S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第36話: 弟子

第4アーク · 5,835文字 · draft

朝の仕込みを終えて、カウンターを拭いていた時だった。

工房の扉の前に——影があった。

小さな影。大人の半分ほどの背丈。扉を開けるでもなく、覗き込むでもなく、ただ——じっと、立っている。

リゼットは布巾を置いて、扉を開けた。

「いらっしゃい——」

少女だった。

十二、三歳くらい。栗色の髪を無造作にひとつに結んで、頬が冷たい風で赤く染まっている。服は継ぎ()ぎだらけの毛織物。足元は擦り切れた革の靴。辺境の子どもだ。

琥珀色の——いや、薄い茶色の目が、まっすぐにリゼットを見上げていた。

「あの」

小さな声。でも——震えていなかった。

「あたし——ここで、おかし作りを、おしえてほしいです」


少女の名は、フィーネといった。

村の外れに住む猟師の娘。母は三年前の冬に亡くなって、父と二人暮らし。兄弟はいない。

マリーさんの宿屋の手伝いを時々しているらしい。皿洗いや薪運び。その対価に、夕飯の残りを分けてもらっている。

「フィーネちゃん——菓子を作りたいの?」

工房の椅子に座らせて、温めた山羊乳を出した。フィーネは両手で器を包んで、ふーふーと息を吹きかけている。

「はい」

「どうして?」

フィーネが——山羊乳の器を見つめた。湯気が立ち上って、薄い茶色の目に白い霧がかかる。

「おかあが——いたとき。いちど、はちみつをなめさせてくれた」

リゼットは黙って聞いた。

「あまかった。すごく。おかあの指についてた、はちみつ。世の中にこんなおいしいものがあるんだって、おもった」

フィーネの声は淡々としていた。辺境の子どもは、感情を大袈裟に見せない。でも——器を持つ指が、きゅっと白くなっていた。

「リゼットさんが来て——おかし、ってものをはじめてたべた。収穫祭の、たるとを」

木の実タルト。あの収穫祭で、村人たちに配った一切れ。

「はちみつよりも、あまかった。あたたかくて、口の中がいっぱいになって——」

フィーネが——顔を上げた。

「あたしも、あれを作りたい。だれかに、たべさせたい」

リゼットの胸の奥が——じん、と震えた。

誰かに食べさせたい。

あの木の実タルトの味を。あの温かさを。

それは——リゼットが菓子を作り始めた理由と、同じだった。母が作ってくれた素朴な焼き菓子の味。あの甘さを、自分の手で再現したいと思った日のことを——覚えている。

「フィーネちゃん。文字は——読める?」

「……ううん。読めない」

恥ずかしそうに、俯いた。辺境の識字率は低い。猟師の家なら尚更だ。読み書きができるのは辺境伯の家と一部の商人くらいで、村の大人でも自分の名前を書けない人がいる。

「大丈夫」

リゼットは——笑った。

「文字が読めなくても、菓子は作れる」

フィーネの目が——大きくなった。

「手が覚えるから。生地の柔らかさも、焼き加減も、甘さも。全部——手が、教えてくれる」

リゼットは自分の指先を見せた。いくつもの小さな火傷跡。菓子師の勲章。

「わたしが口で教える。フィーネちゃんが手で覚える。それが——辺境の菓子教室」

フィーネの薄い茶色の目が——潤んだ。

ぐしっと袖で目を拭って——大きく、頷いた。


最初に作るのは、基本のクッキーにした。

小麦粉、バター、卵、霜花蜜。四つの素材だけ。辺境で手に入るもの。シンプルで、失敗しにくくて、でも——素材の扱いの基本がすべて詰まっている。

「まず、バターを柔らかくするの。指で押して、耳たぶくらいの硬さになるまで」

「耳たぶ——?」

「こう」

リゼットがバターの塊を木のボウルに入れて、指で押した。冬が近い辺境のバターは硬い。石窯の近くに置いて温度を上げてやる。

「触ってみて」

フィーネが恐る恐る指を伸ばした。バターに触れた。

「……やわらかい」

「うん。これくらいが丁度いい。指が沈み込む感覚を——手に覚えさせて」

フィーネが何度もバターを押した。真剣な顔で。小さな指が、何かを確かめるように。

「次は——霜花蜜を混ぜる」

透明な蜂蜜をバターに加える。木のへらでゆっくりと混ぜる。白いバターに琥珀色の蜜が溶けて——淡いクリーム色に変わっていく。

「リゼットさん、きれい……」

「でしょう? バターと蜂蜜が馴染むと、この色になるの。この色が見えたら、次に進んでいい合図」

「色で、わかるんだ」

「うん。文字じゃなくて——色と、匂いと、手触りで覚える。菓子は五感で作るものだから」

フィーネが——小さく頷いた。へらを握り直した。


卵を割るのに三回失敗した。

一個目は殻が粉々になって生地に入った。二個目は力が足りなくて割れなかった。三個目は中身が手の上に滑り落ちた。

「あ——ごめんなさい!」

「大丈夫」

リゼットは笑った。

「わたしも最初はそうだった。卵は——コツがあるの。角にぶつけるんじゃなくて、平らなところで。こう」

とん、と軽く台にぶつける。ひびが入る。両手の親指を入れて——ぱかり。きれいに割れた。

「やってみて」

四個目。フィーネが台の上でとんと叩いた。ひびが——入った。指を入れて、開く。

黄身が——つるんと、殻の中から生地の上に落ちた。

「できた!」

フィーネの目が輝いた。丸い目がさらに丸くなって、頬が紅潮して、唇が弧を描いて——初めて見る、満面の笑顔。

「できたよ、リゼットさん!」

「うん。上手」

リゼットの胸が——じわっと温かくなった。

自分がマリーさんの厨房で初めて霜花蜜を扱った日のことを思い出した。うまくいかなくて、焦がして、泣きそうになって——でも、できた瞬間の喜びは、何にも代えがたかった。

今、同じ顔を——目の前の少女がしている。

教えることは、作ることとは違う喜びだった。


生地を丸めて、薄く伸ばして、型で抜く。

型がないから、茶碗の縁を使った。きれいな円にはならない。少しいびつで、大きさもばらばらで。

「ゆがんでる……」

「大丈夫。味は変わらない。形は——回数を重ねれば整ってくるから」

天板に並べた。十二枚。大小さまざまの、いびつな円。

「石窯の温度は、手で確かめるの」

リゼットが窯口に手をかざした。

「三つ数えて熱ければ丁度いい。五つ数えてもまだ平気なら——もう少し薪を足す」

「手で——」

「手で。道具がなくても、これだけは嘘をつかないから」

フィーネが真似をした。小さな手を窯口にかざす。

「……いち、に、さん。あつい!」

「うん。入れよう」

二人で天板を窯に滑り込ませた。

あとは——待つだけ。

「匂いが変わったら、焼き上がりの合図」

「匂いで?」

「最初は小麦粉の生っぽい匂い。それがだんだんバターの香りに変わって——蜂蜜の甘い匂いがしたら、もう少し。焦げる寸前の、きつね色の匂いがしたら——出す」

フィーネが鼻をひくひくさせた。窯の前にしゃがみ込んで、真剣な顔で——匂いを嗅いでいる。

リゼットは——その横顔を見ていた。

猟師の娘。文字が読めない。甘いものは、母に舐めさせてもらった蜂蜜しか知らなかった。

それでも——菓子を作りたいと、頭を下げに来た。

誰かに食べさせたいと言った。

この子のなかに——芽がある。

「リゼットさん! 匂い、変わった!」

フィーネが立ち上がった。目がきらきらしている。

「あまい匂い! はちみつの!」

リゼットも鼻を寄せた。——確かに。霜花蜜の、花のような甘い香りが立ち上っている。

もう少し。あと——ほんの少し。

「……今」

天板を引き出した。

きつね色の——クッキーが、並んでいた。

いびつな円。大きさはばらばら。焼き色も均一ではない。端の方が少し濃い。

でも——甘い匂いが、工房いっぱいに広がっていた。

フィーネが——息を止めていた。

「……これ、あたしが作ったの?」

「フィーネちゃんが作ったの」

「あたしが?」

「うん。わたしは教えただけ。手を動かしたのは、フィーネちゃん」

フィーネの目から——涙がぽろりとこぼれた。

袖で拭おうとして——手がバターと粉だらけなのに気づいて——拭えなくて——そのまま、泣いた。

「食べてみて」

リゼットが一枚取って、フィーネの手に載せた。

フィーネが(かじ)った。

さく、と軽い音。

咀嚼(そしゃく)。一回。二回。三回——

「あまい」

涙のまま——笑った。

「あまい。おかあのはちみつよりも——あたたかい」


昼過ぎ。マリーが宿屋から顔を出した。

「何の匂い? いつもと違うよね、今日」

「クッキーです。基本のバタークッキー。——弟子と一緒に焼きました」

「弟子?」

マリーが目を丸くして、工房を覗き込んだ。カウンターの奥で、フィーネが天板を丁寧に拭いている。小さな手で、一枚一枚。

「あら、フィーネじゃないの。あんた、ここで菓子を習ってるの?」

「はい、マリーさん。あたし、リゼットさんのでしになりました」

「弟子——」

マリーがリゼットの方を振り返った。茶色い目が——にやっと笑っている。

「リゼ、あんたも師匠になったか」

「師匠なんて、そんな大げさな——」

「大げさじゃないよ。宮廷菓子師が辺境の子に菓子を教えてるんだ。これ、すごいことだよ」

マリーがクッキーを一枚つまんだ。齧った。

「——うん。素朴でいい味。ちょっと焼きが甘いけど、それもまた良し」

「分かります? 端の方はもう少し時間が——」

「そうじゃなくて。この味に——この子の一生懸命が入ってるって話さ」

マリーがフィーネの頭をぽんと撫でた。フィーネが照れたように俯く。

「ねえリゼ。うちの宿屋の菓子メニュー、そろそろ増やさない? 泊り客にお茶請けで出してるタルトが好評でさ。クッキーも加えたいんだよね」

「いいですよ。フィーネちゃんの修業にもなりますし」

「決まりだね。——あ、そうだ。今朝来た商人がね、『辺境の宿で手作り菓子が出るなんて初めてだ』って感動してたよ。あんたの菓子がうちの看板になりつつあるんだ、リゼ」

マリーの宿屋に、菓子メニューが加わる。

一年前、甘味の文化がほとんど存在しなかった辺境に——菓子が、根付き始めている。


夕方。

フィーネが残りのクッキーを布に包んで、大事そうに抱えた。

「おとうに、もっていく」

「うん。きっと喜ぶよ」

「あしたも——来ていい?」

「毎日おいで。朝の仕込みから」

フィーネが——ぱっと顔を輝かせた。

「ありがとう、リゼットさん!」

駆けていった。小さな背中。継ぎ接ぎの服。布に包んだクッキーを胸に抱えて。

リゼットはその後ろ姿を見送って——胸の奥が、じんわりと温かかった。

「……弟子、か」

声が——背後から聞こえた。

振り返った。

工房の入り口に——セドリックが立っていた。壁に背を預けて、腕を組んでいる。いつから、いたのだろう。

「セドリック。見回りは——」

「終わった。通りがかっただけだ」

嘘だ。工房は南側で、北の見回りの帰り道からは外れている。——もう、指摘しないけれど。

「……小さいな」

「フィーネちゃんですか? 十二歳です」

「十二か」

セドリックの青灰色の目が——フィーネが駆けていった方向を見ていた。

「……あの歳でもう、働いてるのか」

「辺境では珍しくないんですよね。でも——菓子を作りたいって自分から来たんです。教えてほしいって、頭を下げに」

セドリックが——黙った。

腕を組み直して、視線を落として。何かを考えている。

「……あの子、猟師のヨルクの娘だな」

「知ってるんですか?」

「ヨルクは腕のいい猟師だ。だが——女房を亡くしてから、冬の備蓄が苦しい」

領主の目だった。民の暮らしを一人ひとり把握している——辺境伯の目。

「あの子に、菓子を教えるのか」

「はい。文字は読めないけれど——手が覚えるから」

セドリックが——リゼットを見た。

夕日が工房の窓から差し込んで、二人の間に橙色の光を落としている。

「……いい匂いがした」

「え?」

「さっき、通りがかった時に。いつもと違う——甘い匂いが」

クッキーの匂いだ。フィーネと一緒に焼いた、いびつなバタークッキーの。

「セドリックも——食べますか?」

「…………」

沈黙は——肯定だった。

リゼットはクッキーを二枚、小皿に載せた。一枚は形がきれいなもの。もう一枚は、フィーネが最初に型を抜いた、一番いびつなもの。

セドリックが——いびつな方を、先に手に取った。

齧った。

さく、と音がした。咀嚼がゆっくりになった。あの——味を確かめる顔。

「……素朴だな」

「はい」

「だが——悪くない」

セドリックの口元が——ほんのわずかに、緩んだ。

「弟子が焼いたやつか」

「はい。フィーネちゃんが自分の手で」

「……そうか」

二枚目も食べた。こちらはリゼットが型を抜いた方。

「……こっちの方がうまいな」

「当たり前です。わたしは菓子師ですから」

「ああ。だがあっちの方が——」

セドリックが言葉を切った。

いびつなクッキーがあった方の皿を見て。

「——あっちの方が、いい顔で食える」

リゼットは——ぱちりと目を瞬いた。

いい顔で、食える。

上手いとか下手とかじゃなくて。味の完成度じゃなくて。誰かが一生懸命に作ったものを食べるときの、あの——温かさ。

この人は、それを「いい顔で食える」と言ったのだ。

「……ふふ」

「何だ」

「いえ。——明日もフィーネちゃんと焼きますから、また通りがかってください」

「……通りがかるかは分からん」

「通りがかりますよ。工房は南ですけど」

セドリックが——そっぽを向いた。耳が赤い。

扉に向かう。大きな背中。夕日を受けて、灰銀色の髪が金色に光っている。

「……リゼット」

「はい」

「あの子に——ちゃんと食わせてやれ。猟師の家は冬が厳しい」

背中のまま——言った。

領主の言葉であり、同時に——この人自身の、不器用な優しさだった。

「はい。任せてください」

扉が閉まった。

一人になった工房で、リゼットは作業台を見つめた。フィーネが使ったボウル。粉が飛び散った台。卵の殻が三つ分。

——明日は、卵の割り方をもう一度練習しよう。

リゼットはエプロンの粉を払った。

窯の残り火が温かい。フィーネが焼いたクッキーの甘い匂いが、まだ工房に残っている。

弟子ができた。この辺境に、菓子を作る手が——もうひとつ、増えた。

ふと、思った。

毎朝セドリックに焼いている日替わり菓子。いつか——フィーネが、あれを焼けるようになる日が来るのだろうか。

いや——それは困る。あれだけは、自分で焼きたい。あの人のための朝の一品だけは——

頬が熱くなった。慌てて首を振った。

窓の外では、冬の気配を含んだ風が吹いていた。白霜の森の梢がざわざわと揺れている。もうすぐ初霜が降りる季節だ。

明日の朝も、石窯に火を入れよう。

フィーネに教える基本のクッキーと——セドリックのための、日替わり菓子と。

二人分の仕込みは、少しだけ忙しくなる。

でも——不思議と、嬉しかった。

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