S07-P01 追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります

第2話: 霧の谷へ

第1アーク · 3,416文字 · draft

街道から外れて三日。道はどんどん細くなり、すれ違う人もいなくなった。
 ——通行量ゼロ。これは、まずい。

最後の宿場町で乗合馬車を降りたのは三日前だ。そこから先は馬車の通れる道がなく、徒歩で山道を進むしかなかった。
 御者は「本当にあっちに行くのかい?」と心配そうな顔をしていた。「ミストヴァレーなんて、もう何年も人が行った話を聞かねぇぞ」と。

前世の私なら、こう分析していただろう。
 ——交通アクセスの断絶は、観光地にとって死刑宣告に等しい。どれほど優れた観光資源があっても、「行けない場所」に客は来ない。

山道を歩きながら、手帳にメモを取る。

『アクセス状況:最寄り宿場町から徒歩三日。馬車不可。荷馬は通れるが実用的でない。これだけで集客は絶望的——要改善(最優先課題の候補)』

足が痛い。令嬢の靴は山道向きではない。宿場町で買った革の編み上げ靴に履き替えてはいたが、それでも足の裏にマメが三つできた。
 前世では都内を革靴で駆け回っていたから、歩くこと自体は苦にならない。けれど未舗装の山道は別だ。石に(つまず)き、木の根に足を取られ、何度も転びそうになった。

——でも、景色は美しかった。

街道を外れた途端、世界が変わった。
 深い緑の針葉樹が両側にそびえ、木漏れ日が苔むした地面に落ちる。空気は澄んで、吸い込むと胸の奥まで洗われるようだった。前世のオフィスの空調とは、次元が違う。
 小川がいくつも山道を横切って流れ、水は驚くほど透き通っている。手を浸すと冷たく、わずかに甘みがあった。

手帳に書く。

『自然環境:優秀。原生林と清流のポテンシャルは高い。前世の奥入瀬渓流に匹敵するか。遊歩道を整備すれば、これだけで半日コンテンツになり得る』

書いてから、苦笑した。まだ目的地にも着いていないのに、もう観光プランを考えている。これだから元コンサルは困る。

三日目の午後。
 長い上り坂を登り切ると、そこは峠だった。風化した石柱が道の脇に立っている。彫り込まれた文字を読むと——

『エルデン峠 ミストヴァレー温泉郷入口』

温泉郷入口。
 その言葉に心臓が跳ねた。三日間歩いた疲労が、一瞬で消し飛んだ。
 石柱の根元に花が供えてあった。もう枯れているが、誰かがここに花を置いた。この峠を通る人間がいる証拠だ。完全に忘れ去られたわけではない。

峠の先は下り坂だった。一歩、また一歩と降りていくと——

霧が、湧いた。

突然だった。足元から白い(もや)がわき上がり、あっという間に視界を包む。冷たくはない。むしろほんのりと温かく、肌に触れると微かに湿る。
 前世の知識が(ささや)く。温泉地特有の蒸気霧だ。地中の温泉が気化して地表に漂う現象。これがあるということは——地下に温泉がある証拠。しかもこの霧の温かさと濃さから推察するに、かなり大規模な源泉がある。

霧の中を下りていく。十分ほど歩くと、突然視界が開けた。

息を呑んだ。

眼下に谷が広がっていた。
 北と南を山に挟まれた盆地。中央を一筋の川が蜿蜒(えんえん)と流れ、南の斜面には段々になった棚田が連なっている。
 夕方の陽が斜めに差し込み、谷全体を琥珀色に染めていた。川面が光を(かえ)し、霧がその光を拡散して、谷の空気そのものが淡く輝いている。

——美しい。

前世で何百という温泉地を見てきたけれど、この景色は格別だった。
 スケール感、自然の調和、光と霧の演出——計算では作れない、天然の絶景。

手帳を開く手が震えていた。

『立地評価:S。景観だけで宿泊動機になり得る。谷全体の雰囲気づくりが秀逸。これは——磨けば、化ける』

峠道を下り、谷底に近づくにつれて町の輪郭が見えてきた。
 石畳の小さな広場。その周りに建物が肩を寄せ合うように並んでいる。
 だが——

店の半分以上は閉まっていた。

板を打ち付けられた窓。色褪(いろあ)せた看板。軒先に草が伸び放題の空き家。
 広場の中央に噴水があったが、水は細く、かろうじて流れている程度だ。
 人の姿もまばらだった。夕方だというのに、通りを歩いているのは数人の老人だけ。

町の入口に木の看板が立っていた。

『ようこそ 霧の谷 ミストヴァレーへ』

文字は半分以上消えかけ、看板自体も傾いている。留め具が一つ外れて、風が吹くたびにぎいぎいと揺れた。

手帳を取り出す。

『町の現状(第一印象):人口推定八十〜百。商店五軒以下(営業中)。宿泊施設——なし。インフラ老朽化。高齢化率——推定六十パーセント以上。活気指数……測定不能(ゼロに近い)』

書いていて、胸が痛くなった。数字にすると残酷だ。この町は、死にかけている。

広場を横切ると、一軒だけ灯りの()いた建物があった。看板には『霧亭(きりてい)』と書かれている。食堂のようだった。開け放たれた窓から、料理の匂いが漏れてくる。温かく、どこか懐かしい匂い。
 覗き込むと、奥のカウンターで白髪の老婦人が鍋を掻き混ぜているのが見えた。背筋が真っ直ぐで、厳しそうな横顔。
 目が合いそうになって、慌てて通り過ぎた。

——後でちゃんと挨拶に来よう。あの食堂は町の情報収集に使える。

看板の裏に回り込んだとき、古い案内板が釘で打ち付けてあるのに気づいた。木の板に薄く彫り込まれた文字。

『エルデン街道 → この先 通行止め』

案内板は相当古い。文字は風化してほとんど読めない。だが「通行止め」の部分だけ、わずかに塗料が残っていた。

——通行止め?

エルデン街道は、かつてこの町を通る主要街道だったはずだ。それがルート変更された——権利書の添付資料にそう書いてあった。
 街道のルート変更。それが町の衰退の原因とされている。

だが、なぜ?

街道のルート変更は、通常、地形の問題か政治的な判断で行われる。峠道を歩いた感覚では、地形的に通行不能な場所はなかった。むしろ、ルートとしてはこの谷を通る方が自然だ。
 政治的な判断……。誰が、何のために?

首を傾げながら先に進む。今は情報が足りない。後で調べよう。

町を抜け、ゆるやかな坂道を登っていく。石段が現れた。苔に覆われて滑りやすいが、段の一つ一つが広く、造りがしっかりしている。

石段を登りながら数えた。二十段、四十段、六十段……。全部で百段ほどあった。前世なら「エレベーターの設置を検討してください」と進言するところだ。だが異世界にエレベーターはない。
 石段自体は立派だった。一段ごとに丁寧に切り出された石が使われ、両脇には灯籠(とうろう)の台座が並んでいる。灯りは消えているが、かつてはこの石段全体が照らされていたのだろう。

——導入演出としては悪くない。石段を登るという行為自体が、日常から非日常への切り替えスイッチになる。前世でも「階段のある旅館」は評価が高かった。

息を切らせて石段を登り切ると、丘の上に出た。
 振り返れば、谷全体が一望できる。夕焼けに染まる棚田、蛇行する銀色の川、霧に煙る山々——。

そして前を向くと。

霧の向こうに、巨大な建物のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。

崩れかけた屋根の輪郭。(つた)に覆われた壁。割れた窓から覗く暗い内部。
 正面の柱は太く、苔が張りついているが、まだしっかりと建っている。玄関の上には、風雨に晒されて読めなくなった扁額(へんがく)が掛かっていた。

目を凝らす。

——銀泉楼。

かろうじて、三文字が読み取れた。

膝が震えた。疲労のせいではない。
 三日間歩いて、ようやくたどり着いた。これが——私の旅館。

霧が流れて、建物の全容が一瞬だけ見えた。
 三階建ての本館。その左右に延びる別棟。奥に大きな浴場らしい建物が複数。庭は荒れ放題だが、広い。

手帳を取り出す手が、また震えた。でも今度は、興奮だった。

『現地到着。物件外観調査——第一印象。規模:想定以上。建物の基礎構造は生きている可能性あり(柱が残っている)。敷地面積:権利書の記載通りなら三千坪。景観:谷を一望。東に棚田、北に山、南に連山——これだけで一泊の価値がある。明朝、内部調査を実施する』

最後の一行を書き加えた。

『——最高の物件かもしれない』

日が沈みかけている。今夜はこの建物のどこかで一晩を明かすしかない。
 荷物を下ろし、崩れた玄関をくぐった。

足元に気をつけながら、暗い内部に踏み入る。月明かりが壊れた窓から差し込んで、埃の粒子が銀色に舞っている。

埃と苔の匂い。微かに——ほんの微かに——温かい空気が、地下から立ち上ってきた。
 ——源泉が、まだ生きている。
 その確信が、体の芯に灯りを点した。ここで眠ろう。明日から、全てが始まる。

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