S05-P01 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く

第40話: 頼みがある

第4アーク · 7,646文字 · draft

工房の窯は、冷えていた。

夜明け前。いつもなら薪をくべて火を起こしている時刻に、リゼットは暗い工房の中に立っていた。石窯の口は黒く閉じたまま。昨晩から火を入れていない。灰すら温もりを失って、指先で触れると冷たい石の感触だけが返ってきた。

作業台の上に、勅書がある。

金色の封蝋。王家の紋章。丁寧な筆記体で綴られた文面。宮廷菓子師への復職命令——リゼット・フォン・メルヴェーユを宮廷首席菓子師に任ず。

首席。末席ではない。品評会の優勝者として、宮廷の頂点に迎えるという破格の待遇だった。

一晩、眠れなかった。


昨日の記憶が、まだ鮮明だった。

勅書を見たセドリックの顔。表情を消した青灰色の目。「お前の好きにしろ」——それだけ言って、背を向けた。朝の菓子にも手をつけなかった。一年以上、毎朝欠かさず食べていた菓子を——初めて、拒んだ。

「明日の菓子は要らん」

あの硬い声が、まだ耳の奥にこびりついている。喉の奥で何かを砕いて飲み込んだような声だった。

味が分かるから——要らないのだ。受け取ったら手放せなくなるから。この人は自分から手放そうとしている。わたしのために。菓子師として最高の場所に行けるように。

分かってしまった。分かったから——手が止まった。窯の火が消えた。菓子を焼けない夜が来た。


一晩中、暗い天井を見ていた。

最高の厨房。最高の素材。菓子師としての最高——。でも目を閉じるたびに浮かぶのは、工房の石窯と、朝の二枚の皿と、隣の椅子だった。

「要らん」と言ったあの声。「お前の好きにしろ」と突き放した声。——その奥で、何かを呑み込んでいた声。

不器用な優しさだと分かっている。でも——わたしが聞きたいのは、それじゃない。

夜明け前に、目を開けた。

あなたがどうしたいかを、まだ聞いていない。わたしのことは、わたしが決める。だから——あなたのことを、教えてほしい。

寝台から起き上がった。冬の冷気が肌を刺す。息が白い。窓の外はまだ暗く、星が低い位置で瞬いていた。

上着を羽織った。靴を履いた。

工房の前を通りすぎた。火の入っていない窯。冷えた石の匂い。作業台の上の勅書には触れなかった。

北へ向かった。


セドリックが北の見回りに出るとき、いつも最初に立ち寄る場所がある。

北の見晴台。

辺境伯の館から北に少し歩いた丘の上にある、石積みの台座。ここから北の山脈を見渡せる。冬の晴れた日には、峠の向こうの雪原が朝日に白く光る。

セドリックはいつもここで立ち止まる。北の空気を読み、風の匂いを嗅ぎ、山の気配を確かめる。辺境を守る者の、朝の儀式。

夜明け前に出るのは——リゼットが朝の菓子を焼くようになってからは、なくなっていた。菓子を食べてから見回りに出る。それがこの一月の日課だった。

でも今朝は、菓子がない。

だから——早い時刻に出るはずだ。

リゼットは丘を登った。冬の草が霜に覆われて、靴の下でぱりぱりと音を立てる。息が白い。頬が痛い。エプロンを忘れたことに気づいた。菓子師のエプロンなしで外に出るのは、辺境に来てから初めてかもしれない。

丘の頂上が見えた。

見晴台の石積みの横に——影があった。

灰銀色の髪。革鎧。左頬の傷跡。

セドリックが立っていた。

北の山脈を見ている。腕を組んで、微動だにせず。夜が明けきらない空の下、灰色の輪郭だけが見えていた。

足音に気づいたのだろう。セドリックの肩がわずかに動いた。振り返りかけて——止まった。

誰が来たか、足音で分かったのだ。

「……なぜここにいる」

背を向けたまま。低い声。風に少しだけ(かす)れていた。

「セドリックに、聞きたいことがあります」

リゼットの声は——震えていた。寒さのせいだけではなかった。

でも、足は止めなかった。

石積みの傍まで歩いた。セドリックの二歩後ろに立った。背中が大きい。革鎧の肩幅が暗い空を切り取っている。

東の空が——ようやく藍色に変わり始めていた。夜と朝の境目。星が一つずつ消えていく。

「リゼット。戻れ。冷える」

「寒くないです」

嘘だった。指先がかじかんで、唇が震えている。でも——ここから動くつもりはなかった。

セドリックが——ようやく振り返った。

青灰色の目が、暗がりの中でリゼットを捉えた。頬が——強張っている。いつもの無表情とは違う。何かを堪えている顔だった。

「聞きたいこと、とは」

「昨日の——セドリックの言葉のことです」

「俺は何も言っていない」

「はい。何も言ってくれませんでした」

セドリックの眉が——動いた。

「お前の好きにしろ、と言った。それだけだ」

「それだけ、ですか」

「ああ」

「……嘘です」

リゼットの声が——強くなった。

自分でも驚くほど。喉の奥から絞り出すように、でもはっきりと。

「嘘です、セドリック」

セドリックの目が——見開かれた。かすかに。あの感情の読めない目が、一瞬だけ揺れた。

「わたしが聞いているのは——」

一歩、踏み出した。セドリックの背中ではなく、正面に立った。見上げた。百五十八センチから、百八十五センチを。

「セドリックが、どうしたいかです」

風が吹いた。北の山脈から降りてくる、冬の風。冷たくて、鋭くて、でも——澄んでいた。辺境の朝の風。リゼットが一年以上嗅ぎ続けた、あの風。

セドリックは——黙った。

長い沈黙だった。

東の空が藍色から薄紫に変わっていく。山の稜線に光の線が走る。あと少しで——朝日が来る。

「……王都に戻れば、お前は首席菓子師だ」

セドリックの声は低く、静かだった。

「最高の厨房がある。最高の素材がある。砂糖も、バターも、果実も——何でも手に入る。ここのように、木の実と蜂蜜で工夫する必要もない」

一つ一つ、確認するように。言い聞かせるように。自分に——言い聞かせるように。

「お前の菓子は、王都にいた方が——」

「わたしが聞いているのは」

リゼットが遮った。

声が震えていた。でも、引かなかった。

「わたしの菓子の話ではありません。わたしのことは、わたしが決めます。——だから、セドリック」

見上げた。まっすぐに。琥珀色の目で、青灰色の目を射抜いた。

「あなたは——どうしたいですか」


沈黙が、落ちた。

風の音だけが聞こえていた。北から吹く風。山を越えてくる風。冬の、乾いた、冷たい風。

セドリックの拳が——震えていた。

腿の横で握りしめた拳。剣だこのある、大きな手。その手が、白くなるほど強く握られていた。

唇が動いた。開いて——閉じた。もう一度開いて——また閉じた。

喉が動くのが見えた。言葉を飲み込んでいるのか、絞り出そうとしているのか。

リゼットは待った。

急かさなかった。逃がさなかった。ただ——ここにいた。冷たい風の中で。この人の前で。

東の山の稜線から、最初の光が射した。

金色の光が、セドリックの灰銀色の髪に触れた。頬の傷跡を照らした。青灰色の目が、朝の光を受けて——薄い青に変わった。

その目が——潤んでいた。

リゼットは息を飲んだ。

この人が——泣きそうな顔を見たのは、初めてだった。泣いてはいない。涙は落ちていない。でも——目の奥に、堪えきれないものが溜まっているのが見えた。

「……頼みがある」

声が——掠れていた。

いつものぶっきらぼうな声ではなかった。低くて、割れていて、喉の奥から一音ずつ押し出すような声だった。

「ずっと——言えなかった」

リゼットの心臓が、大きく鳴った。

馬車の中で飲み込まれた言葉。工房の夕暮れで途切れた言葉。石段の朝に「また明日」で終わらせた言葉。何度も何度も——この人の唇の手前で止まっていた言葉が、今——

「言ってください」

リゼットの声も、震えていた。

「……婚礼菓子を」

セドリックの視線が——落ちた。リゼットの目を見られなくなったように。地面を見つめた。霜に覆われた冬の草を。

「……婚礼菓子を、焼いてほしい」

朝の空気が——止まった。

風が止み、鳥の声が消え、世界から音が抜け落ちた。

婚礼菓子。

結婚式で花嫁が自ら焼く菓子。それを焼いてほしいと——この人は言った。

菓子師に、婚礼菓子を頼んでいる。

依頼として。

それは——この人らしかった。どうしようもなく、この人らしかった。「結婚してくれ」とは言えない。「好きだ」とも言えない。でも——菓子なら頼める。菓子を作ってくれ、なら——この人の言葉で言える。

不器用で。回りくどくて。でも——この人が出せる、精一杯の言葉。

「それは——」

リゼットの声が揺れた。

「菓子師への、依頼ですか?」

セドリックが顔を上げた。目が合った。

朝日が差し込んでいた。金色の光が二人の間を満たしていた。セドリックの耳が——赤かった。夕日のせいではない。朝日のせいでもない。はっきりと、赤かった。

「それとも——」

続きを言おうとした。でも、声が震えて、最後まで出なかった。

セドリックの唇が——動いた。

「……両方だ」

二文字。

たった二文字の言葉が——朝の空気を震わせた。

両方。

菓子師への依頼であり——それ以上の、すべて。

リゼットの視界が——滲んだ。

涙だった。いつ溢れたのか分からなかった。頬を伝って、顎から落ちて、霜の上に小さな跡を作った。

笑っていた。

泣きながら——笑っていた。

おかしかった。嬉しかった。この人がプロポーズに選んだ言葉が「婚礼菓子を焼いてほしい」だということが——どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなくこの人らしくて、笑うしかなかった。

「お受けします」

声がかすれた。涙声だった。鼻の奥がつんとして、息が詰まりそうだった。でも——言葉は、はっきりと。

「菓子師として」

一呼吸。

「それから——」

見上げた。涙で滲んだ視界の中に、セドリックの顔があった。青灰色の目が大きく見開かれている。呼吸が止まっている。この人が——わたしの返事を、こんな顔で待っている。

「あなたの、妻として」


セドリックの手が——伸びた。

ゆっくりと。ためらいながら。剣だこのある大きな手が、リゼットの頬に触れた。涙を拭うように。でも不器用で、指先が震えていて、涙を拭うどころか頬をなぞっただけだった。

その手が——温かかった。

冬の朝の、氷点下の空気の中で。革手袋を外した素手が。こんなに温かいのだと——知らなかった。

「……泣くな」

セドリックの声が——割れた。

ぶっきらぼうに「泣くな」と言いながら、自分の声が一番揺れていた。喉の奥で何かが引っかかるような、聞いたことのない声だった。

「泣いてません」

「嘘だ。目が赤い」

「嬉しくて——赤いんです」

リゼットはセドリックの手に自分の手を重ねた。粉のついていない、素のままの手。小さな手が、大きな手を包んだ。指先の火傷跡が、セドリックの指に触れた。

セドリックの耳が——もう見えないくらい赤かった。

目を逸らそうとしていた。いつもの癖だ。感情が溢れると視線を外す。でもリゼットがまっすぐ見上げているから——逃げられない。

「……後悔するぞ」

「しません」

「辺境だぞ。王都とは比べものにならん。砂糖も手に入りにくい。冬は五ヶ月閉ざされる。菓子師にとっては——」

「セドリック」

名前を呼んだ。静かに。でも——はっきりと。

「わたしは、辺境の菓子師です」

セドリックの言葉が——止まった。

「辺境の素材で、辺境の菓子を焼きます。砂糖がなくても霜花蜜があります。果実がなくても木の実があります。それで——十分です」

朝日が丘を染めていた。白霜の草原が金色に光っている。北の山脈の雪が薔薇色に輝いていた。

「それに——」

リゼットは笑った。涙の跡が頬に光っていた。

「毎朝、パンケーキを焼く相手がいなくなったら、困ります」

セドリックが——笑った。

笑った、と言えるかどうか分からないほど、かすかな変化だった。唇の端がほんの少しだけ持ち上がって、目の奥の硬さが——溶けた。

一年以上この人のそばにいて、初めて見る表情だった。

笑顔とも、安堵ともつかない——ただ、何かを下ろした顔。ずっと肩の上に載せていた重いものを、ようやく地面に置いた人の顔。

「……勝手に焼いていたくせに」

「はい。明日からも、勝手に焼きます」

「……二人分か」

「はい。二人分です。——毎朝」

セドリックの手が、リゼットの手の上で握り返された。強く。不器用に。剣を握るときとは全然違う、ぎこちない力加減で。

でも——温かかった。


丘を下りたとき、東の空はすっかり明るくなっていた。

冬の朝日が辺境の村を照らしている。白い屋根。煙突から立ち上る煙。宿屋の窓に灯りが点いている。マリーさんがもう起きて、朝の仕込みを始めているのだろう。

二人は並んで歩いていた。並んで——といっても、セドリックの歩幅が大きすぎて、リゼットが小走りになる。いつものことだった。でも今朝は、セドリックが——歩幅を、狭めていた。

気づいていないふりをした。

工房の前まで来た。

冷えきった工房。火の入っていない窯。作業台の上の勅書。

リゼットは扉を開けた。冷たい空気が流れ出す。石の壁が凍えている。

でも——手が動いた。

薪を窯にくべた。火打ち石を打つ。かちり。かちり。三度目で火花が藁に移った。小さな炎が生まれて、薪の端に燃え移る。橙色の光が窯の奥で揺れ始めた。

石窯がゆっくりと温まっていく。冷えた石の壁が、少しずつ熱を蓄えていく。

リゼットの手が——動いた。止まっていた手が。

昨晩、何も作れなかった手が。卵を割れなかった手が。蜂蜜の瓶を開けられなかった手が。

今——動いている。

エプロンを取りに走った。いつもの白いエプロン。袖をまくった。紐を結んだ。

セドリックが工房の入口に立っていた。入ろうか迷っている。大きな体が、扉の枠にぎりぎりで収まっている。

「入ってください」

「……ああ」

セドリックが入ってきた。いつもの椅子に座った。窓際の。朝日が斜めに差し込む。

リゼットは棚から材料を下ろした。小麦粉。卵。辺境のバター。霜花蜜。

パンケーキ。

今朝は——パンケーキを焼こう。一番シンプルなものを。素材の味だけの。

卵を割った。二つ。小麦粉をふるった。牛乳を加えた。泡立て器でなめらかに混ぜた。

鉄の焼き板にバターを敷いた。山羊乳(やぎちち)のバターが溶けて、甘い匂いが立つ。生地を流した。じゅう、と音がした。

セドリックが——その音を聞いていた。椅子に座って、腕を組んで。いつもの姿勢。でも——目だけが、リゼットの手を追っていた。

パンケーキを焼く手を。

生地をひっくり返す手を。

皿に載せて、蜜をかける手を。

二枚。二皿。

いつもの、二人分。

リゼットはセドリックの前に皿を置いた。

「どうぞ」

セドリックがパンケーキを手で割った。いつものように。指先で半分に。断面からほわりと湯気が立つ。霜花蜜が浸みて、淡い金色に光っている。

口に運んだ。

咀嚼(そしゃく)

リゼットは向かいの椅子ではなく——隣に座った。自分のパンケーキをちぎった。口に入れた。

甘い。

バターの風味と、霜花蜜の透明な甘さ。いつもと同じ味のはずだった。同じ素材で、同じ配合で、同じ焼き加減で作ったのだから。

でも——今朝のパンケーキは、今までで一番甘かった。

「……悪くない」

セドリックの声。いつもの二文字。最上級の褒め言葉。

「ありがとうございます」

窯の奥で薪がひとつ崩れた。朝日が窓から差し込んで、工房を暖かい金色に染めている。

二人分のパンケーキ。二つの椅子。朝の光。

当たり前の朝が——戻ってきた。


工房の扉が勢いよく開いたのは、セドリックが二枚目のパンケーキを食べ終わった直後だった。

「リゼ! 大丈夫かい、昨日の手紙——」

マリーが飛び込んできた。息を切らしていた。エプロンを付けたまま、手に木べらを握ったまま。宿屋から全力で走ってきたのが分かった。

そして——工房の中を見た。

窯に火が入っている。焼きたてのパンケーキの匂い。作業台の上の二枚の皿。

セドリックが椅子に座っている。リゼットが隣に座っている。

二人の手が——作業台の下で、つながっていた。

マリーは木べらを下ろした。

大きく息を吸って——吐いた。

「…………やっとかい」

呆れた声。安堵した声。泣きそうな声。全部が混じった声だった。

セドリックが視線を逸らした。耳が赤い。

リゼットは——笑った。

「マリーさん。婚礼菓子を焼くことになりました」

マリーが——目を(まばた)いた。

一拍。二拍。

「婚礼——」

三拍目で、意味が通じた。

「婚礼菓子ァ!?」

大きな声。工房の壁に反響して、窯の中で火がぱちぱちと弾けた。

「ちょっと! セド! あんた、プロポーズの言葉が『婚礼菓子を焼いてくれ』なの!?」

セドリックが——黙った。耳だけがさらに赤くなった。

「信じらんない……あたしが泣けてくるよ……もうちょっとマシな言い方あるでしょ……」

マリーが木べらで自分の額を叩きながら、天を仰いだ。

でも——目が、赤かった。

「でも——」

マリーが二人を見た。温かい茶色の目が、二人を交互に見た。

「よかったね」

小さな声だった。いつもの大きな声ではなく。宿屋の女将の声ではなく。幼馴染の、友人の——家族の、声。

「よかったね、セド。リゼ」

リゼットの目から——また涙が出た。

今日は、よく泣く日だ。

「マリーさん——ありがとうございます。マリーさんがいなかったら——わたし、ずっと壁を——」

「泣くのは婚礼の日まで取っときなよ!」

マリーがハンカチを投げた。宿屋の石鹸の匂いがするハンカチが、リゼットの膝に落ちた。

「さて——」

マリーが腰に手を当てた。いつもの姿勢。女将の顔に戻った。

「婚礼菓子ってことは、婚礼があるんだね。準備するものが山ほどあるよ。招待状、衣装、会場——まず辺境中に知らせなきゃ。うちの領主さまがやっとお嫁さんもらうんだから、村中で祝わないと」

セドリックが立ち上がった。

「……見回りに行く」

「逃げるんじゃないよ!」

マリーの声を背に、セドリックが工房を出ていった。でも——扉の前で、一瞬だけ足を止めた。

振り返った。

リゼットを——見た。

何も言わなかった。青灰色の目が、朝の光の中で——柔らかかった。今まで見たことがないくらい。

それだけで——十分だった。

扉が閉まった。セドリックの足音が遠ざかっていく。北に向かう足音。いつもの、規則正しい歩調。

でも今朝は——ほんの少しだけ、軽かった。


マリーが帰った後。

リゼットは一人、工房に残った。

作業台の上に、勅書がある。金色の封蝋。王家の紋章。

手に取った。

読み返さなかった。折りたたんで、棚の奥にしまった。返事は——書く。丁寧に。感謝を込めて。でも、答えはもう決まっている。

わたしの厨房は、ここにあります。

窯の火が安定してきた。石の壁が温もりを蓄えて、工房全体がじんわりと暖かい。バターと蜂蜜と小麦粉の匂いが、空気に溶けている。

リゼットは——明日の朝のことを考えていた。

何を焼こう。

パンケーキでもいい。フィナンシェでもいい。黒胡桃のクッキーでもいい。

何でもいい。シンプルなものがいい。

二人分。明日の朝の。

——毎朝の。

エプロンの紐を結び直した。袖をまくった。指先の火傷跡が、窯の光に白く光った。

菓子師の手が——動いている。

止まらない。もう、止まらない。

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