S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第39話: 勅命

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封蝋(ふうろう)を割る指が、震えていた。

バターと霜花蜜の匂いがまだ残る工房の中で、リゼットは白い封書を両手で持ち、金色の蝋にそっと爪を立てた。ぱきり、と小さな音がして、王家の紋章が二つに割れた。


手紙は、勅命だった。

格式高い書体が、上質な紙の上に整然と並んでいる。宮廷の書記官が清書した、公式文書。文面の冒頭に王の名があり、その下に——王太子ヴァレンティン・フォン・クラウゼンの印がある。

リゼットの目が、一行ずつ、言葉を拾っていく。

——リゼット・フォン・メルヴェーユを、宮廷菓子房の首席菓子師に任ずる。

首席。

宮廷菓子房の最高位。五人いる宮廷菓子師の頂点。王族の食卓を統括し、菓子房の全人事と献立を掌握する職。かつてリゼットが末席にいた頃、見上げるばかりだったあの地位。

文面はさらに続いていた。

——品評会における卓越した成果に鑑み、その技量は宮廷菓子房の首席に相応しいと認める。任命は本状到着より三十日以内の登城をもって発効する。首席菓子師の待遇として、宮廷内に専用の厨房と居室を用意する。素材の調達は王室費から無制限に拠出される。

無制限。

リゼットの菓子師としての部分が——反応した。

南部の最上の砂糖。宮廷御用達の発酵バター。温室で育てた果実。異国から取り寄せる香辛料。この世界に存在するあらゆる素材が、制約なく使える。

最高の窯。最高の道具。最高の厨房。

菓子師なら——誰もが夢見る環境。

手紙の最後に、一文だけ——書記官の筆ではない、崩れた書体が加えられていた。ヴァレンティンの自筆だと、三年間宮廷にいたリゼットには分かった。

——戻ってこい。お前の代わりはいなかった。

リゼットは——手紙を、作業台に置いた。

指先から力が抜けた。白い紙が、粉のついた台の上で、場違いに光っている。

「リゼ、何て書いてあるの」

マリーが、隣に立っていた。手紙を届けてくれてから、ずっとそばにいてくれた。

「……勅命です」

自分の声が、遠く聞こえた。

「王太子殿下が——わたしを、王都に呼び戻すと。宮廷菓子房の——首席菓子師として」

マリーの顔から、笑顔が消えた。

「首席——って、一番偉いやつ?」

「はい」

「……それは」

マリーが言葉を切った。腰に手を当てて、窓の外を見た。冬の夕暮れが、工房の窓から冷たい光を落としている。

「……すごいじゃないか」

マリーの声は——いつもの快活さがなかった。

「すごいよ、リゼ。あんたの腕が、王都にも認められたんだ」

認められた。

追放された菓子師が、首席として呼び戻される。それは——たしかに、名誉だ。菓子師としての最高の評価。三年前に「不要だ」と切り捨てられた自分が、今は「代わりがいない」と請われている。

でも——。

「マリーさん」

「うん」

「わたし——」

言葉が、出なかった。

工房の壁を見た。石窯。作業台。棚に並んだ瓶——霜花蜜、黒胡桃の粉、高原りんごの干し果実。窓辺に置いた二つの椅子。朝の光が差し込む、あの場所。

フィーネが卵を割る練習をした、あの台。

セドリックが「悪くない」と言った、あのカウンター。

「……行きたくない」

声が——(かす)れた。

マリーが、リゼットの肩にそっと手を置いた。温かい手。宿屋の仕事で荒れた、でも——いつも温かい手。

「……今すぐ答えなくていいよ。三十日あるんだろ?」

「はい……」

「今夜はもう帰りな。頭を冷やして——」

「マリーさん」

「うん?」

「セドリックには——わたしから伝えます」

マリーが——黙って、頷いた。


翌朝。

リゼットは——いつも通り、石窯に火を入れた。

いつも通り、生地を練った。黒胡桃のフィナンシェ。セドリックが一番好きな菓子。焦がしバターを少し深めに。霜花蜜を多めに。いつもより——丁寧に。

焼き上がりを皿に載せて、石段に向かった。

セドリックが——いた。いつもの場所に。いつもの姿勢で。灰銀色の髪に朝日が当たって、薄い金色に光っている。

「おはようございます」

「……ああ」

隣に座った。半歩——近く。昨日マリーに言われた通りの、あの距離で。

皿を差し出した。

「今日は黒胡桃のフィナンシェです。焦がしバターを——」

「リゼット」

遮られた。

セドリックの目が——まっすぐに、リゼットを見ていた。青灰色の目。いつもの寡黙な目。でも——その奥に、何かが揺れている。

「マリーから——聞いた」

心臓が、冷えた。

マリーさんが——昨夜のうちに、伝えたのだ。

「……はい」

「王都の勅命。首席菓子師」

「はい」

セドリックが——皿から、目を逸らした。

朝日を見ている。東の山の稜線が金色に燃えている。辺境の冬の朝。白い息が、二人の間に漂って、消えた。

沈黙が——長かった。

石段の冷たさが、太腿を通じて体の芯まで染みてくる。冬が近い。もうすぐ街道が閉ざされる。閉ざされたら、五ヶ月間——ここに、いる。

いられる。

でも勅命は、三十日以内。街道が閉ざされる前に——答えを出さなければならない。

「セドリック。わたし——」

「お前の好きにしろ」

リゼットの言葉を——断ち切るように。

セドリックの声は——平坦だった。

感情がない。抑揚がない。まるで北の見回りの報告をするような、事務的な声。

「首席菓子師。菓子師として最高の地位だ。最上の素材。最高の環境。——お前の腕なら、当然だろう」

当然だろう、と。他人事(ひとごと)のように。

「セドリック——」

「お前の好きにしろ」

二度目。

同じ言葉。同じ声。でも——二度目のほうが、声がわずかに低かった。喉の奥を絞るような。何かを押し殺すような。

セドリックが——立ち上がった。

皿の上のフィナンシェに、手を伸ばさなかった。

リゼットの心臓が——止まった。

手を、つけなかった。

辺境に来てから——一年以上。どんな朝も、どんな菓子も、セドリックは必ず食べた。無言でも。ぶっきらぼうでも。「要らん」と言いながら結局食べた。あの、味覚を失っていた頃でさえ——リゼットの菓子だけは、食べた。

それを——拒んだ。

「……見回りに行く」

背中。

広い背中。革鎧の肩。灰銀色の髪。

その背中が——硬かった。まるで鎧をもう一枚重ねたような。リゼットと出会う前の——あの、何も感じない人間のふりをしていた頃の背中に、戻っていた。

石段を降りていく足音。ざく、ざく、と霜柱を踏む規則的な音。一度も振り返らず。

リゼットは——動けなかった。

膝の上に、フィナンシェの皿がある。きつね色の焼き菓子。焦がしバターと霜花蜜の甘い匂い。まだ温かい。焼きたての温もりが、皿を通して指先に伝わっている。

セドリックが——食べなかった菓子。

目が、熱くなった。涙ではない。もっと奥の——胸の真ん中が、焼けるように痛かった。


工房に戻った。

フィーネが来る前に、仕込みを始めなければ。いつも通りの朝。いつも通りの手順。小麦粉を量って、バターを切って、卵を割って——

手が——動かなかった。

リゼットは、作業台の前に立っていた。エプロンの紐は結んである。袖はまくってある。指先には昨日の粉がまだうっすら残っている。

なのに——手が、動かない。

小麦粉の袋に手をかけた。指が、開かない。

バターの塊を取ろうとした。手が、伸びない。

菓子を——作れない。

辺境に来てから、一度もなかった。

どんなに疲れていても、どんなに不安でも、リゼットの手は動いた。追放された翌朝も、マリーの厨房で菓子を焼いた。素材がなくても工夫した。窯が壊れたら直した。吹雪の朝も、寂しい夜も——手だけは、止まらなかった。

菓子を作ることが、リゼットの呼吸だった。

その呼吸が——止まっている。

なぜ、と自分に問う。

分かっている。

セドリックが菓子を食べなかったから。あの人の手が皿に伸びなかったから。「お前の好きにしろ」と——突き放されたから。

菓子師として最高の栄誉を得たはずなのに。王都で夢のような環境が待っているはずなのに。

この手は——あの人に食べてもらえない菓子を、焼けない。

リゼットは作業台に両手をついた。粉が指先から零れ落ちた。白い粉が、台の上に小さな山を作った。

いつからだろう。

わたしの菓子は——この人のためにあったのだ。

王都の最上の素材より。宮廷の完璧な厨房より。首席菓子師の肩書きより。

この人が「悪くない」と言ってくれることが——わたしの菓子の、全部だった。

窯の火が、ぱちりと鳴った。薪が燃えて、炎が揺れている。温かい光。でも今朝は——その温かさが、遠い。


昼過ぎに、フィーネが来た。

「リゼットさん、おはようございます! 今日はなに作——」

フィーネが——足を止めた。

工房の中を見た。作業台の上に、何もない。いつもなら朝の仕込みで生地や果実が並んでいるのに。小麦粉の袋が棚の上に置かれたまま。バターは切られていない。卵も出ていない。

「リゼットさん……?」

「ごめんね、フィーネちゃん。今日は——少し、お休み」

声を明るくしたつもりだった。でもフィーネの薄い茶色の目が——じっと、リゼットの顔を見ていた。十二歳の少女の目は、ごまかせなかった。

「……リゼットさん、泣きそうな顔してる」

「え——泣いてない。泣いてないよ」

「泣きそう、って言ったの。泣いてるとは言ってない」

リゼットは——笑おうとした。唇が引きつった。

「……大丈夫。ちょっと、考えることがあるだけ」

フィーネは——何も訊かなかった。辺境の子どもだ。踏み込んではいけない領域を、本能で知っている。

「あたし、午後はマリーさんのところを手伝ってくる」

「うん。ありがとう、フィーネちゃん」

「……明日は、来ていい?」

「もちろん。明日は——きっと、焼くから」

きっと、と言った自分の声が——頼りなかった。

フィーネが出ていった後、工房に一人残された。

石窯の火が弱くなっていく。薪を足さなかったから。いつもなら、朝いちばんに薪をくべて、一日中火を絶やさないのに。

窯の火が——消えかけている。

冬の工房は、火がなければ冷える。石の壁が蓄えていた熱が、少しずつ抜けていく。吐く息が、白くなり始めた。


夕方。

マリーが工房にやってきた。

扉を開けて——足を止めた。

暗い工房。窯の火は消えている。作業台の上には何もない。窓際の椅子に、リゼットが座っていた。エプロンをしたまま。手を膝の上に置いて。何もせず——ただ、座っていた。

「リゼ」

マリーの声が——静かだった。いつもの大きな声ではなく。

「……マリーさん」

「火、消えてるよ」

「はい。——消えました」

マリーが工房に入ってきた。棚からランプを取って火を灯した。小さな灯りが、薄暗い工房を照らした。

リゼットの目の前の作業台に、あの手紙が置いてある。白い紙。金色の封蝋の残骸。王家の紋章が割れた跡。

「セドに——言ったんだね」

「いいえ。マリーさんが先に——」

「ごめん。あいつが夕べ宿屋に寄ったから、つい」

「いいんです。遅かれ早かれ——」

「セド、なんて言った?」

リゼットは——膝の上の手を見つめた。粉のついた指。火傷跡のある指先。菓子師の手。

「……『お前の好きにしろ』って」

「ああ——」

マリーが、深い深い溜息をついた。椅子を引いて、リゼットの向かいに座った。

「あの馬鹿」

「菓子にも——手をつけませんでした」

「……は?」

マリーの目が——見開かれた。

「セドが——リゼの菓子を食べなかった?」

「はい」

「あの男が? 一年以上、毎朝欠かさず食べてた菓子を?」

「……はい」

マリーが——立ち上がった。椅子がガタン、と鳴った。腰に手を当てて、天井を仰いだ。

「信じらんない。あいつ——自分で何やってるか分かってんのかね」

「マリーさん——」

「いい。分かった。ちょっとセドのところ行ってくる」

「え——」

「あたしが話すよ。あんたは今夜はここにいな」

マリーが扉に向かった。足音が荒い。怒っている——のではない。呆れている。あの、「いつまでやってんのさ」と言ったときの——あの顔。

扉が閉まった。


どれくらい経っただろう。

窓の外が完全に暗くなった頃——マリーが戻ってきた。

頬が赤い。冬の夜風に当たったせいだ。でも目は——どこか、疲れていた。

「リゼ」

「……どうでした」

「言ってやったよ」

マリーが椅子に座った。ランプの灯りが、茶色い目に揺れている。

「『セド、あんたそれ、本心じゃないでしょ』って」

「……」

「あいつ、黙ってたよ。何も言わなかった。いつもみたいに『うるさい』とも言わない。ただ——黙ってた」

リゼットは、手を握りしめた。

「あたしね、分かるよ。あいつが何考えてるか。——引き留めたら、あんたのためにならないと思ってるんだ」

「わたしの——ため?」

「品評会で優勝した天才菓子師を、こんな辺境に閉じ込めていいのかってさ。最高の環境が王都にあるのに、何もない辺境に縛りつける権利なんかないって——あの男は、そう思ってるんだよ」

リゼットの呼吸が——止まった。

また、だ。

昨日マリーさんが壊してくれたはずの壁。身分差の壁——ではなく、今度は。

「自分では釣り合わない」という壁。

わたしは「辺境を離れたくない」と思っている。

セドリックは「辺境に縛りつけてはいけない」と思っている。

またしても——反対の理由で、同じ方向を向いている。

「マリーさん」

「うん」

「セドリックは——わたしにどうしてほしいんですか」

マリーが——じっと、リゼットを見た。

「それは——あいつに直接訊きな」

リゼットは——立ち上がった。

椅子が石の床を擦る音が、静かな工房に響いた。

「あんたが訊かなきゃ、あいつは一生言わないよ。『好きにしろ』の裏にあるもの——あんたにしか、引き出せないんだ」

マリーの声が——優しかった。厳しくて、でも温かい。辺境の女将の声。

「……ありがとう、マリーさん」

「礼はいいよ。——あんたたちが幸せになってくれりゃ、あたしの宿屋の看板メニューも安泰だからさ」

冗談めかして——でも、目が笑っていなかった。本気で心配している目だった。


マリーが帰った後。

リゼットは一人、暗い工房に立っていた。

窯の火は消えている。ランプの灯りだけが、石の壁にゆらゆらと影を落としている。

作業台の上に、手紙がある。

白い紙。金色の封蝋。王都からの——勅命。

菓子師として最高の環境。最上の素材。無制限の資材。首席の地位。

そのすべてが——今、この冷えた工房より軽い。

火の消えた窯を見つめた。石窯の口が暗い穴のように開いている。いつもなら赤い炎が揺れて、焦がしバターの匂いが立ち上っている場所。

辺境に来てから——この窯の火を自分で消したのは、初めてだった。

リゼットは作業台に手をついた。冷たい石の台。粉の跡。長い間使い込んで、表面がなめらかになった木の端。

訊かなければ。

セドリックに——訊かなければ。

「お前の好きにしろ」の裏側にあるもの。あの平坦な声の奥で、押し殺していたもの。菓子に手をつけなかった——あの沈黙の意味。

あなたはどうしたいですか。

その一言を——言わなければ。

リゼットは窓を見た。冬の夜空に、星が凍ったように光っている。北の空。セドリックがいつも見回りに出る方角。

明日の朝。

石段で——訊こう。

菓子を持って。たとえ手が震えても。たとえ食べてもらえなくても。

あなたはどうしたいですか——と。

リゼットは、エプロンの紐を——解かなかった。

明日の朝は、焼く。何がなんでも——焼く。

この手が止まったのは、今日だけだ。今日だけで——終わりにする。

冷えた工房の中で、リゼットはエプロンの裾を握りしめた。粉のついた指が、白い布を掴んでいた。

窯の火は消えている。でも——明日、また灯す。

この人に訊くために。この人のために——焼くために。

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