——耳。

耳が赤い。

リゼットの胸の奥が——きゅっと、鳴った。

帰ってから。辺境に帰ったら。あの厨房で——あの石窯の前で——何を、頼むんだろう。

想像した。ほんの少しだけ。

頬が——熱くなった。

慌てて窓の外に目を逸らした。秋の野原が流れていく。金色の草が風に揺れている。

帰ろう。辺境に。

わたしの厨房に。わたしの石窯に。わたしの——居場所に。

この人と一緒に。

馬車の車輪が、石畳から土の道に変わった。がたがたと揺れる。その振動で——リゼットの体が、ほんの少しだけ傾いた。セドリックの方に。

戻さなかった。

セドリックも——何も言わなかった。

秋の風が、馬車の(ほろ)を揺らしている。辺境へ続く道は——長い。

でも——悪くない。

第3章「王都の毒と蜜」——完。

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