朝の石段に、セドリックがいた。
いつもの場所。いつもの時間。灰銀色の髪に朝日が当たって、薄い金色に光っている。
リゼットは——足を止めた。
数日前から、おかしくなっていた。
朝の菓子は焼いている。いつも通り。窯に火を入れて、黒胡桃を焙煎して、生地を練って、型に流して、焼く。皿に載せて、霜花蜜を添えて、石段まで運ぶ。
同じ日課。同じ手順。何も変わっていないはずなのに——リゼットの足が、重い。
石段に腰を下ろすとき、隣との距離を半歩だけ広く取ってしまう。菓子を差し出すとき、指先が触れないように気をつけてしまう。目が合うと——先にそらしてしまう。
「今日はりんごのクラフティです。高原りんごを薄く切って、卵の生地で——」
「ああ」
セドリックが受け取る。いつもの「ああ」。いつもの短い返事。
でも——その「ああ」の後に、ほんの一瞬だけ間がある。リゼットの顔を見ようとして、でもリゼットが目をそらしているから、見られなくて——セドリックも視線を落とす。
咀嚼の音。
「……りんごが甘い」
「寒暖差が大きくなってきたので。この時期のりんごは、酸味が抜けて甘みが増すんです」
早口で説明する。菓子の話なら平気だ。素材の話、火加減の話、配合の話。菓子師としてなら——この人の隣にいても、胸が痛くならない。
でも。
菓子の話が途切れた瞬間、沈黙が来る。以前なら何でもなかった沈黙が、今は——重い。
「……ご馳走になった」
「はい。お粗末さまです」
セドリックが立ち上がる。背中が大きい。革鎧の肩幅が朝日で影を落とす。北の見回りに行く背中を見送りながら——リゼットは、膝の上で拳を握った。
辺境伯。
この人は辺境伯なのだ。辺境を守る領主。王家に連なる武門の当主。
わたしは——没落貴族の娘。追放された宮廷菓子師。爵位もなく、家名に力もなく、持っているのは石窯とレシピ帳と、焼き菓子の匂いが染みついたエプロンだけ。
毎朝この人に菓子を作りたい——そう思った。
思ってしまった。
だから、怖い。
工房の中は、小麦粉と焦がしバターの匂いに満ちていた。
午後。リゼットは作業台に向かって黙々と手を動かしていた。明日の仕込み。黒胡桃の殻割り。生地の寝かし。やることはいくらでもある。
セドリックが昼過ぎに工房の前を通った。いつもなら「看板が傾いている」だの「窓の立てつけを見に来た」だの理由をつけて中に入ってくるのに、今日は——通り過ぎた。
立ち止まりかけて、足が止まりかけて、でも入ってこなかった。
リゼットは作業台の上のりんごを見つめていた。ナイフを握る手が震えそうになるのを、力を込めて押さえた。
わたしのせいだ。
わたしが距離を取っているから、セドリックも入りづらくなっている。
分かっている。分かっているのに——近づくと、胸が痛い。毎朝この人に菓子を焼く日々が、いつか終わる日のことを考えてしまう。辺境伯にはいずれ正式な婚約者が来る。身分のある家の令嬢が。そうなったとき、わたしは——
「リゼ」
声に、肩が跳ねた。
工房の入口に、マリーが立っていた。腰に手を当てて、仁王立ち。栗色のお団子ヘアにいつもの通り粉がついている。
でも——目が、笑っていなかった。
「マリーさん。どうしました?」
「入るよ」
返事を待たず、ずかずかと工房に入ってきた。カウンターの椅子を引いて、どさりと腰を下ろす。リゼットの真正面。逃げ場がない。
「マリーさん?」
「ここ数日、おかしいよ」
単刀直入だった。
「え——」
「あんたとセド。二人ともおかしい」
リゼットの手が止まった。りんごの皮を剥いていたナイフが、作業台の上で動かなくなった。
「セドのやつ、今日工房に入らなかっただろ。昨日も一昨日も、前を通って帰ってった。あの男が菓子食わずに帰るなんて、異常だよ」
「それは——セドリックが忙しいだけで——」
「嘘おっしゃい」
マリーが身を乗り出した。茶色い目が、まっすぐリゼットを射抜く。
「あんたが壁作ってるんだよ、リゼ」
心臓が——痛んだ。
「朝の石段で半歩離れてるの、あたしには見えてるからね。菓子を渡すとき目をそらしてるのも。——セドは鈍いけど馬鹿じゃない。あんたが引いてるのは感じてるよ」
リゼットは——何も言えなかった。ナイフを置いた。りんごの皮がくるくると螺旋になって、作業台に垂れている。
「……マリーさん」
「うん」
「わたし——」
声が詰まった。エプロンの裾を握る。指先に残った粉が、白い跡をつけた。
「わたし、身分が——」
そこまで言って、言葉が止まった。
マリーが黙って待っている。急かさずに。でも、逃がさない目で。
「……セドリックは、辺境伯です」
「そうだね」
「わたしは、没落した伯爵家の娘です。爵位もない。家もない。追放された——」
「それで?」
マリーの声が——あまりに軽かった。
「それで、何?」
リゼットは顔を上げた。マリーが腕を組んで、首を傾げている。本気で意味が分からない、という顔。
「辺境伯と、追放令嬢は——釣り合いません」
「誰が決めたの、それ」
「誰がって——」
「王都のお偉いさん? お貴族さまの常識? そんなもん、ここじゃ通用しないよ」
マリーが立ち上がった。椅子がガタン、と鳴った。
リゼットの前に立つ。百六十五センチの、がっしりした体。宿屋の女将の、よく働く手。その手が——リゼットの両肩を、がっしり掴んだ。
「いいかい、リゼ。あんたたち——」
茶色い目が、真正面から。
「——いつまでやってんのさ」
その声は——呆れていた。怒っていた。心配していた。全部、同時に。
「身分がどうしたのさ。ここは辺境だよ。王都のしきたりなんか、吹雪と一緒に山の向こうに置いてきな」
「でも——」
「あんたはうちの菓子師で、セドはうちの領主で、それだけだよ」
——それ、だけ。
「辺境じゃ、何ができるかがすべてさ。あんたは菓子が焼ける。セドは剣が振れる。それ以上に何がいるの? 家柄? 爵位? 馬鹿馬鹿しい」
マリーの手が、肩の上で力を込めた。温かい手だった。宿屋の仕事で荒れた、でもどこまでも温かい手。
「あんたはここの菓子師なんだ。うちの村の宝なんだ。王都の偉い人に何て言われようと——あたしたちにとっちゃ、リゼット・フォン・メルヴェーユは最高の菓子師なんだよ」
目が——熱くなった。
「でも……セドリックは——」
「セドのこと?」
マリーが手を放して、一歩引いた。腰に手を当てて——ふう、と大きく息を吐いた。
「あいつはあいつで面倒なことになってるよ」
「え?」
「考えてもみなよ。辺境の田舎領主だよ? 王都にも行けない、金もない、渡せるものなんか剣と領地くらいしかないのに——相手は品評会で優勝した天才菓子師だ」
リゼットは——目を瞬いた。
「セドは思ってるよ。こんな辺境に縛りつけていいのかって。品評会で優勝した菓子師なら、王都でも南部でもどこでもやっていける。それなのに——何もない辺境の領主が、何を差し出せるんだ、ってさ」
呼吸が——止まった。
セドリックが——そんなことを?
「あの男は馬鹿だからね。自分には何もないと思ってるんだ。あんたに対して——」
マリーが呆れたように首を振った。
「あんたは身分が足りないと思ってる。セドは器が足りないと思ってる。——反対の理由で、同じことしてるんだよ、あんたたち」
反対の——理由。
わたしは「追放令嬢だから釣り合わない」と思っていた。
セドリックは「辺境領主では何も渡せない」と思っていた。
二人とも——自分のほうが足りないと思って、引いている。
……馬鹿みたいだ。
「ね? いつまでやってんのさ」
マリーが——にっと笑った。
やっと、いつもの笑顔。大きな声で笑うときの、あの顔。
「あたしはね、あんたたちを見てるのが楽しかったよ。朝の石段で並んで座って、菓子食べて、黙って——いい景色だったさ。でも、もう限界」
「限界?」
「あたしの我慢の限界だよ! じれったくてしょうがないんだ!」
大きな声。工房の壁に反響して、窯の中で薪がはぜた。
リゼットは——笑った。
涙が溢れそうなのに、笑ってしまった。お腹の底から、ふっと力が抜けたような笑いだった。
「マリーさん——」
「何さ」
「ありがとう、ございます」
声が震えていた。でも——心の中の、あの重い石が、消えていた。
いつの間にか積み上げていた壁。身分とか、立場とか、似つかわしくないとか——そういう王都の論理で組み上げた壁を、マリーは辺境の言葉で、あっさり壊してくれた。
「泣くんじゃないよ。あんた、泣くとすぐ鼻が赤くなるんだから」
「泣いてません」
「嘘つけ。目、赤いよ」
マリーがエプロンのポケットからハンカチを出して、リゼットの目元を拭った。宿屋の石鹸の匂いがした。
マリーが帰った後。
リゼットは作業台を片づけて——新しい生地を練り始めた。
フィナンシェ。
焦がしバターと小麦粉とアーモンド。シンプルな材料を、丁寧に。今日はセドリックのためじゃない。
マリーさんへの、お礼の菓子。
卵白を泡立てた。きめ細かな泡。そこに霜花蜜を垂らして、ゆっくりと混ぜる。透き通った蜜が白い泡に溶けて、淡い金色に変わっていく。
焦がしバターを作る。鍋の中でバターが溶けて泡立ち、金色から琥珀色へ。ナッツの香りが立ったところで——止める。マリーさんの好みは少し手前。香ばしすぎず、バターの甘さが残るくらい。
アーモンドプードルを加えた。ふわりと白い粉が舞う。ヘラで切るように合わせる。
型に流す。小さな長方形の型。一つずつ、丁寧に。
窯に入れた。
焼けるまでの間、リゼットは窯の前にしゃがみ込んで——考えていた。
マリーさんの言葉。
——あんたはうちの菓子師で、セドはうちの領主で、それだけだよ。
それだけ。
身分も、家名も、追放の過去も——辺境では、ただの飾りだ。
ここでは、何を成すかだけが問われる。
わたしは菓子を焼ける。セドリックは領地を守れる。それで——十分なのだと。
窯の奥から、甘い匂いが漂い始めた。
焼き上がったフィナンシェを布巾に包んで、宿屋に持っていった。
「マリーさん。これ」
「何さ、これ」
「感謝のフィナンシェです」
マリーが布巾を開いた。黄金色の焼き菓子が六つ。表面にうっすら霜花蜜の艶がかかって、焦がしバターの温かい香りが湯気と一緒に立ち上る。
マリーが一つ手に取って——齧った。
目が——閉じた。
「……あんた、天才かい」
「お礼ですから。少し頑張りました」
「少しどころじゃないよ。なにこれ、バターの香りが口の中で溶けていく……」
マリーが二口目を頬張りながら、目を細めた。それから——にやっと笑った。
「で? 明日の朝は、ちゃんと石段に行くんだろうね」
リゼットの頬が——赤くなった。
「……行きます」
「半歩、詰めなよ」
「……はい」
夕暮れの工房に戻ると——扉の前に、人影があった。
灰銀色の髪。革鎧。左頬の傷跡。
セドリックが——工房の前に立っていた。入ろうか迷っているような、珍しい姿だった。
「セドリック」
呼びかけた。
自分でも驚くくらい、自然な声が出た。
「おかえりなさい。見回り、お疲れさまです」
セドリックがこちらを見た。青灰色の目が——探るような色を帯びている。ここ数日、リゼットが距離を取っていたから。また避けられるのかと、身構えているように見えた。
「入りませんか。今日、フィナンシェを焼いたんです。まだ少し残っていますから」
セドリックの眉が——微かに動いた。
「……いいのか」
「もちろんです」
扉を開けた。工房の中は、焦がしバターと霜花蜜の甘い匂いで満ちていた。窯の残り火が赤く揺れている。
フィナンシェを小皿に載せた。差し出す。
指先が——触れた。
セドリックの大きな手と、リゼットの小さな手。粉のついた指先と、剣だこのある指先。ほんの一瞬の接触。
逃げなかった。
セドリックがフィナンシェを口に運んだ。咀嚼。
「……バターが軽い」
「はい。今日は焦がしを少し浅くしました」
「悪くない」
「ありがとうございます」
窯の残り火が赤く揺れていた。夕日が窓から差し込んで、工房を茜色に染めている。
セドリックが——何かを言いかけた。唇が動いて——止まった。
いつもの沈黙。
でも——今日のリゼットは、逃げなかった。黙って隣に立って、同じ夕日を見ていた。
半歩——近い。
マリーさんに言われた通り。半歩だけ。
「……明日も焼くのか」
「はい。明日は——セドリックの好きな、黒胡桃のを」
セドリックの耳が——かすかに赤くなった。
「……そうか」
いつもの「そうか」。でも——声が、ほんの少しだけ柔らかかった。
セドリックが帰った後、工房の片づけをしていると——宿屋のほうから足音が聞こえた。
マリーが走ってくる。
珍しく慌てた顔をしていた。手に何か持っている。白い封筒。でかい蝋の封印がされている。
「リゼ!」
「マリーさん? どうしたんですか——」
「手紙。今さっき、南から来た早馬が持ってきた」
マリーが封筒を差し出した。
白い紙。上質な紙。辺境では見かけないほど厚くて、なめらかな紙。
封蝋。
金色の——封蝋。
リゼットの手が、止まった。
その紋章を、知っている。
宮廷菓子師として三年間、毎日見ていた紋章。王城の扉に、勅書に、食器に——あらゆる場所に刻まれていた紋章。
王家の紋章。
宛名は、丁寧な筆記体で——「リゼット・フォン・メルヴェーユ殿」。
「……王都から」
リゼットの声が——掠れた。
焦がしバターの甘い匂いが残る工房の中で、金色の封蝋が、夕暮れの最後の光を受けて——冷たく、光っていた。