S07-P01 追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります

第1話: 追放の朝

第1アーク · 3,511文字 · draft

「お前に残すものなど何もないが——まあ、あの廃墟の権利書くらいはくれてやる」

父の声を聞きながら、私の頭はもう別のことを考えていた。
 ——廃墟。立地は? 築年数は? 周辺環境は?

早朝のルヴェール伯爵邸は、まだ薄闇に沈んでいた。使用人たちが動き始める前の、しんと冷えた空気。私は自室で最後の荷物を詰めていた。
 荷物と言っても大したものはない。動きやすい服が三着。下着の替え。洗面具。それと——革表紙の手帳が一冊。
 宝飾品は一切持ち出さなかった。持ち出す気もなかった。宝石は食べられないが、知識は腐らない。
 手帳は前世から持ち越した唯一の武器だ。いや、この世界に転生してから自分で買ったものだけれど、中に詰め込まれた知識は確かに前の人生のもの。旅館の動線設計、顧客分析の手法、価格戦略の基礎——コンサルタントとして十年間、二百軒の宿を見て回った記録の断片。

三ヶ月前のことを思い出す。

父が再婚したのは、私が十七のときだった。新しい母——イルマは商家の出で、金銭感覚に()け、何よりも野心の塊のような女性だった。
 彼女が連れてきた娘、クラーラは私より二つ下。柔らかな金髪に青い瞳、令嬢然とした物腰。社交界の花と呼ばれるのにそう時間はかからなかった。
 対する私は——数字ばかり追いかける変わり者の長女。領地の会計帳簿を読み、税収の最適化案を父に出し、商人との取引条件を交渉する。伯爵令嬢としては、まったくもって型破りだった。
 イルマはそんな私を目障りに感じたのだろう。巧みに父の耳に囁き、少しずつ私の居場所を削っていった。
 最初は些細なことだった。会議の時間が「うっかり」伝えられない。書類が「間違って」クラーラの部屋に届く。社交の場では「あら、セラフィーナ様はご体調が優れないそうで」と勝手に欠席の挨拶をされる。
 一つ一つは小さい。だが積み重なると、私の存在は邸の中で薄くなっていった。
 そして三ヶ月前——決定的な一手が来た。
 イルマが父に進言した。「領地経営はクラーラに任せるべきです。セラフィーナ様には……辺境の静養がよろしいのでは?」
 父は頷いた。それだけだった。
 領地経営の会議から外され、社交の場にも呼ばれなくなり、最後には——

「セラフィーナ」

書斎の扉を開けると、父が椅子に深く腰掛けていた。窓の外はまだ暗い。机の上の燭台だけが、疲れた顔を照らしている。
 父は昔から決断の遅い人だった。でも、いったん誰かに流されると止まらない。今の父を動かしているのは、イルマの意志だ。

「これが権利書だ」

差し出された羊皮紙を受け取る。古びた封蝋には、見覚えのない紋章が押されていた。

「ミストヴァレーの温泉郷にある旅館の——まあ、二十年前に潰れた廃墟だがな。お前の母方の祖母の縁で、うちの家に権利だけが転がり込んできた」

父の目は私を見ていなかった。視線は机の上の書類に落ちている。罪悪感があるのかもしれない。でも、それを表に出すほどの強さも、この人にはない。

「辺境も辺境だ。使い道なんぞないが、お前の好きにしろ」

好きに、しろ。
 その言葉が不思議と軽く響いた。

権利書を広げる。黄ばんだ紙の上に、几帳面な文字で記されていた。

——所在地:ミストヴァレー温泉郷。物件名:銀泉楼(ぎんせんろう)。構造:木造三階建、別棟二棟、大浴場三棟。敷地面積:約三千坪。

三千坪。
 大浴場が三つ。

——心臓が、跳ねた。

「……父さま」
「なんだ」
「この旅館、全盛期の客室数は?」
「は? そんなこと知るか。古い廃墟だぞ。行くだけ無駄だ」
「敷地三千坪で木造三階建てなら、客室は二十から三十。大浴場が三つもあるなら、それぞれコンセプトが違うはず。露天、内湯、蒸し風呂——」

父が怪訝(けげん)な顔で私を見た。

「……お前、何を言っている」

しまった。つい、前世の分析癖が出た。
 伯爵令嬢が旅館の客室数を逆算するのは、確かにおかしい。でも口が止まらなかった。前世の血が騒ぐ。

「いえ、なんでもありません。ありがたく頂戴します」

権利書を丁寧に折り畳み、大切に手帳に挟んだ。父は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
 それが、私と父の最後の会話だった。

邸の裏口から出る。正面玄関は使わせてもらえなかった。イルマの指示だろう。
 廊下を歩いていると、角でクラーラと擦れ違った。義妹は寝巻き姿で、私を見て少しだけ眉を寄せた。

「……お姉様、本当に行くの?」

クラーラの声には、同情でも悪意でもない、よくわからない感情が混じっていた。この子自身は、たぶん悪い子ではない。母親の駒にされているだけだ。
 でも今は、そんなことを考えている余裕はない。

「ええ。行ってきます」

それだけ答えて、足を止めなかった。
 まだ暗い中庭を横切ると、厩舎(きゅうしゃ)の脇に馬車が一台停まっていた。辺境行きの乗合馬車だ。御者は欠伸(あくび)をしながら馬に水をやっている。

「お客さん? ミストヴァレー方面は途中までしか行けねぇぞ。あの辺、もう街道が通ってねぇから」

街道が通っていない。
 ——つまり、公共交通の終点から先は自力。アクセスの悪さは集客における致命的なボトルネック。

また分析してしまう。

「構いません。途中まででお願いします」

荷物を載せ、馬車に乗り込む。硬い木の座席。隙間風。王都の豪華な馬車とは比べるべくもない。
 窓の外にルヴェール邸の灯りが見えた。三階の窓に、人影が一つ。クラーラだろうか。あるいはイルマか。

——振り返る必要はない。

手帳を開いた。新しいページに、炭筆で書き始める。

『物件調査——ミストヴァレー、温泉郷(元)。所在:王国東端・山間盆地。まずは現地確認。チェック項目:泉質、建物の構造的健全性、周辺インフラ、地域人口、競合施設の有無』

書きながら、前世の記憶が鮮やかに(よみがえ)ってくる。

宮原咲良(みやはらさくら)。三十四歳。旅館コンサルタント。
 大手コンサルファームに所属し、全国の旅館やホテルの再建を手がけた。十年で二百軒。赤字旅館を黒字に変え、廃業寸前の宿を予約の取れない名宿に変えた。
 数字を読み、戦略を立て、人を動かす。それが私の仕事だった。
 でも——いつも「見ている側」だった。

クライアントの旅館が息を吹き返す瞬間を、何度も見た。女将が泣きながら「ありがとう」と言ってくれる場面も。嬉しかった。誇らしかった。
 それでも心のどこかで、ずっと思っていた。

いつか、自分の手で、宿を作りたい。

一から。自分の理想を全部詰め込んだ、世界で一つだけの宿を。

——その夢は、叶わなかった。三十四歳の冬、デスクの上で意識を失い、そのまま目を覚まさなかった。過労死。たった一行で片づけられる、味気ない結末で。
 最期に見た景色は、蛍光灯の白い光だった。デスクの上の書類——次のクライアントの旅館の再建計画書。それを読みながら意識が途切れた。
 「自分の宿」を作る夢は、書類の山に埋もれたまま死んだ。

次に目を開けたとき、私は赤ん坊だった。
 異世界の伯爵令嬢、セラフィーナ・ルヴェール。魔法があり、温泉があり、地脈と呼ばれる大地の力がある世界。
 前世の記憶はぼんやりと残っていた。成長するにつれて鮮明になり、気づけば私は領地の経営を数字で回す「変わった令嬢」になっていた。社交界では浮いていた。でも数字の世界では、誰にも負けなかった。

そして今。
 追放。廃墟の権利書。辺境の温泉郷。

普通なら、泣くところだろう。
 令嬢が何もない辺境に一人で送られる。理不尽だ。悔しい。惨めだ。

——でも。

馬車の小さな窓を開けた。早朝の冷たい風が頬を撫でる。

でも私は、笑っていた。
 ただ、笑いながらも指先は冷えていた。前世で一度、夢のために体を壊した。あの蛍光灯の白い光の下で終わる結末だけは、もう二度と選ばない。
 今度は走り方を間違えない。夢に殉じるんじゃない。夢と生きる。

廃墟だろうと何だろうと構わない。大浴場が三つもある旅館の権利書が、今この手の中にある。温泉郷。地脈の魔力。三千坪の敷地。
 前世で叶えられなかった夢が——今まさに、目の前に転がり込んできた。

手帳のページをめくり、次のページに大きく書いた。

『プロジェクト名:銀泉楼再建』

その下に、小さく。

『——今度こそ、自分の手で』

馬車が走り出す。王都の石畳が砂利道に変わり、景色が平野へと開けていく。
 隣の席で商人が居眠りしている。荷台には樽と布の包みが積まれ、馬車が揺れるたびにがたがたと音を立てた。
 窓の外を流れていく景色——麦畑、果樹園、小さな集落。どこにでもある平凡な風景が、今日はやけに輝いて見えた。
 追放された。何もかも失った。でも——手帳がある。知識がある。そして目的地がある。

振り返らなかった。

前を向いた。手帳を握りしめて、ただ前だけを。

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