第4章「世界で一番甘い朝」
北の風が——甘い。
馬車の幌を揺らす風に、針葉樹の青い匂いが混じっていた。辺境の匂いだ。王都の石畳と香水と人いきれの匂いとは、何もかも違う。冷たくて、鋭くて、透き通った——帰ってきた、という匂い。
リゼットは窓から身を乗り出した。
街道の左右に針葉樹の森が迫っている。木々の梢は秋の光を受けて深い緑と黄金色のまだらに染まり、足元には落ち葉が敷き詰められていた。土の道。轍の薄い、辺境へ続く一本道。
三日間の帰路だった。王都を出て、丘陵を越え、平野を横切り、針葉樹の森に入ったあたりから——空気が変わった。冷たくなった。澄んだ。リゼットの肺が、久しぶりに深く息を吸い込んだ。
「……近いな」
向かいの席で、セドリックが呟いた。
腕を組んで、窓の外を見ている。灰銀色の髪に秋の陽が当たって、かすかに光っている。青灰色の目が——柔らかかった。ほんの少しだけ。この人も、帰ってきたのだ。
「はい。もうすぐですね」
リゼットはエプロンのポケットに手を入れた。レシピ帳がある。王都での品評会の間も、ずっとここにあった。
品評会の優勝——もう三日前のことなのに、まだ夢のようだった。審査員の講評。会場の拍手。お父様の涙。「不味くは、ない」という、たった五文字。
全部——本当にあったこと。
馬車が揺れた。道が少し荒れている。辺境に近づくと、街道の手入れが行き届かなくなる。がたがたと車体が揺れるたびに、荷台の木箱がかたかたと音を立てた。
品評会で使い切れなかった素材たち。霜花蜜の瓶が二つ。焙煎した黒胡桃の袋。乾燥ベリーの小瓶。高原りんごの保存瓶——辺境から持ち出して、辺境に持ち帰る。宝物のように抱えて。
村が見えた。
丘を越えた瞬間、眼下に——ヴィントヘルムの村が広がっていた。
石造りの家々。宿屋の煙突から立ち上る煙。白霜の森に囲まれた小さな集落。何もかもが、三週間前と変わっていない。小さくて、質素で、寒くて——リゼットの、居場所。
あれ、と思った。
村の入り口に——人がいる。一人ではない。二人でもない。
十人。いや、二十人。いや——
「……何だ、あれは」
セドリックが身を乗り出した。
村の入り口に、人だかりができていた。
近づくにつれて——声が聞こえてきた。
「来た! 来たよ!」
「馬車だ! セド様の馬車だ!」
「おーい! 帰ってきたぞー!」
子どもたちが走ってくる。裸足で土の道を駆けてくる。その後ろから大人たちが——農具を置いて、洗い物を放り出して、鍛冶場の火を消して——わらわらと集まってきていた。
馬車が村の入り口で止まった。
扉を開ける前に——歓声が、押し寄せた。
「おかえり!」
「おかえりなさい!」
「リゼットが優勝したって本当かい!?」
リゼットは馬車から降りた。足が地面についた瞬間——辺境の冷たい土を踏んだ瞬間——胸の奥が、じわっと熱くなった。
村人たちに囲まれた。あちこちから手が伸びて、肩を叩かれ、手を握られ、口々に声をかけられる。
「うちの菓子師が王都で勝ったんだってな!」
「すげえなあ! 辺境から出た奴が王都で一番だって!」
「あんたの焼く菓子は美味かったもんなあ。そりゃ勝つわ」
うちの——菓子師。
リゼットは目を瞬いた。
いつの間に「うちの」になっていたのだろう。一年前に流れ着いた、よそ者の追放令嬢が——この村の、「うちの菓子師」に。
「ど、どうして知っているんですか? わたしたちより先に伝わるはずが——」
「商隊さ!」
声を上げたのは、鍛冶屋のおかみさんだった。
「二日前に南から商隊が来てね。王都の品評会で辺境の菓子師が優勝したって、大騒ぎだったよ! あんたの名前を聞いた時にゃあ、村中ひっくり返ったさ」
「朝から晩まで、その話で持ちきりだったんだぜ」
「マリーなんか、泣いてたよ」
マリーさんが——泣いた?
リゼットは人だかりの向こうを見た。
いた。
宿屋の入り口に——マリーさんが立っていた。
栗色のお団子ヘア。白いエプロン。腰に手を当てた、いつもの仁王立ち。でも——目が、赤い。
人だかりを掻き分けて、マリーさんが歩いてきた。大股で。力強い足取りで。
リゼットの前に立った。
見下ろされた。十センチ以上の身長差。マリーさんの茶色い目が、潤んでいる。唇が結ばれて——震えている。
「……おかえり、リゼ」
声が——かすれていた。
「ただいま、マリーさん」
リゼットの声も——かすれた。
マリーさんが——両腕を広げた。
ぎゅう、と抱きしめられた。力いっぱい。お団子頭から小麦粉と石鹸の匂いがする。出発の朝と同じ匂い。マリーさんの匂い。
「馬鹿。あんまり心配させるんじゃないよ」
「心配?」
「当たり前だろ。王都なんて怖い場所に——あたしのリゼが行っちまうんだから」
あたしの、リゼ。
「でも——帰ってきたね」
「はい」
「勝って——帰ってきたね」
「……はい」
目が熱くなった。
品評会の壇上では堪えた涙が——ここでは、堪えられなかった。
マリーさんの腕の中は安全だった。辺境の冷たい風が頬を撫でて、涙を乾かしていく。でも次から次へと溢れて、マリーさんのエプロンを濡らしていく。
「泣くんじゃないよ。凱旋だよ? 笑いな」
「だって——」
「だってじゃないよ。ほら、みんな見てるだろ」
村人たちが——拍手していた。
パチパチパチと、素朴な拍手。品評会の豪華な拍手とは全然違う。手が荒れて、剣だこがあって、農作業で日焼けした手のひらが打ち合わさる——温かい、不器用な拍手。
「リゼット、おかえり!」
「うちの菓子師、おかえり!」
リゼットはマリーさんの腕の中で——笑った。泣きながら。
セドリックが馬車から降りたのは、リゼットがひとしきり泣き終わった後だった。
村人たちの視線が、辺境伯に集まった。
「セド様、おかえりなさい!」
「おかえり、セド!」
セドリックは——短く頷いた。
「ああ」
いつもの「ああ」。でも——口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
「セド」
マリーさんが、目を赤くしたまま声をかけた。
「あんた、ちゃんとリゼを守ってくれたんだね」
「……別に。何もしていない」
「はいはい」
マリーさんが、にやりと笑った。涙の跡を残したまま。
「何もしてない人が、わざわざ王都まで付いていくわけないだろうに」
セドリックが——そっぽを向いた。
リゼットは知っている。あの人が王都でしてくれたことを。会場の外で待っていてくれたこと。祝宴で壁際に立ちながら「辺境の菓子師だ」と——誇らしげに言ってくれたこと。
でも、セドリックは言わない。自分からは、絶対に。
「おい」
セドリックが村人たちに向き直った。声が——領主の声に切り替わった。低くて、静かで、でも隅々まで届く声。
「一つ、伝えることがある」
ざわめきが収まった。
「辺境伯として——特産品奨励令を発布する」
特産品、奨励令。
リゼットは目を瞬いた。聞いたことがある。辺境伯の経済的権限の一つ——領内の産業振興のために、営業許可を独自に発布できる制度。
「リゼット・フォン・メルヴェーユに、辺境初の菓子工房の営業を認可する」
息が——止まった。
「旧倉庫を工房として改築する。辺境の素材を使った菓子の製造・販売を認める。——以上だ」
短い。あまりに短い。公式の布告としては簡素すぎる。
でも——セドリックの目が、一瞬だけリゼットを見た。
青灰色の瞳が——何かを言っていた。言葉にしないまま。
ここにいろ。この土地で、菓子を焼け。
リゼットには——聞こえた。
村人たちが歓声を上げた。
「菓子工房だって!」
「辺境に菓子屋ができるのか!」
「リゼットの菓子がいつでも食えるようになるってことか!?」
子どもたちが飛び跳ねている。大人たちも顔を見合わせて笑っている。甘いものを年に数回しか口にできない辺境の人々にとって——菓子工房は、夢のような話だった。
リゼットは——深く、頭を下げた。
「ありがとうございます。精一杯——やります」
声が震えていた。でも——手は、震えていなかった。
旧倉庫は、宿屋の裏手にあった。
石造りの小さな建物。屋根は板葺きで、壁には蔦が這っている。元は穀物の貯蔵庫として使われていたらしいが、数年前から空き家になっていた。
「セドリックが前から目をつけてたんだよ」
マリーさんが、壁の蔦を引っ張りながら言った。
「お前が品評会で勝ったら工房にする、って。負けても工房にする、って」
「……え?」
「勝っても負けても、結果は同じだったのさ。あの男、あんたに辺境で菓子を焼き続けてほしいんだよ。……まあ、絶対に自分じゃ言わないけどね」
リゼットは旧倉庫の扉を開けた。
埃っぽい空気が流れ出した。中は——思ったより広かった。天井が高い。窓が二つ。壁沿いに棚が並んでいる。
そして——奥に。
石窯があった。
大きな石窯だった。マリーさんの宿屋の窯よりも一回り大きい。灰色の石を積み上げた、がっしりした造り。煙突が天井を突き抜けて、屋根の上に伸びている。
リゼットは石窯に歩み寄った。
手を触れた。冷たい石の感触。まだ火が入っていない。でも——この窯は、生きている。石の目が詰まっている。焼いた跡がある。かつて、パンか何かを焼いていた窯だ。
「いい窯です」
声に出すと——実感が湧いた。
わたしの、石窯。
「火を入れたい。今日——火を入れたいです」
「今日? まだ着いたばかりだよ?」
「今日です。この窯で——最初の菓子を焼きたい」
マリーさんが——大きく笑った。
「あんた、やっぱり菓子馬鹿だね」
薪を運んだのは、セドリックだった。
頼んでいない。声もかけていない。気づいたら、倉庫の入り口に薪の束が積まれていた。よく乾いた樫の薪。火持ちがいい、窯焚きに最適な薪。
リゼットが振り返ると——セドリックの背中が遠ざかっていくところだった。
「セドリック」
足が止まった。振り返らない。
「……ありがとうございます」
「……ああ」
背中のまま——歩いていった。
マリーさんが、リゼットの隣で腕を組んでいた。
「不器用だねえ、あの男」
「ふふ。でも——嬉しいです」
「そりゃそうさ。あれ、樫だよ。わざわざ良い薪を選んでるんだから」
リゼットは薪を窯にくべた。火打ち石で火を起こす。乾いた樫に火が移って——ぱちぱちと弾ける音がした。
窯が——温まっていく。
冷たかった石が、少しずつ熱を蓄えていく。手のひらを窯の壁に当てると、石の奥から——命のような熱が、じわりと伝わってきた。
窯が生き返る。
その間に、リゼットは手を動かし始めた。
荷台から降ろした素材を並べる。霜花蜜の瓶。小麦粉。バター。卵。辺境に帰ってきてすぐに手に入るもの。シンプルな材料。
作るのは——霜花蜜のマドレーヌ。
辺境に来て、最初に覚えた菓子。マリーさんの厨房で、初めて辺境の素材で焼いた菓子。あの時はまだぎこちなかった。霜花蜜の扱い方が分からなくて、加熱しすぎて香りを飛ばしてしまった。何度も失敗した。
今は——違う。
ボウルに卵を割る。泡立て器で空気を含ませる。砂糖の代わりに霜花蜜をたっぷりと流し入れる。透明な蜂蜜が、卵の黄色に溶けて——淡い琥珀色に変わる。
小麦粉をふるう。さらさらと白い粉が降る。ヘラで切るように混ぜる。練らない。空気を潰さない。生地がつやつやと光り始めたら——溶かしバターを加える。
焦がしバター。
鍋の中でバターが溶けて泡立ち、金色から琥珀色に変わっていく。ナッツのような香ばしい匂いが立つ。もう少し。もう少し——ここ。この色。この香り。
生地にバターを合わせた。ゆっくりと、底から持ち上げるように。
型に流す。貝殻の形をした型——品評会に持っていった道具の一つ。辺境では貝殻を見たことがない人がほとんどだから、「海の形だよ」と教えてあげよう。
窯の温度を手で確かめた。手のひらを窯口にかざす。三秒で熱い——ちょうどいい。
型を窯に入れた。
甘い匂いが——広がっていった。
工房の窓から、外へ。秋の風に乗って、村の中へ。
焦がしバターと霜花蜜が溶け合った、甘くて香ばしい匂い。辺境の空気の中に——初めて、菓子の匂いが漂った。
「何だ、この匂い?」
「甘い……甘い匂いがする」
村人たちが、鼻をひくひくさせながら工房の前に集まってきた。
子どもたちが窓に張りついている。大人たちも仕事の手を止めて、匂いの出どころを探している。
甘い匂いを——知らない人たち。
辺境では、甘味はまだ贅沢品だった。蜂蜜を年に数回舐めるのが最大の贅沢で、焼き菓子の匂いなど嗅いだことがない。リゼットがマリーさんの厨房で焼いていた時も、匂いを辿って村人が覗きに来ることがあった。
でも今日は——もっと大きい。工房の窯は大きくて、焼く量も多い。甘い匂いが村中に広がっている。
窯を開けた。
黄金色のマドレーヌが——並んでいた。
ぷっくりと膨らんだ貝殻型。表面はきつね色に焼けて、霜花蜜の甘い艶がかかっている。割れ目から湯気が立ち上って——焦がしバターの、たまらなく香ばしい匂いが溢れ出した。
焼けた。
この窯で——最初の菓子が、焼けた。
「マリーさん」
「うん?」
「配りましょう」
「え?」
「村の皆さんに——配りましょう。工房の初焼きです。振る舞い菓子に」
マリーさんが——目を丸くして、それから、にかっと笑った。
「あんた、太っ腹だねえ!」
「太っ腹なんかじゃないです。わたし一人じゃ食べきれないだけです」
「嘘つけ」
マリーさんがリゼットの肩を叩いた。
「いいよ。あたしも手伝う。ほら、籠を持ってきな」
村人たちに、マドレーヌを配った。
一人に一つずつ。籠に入れた黄金色の貝殻型を、一つずつ手渡していく。
子どもが最初に齧った。
「あまい!」
目を見開いた。丸い目がさらに丸くなって——頬が、りすのように膨らんだ。
「あまい! あまいよ! お母さん、あまい!」
母親が自分のマドレーヌを恐る恐る口に運んだ。
噛んだ。
ゆっくり——噛んだ。
目が——潤んだ。
「……美味しい」
小さな声で——呟いた。
「こんな美味しいもの、食べたことない……」
隣の老人が食べた。鍛冶屋のおかみさんが食べた。猟師が食べた。木こりが食べた。一人また一人と、マドレーヌを口に運んで——同じ顔をした。
驚きの顔。それから——幸せの顔。
リゼットは見ていた。一人ひとりの顔を。品評会の審査員の顔とは違う。洗練された批評の目ではない。ただ純粋に——甘いものを食べた喜びが、顔中に広がっている。
これだ。
これが——わたしの菓子の、居場所だ。
品評会で優勝した時よりも——今この瞬間の方が、ずっと嬉しい。
陽が傾いた頃。
村人たちが散っていって、工房の前が静かになった。
リゼットは工房の中で、使った道具を洗っていた。ボウル、泡立て器、ヘラ、型。一つずつ丁寧に。窯の火は落としたが、石がまだ温かくて、工房全体がほんのり暖かい。
足音が聞こえた。
重い足音。扉の前で——一拍の間。
ノックの代わりの、あの一拍。
「……入るぞ」
「どうぞ」
セドリックが入ってきた。工房の中を見回した。天井。窓。棚。石窯。それから——リゼットを見た。
「残っているか」
「え?」
「菓子だ」
リゼットは笑った。
「取っておきました。セドリックの分」
布巾をかけておいた小皿を差し出した。マドレーヌが二つ。もう冷めてしまったけれど、霜花蜜の甘い香りはまだ残っている。
セドリックが一つ手に取った。
齧った。
かり、と軽い音。それから——咀嚼が、遅くなった。
あの癖だ。美味しいものを食べた時の、ゆっくりとした咀嚼。
「……ここの窯で焼いたのか」
「はい。初焼きです」
「そうか」
二つ目に——手が伸びた。
合格、だ。
セドリックが二つ目のマドレーヌを食べ終えた。指先についた焦がしバターの油を——ぎこちなく、指で拭った。
「リゼット」
「はい」
「……いい窯だ」
それだけ言って——立ち上がった。
扉に向かう。背中。広い背中。でも——足が、一度止まった。
振り返らない。お父様と同じだ。背中のまま——
「……毎日、焼くのか」
「はい。毎日焼きます」
「……そうか」
低い声。短い言葉。
でも——リゼットには聞こえた。その声の奥にあるもの。
毎日、食いに来る。
そう言っている。
セドリックの背中が、扉の向こうに消えた。
リゼットは——一人になった工房で、両手を胸の前で握った。
わたしの工房。わたしの石窯。わたしの——場所。
窓の外では、秋の夕日が辺境の山並みを茜色に染めていた。白霜の森の梢が風に揺れて、ざわざわと歌っている。
明日も焼こう。明後日も。毎日。
この窯で。この土地で。この人たちのために。
——あの人のために。
リゼットは石窯に手を触れた。まだ温かい。手のひらに、石の熱が伝わってくる。
帰ってきた。
いいえ——違う。
ここが、最初から——わたしの場所だった。
リゼットの口元が——ほころんだ。
品評会の時にセドリックが言いかけた「頼み」のことを——ふと、思い出した。帰ってからでいい、と言った。帰ってきた。でも——まだ、言わない。
何を頼みたいのだろう。
想像すると——胸の奥が、きゅっと鳴る。
でも、急がない。急がなくていい。
この人は——不器用だから。
きっと、言葉を選んでいる。ずっと。あの短い言葉の中に、全部を込められるように——ずっと、選んでいる。
待とう。この工房で、菓子を焼きながら。
窓の外で、風が鳴った。北の風。辺境の風。
甘い匂いを——まだ、運んでいる。