S07-P01 追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります

第11話: 元女将の記憶

第1アーク · 3,436文字 · draft

「あの行商人、泣いてたよ」

ハンナ婆さんが、味噌汁をよそいながら言った。

「宿で泣いたんじゃない。町を出るとき泣いたんだ。『いい町だ』って。——二十年ぶりに聞いたよ、そんな言葉」

霧亭のカウンターで、私は背筋を正して座った。ハンナから「来な」と呼び出されたのは朝一番のことだった。

「お嬢。あんた、本気なんだね」

「はい」

「いいだろう、聞いてやる。お前さんの計画とやらを」

手帳を開いた。フェーズ1から4までの再建計画を、簡単な図を描きながら説明する。ハンナは味噌汁を作りながら黙って聞いていた。一度も口を挟まない。

説明を終えると、ハンナはゆっくりと火を止めた。

「奥に来な」

霧亭の裏手にある小さな座敷に通された。壁には古い写真——いや、この世界にはカメラがない。水彩画だった。大きな建物を背景に、大勢の人が並んでいる。
 銀泉楼だ。全盛期の。

ハンナが座敷の隅に腰を下ろした。正座。背筋が真っ直ぐだった。七十二年の歳月を経ても、この人の姿勢は崩れない。——それだけで、どんな教育を受けてきたかがわかる。

「あたしが銀泉楼に入ったのは、十六のときだった」

回想が始まった。
 ハンナの声は静かだったが、一語一語に重みがあった。二十年間、誰にも語らなかった記憶を、今初めて解き放つ。

若き日のハンナ。田舎から出てきた少女が、温泉郷の名旅館に新人仲居として雇われる。右も左もわからない。箒の持ち方も知らなかった。——私と同じだ。少し前の自分を見ているようで、胸が痛くなった。

「最初の一年は毎日叱られた。掃除が雑、歩き方が騒がしい、お辞儀の角度が浅い。——でもね、三代目の女将様だけは違った」

ローザ・ベルクヴィスト。銀泉楼の最後の女将。

「ローザ様は、こう言ったんだよ」

ハンナの声が少し柔らかくなった。

「『宿はお客様の家です。お客様が帰ってきたとき、あたたかい灯がある——それが宿の仕事よ』」

全盛期の銀泉楼。客で溢れ、笑顔で溢れ、湯気で溢れていた。
 ローザは凛とした人だった。厳しいが温かい。経営者として鋭く、女将としておおらか。客の名前を全員覚え、好みの部屋と好みの料理を全て把握していた。

「朝は誰よりも早く起きて源泉を見に行く。夜は最後の客が寝るまで帳場にいる。あの人は銀泉楼そのものだった」

ハンナの声が遠くを見ている人の声になった。

「いつも言ってた。『お客様の帰る場所を作るのが宿の仕事。帰る場所には、灯りがないとね』って」

前世の記憶と重なった。二百軒の旅館で出会った女将たちの中に、同じことを言った人がいた。本当に宿を愛している人は、みんな同じことを言う。

「ローザ様の下で二十年働いた。あたしの人生は、全部あの宿にある」

街道のルート変更があった。客足が減り始めた。源泉が弱まった。旅館が一つ、また一つと閉じていった。
 それでもローザは諦めなかった。「源泉が枯れない限り、この宿はやれるわ」と。

「でも——体がもたなかった」

ハンナの声が震えた。

「源泉が弱まるのと同じように、ローザ様の体も衰えていった。まるで……大地と繋がっているかのように」

ローザは最期の日、ハンナを枕元に呼んだ。

「『いつかこの宿を、心から愛してくれる人が来る。その人に鍵を渡しておくれ』」

ハンナが、割烹着のポケットに手を入れた。
 取り出したのは——古い鍵だった。

鈍い銀色の鍵。細かな装飾が施されている。長い歳月で擦り減っているが、ハンナの手のひらの中で微かに輝いていた。

「ローザ様がね、言ってたんだよ。待ってろって。いつか来るって」

ハンナの灰色の目が、真っ直ぐ私を見た。

「十八年待った。……お嬢、お前さんかい。ローザ様が待っていた人は」

鍵が差し出された。

手が震えた。受け取る。ずしりと——物理的な重さ以上のものが手のひらに乗った。

前世の夢。自分の宿を作りたかった。それだけで十分な動機だと思っていた。
 でも今、もう一つの夢が重なった。ローザの夢。銀泉楼を愛してくれる人を待つ、十八年越しの願い。

「ハンナさん。この宿を——ローザさんの宿を、必ず蘇らせます」

声が震えた。涙は堪えた。ここで泣いてはいけない。この人は十八年間、泣くのを堪えてきたのだから。

ハンナが目を細めた。

「この老骨でよければ、手を貸すよ。——掃除からだ。角を見なさい、角を。お客様は角を見るんだよ」


その日の午後。
 ハンナと二人で銀泉楼に向かった。ハンナが十八年ぶりに石段を登る。息は切れていたが、足は止めなかった。

玄関の敷居を(また)いだとき、ハンナが立ち止まった。

「……変わったね。あの子が掃除したんだね」

「はい。一人で」

「角が甘い」

厳しかった。でも口元が少しだけ緩んでいた。十八年ぶりに銀泉楼に足を踏み入れたハンナの目には、私には見えない何かが映っているのだろう。


夕方。霧亭に戻ると、異変が起きていた。

カウンターに見慣れない女が座っていた。赤銅色の髪を後ろで雑に束ね、旅装の上にくたびれた料理人の前掛けをしている。体格ががっしりして、腕が太い。

ハンナの定食を食べている。一口ごとに、微かに首を傾げている。

「悪くない。だがこの茸、火を入れすぎだ。旨味が半分逃げてる」

独り言——のつもりだろうが、声が大きい。

ハンナが背後に立った。

「文句があるなら自分で作りな」

「……いいのか?」

女が立ち上がった。迷いなく厨房に入る。

霧茸(きりたけ)を手に取った。鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。目が鋭くなった。

「こいつは……地脈の霧で育った茸だろ。この旨味、王都じゃ絶対手に入らない。なのに火を入れすぎて殺してる。もったいない」

鍋を火にかけた。強火。油を回して、霧茸を一気に投入。
 ジュワッと油が弾けた。鍋を振る手つきが荒々しいのに正確だ。

「火は三十秒。それ以上は食材への冒涜だ」

三十秒きっかりで皿に盛った。霧茸は油を纏ってつやつやと輝き、湯気が立ち上っている。

ハンナが箸をつけた。
 一口食べて——沈黙した。

「……あんた、何者だい」

「流しの料理人。ユーディット・ランメルトだ。この辺りに地脈の食材があると聞いて来た」

リュカが皿を覗き込んだ。目が丸くなっている。

「すげぇ……茸ってこんな味が出るのか」

ユーディットがリュカを見た。手を見ている。

「小僧、料理人か?」

「……見習いっす」

「手を見せろ」

リュカが手を出した。ユーディットが指先を確かめる。

「包丁ダコはあるが偏ってる。基礎がなってない。——誰に習った?」

「独学っす。親父が死んで……」

「親父は料理人か」

「銀泉楼の……料理長だった人です」

リュカが父のレシピ手帳を見せた。ユーディットがページをめくる。その手が——震えた。

「この男……天才だ。源泉の蒸気で蒸す? こんな発想、見たことがない」

ページを食い入るように見ている。料理人の目だ。

「こんな食材と、こんなレシピがあるのに——誰も料理していない?」

「この町は、二十年前から——」

「知ってる。衰退したんだろ。だが食材は死んでない。この谷の食材は生きてる。——あたしは十五年間、食材を追いかけて旅をしてきた。王都の高級食材より、こういう土地の無名の素材の方がずっと面白い」

目が輝いていた。料理人が理想の食材に出会ったときの目だ。前世で何度も見た——シェフが「これだ」と確信した瞬間の、あの目。

ユーディットが振り返った。入口に立っていた私を見て、まっすぐ近づいてきた。

「あんたがこの旅館の女将か?」

「はい——いえ、まだ正式には——」

「あたしを雇え」

「え?」

「金はいい。食材と厨房をよこせ。あたしが探してたのは、ここだ。この食材で、あたしの全部を出し切れる」

ハンナが呆れた顔で見ている。リュカが目を輝かせている。

私は——笑った。

「歓迎します。銀泉楼の厨房を、お見せしましょう」


帰り道。ハンナが呟いた。

「でもね、お嬢。一つだけ気になることがある」

「何ですか?」

「ローザ様が倒れる前、地下に……」

言いかけて、口を閉じた。

「——いや、もう少し考えさせておくれ。二十年、誰にも言えなかったことだ」

ハンナの背中が、夕暮れの霧の中に消えていく。小さな背中だった。でも真っ直ぐだった。

鍵をポケットの中で握りしめた。ローザの鍵と、ハンナの沈黙。まだ語られていない物語がある。

手帳を開いて書いた。

『チーム現状:ノア(地脈学者)、ガルド(棟梁)、リュカ(厨房見習い)、ハンナ(元番頭・掃除指導)、ユーディット(料理人・新規加入)。——五人。二週間前はゼロだった。人が集まり始めている。この旅館は、人を引き寄せる力がある』

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