S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第33話: 凱旋

第4アーク · 6,945文字 · draft

第4章「世界で一番甘い朝」


北の風が——甘い。

馬車の(ほろ)を揺らす風に、針葉樹の青い匂いが混じっていた。辺境の匂いだ。王都の石畳と香水と人いきれの匂いとは、何もかも違う。冷たくて、鋭くて、透き通った——帰ってきた、という匂い。

リゼットは窓から身を乗り出した。

街道の左右に針葉樹の森が迫っている。木々の(こずえ)は秋の光を受けて深い緑と黄金色のまだらに染まり、足元には落ち葉が敷き詰められていた。土の道。(わだち)の薄い、辺境へ続く一本道。

三日間の帰路だった。王都を出て、丘陵を越え、平野を横切り、針葉樹の森に入ったあたりから——空気が変わった。冷たくなった。澄んだ。リゼットの肺が、久しぶりに深く息を吸い込んだ。

「……近いな」

向かいの席で、セドリックが呟いた。

腕を組んで、窓の外を見ている。灰銀色の髪に秋の陽が当たって、かすかに光っている。青灰色の目が——柔らかかった。ほんの少しだけ。この人も、帰ってきたのだ。

「はい。もうすぐですね」

リゼットはエプロンのポケットに手を入れた。レシピ帳がある。王都での品評会の間も、ずっとここにあった。

品評会の優勝——もう三日前のことなのに、まだ夢のようだった。審査員の講評。会場の拍手。お父様の涙。「不味くは、ない」という、たった五文字。

全部——本当にあったこと。

馬車が揺れた。道が少し荒れている。辺境に近づくと、街道の手入れが行き届かなくなる。がたがたと車体が揺れるたびに、荷台の木箱がかたかたと音を立てた。

品評会で使い切れなかった素材たち。霜花蜜の瓶が二つ。焙煎した黒胡桃の袋。乾燥ベリーの小瓶。高原りんごの保存瓶——辺境から持ち出して、辺境に持ち帰る。宝物のように抱えて。


村が見えた。

丘を越えた瞬間、眼下に——ヴィントヘルムの村が広がっていた。

石造りの家々。宿屋の煙突から立ち上る煙。白霜の森に囲まれた小さな集落。何もかもが、三週間前と変わっていない。小さくて、質素で、寒くて——リゼットの、居場所。

あれ、と思った。

村の入り口に——人がいる。一人ではない。二人でもない。

十人。いや、二十人。いや——

「……何だ、あれは」

セドリックが身を乗り出した。

村の入り口に、人だかりができていた。

近づくにつれて——声が聞こえてきた。

「来た! 来たよ!」

「馬車だ! セド様の馬車だ!」

「おーい! 帰ってきたぞー!」

子どもたちが走ってくる。裸足で土の道を駆けてくる。その後ろから大人たちが——農具を置いて、洗い物を放り出して、鍛冶場の火を消して——わらわらと集まってきていた。

馬車が村の入り口で止まった。

扉を開ける前に——歓声が、押し寄せた。

「おかえり!」

「おかえりなさい!」

「リゼットが優勝したって本当かい!?」

リゼットは馬車から降りた。足が地面についた瞬間——辺境の冷たい土を踏んだ瞬間——胸の奥が、じわっと熱くなった。

村人たちに囲まれた。あちこちから手が伸びて、肩を叩かれ、手を握られ、口々に声をかけられる。

「うちの菓子師が王都で勝ったんだってな!」

「すげえなあ! 辺境から出た奴が王都で一番だって!」

「あんたの焼く菓子は美味かったもんなあ。そりゃ勝つわ」

うちの——菓子師。

リゼットは目を(まばた)いた。

いつの間に「うちの」になっていたのだろう。一年前に流れ着いた、よそ者の追放令嬢が——この村の、「うちの菓子師」に。

「ど、どうして知っているんですか? わたしたちより先に伝わるはずが——」

「商隊さ!」

声を上げたのは、鍛冶屋のおかみさんだった。

「二日前に南から商隊が来てね。王都の品評会で辺境の菓子師が優勝したって、大騒ぎだったよ! あんたの名前を聞いた時にゃあ、村中ひっくり返ったさ」

「朝から晩まで、その話で持ちきりだったんだぜ」

「マリーなんか、泣いてたよ」

マリーさんが——泣いた?

リゼットは人だかりの向こうを見た。

いた。

宿屋の入り口に——マリーさんが立っていた。

栗色のお団子ヘア。白いエプロン。腰に手を当てた、いつもの仁王立ち。でも——目が、赤い。

人だかりを掻き分けて、マリーさんが歩いてきた。大股で。力強い足取りで。

リゼットの前に立った。

見下ろされた。十センチ以上の身長差。マリーさんの茶色い目が、潤んでいる。唇が結ばれて——震えている。

「……おかえり、リゼ」

声が——かすれていた。

「ただいま、マリーさん」

リゼットの声も——かすれた。

マリーさんが——両腕を広げた。

ぎゅう、と抱きしめられた。力いっぱい。お団子頭から小麦粉と石鹸の匂いがする。出発の朝と同じ匂い。マリーさんの匂い。

「馬鹿。あんまり心配させるんじゃないよ」

「心配?」

「当たり前だろ。王都なんて怖い場所に——あたしのリゼが行っちまうんだから」

あたしの、リゼ。

「でも——帰ってきたね」

「はい」

「勝って——帰ってきたね」

「……はい」

目が熱くなった。

品評会の壇上では堪えた涙が——ここでは、堪えられなかった。

マリーさんの腕の中は安全だった。辺境の冷たい風が頬を撫でて、涙を乾かしていく。でも次から次へと溢れて、マリーさんのエプロンを濡らしていく。

「泣くんじゃないよ。凱旋だよ? 笑いな」

「だって——」

「だってじゃないよ。ほら、みんな見てるだろ」

村人たちが——拍手していた。

パチパチパチと、素朴な拍手。品評会の豪華な拍手とは全然違う。手が荒れて、剣だこがあって、農作業で日焼けした手のひらが打ち合わさる——温かい、不器用な拍手。

「リゼット、おかえり!」

「うちの菓子師、おかえり!」

リゼットはマリーさんの腕の中で——笑った。泣きながら。


セドリックが馬車から降りたのは、リゼットがひとしきり泣き終わった後だった。

村人たちの視線が、辺境伯に集まった。

「セド様、おかえりなさい!」

「おかえり、セド!」

セドリックは——短く頷いた。

「ああ」

いつもの「ああ」。でも——口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。

「セド」

マリーさんが、目を赤くしたまま声をかけた。

「あんた、ちゃんとリゼを守ってくれたんだね」

「……別に。何もしていない」

「はいはい」

マリーさんが、にやりと笑った。涙の跡を残したまま。

「何もしてない人が、わざわざ王都まで付いていくわけないだろうに」

セドリックが——そっぽを向いた。

リゼットは知っている。あの人が王都でしてくれたことを。会場の外で待っていてくれたこと。祝宴で壁際に立ちながら「辺境の菓子師だ」と——誇らしげに言ってくれたこと。

でも、セドリックは言わない。自分からは、絶対に。

「おい」

セドリックが村人たちに向き直った。声が——領主の声に切り替わった。低くて、静かで、でも隅々まで届く声。

「一つ、伝えることがある」

ざわめきが収まった。

「辺境伯として——特産品奨励令を発布する」

特産品、奨励令。

リゼットは目を瞬いた。聞いたことがある。辺境伯の経済的権限の一つ——領内の産業振興のために、営業許可を独自に発布できる制度。

「リゼット・フォン・メルヴェーユに、辺境初の菓子工房の営業を認可する」

息が——止まった。

「旧倉庫を工房として改築する。辺境の素材を使った菓子の製造・販売を認める。——以上だ」

短い。あまりに短い。公式の布告としては簡素すぎる。

でも——セドリックの目が、一瞬だけリゼットを見た。

青灰色の瞳が——何かを言っていた。言葉にしないまま。

ここにいろ。この土地で、菓子を焼け。

リゼットには——聞こえた。

村人たちが歓声を上げた。

「菓子工房だって!」

「辺境に菓子屋ができるのか!」

「リゼットの菓子がいつでも食えるようになるってことか!?」

子どもたちが飛び跳ねている。大人たちも顔を見合わせて笑っている。甘いものを年に数回しか口にできない辺境の人々にとって——菓子工房は、夢のような話だった。

リゼットは——深く、頭を下げた。

「ありがとうございます。精一杯——やります」

声が震えていた。でも——手は、震えていなかった。


旧倉庫は、宿屋の裏手にあった。

石造りの小さな建物。屋根は板葺きで、壁には(つた)が這っている。元は穀物の貯蔵庫として使われていたらしいが、数年前から空き家になっていた。

「セドリックが前から目をつけてたんだよ」

マリーさんが、壁の蔦を引っ張りながら言った。

「お前が品評会で勝ったら工房にする、って。負けても工房にする、って」

「……え?」

「勝っても負けても、結果は同じだったのさ。あの男、あんたに辺境で菓子を焼き続けてほしいんだよ。……まあ、絶対に自分じゃ言わないけどね」

リゼットは旧倉庫の扉を開けた。

埃っぽい空気が流れ出した。中は——思ったより広かった。天井が高い。窓が二つ。壁沿いに棚が並んでいる。

そして——奥に。

石窯があった。

大きな石窯だった。マリーさんの宿屋の窯よりも一回り大きい。灰色の石を積み上げた、がっしりした造り。煙突が天井を突き抜けて、屋根の上に伸びている。

リゼットは石窯に歩み寄った。

手を触れた。冷たい石の感触。まだ火が入っていない。でも——この窯は、生きている。石の目が詰まっている。焼いた跡がある。かつて、パンか何かを焼いていた窯だ。

「いい窯です」

声に出すと——実感が湧いた。

わたしの、石窯。

「火を入れたい。今日——火を入れたいです」

「今日? まだ着いたばかりだよ?」

「今日です。この窯で——最初の菓子を焼きたい」

マリーさんが——大きく笑った。

「あんた、やっぱり菓子馬鹿だね」


薪を運んだのは、セドリックだった。

頼んでいない。声もかけていない。気づいたら、倉庫の入り口に薪の束が積まれていた。よく乾いた樫の薪。火持ちがいい、窯焚きに最適な薪。

リゼットが振り返ると——セドリックの背中が遠ざかっていくところだった。

「セドリック」

足が止まった。振り返らない。

「……ありがとうございます」

「……ああ」

背中のまま——歩いていった。

マリーさんが、リゼットの隣で腕を組んでいた。

「不器用だねえ、あの男」

「ふふ。でも——嬉しいです」

「そりゃそうさ。あれ、樫だよ。わざわざ良い薪を選んでるんだから」

リゼットは薪を窯にくべた。火打ち石で火を起こす。乾いた樫に火が移って——ぱちぱちと弾ける音がした。

窯が——温まっていく。

冷たかった石が、少しずつ熱を蓄えていく。手のひらを窯の壁に当てると、石の奥から——命のような熱が、じわりと伝わってきた。

窯が生き返る。

その間に、リゼットは手を動かし始めた。

荷台から降ろした素材を並べる。霜花蜜の瓶。小麦粉。バター。卵。辺境に帰ってきてすぐに手に入るもの。シンプルな材料。

作るのは——霜花蜜のマドレーヌ。

辺境に来て、最初に覚えた菓子。マリーさんの厨房で、初めて辺境の素材で焼いた菓子。あの時はまだぎこちなかった。霜花蜜の扱い方が分からなくて、加熱しすぎて香りを飛ばしてしまった。何度も失敗した。

今は——違う。

ボウルに卵を割る。泡立て器で空気を含ませる。砂糖の代わりに霜花蜜をたっぷりと流し入れる。透明な蜂蜜が、卵の黄色に溶けて——淡い琥珀色に変わる。

小麦粉をふるう。さらさらと白い粉が降る。ヘラで切るように混ぜる。練らない。空気を潰さない。生地がつやつやと光り始めたら——溶かしバターを加える。

焦がしバター。

鍋の中でバターが溶けて泡立ち、金色から琥珀色に変わっていく。ナッツのような香ばしい匂いが立つ。もう少し。もう少し——ここ。この色。この香り。

生地にバターを合わせた。ゆっくりと、底から持ち上げるように。

型に流す。貝殻の形をした型——品評会に持っていった道具の一つ。辺境では貝殻を見たことがない人がほとんどだから、「海の形だよ」と教えてあげよう。

窯の温度を手で確かめた。手のひらを窯口にかざす。三秒で熱い——ちょうどいい。

型を窯に入れた。


甘い匂いが——広がっていった。

工房の窓から、外へ。秋の風に乗って、村の中へ。

焦がしバターと霜花蜜が溶け合った、甘くて香ばしい匂い。辺境の空気の中に——初めて、菓子の匂いが漂った。

「何だ、この匂い?」

「甘い……甘い匂いがする」

村人たちが、鼻をひくひくさせながら工房の前に集まってきた。

子どもたちが窓に張りついている。大人たちも仕事の手を止めて、匂いの出どころを探している。

甘い匂いを——知らない人たち。

辺境では、甘味はまだ贅沢品だった。蜂蜜を年に数回舐めるのが最大の贅沢で、焼き菓子の匂いなど嗅いだことがない。リゼットがマリーさんの厨房で焼いていた時も、匂いを辿って村人が覗きに来ることがあった。

でも今日は——もっと大きい。工房の窯は大きくて、焼く量も多い。甘い匂いが村中に広がっている。

窯を開けた。

黄金色のマドレーヌが——並んでいた。

ぷっくりと膨らんだ貝殻型。表面はきつね色に焼けて、霜花蜜の甘い艶がかかっている。割れ目から湯気が立ち上って——焦がしバターの、たまらなく香ばしい匂いが溢れ出した。

焼けた。

この窯で——最初の菓子が、焼けた。

「マリーさん」

「うん?」

「配りましょう」

「え?」

「村の皆さんに——配りましょう。工房の初焼きです。振る舞い菓子に」

マリーさんが——目を丸くして、それから、にかっと笑った。

「あんた、太っ腹だねえ!」

「太っ腹なんかじゃないです。わたし一人じゃ食べきれないだけです」

「嘘つけ」

マリーさんがリゼットの肩を叩いた。

「いいよ。あたしも手伝う。ほら、籠を持ってきな」


村人たちに、マドレーヌを配った。

一人に一つずつ。籠に入れた黄金色の貝殻型を、一つずつ手渡していく。

子どもが最初に(かじ)った。

「あまい!」

目を見開いた。丸い目がさらに丸くなって——頬が、りすのように膨らんだ。

「あまい! あまいよ! お母さん、あまい!」

母親が自分のマドレーヌを恐る恐る口に運んだ。

噛んだ。

ゆっくり——噛んだ。

目が——潤んだ。

「……美味しい」

小さな声で——呟いた。

「こんな美味しいもの、食べたことない……」

隣の老人が食べた。鍛冶屋のおかみさんが食べた。猟師が食べた。木こりが食べた。一人また一人と、マドレーヌを口に運んで——同じ顔をした。

驚きの顔。それから——幸せの顔。

リゼットは見ていた。一人ひとりの顔を。品評会の審査員の顔とは違う。洗練された批評の目ではない。ただ純粋に——甘いものを食べた喜びが、顔中に広がっている。

これだ。

これが——わたしの菓子の、居場所だ。

品評会で優勝した時よりも——今この瞬間の方が、ずっと嬉しい。


陽が傾いた頃。

村人たちが散っていって、工房の前が静かになった。

リゼットは工房の中で、使った道具を洗っていた。ボウル、泡立て器、ヘラ、型。一つずつ丁寧に。窯の火は落としたが、石がまだ温かくて、工房全体がほんのり暖かい。

足音が聞こえた。

重い足音。扉の前で——一拍の間。

ノックの代わりの、あの一拍。

「……入るぞ」

「どうぞ」

セドリックが入ってきた。工房の中を見回した。天井。窓。棚。石窯。それから——リゼットを見た。

「残っているか」

「え?」

「菓子だ」

リゼットは笑った。

「取っておきました。セドリックの分」

布巾をかけておいた小皿を差し出した。マドレーヌが二つ。もう冷めてしまったけれど、霜花蜜の甘い香りはまだ残っている。

セドリックが一つ手に取った。

齧った。

かり、と軽い音。それから——咀嚼が、遅くなった。

あの癖だ。美味しいものを食べた時の、ゆっくりとした咀嚼。

「……ここの窯で焼いたのか」

「はい。初焼きです」

「そうか」

二つ目に——手が伸びた。

合格、だ。

セドリックが二つ目のマドレーヌを食べ終えた。指先についた焦がしバターの油を——ぎこちなく、指で拭った。

「リゼット」

「はい」

「……いい窯だ」

それだけ言って——立ち上がった。

扉に向かう。背中。広い背中。でも——足が、一度止まった。

振り返らない。お父様と同じだ。背中のまま——

「……毎日、焼くのか」

「はい。毎日焼きます」

「……そうか」

低い声。短い言葉。

でも——リゼットには聞こえた。その声の奥にあるもの。

毎日、食いに来る。

そう言っている。

セドリックの背中が、扉の向こうに消えた。

リゼットは——一人になった工房で、両手を胸の前で握った。

わたしの工房。わたしの石窯。わたしの——場所。

窓の外では、秋の夕日が辺境の山並みを茜色に染めていた。白霜の森の梢が風に揺れて、ざわざわと歌っている。

明日も焼こう。明後日も。毎日。

この窯で。この土地で。この人たちのために。

——あの人のために。

リゼットは石窯に手を触れた。まだ温かい。手のひらに、石の熱が伝わってくる。

帰ってきた。

いいえ——違う。

ここが、最初から——わたしの場所だった。

リゼットの口元が——ほころんだ。

品評会の時にセドリックが言いかけた「頼み」のことを——ふと、思い出した。帰ってからでいい、と言った。帰ってきた。でも——まだ、言わない。

何を頼みたいのだろう。

想像すると——胸の奥が、きゅっと鳴る。

でも、急がない。急がなくていい。

この人は——不器用だから。

きっと、言葉を選んでいる。ずっと。あの短い言葉の中に、全部を込められるように——ずっと、選んでいる。

待とう。この工房で、菓子を焼きながら。

窓の外で、風が鳴った。北の風。辺境の風。

甘い匂いを——まだ、運んでいる。

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