S07-P01 追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります

第10話: 口コミの種

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翌朝、ヘルマンが部屋を出ると、廊下に朝日が差していた。
 窓の外——雨上がりの霧が晴れ、谷全体が金色に輝いていた。

棚田に朝露が光り、渓谷から湯気が立ち上り、山の稜線が朝日に縁取られている。雨の後の空気は澄み切っていて、遠くの峰まで見渡せた。
 前世の知識が囁く。——雨上がりの朝は、旅館にとって最高のプレゼンテーションだ。自然が勝手に「また来たい」と思わせてくれる。

ヘルマンがしばらく窓辺に立ち尽くしていた。

「……こりゃすごいな」

朝食を用意した。昨夜リュカに教わった通り、自分で作った。
 地脈米の粥。銀泉草を少し散らして、温泉卵——の代わりに、源泉の近くで見つけた山菜の浅漬けを添えた。
 シンプルだが、湯気の立つ温かい粥。

ヘルマンが朝食を食べながら言った。

「嬢さん。この宿、いつ開業するんだ?」

「まだ——準備中です。昨日は、突然のことで十分なおもてなしもできなくて」

「十分? 十二分だ。湯は温かい、飯は旨い、景色は最高、何より——人が温かい」

ヘルマンが椅子から立ち上がった。

「お代は?」

「い、いえ。結構です。まだ開業前ですし——」

「馬鹿を言うな」

ヘルマンの声が太くなった。行商人の声だ。商売人が、商品の価値を認めたときの声。

「こんないい宿に泊まったんだ。正当な対価を払わないのは、商売人の恥だ」

カウンターに銀貨を並べた。一枚、二枚——三十枚。

「相場は中級旅館で二十から五十枚だ。正直、三十でも安いと思ってる。次はもっと取れ」

「そんな——」

「……では、正式な宿泊料ではなく、昨夜の雨宿りと食事への謝礼として受け取らせてください。許可が下りるまでは、その形で帳簿につけます」
 宿泊台帳には『臨時受入』、会計帳には『謝礼金』として分けて記載する。監査官に問われても、説明できる形にしておく。

「次はいつ泊まれる? 一ヶ月後にまたこの辺りを通る予定がある。——それと、商人仲間にも話すぞ。こんな穴場、独り占めにするのは惜しい」

ヘルマンは愛用の外套を羽織り、馬車に乗り込んだ。手を振りながら石段を降りていく。朝の光が谷を照らしていた。最後に幌の隙間から顔を出して叫んだ。

「嬢さん! 看板を出せよ! こんないい宿、もったいないぞ!」

声が谷にこだまして消えた。

一号室に戻った。
 布団がきちんと畳まれていた。枕元に揃えて、角を合わせて。浴衣も丁寧に折り畳まれ、脱衣籠の中に。
 窓際に小さな紙片が置いてあった。商人の走り書き。

『ヘルマン・ヴォルフ。巡回ルート:王都→リーフェンシュタット→ミストヴァレー。次回六週間後。——湯は最高でした。必ず戻ります』

行商人が宿に名前とルートを残していく。それは「また来る」という確かな約束の証だ。前世でも、リピーターの始まりはいつもこうだった。
 紙片を手帳に挟んだ。最初の顧客カードだ。

銀貨三十枚。

手の中に、ずしりとした重さ。


ヘルマンの馬車が見えなくなってから、私は玄関前の石段に座り込んだ。

銀貨三十枚を、手帳の上に一枚ずつ並べた。陽の光を反射して、銀色に輝く。

——私の宿に、お客様が泊まった。

前世では何百回と見た光景だ。旅館にお客様が泊まり、喜んで帰っていく。コンサルタントとして、その光景を何度も、何度も——

でもいつも、見ている側だった。

女将の涙を見た。板前の笑顔を見た。仲居が頭を下げるのを見た。
 全部、他人事だった。自分はアドバイザーで、再建計画を渡して、結果を確認して、次のクライアントへ移る。
 宿の人々が流す涙の意味は、わかっていたつもりだった。わかっていなかった。

今、わかった。

自分の宿で——自分が迎えて、自分が料理を用意して、自分が布団を敷いて——お客様が「いい宿だ」と言ってくれた。
 銀貨三十枚。それは金額の問題ではない。
 誰かが、この場所に価値を認めてくれた。廃墟に夢を見た私は間違っていなかったと——数字が証明してくれた。前世では二百軒の旅館で、この瞬間を何度も見てきた。でも自分がこの側にいるのは初めてだ。

涙が止まらなかった。

手帳を握りしめて、声を殺して泣いた。前世の三十四年間と、今世の二十年間と——全部が溢れ出すように。

自分の宿。自分の手で。ようやく。


どのくらい泣いていたのだろう。

足音が聞こえて、顔を上げた。ノアだった。

泣き腫らした顔を見ても、何も言わなかった。隣に立つわけでもなく、少し離れた場所で——壁にもたれかかった。

沈黙が流れた。

やがてノアが、ぽつりと言った。

「入口の花を変えろ」

「……え?」

「季節の花を飾ると客が入りやすくなる。玄関に花があると、そこが『人がいる場所』だとわかる。……研究で読んだ」

何の研究で花の効果を読むのか。突っ込みたいのを堪えた。

「この時期なら、谷の南斜面に霧花(きりばな)が咲いている。白い花だ。朝霧を吸って開く。匂いはほとんどないが、見た目がいい」

「……詳しいわね」

「地脈の観測点が南斜面にある。たまたま目に入っただけだ」

たまたま。ノアの口癖になりつつある。

泣き笑いの顔で、ノアを見上げた。

「ノア……あなた、宿のことちょっと考えてくれてる?」

「……地脈調査の参考文献に書いてあっただけだ」

目を逸らした。耳の先が赤い。

「ありがとう」

「だから礼を言うなと——」

「ありがとう」

もう一度言った。ノアは何も答えなかった。ただ、逸らした視線の先で、谷を眺めていた。


リュカが来た。朝から走ってきたらしく、息を切らしている。

「セラさん! あの行商人のおっさん、帰ったんすか!? 料理、不味くなかった——」

「リュカ。あの人、こう言ってたわ。『天才だな。この出汁は天才の味だ』って」

リュカの足が止まった。

「……嘘っすよね」

「嘘じゃない。銀貨三十枚も置いていった。あなたの料理に、お金を払ってくれたのよ」

リュカの唇が震えた。マメだらけの手を握りしめて、空を見上げた。

「親父……聞こえたか……。俺の料理、旨いって。金もらったぞ……」

声が裏返った。十六歳の少年が、父を失ってから初めて——料理人として認められた瞬間だった。

前世でも同じ光景を見た。廃業寸前の旅館で、初めてお客様から「旨い」と言われた料理人が泣いた。あのときも、こんな朝だった。空が青くて、何かが始まる予感がして。
 あのとき私は外側から見ていた。今は——違う。今は内側にいる。

私はリュカの頭をぽんと叩いた。

「銀泉楼の厨房、あなたに任せたいの。正式に」

「は……? いや、俺なんか——」

「あなたの舌は本物よ。技術は後からついてくる。——一緒にやろう、リュカ」

リュカが涙を拭いた。大きすぎるエプロンの裾で、乱暴に。

「……やります。やらせてください!」

リュカは涙を拭いた後、すぐに目を輝かせた。

「セラさん、厨房の設備って今どうなってるんすか? かまどは使えます? 水場は?」

「ガルドさんが水場だけは直してくれてる。かまどは……まだ確認してない」

「見てきていいっすか!?」

走っていった。石段を二段飛ばしで駆け上がっていく。十六歳の脚力は凄まじい。
 その背中を見送りながら、ノアが壁にもたれたまま呟いた。

「……単純な奴だ」

「褒めてるでしょ、それ」

「別に」

ノアの視線は谷の方を向いていた。でも口元が、ほんのわずかに緩んでいた。


夕方。一人になって、手帳を開いた。

新しいページに書く。

『銀貨30枚。投資回収まであと何泊必要か——気が遠くなる。でも、0じゃなくなった。ゼロと一は、一と百より大きな差がある。最初の一歩が、ここにある。——フェーズ1、達成。次のステップ:二人目の客を迎える準備を始める』

窓の脇にヘルマンの紙片を貼った。最初の顧客。最初の売上。最初の「いい宿だ」。

次のページに書く。

『仮説検証:旅館再建の可能性。結果——有り。根拠:①顧客満足(ヘルマンの評価)②有料売上の成立(銀貨30枚)③リピート予約の獲得(6週間後)④口コミ波及の可能性(商人仲間に話す宣言)。一泊で四つの実績。前世で見た再建案件より、初動の反応は良い』
 嬉しいはずなのに、胸の奥で別の警報が鳴っていた。前世の私は、最初の成功に酔って休むことを忘れ、最後はデスクで倒れた。
 今度は違う。続けるために、休む日も計画に入れる。

手帳を閉じて、空を見上げた。

夕焼けが谷を染めている。霧の向こうに、銀泉楼の屋根が見えた。

ノアが言った通り、明日は玄関に花を飾ろう。
 この宿が「人がいる場所」だと、遠くからでもわかるように。

石段を下りていくリュカの歌声が聞こえた。口ずさんでいるのは谷の民謡だろうか。音程は外れていたが、声が弾んでいた。
 ノアの研究室から、紙をめくる音が微かに聞こえる。あの人も、いつもより早く研究に戻った気がする。

静かな夕暮れだった。でも、昨日までとは違う。
 この場所に——人の温もりが、少しずつ集まり始めている。
 南斜面の霧花を摘みに行こう。白い花。朝霧を吸って開く花。ノアが教えてくれた、この谷の花。ヘルマンの紙片が、夜風に少しだけ揺れた。「必ず戻ります」——その約束が、明日への力になる。

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