朝の厨房に、バターの焦げる匂いが満ちていた。
まだ空が白みきらない時刻。石窯の火が橙色に揺れている。リゼットは生地の表面に刷毛で蜂蜜を塗りながら、窯の温度を肌で読んでいた。
あと少し——もう半刻だけ、火を落とす。
辺境に菓子工房が開いて、三週間が経とうとしていた。
品評会の優勝から戻って以来、リゼットの日常は忙しく、そして穏やかに回り始めている。午前中は工房で村人や冒険者に菓子を売り、午後は翌日の仕込みと試作に費やす。木の実タルトが看板商品として定着し、高原りんごのコンポートも評判がいい。
けれど——リゼットにとって、一日の中で最も大切な時間は、別にあった。
朝いちばんに焼く、たったひとつの菓子。
セドリック専用の、日替わり菓子。
誰に頼まれたわけでもない。約束したわけでもない。ただ、いつからか——工房に火を入れる前に、まずセドリックのための一品を焼くのが、リゼットの日課になっていた。
今朝は、黒胡桃のフィナンシェ。
焦がしバターの香りと、焙煎した黒胡桃の深い風味。セドリックは木の実の菓子を好む——好む、というより、木の実の風味に一番反応する。舌の奥で何かが弾けるように、表情がほんのわずかだけ変わる。
それを見たくて——焼いている。
リゼットは窯の中を覗き込んだ。焼き色が均一に入っている。あと数秒。鼻先にかすかなカラメルの香りが立ち上った瞬間——引き出した。
完璧。
焼きたてのフィナンシェを白い皿に載せ、霜花蜜をひと匙だけ添える。その皿を持って、工房の裏手に回った。
セドリックは、いつも同じ場所にいた。
工房の裏にある古い石段。辺境伯の館から北の見回りに出る途中で、ここに腰を下ろす。朝日が山の稜線から差し込む、静かな場所。
今朝も——いた。
灰銀色の髪に、薄い朝の光が当たっている。質素な革鎧。左頬の傷跡。大きな体を石段に収めて、腕を組んで——待っている。
待って、いる。
リゼットは足音を立てて近づいた。気配に気づいたセドリックが、こちらを見た。青灰色の目が、リゼットの手にある皿を——見た。
「おはようございます」
「……ああ」
短い挨拶。いつもの、ぶっきらぼうな声。でも——座ったまま動かない。逃げも、断りもしない。ただ、リゼットが隣に座るのを、待っている。
最初の頃は違った。
一週間前、リゼットが初めて朝の菓子を持っていったとき、セドリックは「要らん」と言った。二日目も同じだった。三日目は何も言わなかったが、皿を受け取らなかった。
四日目。
リゼットが皿を石段に置いて立ち去ると——戻ったときには、皿が空になっていた。
五日目から、セドリックは黙って皿を受け取るようになった。
七日目に、初めて「……悪くない」と言った。
それだけで——リゼットの一日は、十分だった。
「今日は黒胡桃のフィナンシェです。焦がしバターを少し強めに入れました」
皿を差し出す。セドリックの大きな手が、受け取った。
剣だこのある指がフィナンシェをつまむ。口に運ぶ。咀嚼。
リゼットは——見ていた。見ないふりをしながら、横目で。
一口目。眉がわずかに動いた。
二口目。咀嚼がゆっくりになった。味を確かめるように。舌の上で転がすように。
三口目で——飲み込んだ。
沈黙。
朝の風が二人の間を通り抜けた。晩秋の冷たい空気に、焦がしバターの残り香が混じっている。
「……胡桃の焙煎が深い」
ぽつり、と。
リゼットの心臓が跳ねた。
味の感想だ。セドリックが——味の、感想を言った。焙煎の深さを感じ取っている。あの、何も味がしないと言っていた人が。
「分かりますか?」
「ああ。苦みの奥に、甘さがある」
リゼットは——息を止めそうになった。
苦みの、奥の、甘さ。
それは焦がしバターのカラメル化が黒胡桃の渋みと合わさったときに生まれる、繊細な風味だ。菓子師でも注意しないと見逃す。それをセドリックの舌が拾っている。
「……すごい」
「何が」
「いえ——なんでもありません」
嬉しかった。嬉しくて、目が熱くなりそうで、慌てて空を見上げた。
秋の朝空が、高い。
夕刻。工房の片づけを終えたリゼットが、マリーの宿屋に顔を出すと、マリーがカウンターの向こうでにやにやしていた。
「リゼ、今朝も焼いてたね。あの焦がしバターの匂い、宿屋まで届いてたよ」
「……聞こえてました?」
「匂いだよ、匂い。風に乗って来るのさ。で、セドの反応は?」
リゼットは頬が熱くなるのを感じた。マリーさんには——全部、見透かされている。
「ち、ちゃんと食べてくれました」
「そりゃそうさ。毎朝欠かさず石段にいるんだから、あの男」
マリーが腰に手を当てて、大きな声で笑った。
「北の見回りの出発時刻、三十分も早めたんだよ、あいつ。リゼの菓子を食べる時間を作るためにさ」
「えっ——」
知らなかった。
セドリックが出発時刻を変えていたなんて。あの無愛想な人が、菓子を待つために——朝の予定を、変えていた。
「ま、本人に言ったらまた『偶然だ』とか言うだろうけどね」
マリーがウインクする。
リゼットは——返す言葉が見つからなかった。胸の奥がじんわりと温かくて、その温かさの正体を、まだ直視できずにいた。
その日の夕暮れ。
リゼットは工房に残って、翌日の試作をしていた。明日はりんごと蜂蜜の焼き菓子にしよう。高原りんごを薄く切って、霜花蜜に漬けて、それをバター生地で包んで——
「リゼット」
声に、振り返った。
工房の入口に、セドリックが立っていた。
夕日を背にしている。逆光で表情が見えない。大きな影が、工房の床に長く伸びている。
「セドリック。おかえりなさい。見回り、お疲れさまです」
「……ああ」
セドリックが工房に入ってきた。革鎧に夕方の冷気が染みついている。左頬の傷跡に、窯の火の光が揺れた。
作業台の上に並んだ試作品を見ている。りんごの薄切り。霜花蜜の瓶。バターの塊。それから——奥に置いてある、明日の朝用に仕込んだ生地。
「明日の分か」
「はい。りんごとお蜂蜜の焼き菓子です。まだ試作段階ですけど」
セドリックが——足を止めた。
作業台の傍に立って、腕を組んだ。いつもの姿勢。でも、何かを——言おうとしている。口を開きかけて、閉じて、また開きかけて。
リゼットは粉のついた手をエプロンで拭いた。待った。急かさずに。
「……リゼット」
「はい」
「最近——」
言葉が、途切れた。
セドリックの視線が、窯の火に向いた。橙色の炎が、青灰色の瞳に映っている。
「最近、何を食っても味がする」
静かな声だった。
リゼットは——息を飲んだ。
「何を食っても——味が?」
「ああ。パンの味がする。肉の味がする。芋の味が分かる。塩の、加減が分かる」
一つ一つ、確認するように。噛みしめるように。長い沈黙を挟みながら、セドリックが言葉を紡いだ。
三年間——味を失っていた人の声。
パンの味。肉の味。芋の味。塩の加減。そんな当たり前のことが、この人には三年間、なかった。食事が作業で、栄養の補給でしかなかった。味のない世界を、三年間——
「セドリック……」
「いつからだかは、分からん。気づいたら——そうなっていた」
腕を組んだまま、窯の火を見ている。炎の音が、二人の間を埋めていた。
リゼットの目が——潤んだ。
嬉しかった。とてつもなく。この人が味を取り戻した。世界に味が——色が——戻ったんだ。
「よかった……」
声が震えた。
「本当に、よかったです」
セドリックが——リゼットを見た。
夕日と窯の火が混じった光の中で。青灰色の目が、まっすぐに。
「だが——」
声が、低くなった。
何かを告げる前の——あの、緊張を含んだ声。品評会の帰り道、馬車の中で「頼みがある」と言いかけたときと、同じ声。
「リゼットの作るものが——一番、分かる」
リゼットの心臓が——止まった。
一拍。二拍。止まって——再び動き出したとき、鼓動が速すぎて、耳の奥で血が鳴っていた。
「……一番」
「ああ。パンも肉も味がするようになった。だが——リゼットの菓子を食べるときが、一番はっきり分かる」
セドリックの声が——かすかに、揺れた。
「甘さも、苦みも、酸味も。焼き加減も、素材の質も。全部——リゼットの菓子が、一番鮮やかに分かる」
リゼットは——動けなかった。
エプロンを握りしめた手が、震えている。粉がついた指先が白くなるほど。
一番分かる。
この人の舌が——この人の世界が——わたしの菓子を、一番鮮やかに感じている。
三年間、味のなかった世界に。色のなかった食卓に。わたしの菓子が——一番明るく、灯っている。
それは——
それは、どういう意味か。
リゼットの菓子師としての頭は、分析しようとした。味覚の回復と感情の結びつき。繰り返し食べることで舌が記憶する味の蓄積。馴染みの素材が味覚の再構築を助ける可能性——
でも。
菓子師の頭ではなくて。ただの、十八歳の女の子として。
分かっていた。
この人が言っていることの——重み。
「リゼットの作るものが、一番うまい」
セドリックが——目を逸らした。
窯の火から視線を外して、工房の壁を見た。入口の方を見た。どこでもいい、リゼットの目以外のどこかを見ようとした。
耳が——赤い。
あの革鎧に覆われていない、耳のふちが。夕日のせいじゃない赤さで——染まっている。
リゼットは唇を噛んだ。泣きそうだった。笑いそうでもあった。胸の奥で熱いものが渦を巻いて、どう表現すればいいのか分からなかった。
「……ありがとう、ございます」
やっと出た声は、かすれていた。
「そう言ってもらえるのが——菓子師として、一番嬉しいです」
嘘だ。
菓子師としてだけじゃない。でも——それ以上は、言えなかった。
セドリックが——こちらを見た。
一瞬だけ。青灰色の目が、夕暮れの光の中で——柔らかくなった。
「リゼット」
「はい」
「俺は——」
口を開いた。何かを——言おうとした。唇が動いて、息を吸い込んで——
長い、沈黙。
窯の火がぱちりと音を立てた。薪がはぜる小さな音。それだけが、工房に響いていた。
「……いや」
セドリックが——目を伏せた。
唇を結んだ。言葉を飲み込むように。喉が一度動いて、拳が腿の上で——握られた。
「……また、明日」
それだけ言って。
身を翻した。革鎧が夕日の中で揺れて、大きな背中が工房の入口に消えていく。
リゼットは——追いかけられなかった。
足が動かなかった。胸が痛くて。嬉しくて。切なくて。この三つが同時に来ると、人は動けなくなるのだと、知った。
俺は——なんだったんだろう。
何を言いかけたんだろう。
あの、馬車の中の「頼みがある」と——同じものだろうか。
片づけの手が止まらなかった。
りんごの薄切りを霜花蜜に漬ける。バター生地をこねる。明日の朝、石段に座っているあの人に——一番おいしいものを。
一番、分かるのだと言ってくれた人に。
「あら、まだいたの」
マリーが工房に顔を出した。手に提灯を持っている。もう外は暗い。
「マリーさん。すみません、つい——」
「仕込みは明日でもいいだろうに。……あ、その顔。何かあったね」
リゼットは——隠せなかった。顔に出ているのが自分でも分かった。
「セドリックが……味覚が、戻ってきたって」
「あ、やっぱり」
マリーが、あっさり言った。
「気づいてたよ。最近、食堂で出す飯に文句言うようになったから」
「文句……?」
「『塩が多い』だの『芋が煮崩れてる』だの。三年間一度も言わなかったのにさ。——味が分かるようになった証拠だよ」
マリーがにっと笑った。
「で、それだけじゃないんだろ? その顔は」
リゼットは——俯いた。
エプロンの裾を、ぎゅっと握った。
「……わたしの菓子が、一番分かるって」
マリーが——黙った。
一瞬の沈黙。それから、深い深い溜息が聞こえた。
「はぁー……あの朴念仁が。そこまで言っといて、まだ肝心なこと言ってないんだろ」
「肝心なこと——?」
「あんたも大概だよ、リゼ」
マリーが呆れたように笑って、提灯をカウンターに置いた。
「いいかい。味覚を三年間失ってた男が、『リゼットの作るものが一番分かる』って言ったんだ。それがどういう意味か、菓子師じゃなくたって分かるよ」
リゼットの頬が——燃えた。
分かっている。分かっていた。だから胸が痛いのだ。だから嬉しいのだ。だから——怖いのだ。
「セドの頼みってやつ、まだ言ってないんだろ?」
「……はい」
「あの男のことだから、自分から言うのにあと半年かかるね。冬が終わるまで黙ってそう」
マリーがやれやれと首を振った。
「ま、あんたたちのことだ。あたしがどうこう言うもんじゃないさ。——でもね、リゼ」
提灯を持ち直して、入口に向かいながら。
「あんたの菓子が一番分かるってのは——あんたが一番大事だってことだよ。あの不器用な男の言い方でね」
扉が閉まった。
工房に、一人。
窯の残り火が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。りんごの甘い匂いと、焦がしバターの名残と、霜花蜜の透き通った香り。
リゼットは作業台に両手をついて——目を閉じた。
一番分かる。
一番大事。
明日の朝。いつもの石段で。いつもの時間に。あの人が待っている。
何を焼こう。
りんごと蜂蜜の焼き菓子。薄く切ったりんごを霜花蜜に漬けて、バター生地で包んで、石窯でじっくりと——
一番おいしく。この人に一番伝わるように。
リゼットは目を開けた。
エプロンの紐を結び直した。
まだ、仕込みの途中だった。