S07-P01 追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります

第6話: コンサルタントの設計図

第1アーク · 3,445文字 · draft

手帳のページが足りなくなった。
 壁に直接、炭で書き始める。気づいたら——朝になっていた。

一階の広間。かつての帳場だった部屋の白い壁が、私のホワイトボードになっていた。
 黒い炭の線が壁一面を覆っている。フロアマップ、収支計画、人材配置図、工程表。前世のコンサル時代なら、パワーポイント五十ページ分の情報量だ。

左上に「現状分析」。町の人口推移、営業中の店舗数、インフラの状態を数字で並べた。
 中央に「四段階計画」。各フェーズの目標、必要人材、予算、期間。
 右上に「リスク分析」。最悪のシナリオと、その対処法。
 右下に「ゴール」。三年後のミストヴァレーの姿を、私なりに描いた。

壁に描きながら、前世の自分に語りかけていた。——宮原咲良、三十四歳。あなたが二百軒の旅館で見てきた全てが、この壁に集約されている。

足音がした。ノアだ。

研究室から降りてきた彼は、広間の入口で足を止めた。壁を見ている。
 しばらく無言で壁の文字を読んでいた。視線が左上から始まり、右下まで走るのに一分以上かかった。

「……本気か」

声は低かったが、普段の無関心とは違う。

「本気よ。座って聞いてくれる?」

「立ったままでいい」

プレゼンを始めた。前世のコンサル流——データを示しながら、論理的に。ノアは腕を組んで壁に寄りかかっている。聞く姿勢ではあるが、信じてはいない目だ。構わない。信じさせるのは私の仕事だ。

「まず全体を四つのフェーズに分けます」

壁の中央に大きく描いた図を指差す。

「フェーズ1——『証明』。一室だけ修復して、最小コストで『この宿にはポテンシャルがある』を示す。一人でも客を迎えて、お金を払ってもらう。事業が成立する証拠を作る段階です」

「一室で何が変わる」

「全てが変わる。ゼロと一は、一と百より大きな差がある。一人の客が泊まった実績があれば、次の客が来る可能性が生まれる。口コミの起点にもなる」

ノアは反論しなかった。次へ。

「フェーズ2——『基盤』。五室と浴場一つを修復して、小規模営業を始める。最低限の利益を出しながら、修復を進める。ここが最も苦しいフェーズになる」

「人手は」

「町の中で募る。昨日見つけた人材——料理人の卵と、建築の棟梁。あとハンナさんにも声をかけたい。彼女、元は銀泉楼のスタッフだったと思う」

ノアが少し目を細めた。ハンナのことは知っているようだった。町で唯一、ノアに食事を出してくれる人間がハンナだと聞いたことがある。

「フェーズ2の鍵は『回転率』。五室で月に何泊稼げるかが勝負を分ける。客単価を上げるには食事と入浴の質を上げる。食事はリュカ、入浴は源泉——つまりあなたの研究成果が直結する」

「……」

「フェーズ3——『拡張』。全館修復して本格営業。ここまで来れば、旅館単体として自立できる」

「フェーズ4は?」

「『町』」

壁の右端に書いた文字を指差す。

「旅館から町へ。旅館を核にした、地域一体型の観光まちづくり。棚田を活かした農業体験、渓流釣り、山歩き——この谷全体を一つの『宿泊体験』にする」

ノアの眉が僅かに上がった。

「……壮大すぎないか」

「壮大よ。でもね、私の経験では、成功する再建計画には必ず『大きな絵』が要る。今日やることだけ見ていたら、一室直して終わる。でも最終形を描いておけば、一室を直す行為にも意味が生まれる」

ノアが壁の右端——フェーズ4の計画を見た。

「この町の人間が八十七人だと言ったな。この計画を実行する人員は?」

「最初は三人。私と、棟梁と、あなた」

「俺を数えるな」

「もう数えてます」

沈黙が落ちた。ノアは壁の設計図を改めて見ている。

「数字を見せろ」

来た。学者は数字で判断する。

「源泉の泉質データ——あなたの分析によれば、王国でも上位三パーセント。これが最大の武器。アクセスの悪さは——」

「致命的だ。街道が通っていない」

「逆手に取ります。『秘湯』としてブランディングに転換する。行きにくい場所にあるからこそ価値がある。前世の……いえ、知識として知っているんですが、そういう手法があるんです」

ノアが怪訝な顔をした。「前世」が出かけた。危ない。

「最大の問題はキャッシュフロー。初期投資を最小限にして、段階的に回収する。フェーズ1の修復費用は——」

「金貨でいくらだ」

「ゼロ。もしくは限りなくゼロに近い額。一室だけなら、資材は建物内の廃材を再利用できる。壁の補修には——」

私はノアを見た。

「——あなたの建築魔法が使えるなら、の話だけど」

ノアの目が据わった。

「俺を利用するつもりか」

「取引よ。あなたは地脈の調査を続けたい。私は旅館を再建したい。利害が一致している」

「一致していない。俺は旅館に興味がない」

「でも、源泉の調査は旅館が動いている方が進む。宿の修復過程で地下の通路にアクセスできるようになる。浴場を復旧すれば源泉の流量データが取れる。旅館が動けば——あなたの研究も前に進む」

痛いところを突いた。ノアが黙った。

畳みかける。

「提案。フェーズ1の修復にあなたの建築魔法を使わせてほしい。その代わり、地脈調査への全面的な協力を確約する。修復作業中に見つかった地下通路へのアクセスも保証する。データは全て共有する」

長い沈黙。

ノアが壁の設計図をもう一度見た。それから、私を見た。

「……条件がある」

「聞きます」

「源泉の調査を最優先にしろ。旅館の営業が地脈に悪影響を及ぼす可能性がある場合、俺が止める権限を持つ」

「受けます。当然の条件です」

「もう一つ。俺はあくまで地脈学者だ。宿屋の従業員ではない。経営には口を出さない。だが地脈と建物の安全に関しては——」

「あなたの専門家としての判断に従います」

ノアが右手を差し出した。

握り返す。大きな手だった。学者の手であり、元冒険者の手でもある。硬い手だった。無愛想だが、この人の手は嘘をつかない気がした。

「……取引成立だ」

ノアが言った。その声には、ほんの僅かに——本当に僅かにだが——柔らかさがあった。

「——ところで、あなたの建築魔法ってどこまでできるの?」

「見せてやる」

ノアの声に、かすかな自負が滲んでいた。学者であると同時に、元冒険者でもある。魔法の腕には自信があるのだろう。

ノアが広間の壁に近づいた。ひびの入った石壁に右手をかざす。
 手のひらから淡い緑の光が溢れた。光が壁に浸透すると、ひび割れた石がゆっくりと——本当にゆっくりと——再結合していく。
 ばきばきと小さな音を立てながら、亀裂が塞がる。石の表面が滑らかになり、色が均一に戻る。

「……すごい」

思わず壁に手を触れた。さっきまでぼろぼろだった石が、硬く滑らかになっている。新品同然だ。

「この魔法で、一室の壁と床をやれる。天井は……二日かかるか。だが」

二日。前世なら業者を呼んで一ヶ月の工期が、魔法なら二日。異世界の利点を最大限に活かさない手はない。

「だが?」

「見た目は直せても、建物の『骨格』は直せない。骨格を理解していない状態で表面だけ直すと、かえって構造が弱くなる。この建物を建てた人間の意図を読まなければ——」

「それなら大丈夫」

私は笑った。

「この旅館の骨格を、隅から隅まで知っている人が、この町にいるから」

「……誰だ」

「酒場で昼から飲んでる大工の棟梁。三代にわたってこの旅館を建てた一家の、現当主」

ノアは少し驚いた顔をして、それから目を細めた。

「お前、初日から町を調べ回っていたのか」

——お前。

さっきまで「あんた」だったのが、「お前」に変わった。
 取引が成立して、対等な相手として認識した——無意識のうちの変化だろう。

「コンサルタントの基本は現場調査ですから」

「コンサルタント……。お前、何者だ。伯爵令嬢が知る数字じゃない」

「私には——前世の、経験があるんです」

ぼかした。魔法の一種、とでも解釈してくれればいい。今はまだ、全てを話すときではない。

ノアはそれ以上追及しなかった。ただ「前世、か」と呟いただけだった。

夜になった。ノアは研究室に戻り、私は広間に残って壁の設計図に加筆した。
 右隅の空白に、小さく。

『銀泉楼。女将:セラフィーナ』

書いてから、自分で照れた。
 でも消さなかった。

二階から、ノアが計測器を動かす音が聞こえる。取引が成立してから、あの人の研究にも少しだけ力が入った気がする。
 壁の設計図を見上げた。四つのフェーズ。数字と矢印と、夢の形。
 前世の宮原咲良は、二百軒の旅館の壁にこういう計画を描いた。でもいつも、描くのは「他人の夢」だった。
 今夜初めて、自分の夢を描いた。

前世の夢が——少しだけ、形になり始めている。

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