「あの行商人、泣いてたよ」
ハンナ婆さんが、味噌汁をよそいながら言った。
「宿で泣いたんじゃない。町を出るとき泣いたんだ。『いい町だ』って。——二十年ぶりに聞いたよ、そんな言葉」
霧亭のカウンターで、私は背筋を正して座った。ハンナから「来な」と呼び出されたのは朝一番のことだった。
「お嬢。あんた、本気なんだね」
「はい」
「いいだろう、聞いてやる。お前さんの計画とやらを」
手帳を開いた。フェーズ1から4までの再建計画を、簡単な図を描きながら説明する。ハンナは味噌汁を作りながら黙って聞いていた。一度も口を挟まない。
説明を終えると、ハンナはゆっくりと火を止めた。
「奥に来な」
霧亭の裏手にある小さな座敷に通された。壁には古い写真——いや、この世界にはカメラがない。水彩画だった。大きな建物を背景に、大勢の人が並んでいる。
銀泉楼だ。全盛期の。
ハンナが座敷の隅に腰を下ろした。正座。背筋が真っ直ぐだった。七十二年の歳月を経ても、この人の姿勢は崩れない。——それだけで、どんな教育を受けてきたかがわかる。
「あたしが銀泉楼に入ったのは、十六のときだった」
回想が始まった。
ハンナの声は静かだったが、一語一語に重みがあった。二十年間、誰にも語らなかった記憶を、今初めて解き放つ。
若き日のハンナ。田舎から出てきた少女が、温泉郷の名旅館に新人仲居として雇われる。右も左もわからない。箒の持ち方も知らなかった。——私と同じだ。少し前の自分を見ているようで、胸が痛くなった。
「最初の一年は毎日叱られた。掃除が雑、歩き方が騒がしい、お辞儀の角度が浅い。——でもね、三代目の女将様だけは違った」
ローザ・ベルクヴィスト。銀泉楼の最後の女将。
「ローザ様は、こう言ったんだよ」
ハンナの声が少し柔らかくなった。
「『宿はお客様の家です。お客様が帰ってきたとき、あたたかい灯がある——それが宿の仕事よ』」
全盛期の銀泉楼。客で溢れ、笑顔で溢れ、湯気で溢れていた。
ローザは凛とした人だった。厳しいが温かい。経営者として鋭く、女将としておおらか。客の名前を全員覚え、好みの部屋と好みの料理を全て把握していた。
「朝は誰よりも早く起きて源泉を見に行く。夜は最後の客が寝るまで帳場にいる。あの人は銀泉楼そのものだった」
ハンナの声が遠くを見ている人の声になった。
「いつも言ってた。『お客様の帰る場所を作るのが宿の仕事。帰る場所には、灯りがないとね』って」
前世の記憶と重なった。二百軒の旅館で出会った女将たちの中に、同じことを言った人がいた。本当に宿を愛している人は、みんな同じことを言う。
「ローザ様の下で二十年働いた。あたしの人生は、全部あの宿にある」
街道のルート変更があった。客足が減り始めた。源泉が弱まった。旅館が一つ、また一つと閉じていった。
それでもローザは諦めなかった。「源泉が枯れない限り、この宿はやれるわ」と。
「でも——体がもたなかった」
ハンナの声が震えた。
「源泉が弱まるのと同じように、ローザ様の体も衰えていった。まるで……大地と繋がっているかのように」
ローザは最期の日、ハンナを枕元に呼んだ。
「『いつかこの宿を、心から愛してくれる人が来る。その人に鍵を渡しておくれ』」
ハンナが、割烹着のポケットに手を入れた。
取り出したのは——古い鍵だった。
鈍い銀色の鍵。細かな装飾が施されている。長い歳月で擦り減っているが、ハンナの手のひらの中で微かに輝いていた。
「ローザ様がね、言ってたんだよ。待ってろって。いつか来るって」
ハンナの灰色の目が、真っ直ぐ私を見た。
「十八年待った。……お嬢、お前さんかい。ローザ様が待っていた人は」
鍵が差し出された。
手が震えた。受け取る。ずしりと——物理的な重さ以上のものが手のひらに乗った。
前世の夢。自分の宿を作りたかった。それだけで十分な動機だと思っていた。
でも今、もう一つの夢が重なった。ローザの夢。銀泉楼を愛してくれる人を待つ、十八年越しの願い。
「ハンナさん。この宿を——ローザさんの宿を、必ず蘇らせます」
声が震えた。涙は堪えた。ここで泣いてはいけない。この人は十八年間、泣くのを堪えてきたのだから。
ハンナが目を細めた。
「この老骨でよければ、手を貸すよ。——掃除からだ。角を見なさい、角を。お客様は角を見るんだよ」
その日の午後。
ハンナと二人で銀泉楼に向かった。ハンナが十八年ぶりに石段を登る。息は切れていたが、足は止めなかった。
玄関の敷居を跨いだとき、ハンナが立ち止まった。
「……変わったね。あの子が掃除したんだね」
「はい。一人で」
「角が甘い」
厳しかった。でも口元が少しだけ緩んでいた。十八年ぶりに銀泉楼に足を踏み入れたハンナの目には、私には見えない何かが映っているのだろう。
夕方。霧亭に戻ると、異変が起きていた。
カウンターに見慣れない女が座っていた。赤銅色の髪を後ろで雑に束ね、旅装の上にくたびれた料理人の前掛けをしている。体格ががっしりして、腕が太い。
ハンナの定食を食べている。一口ごとに、微かに首を傾げている。
「悪くない。だがこの茸、火を入れすぎだ。旨味が半分逃げてる」
独り言——のつもりだろうが、声が大きい。
ハンナが背後に立った。
「文句があるなら自分で作りな」
「……いいのか?」
女が立ち上がった。迷いなく厨房に入る。
霧茸を手に取った。鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。目が鋭くなった。
「こいつは……地脈の霧で育った茸だろ。この旨味、王都じゃ絶対手に入らない。なのに火を入れすぎて殺してる。もったいない」
鍋を火にかけた。強火。油を回して、霧茸を一気に投入。
ジュワッと油が弾けた。鍋を振る手つきが荒々しいのに正確だ。
「火は三十秒。それ以上は食材への冒涜だ」
三十秒きっかりで皿に盛った。霧茸は油を纏ってつやつやと輝き、湯気が立ち上っている。
ハンナが箸をつけた。
一口食べて——沈黙した。
「……あんた、何者だい」
「流しの料理人。ユーディット・ランメルトだ。この辺りに地脈の食材があると聞いて来た」
リュカが皿を覗き込んだ。目が丸くなっている。
「すげぇ……茸ってこんな味が出るのか」
ユーディットがリュカを見た。手を見ている。
「小僧、料理人か?」
「……見習いっす」
「手を見せろ」
リュカが手を出した。ユーディットが指先を確かめる。
「包丁ダコはあるが偏ってる。基礎がなってない。——誰に習った?」
「独学っす。親父が死んで……」
「親父は料理人か」
「銀泉楼の……料理長だった人です」
リュカが父のレシピ手帳を見せた。ユーディットがページをめくる。その手が——震えた。
「この男……天才だ。源泉の蒸気で蒸す? こんな発想、見たことがない」
ページを食い入るように見ている。料理人の目だ。
「こんな食材と、こんなレシピがあるのに——誰も料理していない?」
「この町は、二十年前から——」
「知ってる。衰退したんだろ。だが食材は死んでない。この谷の食材は生きてる。——あたしは十五年間、食材を追いかけて旅をしてきた。王都の高級食材より、こういう土地の無名の素材の方がずっと面白い」
目が輝いていた。料理人が理想の食材に出会ったときの目だ。前世で何度も見た——シェフが「これだ」と確信した瞬間の、あの目。
ユーディットが振り返った。入口に立っていた私を見て、まっすぐ近づいてきた。
「あんたがこの旅館の女将か?」
「はい——いえ、まだ正式には——」
「あたしを雇え」
「え?」
「金はいい。食材と厨房をよこせ。あたしが探してたのは、ここだ。この食材で、あたしの全部を出し切れる」
ハンナが呆れた顔で見ている。リュカが目を輝かせている。
私は——笑った。
「歓迎します。銀泉楼の厨房を、お見せしましょう」
帰り道。ハンナが呟いた。
「でもね、お嬢。一つだけ気になることがある」
「何ですか?」
「ローザ様が倒れる前、地下に……」
言いかけて、口を閉じた。
「——いや、もう少し考えさせておくれ。二十年、誰にも言えなかったことだ」
ハンナの背中が、夕暮れの霧の中に消えていく。小さな背中だった。でも真っ直ぐだった。
鍵をポケットの中で握りしめた。ローザの鍵と、ハンナの沈黙。まだ語られていない物語がある。
手帳を開いて書いた。
『チーム現状:ノア(地脈学者)、ガルド(棟梁)、リュカ(厨房見習い)、ハンナ(元番頭・掃除指導)、ユーディット(料理人・新規加入)。——五人。二週間前はゼロだった。人が集まり始めている。この旅館は、人を引き寄せる力がある』