S07-P01 追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります

第9話: 最初のお客様

第1アーク · 3,498文字 · draft

雨の日の夕方に、その人はやってきた。
 ずぶ濡れで、疲れ切った顔をした行商人だった。幌馬車から降り立ったその姿を見た瞬間、前世のスイッチが入りかけた。——お客様だ。

一号室の修復が終わり、源泉から引いた微かな湯を溜めた小さな浴槽も仕上がった二日後のこと。ガルドが古い浴槽を地下から引っ張り出し、ノアの魔法で補修して、源泉からの細い管を接続した。
 湯量は少ない。浴槽の半分を満たすのがやっとだ。でも、温かい湯が確かに溜まっている。

客が来る見込みはなかった。看板も出していないし、道も整備されていない。この旅館の存在を知る人間は、町の住民だけだ。

だから、その馬車の音を聞いたとき、耳を疑った。

雨音の中に、車輪の(きし)む音と馬の(いなな)きが混じった。玄関に出ると、石段の下に(ほろ)馬車が一台停まっている。幌は破れかけ、馬は疲弊していた。

馬車から降りてきたのは、四十がらみの男だった。丸い体型に人の良さそうな顔。だが全身ずぶ濡れで、唇が紫色になっている。

「す、すまない。道に迷って……こんなところに建物が見えたもので。一晩、軒先でもいい、雨を(しの)がせてもらえないか」

前世のスイッチが、入った。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

自分でも驚いた。口が勝手に動いていた。
 前世、二百軒の旅館で何千回と聞いた挨拶。女将の声を借りて、私の口から出てきた。

男——ヘルマンという行商人は——目を丸くした。

「え……宿? ここ、営業してるのか?」

「ええ。正式開業前の仮受け入れですが、今夜はお泊めできます。さあ、中へどうぞ。お着替えとお湯を用意しますね」

営業も何もない。開業前の廃墟だ。でも——客が目の前にいる。この人を帰すわけにはいかない。
 緊急の雨宿りとして受け入れ、後で町長に記録を共有する。それでいい。まずは目の前の人を冷えから守る。

一号室に案内した。修復したての部屋。窓の外には雨に煙る谷の景色が広がっている。
 急いで部屋を整えた。布団を敷き——角が合わない。前世の知識では、敷布の角は四十五度に折り込む。何度かやり直して、それらしい形にした。枕元に手拭いを畳んで置く。花はないが、窓際に銀泉草を一束飾った。

「おお……こりゃ綺麗だ」

ヘルマンが窓の外を見て、感嘆の声を上げた。雨に煙る谷は、晴れた日とはまた違う幻想的な美しさがあった。霧の中に棚田の輪郭が浮かんで、墨絵のようだった。

「この景色で一杯やれたら最高だな」

「お酒は……すみません、まだご用意がなくて」

「いいさいいさ。この湯があれば十分だ」

替えの衣類を渡し、浴槽に案内する。湯は少ないが温かい。ヘルマンの凍えた体が、少しずつ色を取り戻していく。
 浴槽に浸かったヘルマンが、目を閉じて呟いた。

「……ああ。こりゃ、いい湯だ。身体の芯まで温まる」

源泉の力だ。湧出量は減っていても、泉質は上位三パーセント。少量でも、この温泉は本物の効果を持っている。

さて——料理だ。

厨房に走った。しかし私には致命的な弱点がある。

料理が、下手だ。これは前世からの宿痾(しゅくあ)だ。コンサルタントは味はわかるが、作るのは別の才能。

前世でもコンサルであって料理人ではなかった。旅館の厨房には何百回と入ったが、自分で包丁を握った回数は数えるほどしかない。
 まして今世では伯爵令嬢だ。料理は「人にやってもらうもの」だった。

鍋に火をかけた。持っていた干し肉と根菜で何か作ろうとしたが——焦がした。火加減がわからない。二回目も焦がした。味付けが壊滅的だった。三回目は生煮えだった。鍋の底が真っ黒になった。

「……ダメだ」

途方に暮れた。客が待っている。温かい食事を出さなければ。旅館の仕事の核は、風呂と食事と布団。風呂はある。布団も一組だけ見つけた。でも食事が——

リュカの顔が浮かんだ。

走った。石段を駆け下り、町に入り、リュカがいつも料理をしている廃屋の裏へ。

「リュカ!」

「わっ! セラさん!? びしょ濡れ——」

「お願い、手を貸して! お客さんが来たの! 料理を——私には作れない。あなたの力が要るの!」

リュカは目を(まばた)かせた。

「お客さん? ……銀泉楼に?」

「一人だけ。道に迷った行商人。温かい食事を出したいの。お願い」

リュカの目が変わった。怯えと、興奮と、覚悟が入り混じった色。少年の目が——料理人の目に変わった。

「……俺の料理でいいんすか」

「あなたの料理がいいの」

リュカはエプロンの紐を結び直した。


銀泉楼の厨房。荒れていたが、ガルドが水場だけは修復してくれていた。

リュカが手際よく食材を並べる。今朝採ってきたという谷鱒のアラ。根菜の束。そして——銀泉草。

「親父のレシピ手帳に載ってるやつ、やってみます。失敗するかもだけど……」

「失敗してもいい。でも、あなたの全力を出して」

リュカが頷いた。

鍋に谷鱒のアラを入れた。弱火でじっくり出汁を引く。

「親父は『出汁は魚と会話しろ』って言ってた。泡が立つ前に火を弱める——ここだ」

鍋の底から微かに泡が立ちかけた瞬間、リュカが火を絞った。出汁の色が澄んだ琥珀色に変わっていく。透き通った液体の底に、魚の旨味が凝縮されている。この技術は——教えて身につくものではない。生まれ持った感覚だ。

銀泉草を散らした。銀色の葉が湯気の中で広がり、清涼感のある香りが厨房に満ちた。

「銀泉草の温かいスープ。これが一品目っす」

私も味見した。——旨い。リュカの出汁は、いつもの廃屋の裏で作っていたものと同じはずなのに、気合が違う。

「リュカ、いつもより丁寧ね」

「……だって、初めてのお客さんっすから」

声が少し震えていた。緊張している。でも手は止まらない。

二品目。谷鱒の炭火焼き。

リュカが炭火の前に陣取った。ガルドが置いていった炭を使い、串に刺した谷鱒を遠火でじりじりと焼く。
 皮がパチパチと音を立て、脂が滴る。焼き色がつくと、身がふっくらと膨らんだ。香ばしい煙が厨房を満たす。これは——前世で食べた鮎の塩焼きを思い出させる匂いだ。

「ここで銀泉草の塩を振る。親父はいつもここで振ってた」

粗塩に銀泉草を混ぜた塩を、指先でぱらぱらと。魚の脂と銀泉草の清涼感が混ざり、食欲を刺激する匂いが立ち上る。

三品目は私が担当した。地脈米のご飯。

水加減を間違えて、おこげができた。

「……怪我の功名ね」

「セラさん、おこげ最高っす! 香ばしくて旨い!」

膳に並べた。スープ、焼き魚、ご飯。質素だが、湯気の立つ温かい食事。三品だけの膳。けれど一品一品に、リュカの全力が込められている。

一号室に運ぶ。ヘルマンが浴衣に着替え、窓辺に座っていた。

「お食事をお持ちしました」

ヘルマンがスープを一口。

スプーンが、止まった。

「これは……なんだ、この味。都会の料亭でも食べたことがない」

琥珀色のスープを、ゆっくりと味わっている。旨味の余韻が長い。魚のアラの深い味わいの奥に、銀泉草の清涼感がすっと抜ける。

谷鱒の炭火焼きに箸をつけた。皮はパリッと、身はほろりと。銀泉草の塩が、魚の甘みを引き立てている。

「旨い……。旨い。こんな魚、食べたことがない」

ヘルマンは黙々と食べた。最後の一粒のご飯まで残さず。

リュカは厨房の入口から覗いていた。客が食べている姿を見るのは、初めてだ。

ヘルマンが箸を置いた。

「ごちそうさまでした。——若いの、この料理を作ったのか」

「は、はい……俺が作りました……っす」

「天才だな。この出汁は、間違いなく天才の味だ」

リュカの目が潤んだ。唇を噛んで、必死に(こら)えている。
 初めて「美味しい」と言ってもらえた料理。初めて、他人に出した一食。

私はリュカの肩に手を置いた。何も言わなかった。言葉は要らなかった。

ヘルマンは食後も窓辺に座って、雨の谷を眺めていた。

「嬢さん。商売で全国を回って二十年になるが、こんな隠れた場所にこんな宿があるとは思わなかった」

「まだ開業前なんです。本当は看板もないし、メニューも——」

「看板なんぞいらん。この料理と、この湯と、この景色があれば十分だ。大事なのは箱じゃない、中身だ。——商売の基本だろう?」

行商人の言葉が、胸に刺さった。二百軒の旅館を見てきた前世の私が、一番最初に学んだことと同じだ。

夜が更けた。ヘルマンに布団を敷く。角が合わなくて、ノアが「ここはこう折るんだ」と直した。なぜ布団の敷き方を知っているのかは、聞かなかった。

ヘルマンが布団に入りながら呟いた。

「何年ぶりだろう、こんなにゆっくりした夜は。……いい宿だ」

私は「ありがとうございます」と頭を下げて、部屋を出た。

廊下で膝が震えた。壁に手をついて、深呼吸した。

——いい宿だ。

その一言が、胸の奥で鳴り響いていた。

文字数: 3,498