苔むした石段を登った先に、それはあった。
崩れかけた屋根、蔦に覆われた壁、割れた窓——
「最高の物件じゃない、これ!」
朝だった。
昨夜は銀泉楼の玄関脇、かろうじて屋根の残っている軒下で眠った。硬い石の床に外套を敷いただけの野宿。背中が痛い。
でも目が覚めた瞬間、痛みなんて吹き飛んだ。
朝靄の中に佇む銀泉楼は、昨夜の暗がりで見たときとはまるで違った。
朝日が東の山から差し込み、霧を透かして建物全体を柔らかく照らしている。蔦の緑と苔の緑が重なり合い、廃墟というより——森に抱かれた古城のようだった。
手帳を開いて、物件調査を始める。
まず外観。
正面の柱は四本。太さは直径五十センチ以上。前世の感覚で言えば、国産の巨木を使った本格的な和風建築——いや、この世界では魔法建築か。
柱に手を触れた。冷たい石の表面の下に、微かな硬さが残っている。登記上は木造でも、柱材は石化強化されていて石造同等の硬度を持っている。これなら二十年の風化にも耐える。
「基礎は生きてる……!」
壁を叩いてみる。中空の音がしない。詰まっている。構造体は健全だ。
屋根は一部が陥没しているが、全体の三分の二は形を保っている。修復不可能ではない。
建物の中に入った。
玄関を抜けると、広い土間があった。かつてはここが帳場だったのだろう。カウンターの残骸と、朽ちかけた看板が壁に掛かっている。
その奥に広間。天井が高い。梁が太く、そこにも魔法の残滓が感じられる。前世で見た木造旅館とは違う。この世界の建築は、魔法で材を強化するから根本的に耐久性が違うのだ。
手帳に書き殴る。
『構造評価:A。魔法建築の恩恵。柱・梁・基礎は二十年の放置にも耐えている。屋根と壁の表面は修復が必要だが、骨格さえ生きていれば——再建コストは一から建てる場合の三分の一以下に圧縮できる』
一階を歩き回る。厨房、客間、広間、廊下——。
廊下が長い。折れ曲がり、階段を上がり、また折れ曲がる。
「動線が……回遊式だ」
思わず声が出た。
この建物は、客が歩いて楽しめるように設計されている。廊下の曲がり角ごとに窓があり、それぞれが異なる方向の景色を切り取っている。北の山、南の棚田、東の渓谷——。
計算された配置だ。設計した人間は、この谷の景観を知り尽くしていた。
二階に上がる。客室が並んでいた。
障子は破れ、畳に相当する敷物は朽ちている。だが部屋の広さ、天井の高さ、窓の位置——一つとして同じ間取りがない。
「全室、景色が違う……。これは、相当な腕の建築家が手がけてる」
手帳のページが足りなくなりそうだった。三階まで見て回ると、全三十室。うち半分は修復可能と見た。残り半分は大規模な手入れが要る。
次は大浴場だ。
本館から渡り廊下を通って、別棟に向かう。渡り廊下の床板が何枚か抜けていて、慎重に歩いた。
一つ目の浴場——壱の湯。
扉を開けた瞬間、声が出た。
「……嘘でしょ」
岩風呂だった。
巨大な自然石を組み上げた浴槽が広がっている。天井はなく、屋根は崩落して空が見えた。だがそのおかげで——
目の前に、谷を一望するパノラマが広がっていた。
湯船に浸かれば、正面に棚田と山々、眼下に渓谷と川。朝なら朝霧の中に浮かぶ絶景、夜なら満天の星空。
前世でも、これほどのロケーションの露天風呂はそうそう見たことがない。
『大浴場・壱の湯(岩風呂・露天):立地はSSS級。天然の岩組みは修復不要。屋根を新設すれば復旧可能。ここだけで集客の核になり得る——一泊の価値がある風呂』
二つ目の浴場——弐の湯。屋内の檜風呂——この世界では霧杉風呂か。木の香りは消えかけていたが、浴槽の造りは丁寧だった。
三つ目——参の湯。蒸し風呂。地脈蒸気を利用した、この世界版のサウナ。設備は壊れているが、仕組みが理解できれば復旧は難しくない。
そして——地下への階段を見つけた。
暗い石段を、灯り一つで降りていく。空気が変わった。湿度が上がり、微かに硫黄とは違う、鉱物質の匂いがする。
地下は回廊のようになっていた。苔むした石壁の通路が奥へと続いている。壁の苔の一部が、微かに——本当に微かに——光っている。地脈の魔力だ。
通路の突き当たり。
小さな石室があった。中央に窪みがあり、そこから——
湯が、湧いていた。
ほんの少し。指先を浸せる程度の、細い細い流れ。だが確かに、温かい水が地中から湧き出ている。
指を浸した。
じわり、と熱が指先から腕に伝わった。温かいだけではない。肌がすべすべになる感覚。微かな魔力の波動が、体の芯に届くような心地よさ。
「……いい泉質」
呟いてから、目を閉じた。
前世で何度も経験した。源泉に指を浸す瞬間。温泉の「格」は、一秒で分かる。
この源泉は——上等だ。本物の、一級品。
弱まっている。明らかに全盛期の何分の一かしか湧いていない。でも、泉質そのものは生きている。
目を開けた。暗い地下室で、一人。
涙が、勝手に零れた。
——前世の夢が、ここにある。
すぐに拭った。泣いている場合じゃない。
手帳を開いて、震える手で書いた。
『源泉:生存確認。湧出量は微弱だが泉質は一級。これが最大の武器。源泉が生きている限り、この旅館は蘇る可能性がある。要調査:湧出量の減少原因、回復の可能性、泉質の詳細分析』
走り書きの下に、SWOT分析を書き加えた。前世の癖だ。
『【強み】泉質(一級)/ 建物基礎(魔法建築で堅牢)/ 景観(SSS級)/ 立地(谷全体の観光ポテンシャル)
【弱み】アクセス最悪 / 資金ゼロ / 人材ゼロ / 源泉弱体化 / 知名度ゼロ
【機会】競合不在 / 食材資源(調査中)/ 温泉需要は普遍的
【脅威】衰退する町の空気 / 原因不明の源泉弱体化 / 不明な政治的要因(街道ルート変更の謎)』
分析結果は、客観的に見れば絶望的だ。弱みと脅威が強みを大きく上回っている。
でも——私はコンサルタントだ。二百軒の旅館を見てきた。これより悲惨な物件も立て直した。
大事なのは、磨けば光る「核」があるかどうか。
ここには、ある。源泉と、景観と、建物の骨格。三つ揃っている。
地下から出て、朝の光の中に立った。深呼吸。霧の混じった空気が肺を満たす。
「やる」
声に出した。誰もいない廃墟の前で、一人。
「この旅館を、蘇らせる」
町に下りた。
まっすぐエミール町長の家に向かう。
町長の家は、広場に面した石造りの二階建てだった。一階が役場を兼ねていて、磨りガラスの窓に『ミストヴァレー町長 エミール・ヴァイス』と掲げてある。文字は丁寧だが、建物そのものがくたびれていた。
扉を叩く。
「は、はいっ!」
慌てた声がして、しばらくガタガタと物音がした後、扉が開いた。
目の前に立っていたのは、痩せた中年の男だった。薄くなった茶髪を丁寧に整え、くたびれたフォーマル服を着ている。眼鏡を神経質に直しながら、私を見た。
「あの……どちら様で? 旅のお方ですか? いえ、この町に旅の方が来るのは珍しいもので……」
「セラフィーナ・ルヴェールと申します。こちらの町長さんでしょうか?」
「え、ええ。エミール・ヴァイスです。ルヴェール……伯爵家の?」
権利書を差し出した。エミールの薄い青色の目が大きく見開かれる。
「銀泉楼の……権利書?」
「はい。先日、父からこの物件を譲り受けました。所有権の確認と、各種手続きをお願いしたいのですが」
エミールは権利書を何度も読み返した。封蝋の紋章を確かめ、署名を確認し、日付を見る。
そしてようやく顔を上げた。困惑と、微かな恐怖が浮かんでいた。
「あの……ルヴェール様。この権利書が本物であることは、確認できました。ですが——あの建物を、どうなさるおつもりで?」
「再建します」
即答した。エミールが固まった。
「は……?」
「銀泉楼を修復して、旅館として再建します。源泉はまだ生きています。建物の骨格も健全です。再建のポテンシャルは十分にある」
エミールの眼鏡が、かくんとずり落ちた。
「い、いえ、あの……お気持ちはわかりますが、ルヴェール様。あの廃墟を再建するなんて——無理ですよ。人も、お金も、何もかも足りません。この町にはもう……」
「足りないのは知ってます」
手帳を開いて見せた。今朝書いたばかりのSWOT分析。
「弱みは山ほどあります。でもご覧ください——強みも確かにある。泉質は一級。建物の基礎は魔法建築のおかげで生きている。何より、この谷の景観。あの露天風呂から見える景色だけで、一泊の価値があります」
「は、はあ……」
エミールは圧倒されていた。手帳に書かれた数字と図表を、ぽかんと見つめている。
「もちろん、一度にやるつもりはありません。まず一室だけ修復して、最小コストで『この宿にはポテンシャルがある』と証明する。フェーズを分けて段階的に——」
「あ、あの、ルヴェール様」
「セラフィーナで構いません」
「セラフィーナ様。その……お一人で、ですか?」
ふ、と笑った。
「今は一人です。でも、数字は嘘をつきません。ポテンシャルがある場所には、人が集まります」
エミールはしばらく黙っていた。神経質に眼鏡を直し、視線を手帳と私の顔の間で行ったり来たりさせている。
「……所有権の確認手続きは、私の権限でできます。台帳に登録すれば、正式に銀泉楼はあなたの所有物件になります」
「ありがとうございます。それと、もう一つ。営業許可の手続きについても教えていただきたいのですが」
その瞬間、エミールの顔が曇った。
明らかに、何かを恐れている。
「営業許可は……その……」
言い淀む。視線が泳いだ。
「この地域で旅館を営業するには、王国の巡回監査官の承認が必要でして……」
「巡回監査官?」
「はい。ディートリヒ・ハイネ殿という方です。定期的にこの地域を巡回されていて、商業施設の営業認可は全てハイネ殿の管轄で……」
エミールの声が小さくなっていく。
「あの方が来ると、いつも何かが止まるんです。新しい商店を出そうとした人がいたんですが、認可が下りなくて……結局、諦めて町を出てしまいました」
「去年は薬草店を開こうとした夫婦がいたんです。申請は受理されたのに、追加書類が三度も来て……半年待っても許可は下りなかった。借金だけ残って、北の町へ移りました」
「どんな方なんですか? その監査官は」
エミールの目が揺れた。答えを探すように、天井を見上げる。
「……悪い人では、ないんですが」
歯切れの悪い答えだった。何かを言おうとして、飲み込んでいる。
「エミールさん」
「はい?」
「その監査官のことは、追々調べます。まず今日は、所有権の登録をお願いできますか?」
エミールはほっとしたように頷いた。台帳を取り出し、慣れた手つきで手続きを進める。事務作業は確実だった。こういう人なのだろう。善良で、有能で、でも——何かに怯えている。
手続きを終えて町長宅を出ると、夕方になっていた。
西の空が橙色に染まっている。町の広場を横切りながら、手帳に追記した。
『要注意人物:巡回監査官ディートリヒ・ハイネ。エミール町長が明らかに恐れている。営業許可の壁になる可能性。要情報収集。なぜ新規の商業活動が止められるのか? 街道ルート変更との関連は?』
石段を登って銀泉楼に戻る。百段の石段も、二度目は少し楽に感じた。
旅館の前に立つ。夕焼けに照らされた廃墟が、不思議と温かく見えた。
「ただいま」
言ってから、自分の言葉に驚いた。ただいま。ここに住み始めて一日も経っていないのに。
——でも、そうだ。ここは私の宿だ。私の場所だ。
玄関をくぐり、昨夜と同じ軒下に荷物を置いた。今日は奥の客室を一つ、仮の寝床にしよう。埃を払えば、まだ使える部屋があるはずだ。
廊下を歩く。自分の足音だけが響く。
一階の突き当たり、厨房の隣にある小部屋——元は仲居の控え室か何かだろう——の戸に手をかけた。
そのとき。
奥の廊下の先に、灯りが見えた。
——灯り?
微かな光。蝋燭ではない。もっと冷たい、青白い光。廊下の角を曲がったあたりから漏れている。
人の気配がした。
息を潜める。荷物を静かに下ろし、壁に手をつきながら光の方へ近づいた。
廊下を進む。角を曲がると、光はさらに奥から漏れている。二階への階段を上がり、奥まった一室——
扉が半開きだった。
隙間から覗き込む。
部屋の中には、本が積まれていた。大量の本と、見たことのない計測器具。革の鞄から溢れた地図。壁に貼られた図面。蝋燭ではなく魔法の灯りが、部屋全体を青白く照らしている。
そして——部屋の奥に、人影。
誰かが、ここに住んでいる。
私の旅館に。