「邪道だ」
酒臭い大男が、朝もまだ早い時刻に怒鳴り込んできた。銀泉楼の古い玄関の柱が揺れるほどの大声だった。
一号室で壁の修復に取りかかっていたところだった。ノアが壁のひびに手をかざし、建築魔法で石を再構成しようとした矢先——
ガルドが廊下を地響きのように歩いてきて、部屋の入口に仁王立ちした。
「魔法で旅館を直すだと? ふざけるな」
鉄色の鋭い目がノアを射抜いている。
「建築は手で直すもんだ。木を読んで、石を聴いて、材と対話しながら積み上げる。それが棟梁の仕事だ。魔法でちゃちゃっと直されてたまるか」
ノアは表情を変えなかった。
「その通りだ」
「あ?」
「言った通り、その通りだと言っている。俺には魔法で建材を強化する力はあるが、この建物の構造を知らない。通し柱がどこにあるか、壁の裏の配管がどう通っているか、基礎のどこに力が集中しているか——わからないまま直せば、かえって壊す」
ガルドの眉が動いた。予想外の返答だったのだろう。怒鳴り合いになると思っていたはずだ。
「当たり前だ。あの壁の裏の通し柱は東から三番目が要石で——」
言いかけて、口を閉じた。つい語り出してしまった自分に気づいた顔だった。
私は黙って聞いていた。ここは私が動く場面だ。
「棟梁」
「棟梁と呼ぶな。頼んだ覚えはねぇ」
「ガルドさん。一つ聞いてください。——ガルドさんの知識で設計図を引いて、ノアの魔法で強化する。両方合わせたら、半分の時間で倍の強度が出せると思いませんか?」
ガルドが私を睨んだ。
「誰が手伝うと言った」
「言ってません。でもあなた、昨日道具を置いていってくれたでしょう?」
ガルドの顔が、一瞬だけ強張った。
「……知らんな」
「筆跡でわかりました。『東から三番目が要』——さっきも同じことを言いかけましたよね」
沈黙。
ノアが壁に手をかざした。緑の光が溢れ、壁のひびが塞がっていく。石が再結合し、表面が滑らかになる。
ガルドの目が、壁に釘付けになった。
職人の目だ。建物を見る目。仕上がりを確かめる目。
魔法が止まった。ガルドがゆっくりと壁に近づき、修復された部分に手を触れた。指先で叩く。耳を澄ます。
「……強度は悪くねぇ」
認めた。だが次の瞬間、眉が険しくなる。
「だが木目が死んでる。ここの壁は元々、霧杉の板を裏打ちしてある。木目の流れを殺したら、湿気の逃げ道がなくなる。三年で壁の裏がカビだらけになるぞ」
「木目の流れ?」
「こうだ」
ガルドが壁の表面に手を走らせた。太い指で、目に見えない木目を辿る。
「霧杉は年輪が密だ。木目は北から南に流すのがこの地域の流儀で、湿気は木目に沿って抜ける。裏打ちの板は、上から下に木目を揃えるんだ。じいさんがそう教えた」
ノアがガルドの手の動きを見ている。
「なるほど。木目の方向に沿って魔法をかければ、湿気の通り道を残せる」
「できるのか?」
「やってみる」
ノアが再び壁に手をかざした。今度はガルドの指示に従い、木目の方向を意識しながら魔法を流す。
緑の光が壁に浸透する。ガルドが「もう少し右……そこだ、そのラインで」と指示を出す。
二人の共同作業が始まった。
ノアの魔法がガルドの経験に導かれて、壁を蘇らせていく。石の再構成だけでなく、裏の木材の繊維に沿って魔力を通すことで、材の強度と通気性を両立させる。
最初の壁を仕上げたとき、ガルドが壁を叩いた。こんこん、と乾いた音。
「悪くねぇ。——悪くねぇが、こっちの継ぎ目が甘い。もう一度やれ」
「注文が多いな」
「プロの仕事だからな。一箇所でも妥協したらプロじゃねぇ」
ノアは文句を言わなかった。黙ってもう一度、魔法をかけ直す。ガルドが「そこだ」と言うまで、何度でも。
不思議な光景だった。数時間前まで怒鳴り合っていた二人が、いつの間にか息を合わせている。職人と学者、まったく違う世界の人間なのに——「建物を良くしたい」という一点で、完璧に噛み合う。
私は二人の後ろで見守っていた。口を挟む必要はなかった。
プロとプロが噛み合ったとき、外野がやるべきことは——邪魔しないこと。前世のコンサルで学んだ最も大切なことの一つだ。ただし、環境を整えるのはマネージャーの仕事。水を運び、工具を準備し、次の作業の段取りを組む。裏方に徹した。
代わりに、昼食を用意した。厨房で簡単な握り飯と、ハンナの霧亭で買ってきた漬物。二人は手を止めずに、立ったまま握り飯を頬張った。
ガルドが「不味い」と言い、ノアが「食えるだけましだ」と返した。二人とも完食した。三個ずつ作ったのに、二人とも四個食べた。私の分が一個減った。文句は言わなかった。
壁が、蘇っていく。
二十年の風化で灰色だった石壁が、元の銀灰色を取り戻す。木目が浮かび上がり、材の温もりが壁面に戻る。
床に取りかかった。ガルドが床板の配置を口頭で指示し、ノアが魔法で板を再接合する。
「この板は手前から奥に向かって並べる。客が部屋に入ったとき、視線が自然に窓——つまり景色に向かうようにだ」
「……視線の導線まで計算しているのか」
「当たり前だ。じいさんが口を酸っぱくして言ってた。『建物は客のためにある。客の目が何を見るか、足がどこに向かうか——全部考えて建てろ』と」
床板が一枚ずつ蘇っていく。ノアが魔法で木目を整え、ガルドが板の向きと間隔を微調整する。完成した床を見て、ガルドが初めて——本当に初めて、少しだけ口角を上げた。
「……じいさんの床が戻ってきやがった」
声が震えていた。棟梁は、自分でも気づいていないだろう。
天井。梁の位置をガルドが確認し、ノアが強化する。高いところの作業は、元冒険者のノアが身軽にこなした。梁の上に身を乗り出し、手を伸ばして奥の亀裂に魔力を通す。見ているこちらが冷や汗をかく。ノアは高所を全く恐れない。冒険者時代の名残だろう。
ガルドが腕を組んで「悔しいが、若いもんは身が軽いな。昔は俺もああだった」と呟く。
日が傾く頃。
一号室の修復が、完了した。
三人で部屋の中央に立った。
誰も、しばらく何も言わなかった。
床は滑らかに磨かれ、壁は銀灰色の石と霧杉の温もりを取り戻し、天井の梁が力強く空間を支えている。この部屋の空気が変わった。廃墟の重苦しさが消え、代わりに木と石の温もりが満ちている。ここに人が住んでいい。ここに客を迎えていい。部屋がそう言っている。
窓を開けた。
夕焼けに染まる谷が、一面に広がった。
棚田が黄金色に光り、渓谷を流れる川が銀の線を引き、霧峰山の稜線が赤く燃えている。
私は立ち尽くした。
この部屋に、客を迎えるのだ。
この景色を見ながら、温泉に浸かり、この土地の料理を食べてもらう。
——私の宿で。
「棟梁」
ガルドが振り返った。
「しょうがねぇ。俺の目の前で、じいさんの大事な建物を台無しにされちゃたまらん」
それがガルドの「はい」だった。
ノアは窓の外を見ていた。夕焼けの光が、普段は無表情な横顔を柔らかく照らしている。
「……悪くないかもな」
小さな声だった。ガルドにしか聞こえない程度の。
——いや、聞こえた。でも聞かなかったふりをした。
ガルドは壁にもたれて腕を組んでいた。目は閉じているが、表情が穏やかだった。何年も見ていなかったであろう表情。
この部屋は、ガルドの祖父が設計し、父が修繕し、ガルドが風呂を増築した。三代の職人の記憶が染みついた場所だ。
それが今日、蘇った。
手帳に書いた。三人がそれぞれの場所にいる間に、こっそり。
『フェーズ1の修復戦力。ガルド=構造設計・施工監督、ノア=建築魔法、私=マネジメント。三人の役割分担が自然に決まった。前世のコンサル現場でも、最高のチームは「指示しなくても動く」チームだった。——このチームは、いける』
「次はお風呂ね」
私が言うと、ノアが振り返った。
「源泉をこの部屋の近くまで引ければ、小さな浴槽は作れる。だが——」
「だが?」
「源泉の状態を確認する必要がある。湧出量が足りるかどうか。地下に降りて、直接調べなければ」
「じゃあ明日、三人で地下に行きましょう」
ガルドが「俺は行くとは言ってねぇぞ」と言ったが、翌朝、誰よりも早く一番乗りで来たのはガルドだった。しかも酒を飲まずに来た。道具箱を肩に担いで。
帰り道、ガルドが石段の途中で立ち止まった。振り返って銀泉楼を見上げる。
「……じいさん。まだ始まったばかりだ」
独り言を残して、大股で石段を降りていった。
一号室の壁に、夕焼けの最後の光が差していた。
二十年の長い眠りから覚めた部屋が、静かに——だが確かに、息を吹き返した。