二人分だ、と気づいたのは、生地を混ぜている最中だった。
まだ空が暗い。東の山の稜線がようやく紺色から群青に変わり始めたばかりの、冬の早朝。リゼットは石窯の前に立ち、ボウルの中で泡立て器を動かしながら——ふと、手を止めた。
卵を、二つ割っていた。
工房に火を入れるのは、いつも夜明け前だった。
辺境の冬の朝は暗くて寒い。吐く息が白く、指先がかじかんで、ボウルを持つ手がこわばる。それでも石窯に薪をくべて火を起こすと、工房はゆっくりと温まっていく。石の壁が熱を蓄えて、じんわりと部屋全体を暖めてくれる。
リゼットはエプロンの紐を結び直した。
今朝の仕事は、パンケーキ。
辺境の朝食は質素だ。黒パンと干し肉。山羊のチーズ。それが普通で、甘いものが朝の食卓に並ぶことなど——リゼットが来るまでは、なかった。
でも最近は違う。工房が開いてから、村の子どもたちが朝早くに窓の外に立って、甘い匂いを嗅ぎに来るようになった。パンケーキの朝には特に多い。焦がしバターと霜花蜜が混じった匂いは、辺境の冷たい空気の中で遠くまで届く。
小麦粉をふるう。卵を合わせる。牛乳を少しずつ加えて、なめらかな生地を作る。
分量は——二人分。
いつからだろう。
一人分を焼いて、残りを自分で食べていたのが。いつの間にか「自分の分」と「もう一枚」を焼くようになって。それが「二人分」になっていた。
もう一枚は——誰のためか。
分かっている。分かっていて、考えないようにしていた。
鉄の焼き板に、薄くバターを敷いた。
辺境のバターは山羊乳から作る。牛乳のバターよりも白くて、あっさりとしていて、でも加熱すると独特の甘い風味が出る。王都にいた頃は使ったことがなかった。辺境に来て初めて知った味。
バターが溶けて泡立ち始める。うっすらと焦げた匂いが立つ。
その匂いを嗅いだ瞬間——ここが好きだ、とリゼットは思った。
この工房が好きだ。この石窯が好きだ。この冷たい朝の空気が好きだ。ここで菓子を焼く、この時間が好きだ。
生地を流した。じゅう、と焼き板の上で生地が広がる。表面にぽつぽつと気泡が浮かんでくる。縁がほんのり色づいて——ここ。ひっくり返す。
きつね色の、丸い円。ふっくらと膨らんで、焦がしバターの香りをまとった、素朴なパンケーキ。
一枚焼けた。
白い皿に載せる。霜花蜜の瓶を棚から取った。とろりとした透明な蜂蜜を、パンケーキの上にひと匙。蜜が焼きたての熱で溶けて、表面をつやつやと光らせる。
もう一枚——。
鉄板にバターを敷く。生地を流す。焼く。ひっくり返す。皿に載せる。蜜をかける。
二枚。二皿。
並べて置いた。
工房の作業台の端。いつもの場所。窓から朝日が差し込む——ちょうど二人分の、あの場所に。
足音が聞こえた。
重い。規則的で、迷いのない歩調。革靴が霜柱を踏む、ざく、ざく、という音。
リゼットの心臓が——跳ねた。
跳ねた、ということに気づいて、慌てて目を逸らした。焼き板を洗うふりをした。もう洗い終わっているのに。
工房の扉が開いた。
冬の冷気と一緒に、大きな体が入ってくる。灰銀色の髪に朝露がついている。質素な革鎧。左頬の傷跡。北の見回りに出る前の——いつもの姿。
「……おはよう」
セドリックの声。低くて、短くて、ぶっきらぼうで——でも今朝は、少しだけ柔らかい。
「おはようございます」
リゼットは焼き板から顔を上げた。
セドリックはもう——作業台の端に向かっていた。何も言わずに。何も訊かずに。当たり前のように。
いつもの場所に——座った。
作業台の端。窓際。朝日が斜めに差し込む椅子。リゼットが三週間前に「ここに座りますか」と訊いて以来、セドリックはいつもこの椅子を選ぶ。もう——訊かなくても。
二枚の皿がある。セドリックの前に一枚。空いたもう一つの椅子の前に、もう一枚。
セドリックが——皿を見た。
パンケーキを見た。きつね色の表面にかかった霜花蜜を見た。それから——リゼットの方を、見た。
何も言わなかった。
リゼットも——何も言わなかった。
エプロンで手を拭いて、もう一つの椅子に座った。セドリックの——隣の椅子に。
向かい合わせではなく、隣。
最初は向かい合わせだった。でもいつからか、リゼットが隣に移った。向かい合うとセドリックの顔をまっすぐ見てしまって——食べにくそうだったから。隣なら、横目でちらりと見るだけで済む。
済む、はずだった。
セドリックがパンケーキを手で割った。
指先で——半分に。パンケーキの断面からほわりと湯気が立つ。きめ細かい生地の中に気泡がぽつぽつと開いて、霜花蜜が浸みている。
口に運んだ。
咀嚼。
リゼットは自分のパンケーキに目を落とした。蜜をもう少しかけようかと迷って、瓶に手を伸ばしかけて——やめた。
隣から、かすかな音が聞こえる。咀嚼の音。飲み込む音。
そしてまた——手が伸びる。残り半分に。
リゼットは自分のパンケーキをちぎった。口に入れた。
甘い。バターの風味と霜花蜜の透明な甘さが舌の上で溶ける。焼き加減は——うん、少し火が強かったかもしれない。表面がほんの一段だけ香ばしすぎる。次はもう少し火を落とそう。
沈黙。
でも——重くない沈黙だった。
朝の光が窓から差し込んで、作業台の上を薄い金色に染めている。石窯の残り火が低く爆ぜる。外から鳥の声がする。冬の小鳥の、細い声。
パンケーキを食べる音だけが——工房に響いていた。
「……バターの風味が出てる」
セドリックが、ぽつりと言った。
「あ——はい。今朝のバターは、昨日マリーさんが分けてくれた山羊のバターで。いつもより少し新しいので、風味が強いかもしれません」
「悪くない」
悪くない。セドリックの最上級の褒め言葉。
「ありがとうございます」
また、沈黙。
セドリックが皿の最後のひとかけを食べ終えた。指先についた霜花蜜を——ぎこちなく、指で拭った。
リゼットはそれを見ていた。見ないふりをしながら。
この人の指。剣だこのある、大きな指。その指が——わたしの焼いたパンケーキの蜜を拭っている。
胸の奥で、何かが——じわりと、灯った。
毎朝こうだった。
一月前から——ほぼ毎日。セドリックが北の見回りに出る前に、工房に来る。リゼットが焼いたものを食べる。短い感想を言うか、何も言わないか。そして出ていく。
それだけのことだった。
それだけのことが——リゼットの一日の軸になっていた。
朝、目が覚める。まだ暗い。寒い。布団から出たくない。でも——あの人が来る前に、焼かなきゃ。
その一念で、毎朝起きていた。
何を焼こうか、と前の晩に考える。フィナンシェの日。マドレーヌの日。黒胡桃のクッキーの日。高原りんごのコンポートを添えたトーストの日。そして——パンケーキの日。
パンケーキは最も簡素な菓子だった。材料は小麦粉、卵、牛乳、バター、蜂蜜。それだけ。技巧を凝らす余地はほとんどない。王都の宮廷菓子師なら鼻で笑うような、素朴の極み。
でも——セドリックの咀嚼が一番ゆっくりになるのは、パンケーキの朝だった。
もぐ、もぐ、と。味を確かめるように。生地の甘さと、バターの風味と、蜜の透明な甘さを——舌の上で、一つずつ分解するように。
その姿を横目で見るのが——リゼットの、朝の幸福だった。
セドリックが椅子から立った。
「……行く」
「はい。気をつけて」
いつものやりとり。一語一句変わらない。
セドリックが扉に向かう。背中。広い背中。革鎧の肩幅。腰に佩いた剣の柄が、朝日を受けて鈍く光る。
扉に手をかけた——その時。
「リゼット」
「はい」
振り返らなかった。扉に手をかけたまま。背中のまま。
「……明日も、焼くのか」
「はい。焼きます」
当たり前のことを訊いている。毎日焼いているのだから。明日も焼くに決まっている。
でもセドリックは——毎朝、同じことを訊く。
明日も焼くのか。
まるで確かめるように。まだここにいるのか、と——確かめるように。
「……そうか」
扉が開いた。冬の冷気が流れ込んだ。セドリックの背中が、朝の白い光の中に——消えた。
扉が閉まった。
工房に、一人。
セドリックが座っていた椅子に、まだぬくもりが残っている。空の皿。霜花蜜の瓶。朝の光。
リゼットは——空の皿を見つめていた。
そのとき、それは来た。
前触れもなく。心構えもなく。ただ——空の皿を見つめていた瞬間に、ふっと、落ちてきた。
ああ——わたし。
毎朝、この人に菓子を作りたい。
言葉にすると——それだけだった。
それだけのことが、胸の中で途方もなく大きかった。
菓子を作りたい。朝、目が覚めたら、この人のために火を起こして、生地をこねて、焼いて、皿に載せて、蜜をかけて——隣に座って、同じものを食べたい。
毎朝。
毎朝。ずっと。
これは——菓子師としての喜びだろうか。
違う。分かっている。菓子師なら、もっと多くの人に食べてもらいたいと思うはずだ。工房を訪れる村人や冒険者に出す菓子と、朝の二枚のパンケーキは——同じものではない。
村人に焼くときは「美味しく作ろう」と思う。
セドリックに焼くときは「美味しく作ろう」の前に——もう一つ、別の気持ちがある。あの人の表情が見たい。あの、かすかに眉が動く瞬間。咀嚼がゆっくりになる瞬間。「悪くない」と言うときの、低い声。
それを見たくて、焼いている。
それは——。
リゼットは両手で顔を覆った。
頬が熱い。エプロンに残った焦がしバターの匂いがする。石窯の残り火が遠くで爆ぜている。
好きだ。
この人が、好きだ。
分かっていた。多分、ずっと前から。「一番分かる」と言われた夜から。いいえ、もっと前から——朝の石段で菓子を渡すようになった頃から。品評会に一緒に行った頃から。もしかしたら、もっとずっと前——辺境に来た最初の日から。
でも名前をつけなかった。名前をつけたら——もう、戻れない。
戻れない場所に——今、立っている。
辺境伯。
ヴィントヘルム辺境伯セドリック。王国の北端を守る領主。辺境防衛の要。爵位序列の外に位置する特殊な位階。民に慕われ、戦場で先頭に立ち、この厳しい土地を治める——領主。
わたしは——追放令嬢。
メルヴェーユ伯爵家は断絶した。爵位は剥奪された。父は南の修道院に隠棲して音信不通。わたしに残されたのは、この手と、この舌と——菓子師の腕だけ。
没落貴族の令嬢。「フォン」の姓は慣習的に残っているだけで、実態は平民に等しい。
辺境では——身分なんて、誰も気にしていない。マリーさんも、村の人たちも、リゼットのことを追放令嬢ではなく「うちの菓子師」として見てくれている。実力主義。能力で役割が決まる。辺境とは、そういう場所だ。
でも。
辺境伯の妻、となれば——話は別ではないか。
リゼットは自分の思考に驚いた。妻。そんなことまで考えている。パンケーキを二枚焼いただけで——もう、そこまで。
王都の社交界では眉をひそめる者もいるだろう。辺境伯ともあろう人が、爵位を失った家の娘を妻に迎えるなど。あの人の立場を——わたしが危うくするかもしれない。
品評会で優勝した宮廷菓子師、と聞こえはいいが——それは肩書きであって身分ではない。職人は職人。貴族ではない。
おこがましい。
この気持ちは——おこがましいのだ。
リゼットは空の皿を持ち上げた。洗い場に持っていく。水が冷たい。冬の水が、指先を刺す。
皿を洗った。セドリックの皿。自分の皿。並べて乾かした。
同じ大きさの——二枚の皿。
明日の朝も、同じものを焼くだろう。同じ場所に皿を並べて。同じ椅子に座って。同じ沈黙の中で、同じパンケーキを食べるだろう。
この「当たり前」が——どれほど危ういものの上に成り立っているか。
セドリックにとってこの朝食は、「工房で菓子師が振る舞ってくれる朝の一品」にすぎないのかもしれない。領主として工房の様子を見に来ているだけかもしれない。味覚の回復を確認する日課にすぎないのかもしれない。
わたしが勝手に——特別にしているだけ。
そう思おうとした。
でも——。
「明日も焼くのか」と訊くあの声が。毎朝同じ椅子に座る、あの姿が。パンケーキを半分に割るときの、あの不器用な指が。
特別じゃないと——思えなかった。
工房の扉が開いた。
「おっはよ、リゼ! 今朝はパンケーキ? 匂いで分かったよ」
マリーさんが、籠を抱えて入ってきた。中には今日の食材——卵と山羊のチーズと干し肉の包み。宿屋からの差し入れ。
「おはようございます、マリーさん」
「ん? 顔が赤いけど。窯の火に当たりすぎた?」
「いえ——大丈夫です。朝の寒さで」
「嘘だね」
マリーさんが、にやりと笑った。
籠を作業台に置いて、ぐるりと工房を見回した。洗ったばかりの二枚の皿。空の霜花蜜の瓶。窓際の二つの椅子——片方にだけ、まだクッションの凹みが残っている。大きな体の、凹み。
「セド、もう行った?」
「……はい。さっき」
「ふーん。今朝もお二人で仲良く朝ごはん?」
「仲良く、じゃ——っ。わたしが勝手に焼いてるだけで——」
「はいはい。勝手に二人分、ね」
マリーさんが、おかしそうに笑った。
リゼットは耳まで赤くなるのを感じた。
「ねえリゼ。あたしさ、このところ毎朝セドとすれ違うんだけど」
「すれ違う?」
「工房に向かうセドと、宿屋から出たあたし。時間帯がかぶるんだよ。で、あいつの顔がさ——」
マリーさんが、頬杖をついた。
「朝の見回りに行く顔じゃないんだよね。なんていうか——朝ごはんを食べに行く顔、っていうの? ちょっと足取りが軽くてさ。あの仏頂面が、ほーんの少しだけ緩んでるんだよ」
「……」
「あれ、三年間で初めて見る顔だよ。味覚を失ってから——食事がただの作業だった男がさ。毎朝、朝ごはんを楽しみにしてるんだ」
マリーさんの声が——少しだけ、真剣になった。
「あんたのおかげだよ、リゼ」
「わたしは——ただ、焼いてるだけです」
「そうだよ。ただ焼いてるだけ。でも、誰のために焼いてるかってのは——ただ、じゃないだろ?」
返す言葉がなかった。
マリーさんが立ち上がった。エプロンの裾をぱんと叩いて、籠を作業台に押しやった。
「ま、あたしが言えるのはここまでさ。——あ、卵は今日のが新鮮だから、明日の朝に使いな。パンケーキに合うよ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。じゃ、あたしは宿の仕込みがあるから」
マリーさんが扉に向かった。
出ていく直前——振り返った。
茶色い目が、温かかった。
「リゼ。あんた最近、朝が楽しそうだね」
扉が閉まった。
一人になった工房で、リゼットは窓の外を見た。
冬の朝が明けていく。東の山の稜線が金色に縁取られて、白霜の森が霜に光っている。空は薄い水色で、高い。吐く息がまだ白い。
セドリックはもう、北の見回りに出たころだろう。白霜の森の中を、一人で歩いている。剣を佩いて、革鎧を着て、冬の冷気の中を。
その人が、明日の朝もここに来る。
明日も焼くのかと——訊く。
焼きます、と——答える。
そうか、と——低い声。
そしてまた——二枚の皿。二つの椅子。朝の光。パンケーキの甘い匂い。
当たり前の朝。
この「当たり前」を——守りたい。壊したくない。名前をつけて、形を変えてしまうのが怖い。今のままなら——菓子師と、領主の朝食。それだけのことで済む。
でも。
もう——済まなくなっている。
パンケーキを「二人分」焼いた時点で。同じ椅子に座った時点で。あの人の咀嚼をこっそり数えた時点で。
リゼットは窓辺に立って、霜の降りた景色を見つめた。白い世界。冬はまだ長い。街道が閉ざされるまで、あと少し。閉ざされたら——五ヶ月間、外の世界と隔絶される。
セドリックと、同じ冬を過ごす。
去年もそうだった。でも去年とは——違う。去年はまだ、この気持ちに名前がなかった。
今年は——ある。
毎朝、この人に菓子を作りたい。
それは恋だと——もう、知ってしまった。
リゼットは窓から離れた。作業台に向かった。仕込みを始めなければ。今日は工房に来る客人のために、木の実タルトを焼く。看板商品。いつもの仕事。
エプロンの裾をぱんと叩いた。
袖をまくった。指先の火傷跡が朝の光に白く浮かんだ。菓子師の勲章。
明日の朝もパンケーキを焼こう。二人分。霜花蜜とバター。シンプルなのがいい。この人に一番伝わるのは、素朴な味だから。
言えなくていい。名前をつけなくていい。
ただ——焼こう。毎朝。この人のために。
それだけで——。
それだけで、と思ったのに。
空の皿を拭いて棚に戻すとき——セドリックが割ったパンケーキの断面を思い出して、指先が震えた。
あの大きな手が、わたしのパンケーキを半分に割る。その仕草が——どうしようもなく、好きだ。
リゼットは棚に皿を戻した。セドリックの皿と、自分の皿を——隣同士に。
朝の仕込みを、始めた。