「——誰だ」
薄暗い廊下の奥、本と計測器に囲まれた部屋で、男が振り返った。
無愛想な緑の目が、私を値踏みするように見た。
背が高い。暗い藍色の髪を無造作に伸ばし、旅人風の外套を着崩している。手元には何か光る器具——計測器のようなものを握っていた。
部屋の中は本の山だった。壁際に積み上げられた専門書、床に広げられた地図、机の上に散乱する筆記具。そして奥の窓際に寝袋が敷いてある。
——明らかに、ここで暮らしている。
「あの、ここは——」
「質問したのは俺の方だ。あんた、誰だ。なぜこの建物にいる」
冷たい声だった。警戒しているのか、苛立っているのか。たぶん両方だ。
「セラフィーナ・ルヴェールです。この建物の——所有者です」
権利書を見せた。男の緑の目が、一瞬だけ驚きで揺れた。
「……所有者?」
「昨日、エミール町長のところで正式に登記しました。この旅館は私の所有物件です。——ということは、あなたは不法占拠者ですね?」
沈黙が落ちた。男は権利書を一瞥し、それから私の顔を見た。
「……所有者が二十年放置した建物に、不法も何もないだろう」
声のトーンが変わった。警戒から、面倒くさそうな無関心に。
「放置したのは私ではありません。とにかく、ここは私の物件です。出ていってください」
「断る」
即答だった。振り返って計測器に向き直る。私の存在を完全に無視している。
「断る、って——」
「あんた、この建物の何を知ってる? 地脈の調査が終わっていない。ここは王国でも有数の地脈の合流点だ。二年間の調査データが全てこの部屋にある。今さら出て行けと言われてもな」
二年間。この人は二年もここに住んでいるのか。
「地脈の調査……あなた、学者さん?」
「地脈学者だ。ノア・ヴェステルンド。王立学院卒」
名乗るというより、事実を述べただけという口調だった。私を見ようともしない。計測器の目盛りを読んで、手帳に数字を書き込んでいる。
王立学院は、この王国の最高学府だ。そこを出た学者が、なぜ辺境の廃墟に二年も住んでいるのか。
——ちょっと待て。コンサルの目が覚醒した。
私の目が、部屋に積まれた資料に引き寄せられた。
地脈の地図。色分けされた等高線と、三本の線が谷底で交差している。
温泉成分の分析表。数値がびっしり並んだ表に、赤いペンで注釈が入っている。
建物の構造メモ。柱の位置、壁の厚さ、地下通路の見取り図——
「……あなた、この建物の構造を調べたんですか?」
思わず声が上がった。構造メモを手に取りそうになって、ノアに手を払われた。
「触るな。——地脈調査の一環だ。建物自体には興味がない」
「じゃあこの成分分析は? 源泉の泉質データ」
指差した先に、詳細な分析表があった。源泉の温度、pH値、含有成分、湧出量の経年変化——。
「……副産物だ」
「副産物にしては精密すぎません? これ、泉質のランク付けまでしてあるじゃないですか。『アステリア王国の温泉泉質評価で上位三パーセントに該当する希少な成分構成』——」
「読むな」
ノアが手帳を取り上げた。だが遅い。私の前世のコンサル脳は、一瞬で数字を読み取っていた。
——上位三パーセント。
昨日、源泉に指を浸して感じた直感が裏付けられた。この泉質は、数字で見ても一級品だ。
「すごい……これ、前世で見た箱根の——」
口が滑った。慌てて閉じる。
「……何だ、今の」
「な、なんでもないです。ええと、独り言です」
ノアが怪訝な目で見ている。まずい。この世界で「前世」は禁句だ。
話題を変える。
「ヴェステルンドさん」
「ノアでいい。肩が凝る」
「じゃあノア。一つ教えてください。この源泉——なぜこんなに湧出量が減っているんですか?」
ノアの手が止まった。
初めて、真っ直ぐ私の顔を見た。
「……それが、わからないから二年もここにいる」
声のトーンが変わった。苛立ちでも無関心でもない——真剣な、学者の声だ。
「地脈は三本ある。北から一本、東から一本、西から一本。谷底——ちょうどこの旅館の地下で合流する。全盛期は三本全てが活発だったはずだ。だが今、活きているのは西脈だけ。北と東は、ほぼ止まっている」
「止まっている? 自然に?」
「それが問題だ。自然な減衰カーブから外れている。地脈は数百年単位でゆっくり変動するものだ。それが二十年で急激に落ちた。不自然すぎる」
ノアが壁に貼った地図を指差す。三本の色分けされた線——北脈が赤、東脈が青、西脈が緑。赤と青の線は途中で細くなり、谷に届く前にほとんど消えている。
「二年間調べて、何かわかったことは?」
「仮説はある。だが証拠がない」
それ以上は言わなかった。唇を引き結び、地図から視線を外す。学者の矜持だろう。証拠のない仮説は口にしない。その姿勢は、前世のデータ重視のコンサルタントとして好感が持てた。
地図を改めて見た。三本の地脈が谷底で交わる——世界でも珍しい地形。この地脈が全て活きていたら、どれほどの温泉が湧くのか。想像しただけで心臓が跳ねる。
私は黙って手帳を開いた。メモを取る。
『地脈三本構造。北脈・東脈が急激に弱体化。西脈のみ生存。ノア・ヴェステルンド(地脈学者)が二年間調査中。原因不明——だが人為的操作の可能性を示唆?』
「あんた、何を書いている」
「現状分析です。——ノア。提案があります」
「聞かない」
「聞いてください。私はこの旅館を再建します。そのためには源泉の状態を正確に把握する必要がある。あなたの地脈データは、私の計画に不可欠です」
ノアが鼻で笑った。
「再建? この廃墟を? 劣化率を見ろ。修復費用だけで金貨三百枚はかかる。集客の見込みもない。街道は通っていない。人手もない。どの数字を見ても不可能に近い」
「数字は私も見てます。だから聞きたいの。地脈のデータ、見せてもらえない?」
正面から言った。ノアの緑の目と、真っ直ぐ向き合う。
長い沈黙があった。
「……勝手にしろ」
ノアが背を向けた。計測器に手を戻す。
「追い出さないなら好きにしろ。俺は調査を続ける。あんたの妄想に付き合う義理はないが、邪魔もしない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。気持ち悪い」
こうして、銀泉楼の奇妙な同居生活が始まった。
追放された伯爵令嬢と、不法占拠の地脈学者。世界一おかしな同居人だ。でも不思議と、居心地は悪くなかった。ノアは私を無視するが、追い出しもしない。それだけで十分だ。
二階の東側がノアの研究室。一階の西側が私の仮住まい。廊下一つ隔てて、同じ廃墟に暮らす二人。
食事は各自で用意する。私は携帯食料と、町で買った干し肉とパン。ノアは——何を食べているのかよくわからない。たまに山から薬草を持ち帰っているのを見かける。お茶だけは淹れているらしい。二階からほんのりとした茶の香りが降りてくることがある。不思議な男だ。
初日の夜。自分の部屋で手帳を開いて、今日の調査結果をまとめていた。
『地脈データは宝の山。源泉の泉質分析、建物の構造調査、地形の等高線図——ノア・ヴェステルンドが二年かけて集めた情報が全部ある。この人を味方に引き込めれば、再建計画の精度が格段に上がる。課題:本人がまったくその気がない』
そのとき、廊下の向こうから微かな声が聞こえた。
ノアが呟いている。独り言だろう。壁越しに聞こえるその声は、昼間の無愛想とは違う、何かに苦しんでいるような響きだった。
「……この地脈の異変、二年調べてもわからない。何かがおかしい」
呟きの後に、紙をめくる音が続いた。深夜まで途切れなかった。
翌朝。廊下で顔を合わせた。
「おはよう」
「ああ」
それだけだった。でも昨日の「誰だ」よりは、ずっとましだった。
朝食を済ませて——といっても干し肉とパンだが——銀泉楼の中を改めて歩いた。ノアの研究室以外の部屋を、一つ一つ確認する。
一階に八部屋、二階に十二部屋、三階に六部屋。合計二十六室。私の見立てより少しだけ少なかった。
大浴場は三つ。東の「朝日の湯」、西の「夕映えの湯」、そして地下の「銀泉」。いずれも荒廃しているが、浴槽の石組みは残っている。
厨房は一階の北側。業務用の大きなかまどが三基。水路が引いてあるが、今は枯れている。
手帳が十ページ埋まった。
一日でこれだけの情報量。この旅館は——調べれば調べるほど、可能性に満ちている。
問題は、その可能性を信じている人間が、今のところ私一人だということだ。
机の上に、私には見えない場所に——『リンドヴァル村』と書かれたファイルが置かれていることを、この時の私はまだ知らない。