S07-P01 追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります

第12話: 自然じゃない

第1アーク · 3,469文字 · draft

「この地脈は、誰かに抜かれている」

ノアの声は、いつもより低かった。

きっかけはハンナの言葉だった。
 昨日、鍵を託してくれた帰り道に言いかけた「地下に……」という一言。あの後、ハンナは何も言わなかった。でも私は引っかかっていた。

朝一番にノアに相談した。

「源泉の徹底調査をしたい。ハンナさんと三人で、地下に降りてもらえない?」

ノアは一瞬だけ目を細め、それから頷いた。

「……ああ。俺もそろそろ、本格的に地下を調べるべきだと思っていた」

ハンナを迎えに行き、三人で銀泉楼の地下に降りた。

古い石段。苔と湿気。蝋燭の灯りが石壁に揺れる影を落とす。
 ハンナが石段を降りながら、低い声で言った。

「昔はここが一番賑やかだった。湯守(ゆもり)が三人いてね、交代で源泉を見張ったもんだよ。湯の色、温度、匂い——少しでも変われば、すぐに報告。ローザ様は毎朝、自分で地下に降りて源泉の状態を確認していた」

石段の先に、源泉回廊が広がっていた。苔むした石壁の通路が、暗闇の奥に延びている。壁の苔が微かに発光している場所がある——地脈の魔力が残っている証拠だ。

ノアが計測器を取り出した。手のひらに収まる大きさの金属の器具。盤面に細かい目盛りが刻まれ、中央の針が微かに揺れている。

「地脈の流量を測る。静かにしてくれ」

三人が黙った。石の通路に、水が滴る音だけが響く。
 蝋燭の灯りが揺れる中、ノアの横顔は研究者そのものだった。普段の無愛想さが消え、代わりに集中力と真剣さが滲んでいる。この人が二年間、一人でやってきたことの重みが、今ようやくわかった。

ノアが通路を進みながら、計測器を壁に当てていく。北へ向かう通路。東へ向かう通路。西へ向かう通路。
 三つの通路が交わる場所——源泉の湧出口がある小さな石室に着いた。微かに温かい湯が、岩の割れ目から染み出している。

ノアが計測器の目盛りを読み、手帳に数字を書き込んだ。次に北の通路に入り、壁に計測器を押し当てる。数歩進むごとに測定を繰り返す。

十分ほどで戻ってきた。表情が険しかった。

「おかしい」

「何が?」

「地脈の流量が、自然な減衰カーブから大きく外れている」

手帳を見せてくれた。グラフが描かれている。横軸が距離、縦軸が流量。

「地脈はゆっくり弱まるものだ。自然な減衰なら、なだらかな曲線になる。だがこの数値は——途中で急激に落ちている」

グラフの線が、ある地点でがくんと折れ曲がっていた。

「北脈と東脈、どちらも同じパターンだ。ある地点を境に、流量が七割以上減少している」

「それは、どういうこと?」

ノアが私を見た。緑の目が暗い。二年間の研究の全てが、この一言に集約されている。

「まるで——誰かが蛇口を絞ったように」

蛇口を絞った。
 地脈の流れを、意図的に制限している——?

「人為的な操作ってこと?」

「断定はできない。だが自然現象では説明がつかない。二年間の調査データ全てが、同じ結論を示している。この地脈の弱体化は——自然のものではない」

沈黙が落ちた。石室の中で、源泉が微かに湧く音だけが聞こえる。

ハンナが、口を開いた。

声が震えていた。

「……先生。あたし、二十年間言えなかったことがある」

ノアと私が同時にハンナを見た。蝋燭の灯りに照らされた老婦人の顔は、何かの重荷を下ろそうとしている人の顔だった。

「ローザ様が倒れる少し前のことだ。見慣れない連中が地下に出入りしていた」

「連中?」

「術師風の男が二人。夜中にだけ来て、朝には消えていた。いつもこの石段を降りていった。何をしているのかわからなかったが——道具を持っていた。黒い石の柱のようなものと、術式の巻物」

黒い石の柱。術式の巻物。

ノアの目が鋭くなった。学者の目ではなく——何かを確信した人間の目。

「ハンナ殿。その二人は、誰かに雇われていた様子はあったか」

「わからない。でも——安い身なりじゃなかった。いい外套を着て、革の鞄を持っていた。自分の意思で来ていた感じじゃない。誰かの指示で動いている——そういう雰囲気だった。あたしは客商売で四十年、人を見てきた。あの連中の目は——仕事で来ている人間の目だった」

「ローザ殿に報告したか」

「しようとした。翌日に——」

ハンナの声が詰まった。

「翌日に、ローザ様は倒れた」

静寂が、重く圧し掛かった。

「……時期が一致する」

ノアが低く言った。

「地脈の急変と、ローザ殿の発病と、その術師たちの出入りが。全て二十年前の同時期に起きている」

「偶然じゃない、ってこと?」

「偶然にしては、要素が多すぎる」

ハンナが目を伏せた。

「あたしは——何もできなかった。ローザ様が倒れて、旅館が閉まって、人が出て行って。あの連中のことを誰かに言おうとしたけど、証拠もないし、相手もわからない。怖くて……二十年、黙ってた」

「ハンナさん」

私はハンナの手を取った。小さな手だった。二十年分の重荷を抱えてきた手。

「今話してくれたことが、とても大事な証言です。あなたは二十年間、一人で守ってくれていたんです」

ハンナの灰色の目に、涙が光った。
 でも流さなかった。この人は、簡単には泣かない。

私は立ち上がった。

手帳を開いて、新しいページに書いた。手が震えていたが、頭は動いている。経営者の顔からもう一つの顔——謎を解く者の顔に切り替わり、前世のコンサル脳が新しい変数を計画に組み込み始めた。

「整理しましょう。——源泉が枯れた原因が人為的なら、原因を取り除けば源泉は戻る。ノア。この謎を解くこと、あなたの地脈研究にも関係ある?」

「……ああ。むしろ、これが俺がここに来た理由だ」

「じゃあ利害は一致する。旅館の再建と、源泉の謎の解明——両方やる」

ノアが頷いた。

ハンナが二人を交互に見て、初めて——二十年ぶりに、笑った。皺だらけの顔に、笑みが広がった。厳しかったハンナの顔が、ローザを語るときとは別の——未来を見ている顔になった。

「あんたたち……頼もしいねぇ」


地上に出た。夕焼けが谷を赤く染めていた。

ハンナは霧亭に戻り、ノアは研究室に上がった。

一人になった私は、手帳を開いた。

計画の最後に、新しい項目を加えた。

『調査事項:源泉枯渇の真因。20年前に何があった?
  疑問1:源泉を枯らしたのは誰か
  疑問2:なぜミストヴァレーを衰退させたのか
  疑問3:ローザさんの死に、それは関係しているのか
  疑問4:街道ルート変更との関連は?
  疑問5:術師を雇った人物——黒幕は誰か』

ローザの鍵を握りしめた。

旅館再建の物語は、もう一つの顔を持ち始めていた。


夜。銀泉楼の広間で、明日の作業計画を立てていた。

ユーディットが厨房を占拠して、何やら実験的な料理を作っている。リュカがその横で目を丸くして見ている。
 ノアが研究室から降りてきて、黙ってお茶を淹れた。三人分。——いつの間にか「たまたま淹れすぎた」という言い訳を使わなくなっていた。

ハンナは先に帰ったが、「明日から毎日来る。掃除の指導をする」と宣言していった。

広間の壁に描いた設計図を眺める。

フェーズ1——『証明』。最初の客が泊まった。売上が立った。人が集まり始めた。

次のフェーズに進む準備は、整いつつある。

でもその前に——この源泉の謎を解かなければならない。源泉が回復しなければ、旅館の未来はない。

手帳を閉じて、窓の外を見た。夜の谷に霧が漂っている。静かな夜だった。でも頭の中は静かではなかった。

旅館の再建と、源泉の謎。二つの物語が一つに重なり始めている。
 前世のコンサル案件は、いつも「経営の問題」だった。赤字の原因は集客不足か、コスト過多か、サービスの質か。原因は必ず経営の中にあった。
 でもこの旅館は違う。衰退の原因が「外部」にある可能性が出てきた。誰かが、意図的にこの町を殺そうとした?

——なぜ?

答えが見つからないまま、目を閉じた。


同じ夜。

王都とミストヴァレーを結ぶ街道を、一台の馬車が走っていた。

窓際に座る砂色の髪の男が、手紙を読んでいる。
 几帳面に整えられた短髪。隙のない身だしなみ。商務省の制服の胸に銀のバッジが光っている。

手紙には蝋で封じられた紋章が押されていた。侯爵家の紋章。

男は手紙を広げた。

——ミストヴァレーに動きがある。確認し、必要なら処置せよ。
 文末に、官僚文書でよく見る「法に従い」や「公益のため」の句はなかった。ただ、処置せよ——命令だけが冷たく残っていた。

男は手紙を折り畳み、静かに革の書類鞄にしまった。

窓の外を見る。薄い灰色の目に、感情は浮かんでいない。

「……ミストヴァレー、か」

呟いて、目を閉じた。

馬車は街道を東に走る。その先に——霧の谷が、待っていた。

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