S07-P01 追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります

第7話: 一人でもやる

第1アーク · 3,422文字 · draft

令嬢の手に、マメができた。
 生まれて初めてのマメだった。——痛い。でも、悪くない。

朝日が昇ると同時に、銀泉楼の掃除を始めた。
 フェーズ1の最初の一歩——まず、一号室を修復可能な状態にするための下準備。瓦礫の撤去、草刈り、壁の清掃。

掃除なんて、前世でも今世でもまともにやったことがない。
 前世はコンサルだ。旅館の清掃マニュアルは書けるが、自分で(ほうき)を握った経験は研修のときだけ。今世は伯爵令嬢だ。掃除は使用人の仕事だった。
 それが今、腕まくりをして一人で掃除をしている。ドレスの代わりに作業着。白い手袋の代わりに軍手。控えめに言って、父やイルマが見たら卒倒するだろう。でも清々しかった。自分の手で、自分の場所を作る。それだけのことが、こんなにも心を満たす。

箒の使い方が下手だった。力任せに掃くと埃が舞い上がって、自分が咳き込む。前世なら「掃除は手前から奥へ、上から下へ」と知識ではわかっている。実践は別だ。
 雑巾がけで膝を打った。石の床は硬い。玄関の瓦礫を片付けようとしたら、石の塊が重くて持ち上がらない。

でも、目は輝いていた。

「これが『自分でやる』ってことか……!」

前世では指示する側だった。清掃計画を立て、チェックリストを作り、スタッフに配って——結果を確認する。
 今は違う。自分の手が汚れ、自分の背中が痛み、自分の足が棒になる。
 それが、不思議なほど嬉しかった。

昼過ぎ。玄関周りの瓦礫をほぼ片付けた。石段の一番上から見下ろすと、苔に埋もれていた玄関の石畳が顔を出している。磨けば、きっと綺麗な模様が現れる。

午後は一号室に取りかかった。二階の一番手前、谷を見渡せる角部屋。ここを最初に修復する。
 部屋に積もった埃と落ち葉を掻き出し、蔦を剥がし、割れた窓の破片を拾う。腰が痛い。指先が切れて血が滲む。

ノアが通りかかった。一瞬立ち止まり、私の作業を見て——何も言わずに行きかけた。

と、廊下に塞がっていた大きな瓦礫に手をかけた。ぐ、と持ち上げて、壁際にどかす。

「……通路が塞がっていると調査の邪魔だ」

言い訳を残して、去っていった。

夕方。体中が痛い。手を見ると、右手の親指の付け根と、左手の人差し指の腹にマメができていた。皮がめくれかけて、赤くなっている。
 前世の死因は過労だったのに、なぜか今は笑っている。

手帳にメモした。痛む手で、少しだけ字が歪む。

『初日の成果:玄関周り清掃完了。一号室の瓦礫撤去。身体的発見——マメは痛い。精神的発見——自分の手で働くことは楽しい。前世では決して得られなかった感覚』

二日目。一号室の内部に取りかかった。
 朽ちた敷物を剥がし、床に積もった埃を掃き出す。窓枠に絡みついた蔦を丁寧に引き剥がすと、窓の向こうに谷の景色が顔を出した。
 午後は壁を磨いた。水を含ませた布で、石壁の表面を拭いていく。二十年分の汚れが落ちると、下から銀灰色の石肌が現れた。
 美しい石だった。磨けば磨くほど、建てた人の技術が伝わってくる。この石を選び、この壁を積んだ職人は——間違いなくプロだった。

三日目。天井の蜘蛛の巣を落とし、崩れかけた棚を外し、使えなくなった建具を廊下に運び出した。
 この頃になると、体が作業に慣れてきた。箒の持ち方も、雑巾の絞り方も、少しずつ様になってくる。
 手帳に書く。「学習曲線:3日目で動きが効率化。前世のコンサル知識——理論は現場で鍛えられて初めて本物になる」

一号室の窓を拭いた。布で何度も何度も磨くと、ガラスが透き通って谷の景色が飛び込んでくる。思わず手を止めた。
 棚田の緑と、渓谷の白い霧と、遠くの山の青。この窓から見える景色だけで——宿泊の価値がある。
 前世で見たどの旅館の客室よりも、この眺望は美しいかもしれない。

夕方、石段の上に座って夕焼けを見ていると、ノアがお茶を持ってきた。
「たまたま淹れすぎた」
 三日間で三回目のその台詞に、もう突っ込まないことにした。お茶は美味しかった。ノアは料理はまったくしないが、お茶を淹れる腕だけは妙にいい。


噂は、町に広がった。

「あの令嬢、本当に一人で掃除してるぞ」
「馬鹿な話だ。伯爵家の娘が雑巾がけなんて」
「三日もすりゃ飽きて帰るさ」

酒場のカウンターで、ガルドはその噂を聞いていた。

「馬鹿な話だ」

酒を一口。苦い。いつもより苦い気がした。

隣の席で、二人の老人が噂を続けている。

「でもよぉ、聞いた話じゃ、朝から晩まで休みなしだぞ。雑巾がけで膝から血ぃ出してたって」
「なんだってまたあんな廃墟に——」
「さぁな。イカレてんだろ」

ガルドは黙って杯を傾けた。

馬鹿な話だ。二十年放置された廃墟を、小娘が一人で掃除してどうなる。壁は崩れ、屋根は抜け、配管は錆びている。素人がいくら掃除したところで、あの建物は蘇らない。

——柱はまだ生きていた。

あの娘が言った言葉が、耳の奥にこびりついて消えない。

夜。

ガルドは酒場を出て、「たまたま」銀泉楼の方へ歩いた。散歩だ。ただの散歩。別に見に行くわけじゃない。
 石段を登る。足が覚えている。ガキの頃からこの石段を何百回と上り下りした。じいさんについて現場に通った道だ。

丘の上に出ると、月明かりに照らされた銀泉楼が見えた。

玄関周りが——綺麗になっていた。

瓦礫が片付けられ、石畳が露出し、蔦が剥がされている。石段の一番上の灯籠台座も、苔が削り取られて元の形が見えていた。
 あの小娘が一人で、一日でやったのか。

ガルドは正面に回り、柱に手を触れた。

冷たい石の表面。指先に伝わる微かな硬さ。
 じいさんが選んだ石だ。山から切り出して、三年間乾燥させて、魔法建築師に強化を依頼して——じいさんが「百年保つ」と胸を張った柱。

二本目の柱に手を移す。三本目。四本目。
 全部、覚えている。ガキの頃、じいさんの横でこの柱を見上げた。一本ごとに石の表情が違った。「石にも性格がある」とじいさんは言った。「北の石は堅い。南の石は粘る。適材適所だ」

四本とも、芯が生きていた。あの小娘の言った通りだった。

「……じいさん。まだ保ってやがる」

呟いた。二十年分の感情が、指先から流れ込んでくるようだった。

建物の中を、もう少しだけ見て回った。足が勝手に動く。かつて歩き慣れた場所だ。
 玄関の石畳。苔を削り取った跡がある。——あの小娘の仕事だ。不器用だが丁寧だった。角の汚れが落ちきっていないのが素人らしい。
 でも、二十年間誰も触れなかったこの石に——手をかけた人間がいる。

立ち去った。足が重かった。


翌朝。

私が銀泉楼の前に出ると、玄関先に何かが置いてあった。

木箱だった。古いが頑丈な木箱。蓋を開ける。

中身は——大工道具一式。

(かんな)(のみ)、金槌、墨壺、差し金、(のこぎり)。全て使い込まれた、プロの道具。刃は手入れされ、柄は長年の使用で磨り減り、職人の手に馴染んだ跡が残っている。
 差出人の名はなかった。

道具の底に、折り畳まれた紙切れが一枚。乱暴な字で一行だけ書いてあった。

『壁を壊すな。通し柱は東から三番目が要だ』

読んで、しばらく立ち尽くした。

前世の記憶が重なった。旅館再建の現場で、最初に協力を申し出てくれるのは、いつもその旅館を一番よく知る人だった。否定の言葉の裏に、誰よりも深い愛着が隠れている。
 二十年間酒に溺れていた棟梁。でもこの道具は手入れされている。刃は研がれ、柄は磨かれている。——二十年間、使わないのに手入れし続けていた。いつか、また使う日が来ると信じて。

それから笑った。声を上げて笑った。谷に笑い声が響いた。こんなに大きな声で笑ったのは、前世を含めても初めてだった。

「棟梁……」

手帳にメモした。手が震えていたけれど、嬉しくて。

『ガルド・ヘフナーから道具一式。差出人なし。だけど筆跡は酒場で見た手と同じ。彼は認めてくれたんだ——まだ戦えると。この建物は、まだ死んでいないと。「通し柱は東から三番目が要」——この情報は金貨百枚の価値がある。構造の核心を教えてくれた。棟梁は、もう半分こっち側だ』

ノアが階段を降りてきた。玄関先の道具箱を見て、わずかに眉を上げた。

「誰からだ」

「この旅館を建てた職人からの、ラブレターよ」

「……意味がわからない」

道具箱を抱えて一号室に向かう。今日からは、ちゃんとした道具がある。
 マメだらけの手で鉋を握った。使い方はまだわからないけれど——やりながら覚えればいい。

前世の十年間では二百軒の旅館を「見てきた」。
 今世では、自分の手で「作る」。

それが、どれほど幸福なことか。

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