朝の仕込みを終えて、カウンターを拭いていた時だった。
工房の扉の前に——影があった。
小さな影。大人の半分ほどの背丈。扉を開けるでもなく、覗き込むでもなく、ただ——じっと、立っている。
リゼットは布巾を置いて、扉を開けた。
「いらっしゃい——」
少女だった。
十二、三歳くらい。栗色の髪を無造作にひとつに結んで、頬が冷たい風で赤く染まっている。服は継ぎ接ぎだらけの毛織物。足元は擦り切れた革の靴。辺境の子どもだ。
琥珀色の——いや、薄い茶色の目が、まっすぐにリゼットを見上げていた。
「あの」
小さな声。でも——震えていなかった。
「あたし——ここで、おかし作りを、おしえてほしいです」
少女の名は、フィーネといった。
村の外れに住む猟師の娘。母は三年前の冬に亡くなって、父と二人暮らし。兄弟はいない。
マリーさんの宿屋の手伝いを時々しているらしい。皿洗いや薪運び。その対価に、夕飯の残りを分けてもらっている。
「フィーネちゃん——菓子を作りたいの?」
工房の椅子に座らせて、温めた山羊乳を出した。フィーネは両手で器を包んで、ふーふーと息を吹きかけている。
「はい」
「どうして?」
フィーネが——山羊乳の器を見つめた。湯気が立ち上って、薄い茶色の目に白い霧がかかる。
「おかあが——いたとき。いちど、はちみつをなめさせてくれた」
リゼットは黙って聞いた。
「あまかった。すごく。おかあの指についてた、はちみつ。世の中にこんなおいしいものがあるんだって、おもった」
フィーネの声は淡々としていた。辺境の子どもは、感情を大袈裟に見せない。でも——器を持つ指が、きゅっと白くなっていた。
「リゼットさんが来て——おかし、ってものをはじめてたべた。収穫祭の、たるとを」
木の実タルト。あの収穫祭で、村人たちに配った一切れ。
「はちみつよりも、あまかった。あたたかくて、口の中がいっぱいになって——」
フィーネが——顔を上げた。
「あたしも、あれを作りたい。だれかに、たべさせたい」
リゼットの胸の奥が——じん、と震えた。
誰かに食べさせたい。
あの木の実タルトの味を。あの温かさを。
それは——リゼットが菓子を作り始めた理由と、同じだった。母が作ってくれた素朴な焼き菓子の味。あの甘さを、自分の手で再現したいと思った日のことを——覚えている。
「フィーネちゃん。文字は——読める?」
「……ううん。読めない」
恥ずかしそうに、俯いた。辺境の識字率は低い。猟師の家なら尚更だ。読み書きができるのは辺境伯の家と一部の商人くらいで、村の大人でも自分の名前を書けない人がいる。
「大丈夫」
リゼットは——笑った。
「文字が読めなくても、菓子は作れる」
フィーネの目が——大きくなった。
「手が覚えるから。生地の柔らかさも、焼き加減も、甘さも。全部——手が、教えてくれる」
リゼットは自分の指先を見せた。いくつもの小さな火傷跡。菓子師の勲章。
「わたしが口で教える。フィーネちゃんが手で覚える。それが——辺境の菓子教室」
フィーネの薄い茶色の目が——潤んだ。
ぐしっと袖で目を拭って——大きく、頷いた。
最初に作るのは、基本のクッキーにした。
小麦粉、バター、卵、霜花蜜。四つの素材だけ。辺境で手に入るもの。シンプルで、失敗しにくくて、でも——素材の扱いの基本がすべて詰まっている。
「まず、バターを柔らかくするの。指で押して、耳たぶくらいの硬さになるまで」
「耳たぶ——?」
「こう」
リゼットがバターの塊を木のボウルに入れて、指で押した。冬が近い辺境のバターは硬い。石窯の近くに置いて温度を上げてやる。
「触ってみて」
フィーネが恐る恐る指を伸ばした。バターに触れた。
「……やわらかい」
「うん。これくらいが丁度いい。指が沈み込む感覚を——手に覚えさせて」
フィーネが何度もバターを押した。真剣な顔で。小さな指が、何かを確かめるように。
「次は——霜花蜜を混ぜる」
透明な蜂蜜をバターに加える。木のへらでゆっくりと混ぜる。白いバターに琥珀色の蜜が溶けて——淡いクリーム色に変わっていく。
「リゼットさん、きれい……」
「でしょう? バターと蜂蜜が馴染むと、この色になるの。この色が見えたら、次に進んでいい合図」
「色で、わかるんだ」
「うん。文字じゃなくて——色と、匂いと、手触りで覚える。菓子は五感で作るものだから」
フィーネが——小さく頷いた。へらを握り直した。
卵を割るのに三回失敗した。
一個目は殻が粉々になって生地に入った。二個目は力が足りなくて割れなかった。三個目は中身が手の上に滑り落ちた。
「あ——ごめんなさい!」
「大丈夫」
リゼットは笑った。
「わたしも最初はそうだった。卵は——コツがあるの。角にぶつけるんじゃなくて、平らなところで。こう」
とん、と軽く台にぶつける。ひびが入る。両手の親指を入れて——ぱかり。きれいに割れた。
「やってみて」
四個目。フィーネが台の上でとんと叩いた。ひびが——入った。指を入れて、開く。
黄身が——つるんと、殻の中から生地の上に落ちた。
「できた!」
フィーネの目が輝いた。丸い目がさらに丸くなって、頬が紅潮して、唇が弧を描いて——初めて見る、満面の笑顔。
「できたよ、リゼットさん!」
「うん。上手」
リゼットの胸が——じわっと温かくなった。
自分がマリーさんの厨房で初めて霜花蜜を扱った日のことを思い出した。うまくいかなくて、焦がして、泣きそうになって——でも、できた瞬間の喜びは、何にも代えがたかった。
今、同じ顔を——目の前の少女がしている。
教えることは、作ることとは違う喜びだった。
生地を丸めて、薄く伸ばして、型で抜く。
型がないから、茶碗の縁を使った。きれいな円にはならない。少しいびつで、大きさもばらばらで。
「ゆがんでる……」
「大丈夫。味は変わらない。形は——回数を重ねれば整ってくるから」
天板に並べた。十二枚。大小さまざまの、いびつな円。
「石窯の温度は、手で確かめるの」
リゼットが窯口に手をかざした。
「三つ数えて熱ければ丁度いい。五つ数えてもまだ平気なら——もう少し薪を足す」
「手で——」
「手で。道具がなくても、これだけは嘘をつかないから」
フィーネが真似をした。小さな手を窯口にかざす。
「……いち、に、さん。あつい!」
「うん。入れよう」
二人で天板を窯に滑り込ませた。
あとは——待つだけ。
「匂いが変わったら、焼き上がりの合図」
「匂いで?」
「最初は小麦粉の生っぽい匂い。それがだんだんバターの香りに変わって——蜂蜜の甘い匂いがしたら、もう少し。焦げる寸前の、きつね色の匂いがしたら——出す」
フィーネが鼻をひくひくさせた。窯の前にしゃがみ込んで、真剣な顔で——匂いを嗅いでいる。
リゼットは——その横顔を見ていた。
猟師の娘。文字が読めない。甘いものは、母に舐めさせてもらった蜂蜜しか知らなかった。
それでも——菓子を作りたいと、頭を下げに来た。
誰かに食べさせたいと言った。
この子のなかに——芽がある。
「リゼットさん! 匂い、変わった!」
フィーネが立ち上がった。目がきらきらしている。
「あまい匂い! はちみつの!」
リゼットも鼻を寄せた。——確かに。霜花蜜の、花のような甘い香りが立ち上っている。
もう少し。あと——ほんの少し。
「……今」
天板を引き出した。
きつね色の——クッキーが、並んでいた。
いびつな円。大きさはばらばら。焼き色も均一ではない。端の方が少し濃い。
でも——甘い匂いが、工房いっぱいに広がっていた。
フィーネが——息を止めていた。
「……これ、あたしが作ったの?」
「フィーネちゃんが作ったの」
「あたしが?」
「うん。わたしは教えただけ。手を動かしたのは、フィーネちゃん」
フィーネの目から——涙がぽろりとこぼれた。
袖で拭おうとして——手がバターと粉だらけなのに気づいて——拭えなくて——そのまま、泣いた。
「食べてみて」
リゼットが一枚取って、フィーネの手に載せた。
フィーネが齧った。
さく、と軽い音。
咀嚼。一回。二回。三回——
「あまい」
涙のまま——笑った。
「あまい。おかあのはちみつよりも——あたたかい」
昼過ぎ。マリーが宿屋から顔を出した。
「何の匂い? いつもと違うよね、今日」
「クッキーです。基本のバタークッキー。——弟子と一緒に焼きました」
「弟子?」
マリーが目を丸くして、工房を覗き込んだ。カウンターの奥で、フィーネが天板を丁寧に拭いている。小さな手で、一枚一枚。
「あら、フィーネじゃないの。あんた、ここで菓子を習ってるの?」
「はい、マリーさん。あたし、リゼットさんのでしになりました」
「弟子——」
マリーがリゼットの方を振り返った。茶色い目が——にやっと笑っている。
「リゼ、あんたも師匠になったか」
「師匠なんて、そんな大げさな——」
「大げさじゃないよ。宮廷菓子師が辺境の子に菓子を教えてるんだ。これ、すごいことだよ」
マリーがクッキーを一枚つまんだ。齧った。
「——うん。素朴でいい味。ちょっと焼きが甘いけど、それもまた良し」
「分かります? 端の方はもう少し時間が——」
「そうじゃなくて。この味に——この子の一生懸命が入ってるって話さ」
マリーがフィーネの頭をぽんと撫でた。フィーネが照れたように俯く。
「ねえリゼ。うちの宿屋の菓子メニュー、そろそろ増やさない? 泊り客にお茶請けで出してるタルトが好評でさ。クッキーも加えたいんだよね」
「いいですよ。フィーネちゃんの修業にもなりますし」
「決まりだね。——あ、そうだ。今朝来た商人がね、『辺境の宿で手作り菓子が出るなんて初めてだ』って感動してたよ。あんたの菓子がうちの看板になりつつあるんだ、リゼ」
マリーの宿屋に、菓子メニューが加わる。
一年前、甘味の文化がほとんど存在しなかった辺境に——菓子が、根付き始めている。
夕方。
フィーネが残りのクッキーを布に包んで、大事そうに抱えた。
「おとうに、もっていく」
「うん。きっと喜ぶよ」
「あしたも——来ていい?」
「毎日おいで。朝の仕込みから」
フィーネが——ぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう、リゼットさん!」
駆けていった。小さな背中。継ぎ接ぎの服。布に包んだクッキーを胸に抱えて。
リゼットはその後ろ姿を見送って——胸の奥が、じんわりと温かかった。
「……弟子、か」
声が——背後から聞こえた。
振り返った。
工房の入り口に——セドリックが立っていた。壁に背を預けて、腕を組んでいる。いつから、いたのだろう。
「セドリック。見回りは——」
「終わった。通りがかっただけだ」
嘘だ。工房は南側で、北の見回りの帰り道からは外れている。——もう、指摘しないけれど。
「……小さいな」
「フィーネちゃんですか? 十二歳です」
「十二か」
セドリックの青灰色の目が——フィーネが駆けていった方向を見ていた。
「……あの歳でもう、働いてるのか」
「辺境では珍しくないんですよね。でも——菓子を作りたいって自分から来たんです。教えてほしいって、頭を下げに」
セドリックが——黙った。
腕を組み直して、視線を落として。何かを考えている。
「……あの子、猟師のヨルクの娘だな」
「知ってるんですか?」
「ヨルクは腕のいい猟師だ。だが——女房を亡くしてから、冬の備蓄が苦しい」
領主の目だった。民の暮らしを一人ひとり把握している——辺境伯の目。
「あの子に、菓子を教えるのか」
「はい。文字は読めないけれど——手が覚えるから」
セドリックが——リゼットを見た。
夕日が工房の窓から差し込んで、二人の間に橙色の光を落としている。
「……いい匂いがした」
「え?」
「さっき、通りがかった時に。いつもと違う——甘い匂いが」
クッキーの匂いだ。フィーネと一緒に焼いた、いびつなバタークッキーの。
「セドリックも——食べますか?」
「…………」
沈黙は——肯定だった。
リゼットはクッキーを二枚、小皿に載せた。一枚は形がきれいなもの。もう一枚は、フィーネが最初に型を抜いた、一番いびつなもの。
セドリックが——いびつな方を、先に手に取った。
齧った。
さく、と音がした。咀嚼がゆっくりになった。あの——味を確かめる顔。
「……素朴だな」
「はい」
「だが——悪くない」
セドリックの口元が——ほんのわずかに、緩んだ。
「弟子が焼いたやつか」
「はい。フィーネちゃんが自分の手で」
「……そうか」
二枚目も食べた。こちらはリゼットが型を抜いた方。
「……こっちの方がうまいな」
「当たり前です。わたしは菓子師ですから」
「ああ。だがあっちの方が——」
セドリックが言葉を切った。
いびつなクッキーがあった方の皿を見て。
「——あっちの方が、いい顔で食える」
リゼットは——ぱちりと目を瞬いた。
いい顔で、食える。
上手いとか下手とかじゃなくて。味の完成度じゃなくて。誰かが一生懸命に作ったものを食べるときの、あの——温かさ。
この人は、それを「いい顔で食える」と言ったのだ。
「……ふふ」
「何だ」
「いえ。——明日もフィーネちゃんと焼きますから、また通りがかってください」
「……通りがかるかは分からん」
「通りがかりますよ。工房は南ですけど」
セドリックが——そっぽを向いた。耳が赤い。
扉に向かう。大きな背中。夕日を受けて、灰銀色の髪が金色に光っている。
「……リゼット」
「はい」
「あの子に——ちゃんと食わせてやれ。猟師の家は冬が厳しい」
背中のまま——言った。
領主の言葉であり、同時に——この人自身の、不器用な優しさだった。
「はい。任せてください」
扉が閉まった。
一人になった工房で、リゼットは作業台を見つめた。フィーネが使ったボウル。粉が飛び散った台。卵の殻が三つ分。
——明日は、卵の割り方をもう一度練習しよう。
リゼットはエプロンの粉を払った。
窯の残り火が温かい。フィーネが焼いたクッキーの甘い匂いが、まだ工房に残っている。
弟子ができた。この辺境に、菓子を作る手が——もうひとつ、増えた。
ふと、思った。
毎朝セドリックに焼いている日替わり菓子。いつか——フィーネが、あれを焼けるようになる日が来るのだろうか。
いや——それは困る。あれだけは、自分で焼きたい。あの人のための朝の一品だけは——
頬が熱くなった。慌てて首を振った。
窓の外では、冬の気配を含んだ風が吹いていた。白霜の森の梢がざわざわと揺れている。もうすぐ初霜が降りる季節だ。
明日の朝も、石窯に火を入れよう。
フィーネに教える基本のクッキーと——セドリックのための、日替わり菓子と。
二人分の仕込みは、少しだけ忙しくなる。
でも——不思議と、嬉しかった。