封蝋を割る指が、震えていた。
バターと霜花蜜の匂いがまだ残る工房の中で、リゼットは白い封書を両手で持ち、金色の蝋にそっと爪を立てた。ぱきり、と小さな音がして、王家の紋章が二つに割れた。
手紙は、勅命だった。
格式高い書体が、上質な紙の上に整然と並んでいる。宮廷の書記官が清書した、公式文書。文面の冒頭に王の名があり、その下に——王太子ヴァレンティン・フォン・クラウゼンの印がある。
リゼットの目が、一行ずつ、言葉を拾っていく。
——リゼット・フォン・メルヴェーユを、宮廷菓子房の首席菓子師に任ずる。
首席。
宮廷菓子房の最高位。五人いる宮廷菓子師の頂点。王族の食卓を統括し、菓子房の全人事と献立を掌握する職。かつてリゼットが末席にいた頃、見上げるばかりだったあの地位。
文面はさらに続いていた。
——品評会における卓越した成果に鑑み、その技量は宮廷菓子房の首席に相応しいと認める。任命は本状到着より三十日以内の登城をもって発効する。首席菓子師の待遇として、宮廷内に専用の厨房と居室を用意する。素材の調達は王室費から無制限に拠出される。
無制限。
リゼットの菓子師としての部分が——反応した。
南部の最上の砂糖。宮廷御用達の発酵バター。温室で育てた果実。異国から取り寄せる香辛料。この世界に存在するあらゆる素材が、制約なく使える。
最高の窯。最高の道具。最高の厨房。
菓子師なら——誰もが夢見る環境。
手紙の最後に、一文だけ——書記官の筆ではない、崩れた書体が加えられていた。ヴァレンティンの自筆だと、三年間宮廷にいたリゼットには分かった。
——戻ってこい。お前の代わりはいなかった。
リゼットは——手紙を、作業台に置いた。
指先から力が抜けた。白い紙が、粉のついた台の上で、場違いに光っている。
「リゼ、何て書いてあるの」
マリーが、隣に立っていた。手紙を届けてくれてから、ずっとそばにいてくれた。
「……勅命です」
自分の声が、遠く聞こえた。
「王太子殿下が——わたしを、王都に呼び戻すと。宮廷菓子房の——首席菓子師として」
マリーの顔から、笑顔が消えた。
「首席——って、一番偉いやつ?」
「はい」
「……それは」
マリーが言葉を切った。腰に手を当てて、窓の外を見た。冬の夕暮れが、工房の窓から冷たい光を落としている。
「……すごいじゃないか」
マリーの声は——いつもの快活さがなかった。
「すごいよ、リゼ。あんたの腕が、王都にも認められたんだ」
認められた。
追放された菓子師が、首席として呼び戻される。それは——たしかに、名誉だ。菓子師としての最高の評価。三年前に「不要だ」と切り捨てられた自分が、今は「代わりがいない」と請われている。
でも——。
「マリーさん」
「うん」
「わたし——」
言葉が、出なかった。
工房の壁を見た。石窯。作業台。棚に並んだ瓶——霜花蜜、黒胡桃の粉、高原りんごの干し果実。窓辺に置いた二つの椅子。朝の光が差し込む、あの場所。
フィーネが卵を割る練習をした、あの台。
セドリックが「悪くない」と言った、あのカウンター。
「……行きたくない」
声が——掠れた。
マリーが、リゼットの肩にそっと手を置いた。温かい手。宿屋の仕事で荒れた、でも——いつも温かい手。
「……今すぐ答えなくていいよ。三十日あるんだろ?」
「はい……」
「今夜はもう帰りな。頭を冷やして——」
「マリーさん」
「うん?」
「セドリックには——わたしから伝えます」
マリーが——黙って、頷いた。
翌朝。
リゼットは——いつも通り、石窯に火を入れた。
いつも通り、生地を練った。黒胡桃のフィナンシェ。セドリックが一番好きな菓子。焦がしバターを少し深めに。霜花蜜を多めに。いつもより——丁寧に。
焼き上がりを皿に載せて、石段に向かった。
セドリックが——いた。いつもの場所に。いつもの姿勢で。灰銀色の髪に朝日が当たって、薄い金色に光っている。
「おはようございます」
「……ああ」
隣に座った。半歩——近く。昨日マリーに言われた通りの、あの距離で。
皿を差し出した。
「今日は黒胡桃のフィナンシェです。焦がしバターを——」
「リゼット」
遮られた。
セドリックの目が——まっすぐに、リゼットを見ていた。青灰色の目。いつもの寡黙な目。でも——その奥に、何かが揺れている。
「マリーから——聞いた」
心臓が、冷えた。
マリーさんが——昨夜のうちに、伝えたのだ。
「……はい」
「王都の勅命。首席菓子師」
「はい」
セドリックが——皿から、目を逸らした。
朝日を見ている。東の山の稜線が金色に燃えている。辺境の冬の朝。白い息が、二人の間に漂って、消えた。
沈黙が——長かった。
石段の冷たさが、太腿を通じて体の芯まで染みてくる。冬が近い。もうすぐ街道が閉ざされる。閉ざされたら、五ヶ月間——ここに、いる。
いられる。
でも勅命は、三十日以内。街道が閉ざされる前に——答えを出さなければならない。
「セドリック。わたし——」
「お前の好きにしろ」
リゼットの言葉を——断ち切るように。
セドリックの声は——平坦だった。
感情がない。抑揚がない。まるで北の見回りの報告をするような、事務的な声。
「首席菓子師。菓子師として最高の地位だ。最上の素材。最高の環境。——お前の腕なら、当然だろう」
当然だろう、と。他人事のように。
「セドリック——」
「お前の好きにしろ」
二度目。
同じ言葉。同じ声。でも——二度目のほうが、声がわずかに低かった。喉の奥を絞るような。何かを押し殺すような。
セドリックが——立ち上がった。
皿の上のフィナンシェに、手を伸ばさなかった。
リゼットの心臓が——止まった。
手を、つけなかった。
辺境に来てから——一年以上。どんな朝も、どんな菓子も、セドリックは必ず食べた。無言でも。ぶっきらぼうでも。「要らん」と言いながら結局食べた。あの、味覚を失っていた頃でさえ——リゼットの菓子だけは、食べた。
それを——拒んだ。
「……見回りに行く」
背中。
広い背中。革鎧の肩。灰銀色の髪。
その背中が——硬かった。まるで鎧をもう一枚重ねたような。リゼットと出会う前の——あの、何も感じない人間のふりをしていた頃の背中に、戻っていた。
石段を降りていく足音。ざく、ざく、と霜柱を踏む規則的な音。一度も振り返らず。
リゼットは——動けなかった。
膝の上に、フィナンシェの皿がある。きつね色の焼き菓子。焦がしバターと霜花蜜の甘い匂い。まだ温かい。焼きたての温もりが、皿を通して指先に伝わっている。
セドリックが——食べなかった菓子。
目が、熱くなった。涙ではない。もっと奥の——胸の真ん中が、焼けるように痛かった。
工房に戻った。
フィーネが来る前に、仕込みを始めなければ。いつも通りの朝。いつも通りの手順。小麦粉を量って、バターを切って、卵を割って——
手が——動かなかった。
リゼットは、作業台の前に立っていた。エプロンの紐は結んである。袖はまくってある。指先には昨日の粉がまだうっすら残っている。
なのに——手が、動かない。
小麦粉の袋に手をかけた。指が、開かない。
バターの塊を取ろうとした。手が、伸びない。
菓子を——作れない。
辺境に来てから、一度もなかった。
どんなに疲れていても、どんなに不安でも、リゼットの手は動いた。追放された翌朝も、マリーの厨房で菓子を焼いた。素材がなくても工夫した。窯が壊れたら直した。吹雪の朝も、寂しい夜も——手だけは、止まらなかった。
菓子を作ることが、リゼットの呼吸だった。
その呼吸が——止まっている。
なぜ、と自分に問う。
分かっている。
セドリックが菓子を食べなかったから。あの人の手が皿に伸びなかったから。「お前の好きにしろ」と——突き放されたから。
菓子師として最高の栄誉を得たはずなのに。王都で夢のような環境が待っているはずなのに。
この手は——あの人に食べてもらえない菓子を、焼けない。
リゼットは作業台に両手をついた。粉が指先から零れ落ちた。白い粉が、台の上に小さな山を作った。
いつからだろう。
わたしの菓子は——この人のためにあったのだ。
王都の最上の素材より。宮廷の完璧な厨房より。首席菓子師の肩書きより。
この人が「悪くない」と言ってくれることが——わたしの菓子の、全部だった。
窯の火が、ぱちりと鳴った。薪が燃えて、炎が揺れている。温かい光。でも今朝は——その温かさが、遠い。
昼過ぎに、フィーネが来た。
「リゼットさん、おはようございます! 今日はなに作——」
フィーネが——足を止めた。
工房の中を見た。作業台の上に、何もない。いつもなら朝の仕込みで生地や果実が並んでいるのに。小麦粉の袋が棚の上に置かれたまま。バターは切られていない。卵も出ていない。
「リゼットさん……?」
「ごめんね、フィーネちゃん。今日は——少し、お休み」
声を明るくしたつもりだった。でもフィーネの薄い茶色の目が——じっと、リゼットの顔を見ていた。十二歳の少女の目は、ごまかせなかった。
「……リゼットさん、泣きそうな顔してる」
「え——泣いてない。泣いてないよ」
「泣きそう、って言ったの。泣いてるとは言ってない」
リゼットは——笑おうとした。唇が引きつった。
「……大丈夫。ちょっと、考えることがあるだけ」
フィーネは——何も訊かなかった。辺境の子どもだ。踏み込んではいけない領域を、本能で知っている。
「あたし、午後はマリーさんのところを手伝ってくる」
「うん。ありがとう、フィーネちゃん」
「……明日は、来ていい?」
「もちろん。明日は——きっと、焼くから」
きっと、と言った自分の声が——頼りなかった。
フィーネが出ていった後、工房に一人残された。
石窯の火が弱くなっていく。薪を足さなかったから。いつもなら、朝いちばんに薪をくべて、一日中火を絶やさないのに。
窯の火が——消えかけている。
冬の工房は、火がなければ冷える。石の壁が蓄えていた熱が、少しずつ抜けていく。吐く息が、白くなり始めた。
夕方。
マリーが工房にやってきた。
扉を開けて——足を止めた。
暗い工房。窯の火は消えている。作業台の上には何もない。窓際の椅子に、リゼットが座っていた。エプロンをしたまま。手を膝の上に置いて。何もせず——ただ、座っていた。
「リゼ」
マリーの声が——静かだった。いつもの大きな声ではなく。
「……マリーさん」
「火、消えてるよ」
「はい。——消えました」
マリーが工房に入ってきた。棚からランプを取って火を灯した。小さな灯りが、薄暗い工房を照らした。
リゼットの目の前の作業台に、あの手紙が置いてある。白い紙。金色の封蝋の残骸。王家の紋章が割れた跡。
「セドに——言ったんだね」
「いいえ。マリーさんが先に——」
「ごめん。あいつが夕べ宿屋に寄ったから、つい」
「いいんです。遅かれ早かれ——」
「セド、なんて言った?」
リゼットは——膝の上の手を見つめた。粉のついた指。火傷跡のある指先。菓子師の手。
「……『お前の好きにしろ』って」
「ああ——」
マリーが、深い深い溜息をついた。椅子を引いて、リゼットの向かいに座った。
「あの馬鹿」
「菓子にも——手をつけませんでした」
「……は?」
マリーの目が——見開かれた。
「セドが——リゼの菓子を食べなかった?」
「はい」
「あの男が? 一年以上、毎朝欠かさず食べてた菓子を?」
「……はい」
マリーが——立ち上がった。椅子がガタン、と鳴った。腰に手を当てて、天井を仰いだ。
「信じらんない。あいつ——自分で何やってるか分かってんのかね」
「マリーさん——」
「いい。分かった。ちょっとセドのところ行ってくる」
「え——」
「あたしが話すよ。あんたは今夜はここにいな」
マリーが扉に向かった。足音が荒い。怒っている——のではない。呆れている。あの、「いつまでやってんのさ」と言ったときの——あの顔。
扉が閉まった。
どれくらい経っただろう。
窓の外が完全に暗くなった頃——マリーが戻ってきた。
頬が赤い。冬の夜風に当たったせいだ。でも目は——どこか、疲れていた。
「リゼ」
「……どうでした」
「言ってやったよ」
マリーが椅子に座った。ランプの灯りが、茶色い目に揺れている。
「『セド、あんたそれ、本心じゃないでしょ』って」
「……」
「あいつ、黙ってたよ。何も言わなかった。いつもみたいに『うるさい』とも言わない。ただ——黙ってた」
リゼットは、手を握りしめた。
「あたしね、分かるよ。あいつが何考えてるか。——引き留めたら、あんたのためにならないと思ってるんだ」
「わたしの——ため?」
「品評会で優勝した天才菓子師を、こんな辺境に閉じ込めていいのかってさ。最高の環境が王都にあるのに、何もない辺境に縛りつける権利なんかないって——あの男は、そう思ってるんだよ」
リゼットの呼吸が——止まった。
また、だ。
昨日マリーさんが壊してくれたはずの壁。身分差の壁——ではなく、今度は。
「自分では釣り合わない」という壁。
わたしは「辺境を離れたくない」と思っている。
セドリックは「辺境に縛りつけてはいけない」と思っている。
またしても——反対の理由で、同じ方向を向いている。
「マリーさん」
「うん」
「セドリックは——わたしにどうしてほしいんですか」
マリーが——じっと、リゼットを見た。
「それは——あいつに直接訊きな」
リゼットは——立ち上がった。
椅子が石の床を擦る音が、静かな工房に響いた。
「あんたが訊かなきゃ、あいつは一生言わないよ。『好きにしろ』の裏にあるもの——あんたにしか、引き出せないんだ」
マリーの声が——優しかった。厳しくて、でも温かい。辺境の女将の声。
「……ありがとう、マリーさん」
「礼はいいよ。——あんたたちが幸せになってくれりゃ、あたしの宿屋の看板メニューも安泰だからさ」
冗談めかして——でも、目が笑っていなかった。本気で心配している目だった。
マリーが帰った後。
リゼットは一人、暗い工房に立っていた。
窯の火は消えている。ランプの灯りだけが、石の壁にゆらゆらと影を落としている。
作業台の上に、手紙がある。
白い紙。金色の封蝋。王都からの——勅命。
菓子師として最高の環境。最上の素材。無制限の資材。首席の地位。
そのすべてが——今、この冷えた工房より軽い。
火の消えた窯を見つめた。石窯の口が暗い穴のように開いている。いつもなら赤い炎が揺れて、焦がしバターの匂いが立ち上っている場所。
辺境に来てから——この窯の火を自分で消したのは、初めてだった。
リゼットは作業台に手をついた。冷たい石の台。粉の跡。長い間使い込んで、表面がなめらかになった木の端。
訊かなければ。
セドリックに——訊かなければ。
「お前の好きにしろ」の裏側にあるもの。あの平坦な声の奥で、押し殺していたもの。菓子に手をつけなかった——あの沈黙の意味。
あなたはどうしたいですか。
その一言を——言わなければ。
リゼットは窓を見た。冬の夜空に、星が凍ったように光っている。北の空。セドリックがいつも見回りに出る方角。
明日の朝。
石段で——訊こう。
菓子を持って。たとえ手が震えても。たとえ食べてもらえなくても。
あなたはどうしたいですか——と。
リゼットは、エプロンの紐を——解かなかった。
明日の朝は、焼く。何がなんでも——焼く。
この手が止まったのは、今日だけだ。今日だけで——終わりにする。
冷えた工房の中で、リゼットはエプロンの裾を握りしめた。粉のついた指が、白い布を掴んでいた。
窯の火は消えている。でも——明日、また灯す。
この人に訊くために。この人のために——焼くために。